戸板康二ノート

戸板康二とその周辺に関する走り書的覚え書、古本と都市と演劇(執筆:藤田加奈子)

岩佐東一郎主宰の「交書会」と戸板康二にまつわるあれこれ(1)交書会のはじまった昭和20年5月と串田孫一著『日記』のこと。

 

戸板康二生誕百年の2015年は、十代目坂東三津五郎(2月21日)、加藤武(7月31日)、原節子(9月5日)、熊倉一雄(10月12日)らが亡くなった年となった。阪神大震災から二十年。2015年が二十三回忌の戸板康二は神戸の震災を知らずに他界したのだなあと思いつつ、震災二十年の日はお江戸日本橋亭で開催の加藤武の語りの会で小山内薫作『息子』を聴いて、六代目菊五郎をはじめとする加藤武さんの身体にしみこんでいる昭和の役者たちに思いが及んで格別の時間だった(当日配布の紙片では、主催者とおぼしき方による、昭和63年9月歌舞伎座の『息子』の火の番の二代目松録のことを綴った文章に感激した。)。2015年は日清戦争終結百二十年、第二次世界大戦敗戦七十年。3月には三越劇場で文学座公演『女の一生』を観たのだった。

 

森本薫作『女の一生』が文学座により初演されたのは昭和20年4月11日、その直前に戸板康二のもとに召集令状が届いていた。翌日の横須賀海兵団入団を控えた戸板康二は、渋谷東横劇場の『女の一生』初演の舞台をそれこそ万感の思いで観劇したことであろう。前日4月10日には、山形県新庄に疎開中の串田孫一に以下の文面の葉書を投函している(串田孫一『日記』実業之日本社・昭和57年7月30日)。

とうとう小生も『勇躍』する日が来ました。近日参ります。芥川が教鞭をとつてゐた町です。目下身体の具合はまことによく、多分、若干お役に立てませう。東京は花は八分咲き、但し連日寒くてまだ火燵をしまはずに居ます……

横須賀の海軍と聞いてすぐさま芥川龍之介を連想するところがいかにも戸板さんらしいのであったが、入隊後の身体検査で肺浸潤の診断が下り、結局「お役には立て」ず、十日足らずで家に帰されて、戸板康二はふたたび串田孫一に葉書を書く。

海の見える町に八日ゐて不思議に帰つて来ました。貴重にして且終生忘れがたい〈旅〉です。大和村の御宅の事が案じられますが、如何。ぼうつとしてゐますのでとりあへずおしらせと御見舞をかねて一筆します。……短くて長い邯鄲の夢の意味が何かわかったやうな気がします。庭の桜はそれでもすっかり葉になりきつてます。では叉。

花冷えの4月に咲いていた昭和20年の桜は、戸板康二が「出征」している間に散っていったのであった。

 

昭和20年の桜は、信州湯田中において5月6日、十五代目羽左衛門を死に顔の傍らに散っていた。後年、戸板康二は『役者の伝説』(駸々堂出版、昭和49年12月25日)に羽左衛門逝去の情景をこう綴っている。

 羽左衛門は昭和二十年五月六日に、湯田中の万屋という旅館で死んだ。
 その旅館に泊り合わせた人の話で、帳場に遊びに行ったりしている時に、羽左衛門はたのまれると、切られ与三のセリフをいって聞かせたりしたという。これも、羽左衛門らしい。
 死ぬ日、昼前に松竹から来た社員と話していて、昼寝をした。ふと目をさまして、時計を見て「三時かい」といったあと、眠るように息が絶えたという。腕時計の針の見まちがいで、午後零時十五分だった。
 信州の遅い桜の花が戸外から舞いこんで、遺体の胸の上に、点々と散っていたという。死に方まで美しく、いさぎよかった。

羽左衛門は昭和20年3月、信州へ向かう電車のなかでたまたま同乗していた花柳章太郎に南京豆をプレゼント、その際の「市村羽左衛門が花柳章太郎に贈る、へッ、そいつが南京豆、これも戦争のたまものかい、有難くできてらぁ。」という羽左衛門のセリフが涙が出るほどいい。この『役者の伝説』、山田風太郎が『人間臨終図巻』の十五代目市村羽左衛門の項で参照しているのだったが、羽左衛門も花柳も奇しくも同書にて「七十一歳で死んだ人々」に並んでいる。2015年が没後七十年の羽左衛門、没後五十年の花柳、二人の年齢はちょうど二十違いなのであった。

 

昭和20年春から昭和23年春までの日々が記録されている『折口信夫坐談』(中央公論社、昭和47年8月25日)には、戸板康二の束の間の「出征」の次の項に、

○五月六日、十五代目市村羽左衛門が信州湯田中の「万屋」で死んだ。何かあると、それを理由に、先生のところへ行った。この日、先生の前で、羽左衛門の話が、無性にしたかった。

*羽左衛門も、やはり栄養不足で死んだのかしら。
○先生は、「栄養失調」とはいわなかった。「あんたが書いた羽左衛門のことを、あんたの嘆きを考えながら、読み返したよ」私の『俳優論』が、先生のそばにあった。

というふうに、羽左衛門の訃報に接したときのことが記録されている。訃報に接して、《先生の前で、羽左衛門の話が、無性にしたかった》と出石町にかけつける戸板康二に、「あんたの嘆きを考えながら、読み返したよ」と、「恩師 折口信夫先生に たてまつる」と献辞の入った『俳優論』を傍らに置いている折口信夫。この師弟のありように深く感動する。『俳優論』の冒頭を飾る「市村羽左衛門論」の初出は『三田文學』昭和12年1月号。昭和10年5月号から同誌に劇評を寄稿していた戸板康二は、昭和12年から俳優論に着手し、そのスタートを飾ったのが羽左衛門論だった。

 

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『役者の伝説』(駸々堂出版、昭和49年12月25日)口絵写真より、十五代目市村羽左衛門の実盛。

 

加藤武が急死した折の『演劇界』の最新号、2015年8月号(第73巻第8号)では、《歌舞伎の戦後七十年》特集にて、加藤武のインタヴュウ記事として「加藤武が語る、戦下の歌舞伎(聞き手=児玉竜一)」が掲載されていて、当時しみじみと読み返していたものであったが、羽左衛門を最後に見たときのことが語られていて、何度聞いても胸が熱くなる。

……そんな切羽詰まった生活でも、みんな見たいんだよ、歌舞伎がね。産業戦士慰問という名目で羽左衛門を見に明治座へ、音羽屋を見に新橋演舞場へ行きましたよ。
 明治座は十九年十月。十二代目仁左衛門の当り芸『義賢館』の後が羽左衛門の『実盛物語』で、これもよかったねぇ。そして大詰めが、『権上』(『其小唄夢廓』)ですよ。羽左衛門の権八が処刑されそうになったところへ、仁左衛門の小紫が助けに来て権八の縄を切る、鈴ヶ森の場が暗くなる。チョンと析がひとつ入って、パッと明るくなると吉原仲之町の場。羽左衛門の権八が駕籠の中でふっと目覚める。たまんないね。鉄兜抱えて見てても戦争やっていることなんて忘れちゃった。いつまでもこの夢が醒めないでほしいと願った。これが私の羽左衛門の見納めだった。

翌年5月25日夜には、空襲で焼失してゆく歌舞伎座の姿を見届けた加藤武青年であった。戸板康二の羽左衛門の見納めも昭和19年10月明治座だったのだが、山田風太郎著『新装版 戦中派不戦日記』(講談社文庫、2002年12月15日)には、これより少しあとの羽左衛門の舞台が記録されている。昭和20年1月11日、「沖電気がその発注する小工場群、いわゆる協力工場の従業員及びその家族慰安として、歌舞伎座に招待する券」を持って、風太郎青年は歌舞伎座へゆく。

……歌舞伎座の前には「海軍海桜会主催」「沖電気協力工場慰安会」との二つの大看板立つ。
 芝居は羽左衛門の「高田の馬場」と「源平布引滝」なりき。安兵衛この寒きに着流しの赤鞘、御老体の奮闘、真に同情す。大いなる観客席に、見物半ばにも満たず。空襲のおそれあれば招待券ありきとも来らざる者多くあるべし。ゲートル戦闘帽の行員、或いはモンペの女工達が、モソモソと玄米の握飯を口に入れつつ寒そうに見る。熱気はらむ雰囲気もなければ、たちばなやの掛声も稀なり。ただし羽左は熱演、ことに実盛のごときは一分のゆるみもなき至芸なり。

そして、同年5月7日の日記に、《羽左衛門死す。余は菊よりもこの人好きなりき。》と記した風太郎青年だった。



さてさて、以下に書き連ねるところの、大井出石町の岩佐東一郎邸で「交書会」が始まったのは、羽左衛門が死んで歌舞伎座が焼けた同月、昭和20年5月のこと。敗戦直前直後の懐かしい思い出として、たとえば、『書痴半代記』(ウェッジ文庫、2009年4月22日)所収「書痴交遊録 東秀二」で、岩佐東一郎はこんなふうに回想している。

 戦時中、われわれ書痴の面々は敗戦色の濃くなる日々の味気なさを、せめて一刻でも忘れようと、月一回、会場持ち廻りで始めたのが「交書会」なのであった。

 昭和廿年になると、春から初夏にかけて、連日連夜の空襲で、東京の至るところで、東京の至るところが焦土と化した。会員の中にも罹災したり、強制疎開で追われたり(私もその一人だが)して、大切な書物を焼亡したり散逸したりする者も出たが、それでも交書会は続けられていった。
 会員は、それぞれ防空服装で身を固めて、弁当水筒鉄かぶとを背負って、交換用の書物を包んだ風呂敷を下げて会場へ集まるのだったが、途中で空襲警報が二度三度と発令された日などは、防空壕にとびこんだり、焼けあとの凹地に伏せたりして来るので、会場に辿りつくと、みんな汗と泥で、さんざん汚れていた。そのくせ、誰ひとり、書物だけは少しも汚さないのだから、えらいものであった。
 「交書会」は、戦後も続いて、月一回の例会を励行している。別に規制らしい規則はないのだが、顧問に斎藤少雨荘老、そして会長に東秀二(老と書くと叱られそうだから止めて)氏。会員はいずれも書痴中の書痴の十数名である。

東秀二は大森の開業医で大変な蔵書家であったという。同じく『書痴半代記』所収「書痴六十年」では、交書会をこんなふうに回想している。

 戦時中、方々の古本屋は休業したり、意地の悪い交換制度をとつたりしたので、私たちは本好き仲間の家を回り持ち会場にして「交書会」というのをやつて慰めた。各自、手持ちの本を出品して入札し、最高価を入れた者がその本を得るという方法だった。これが案外の好評で、戦後もしばらくつづけた。この「交書会」には斎藤昌三、春山行夫、戸板康二、十和田操、相磯凌霜、東秀二などの諸氏が集まつたから書談がはずんで楽しかつたのである。その代り、交書会の日の往復途上で空襲にあい、本もろとも草むらにとびこんで生命びろいをした経験もあった。

と、ここで戸板康二も「交書会」のメンバーであったことが判明するわけだが、岩佐東一郎はこの文章を以下の文章で締めくくっている。

 相磯凌霜氏は永井荷風氏と親交があつたので、戦時中、荷風氏の「為永春水」の原稿をタイプで三部作り、二冊は荷風氏、一冊は相磯氏が保持して万一に供えた。その一冊を相磯氏から恩借して、はげしい空襲下に写し取つたのだ。それは昭和二十年五月四月から六日にかけての筆写だつた。いまは荷風全集に収めてあるから、私の筆者本は無駄みたいなものだが、大切な思い出の一つとして保存してある。

羽左衛門が他界した日に、岩佐東一郎は荷風の「為永春水」の筆写を終えたのであった。

 

交書会を回想している『書痴半代記』所収の文章はいずれも初出誌は『日本古書通信』、「書痴交遊録 東秀二」は第14巻第9号(昭和24年9月15日発行)、「書痴六十年」は「本と共に六十年」というタイトルで第32巻第5号(昭和42年5月15日)に寄稿した文章。昭和24年9月時点の「書痴交遊録 東秀二」では「月一回の例会も励行している」とある交書会がはじまったのは昭和20年の5月のことであったことが、岩佐東一郎の第4随筆集『風船蟲』(青潮社、昭和25年1月10日)に収録されている「交書会」という文章で判明する。

 その空襲激化の味気ない日常を送りつゝ、ふと、思い付いたのは、同好の士を以てする書物交換会である。果してみんなが集まつてくれるかどうかは甚だ不安であつたが、月一回催すことにして、同好の士数名へハガキを出して案内したのだつた。

 規則は至つて簡単で「書物五冊以上とハガキ二枚持参のこと」それだけだつた。ハガキは、次回通信用のためである。書物五冊以上と云ふものの、出品すべき書物が足りなければ古雑誌でも何でもいゝのだつた。もつとも、いくら印刷したものならばいゝと云つても、株主名簿や、電話帳では困るけれど。
 うれしいもので、五月に第一回開催以来、唯の一回も休まず、この十二月で第八回を行ひ、メムバアも、始めは五六人だつたのが、今では毎回二十名平均と云ふ盛況である。
 今だから、笑ひ話となるのだが、当時会員諸君は「交書会」(これがわれらの会名で、書物交換の意もあり、書痴交友の意もある)へ出席する時は、心で家族のものと別れの水盃をして、命がけで家を出たのだと云ふ。好きなればこそであらう。途中で、空襲に逢つて、見知らぬ家の防空壕で待避したこともあり、機銃掃射のために本包みをかかへたまゝ電車から飛び下りて、線路わきの叢へ身を横たへたこともあつたと云ふ。
 会員には詩人あり作家あり劇作家あり俳人あり新聞記者あり巡査あり画家あり教師あり医者あり会社員あり学生あり老いたるあり、若きもあり、実に唯「書籍」を血縁として集る人々なかりなのだ。
 さて、参考までに、交書方法を詳記すると、会場たる私のところへ集ると、各自持参の書籍を、みんな入れ交ぜにして幾つかの書籍の山を作る。そして、人山づゝ、席上へ提供すると、各自がめいめいその書籍を手にとつて眺める。ほしい本があれば、会場に用意してある小紙片に、その書名と入札値段と入札者の名前とを記入して、その本の頁に二つ折りにして挿む。人気のある本や、珍本には沢山入札されることになる。
 やがて、程を見てそれら書籍は司会者のもとへ集め、入札のない本は別に退けて、入札された本を一冊ずつ開票する。何枚かあれば、その最高値を披露して出品者の意向を聞く。よければ、その本は入札者の手にゆき、入札紙は伝票代りに出品者のもとへ渡す。入札価が出品者にとって不満の時は、その由を出品者は告げて本を引き取る。反対に方外に高すぎる最高値にびつくりして出品者から値下げを云ひ出す微笑ましい場面もある。最高値が同じで何人も出た場合は面倒臭いからジヤンケン勝ちで裁く。入札本をかくの如く全部すませて、残つたアブレ本は、持ちかへるのも嫌だと云ふので、出品者に最低価を云つて貰つて、セリにして処置し、そこでも希望のない本だけは持ち帰つて貰ふ。全部すむと、各自の手にある入札伝票により、各自相殺勘定して清算する。

と、以上のような仕組みの「交書会」について、岩佐は《交書会のおかげで空襲下も終戦後の今日も、月一回の愉しみが得られ、乏しい私の書棚も当に内容は充実してゐるのである。》という結んでいる。終戦直後の昭和20年12月のこの文章によると、新年の交書会の催しとして、普通出品に加えて《各自愛蔵本一冊を持参して、特別入札に依つて、交換》というのを計画中で、合わせて、冬の間はハガキ二枚のほかに各自炭を一片持ち寄ることに決まったという。交書会始まって初めての冬を迎えたのであった。

 

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『岩佐東一郎随筆集 風船蟲』(青潮社、昭和25年1月10日)。『茶煙閑語』(文藝汎論社、昭和12年4月22日)、『茶烟亭燈逸傳』(書物展望社、昭和14年2月18日)、『くりくり坊主』(書物展望社、昭和16年8月6日)に次ぐ、岩佐東一郎の第4随筆集。限定五百部、内藤政勝の装幀、川上澄生のカット。岩根冬青の営んでいた小出版社、和歌山市和歌浦の青潮社発行の瀟洒な造本。

 


戸板康二がどういうきっかけで、岩佐東一郎邸の交書会に参加するようになったのか、正確な経緯は詳らかではないけれども、とにもかくにも、折口信夫と岩佐東一郎の家は同じ大井の住人であるばかりでなく非常に至近距離であったので、『折口信夫坐談』で記録されている大井出石町の折口信夫のもとへ通う戦中戦後の日々と同時期の出来事として注目したいのであった。

 

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芸能学会編『折口信夫の世界 ―回想と写真紀行―』(岩崎美術社、1992年7月30日)所収、岡野弘彦「大井出石町の家」に掲載の《品川区の旧大井出石町の折口の借宅の門家の玄関》、同書口絵「折口信夫アルバム」より、濱谷浩撮影《大井出石町の家の居間で 昭和26年春》。折口が大井出石町5052番地の借家に転居したのは昭和3年10月のこと、この年の1月に慶應義塾大学教授に就任し「芸能史」の講義を始めている。昭和28年9月になくなるまで終の住処となった。

 

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『地形社編 大東京区分図 三十五区之内 品川区詳細図』(昭和16年1月20日)=人文社『復刻 大東京三十五区分詳細図(昭和十六年)16.品川区』より、大井出石町と大井庚塚町を拡大。現在の住居表示では、出石町は「品川区西大井三丁目」、庚塚町は「品川区大井七丁目」となる。

 

一方、岩佐東一郎は大正期からの大井の住人。『文藝汎論』(昭和6年9月~昭和19年2月・全150号)刊行時、岩佐の自宅住所は「東京市外大井町庚塚4928」、昭和7年10月の市区改正以後は「東京市品川区大井庚塚町4928」であった。この時期すでに、折口と岩佐は隣町のご近所であったが、昭和20年、岩佐は庚塚町の自宅を強制疎開により立ち退くことになり、出石町の住人となる。しかも、その住所は「大井出石町5050番地」。同じ出石町の住人というだけでなく、折口と岩佐は番地が2番違いの至近距離の住人となったのだった。先に抜き書きした文章にあるように、岩佐東一郎が交書会を始めたのは、強制疎開で長年住み慣れた家を立ち退くことになったという「空襲激化の味気ない日々」のせめてもの気晴らしというのがきっかけとなっていた。交書会がはじまったのは大井出石町、戦中戦後に戸板康二がさかんに折口信夫を訪れていた町ではじまったのが交書会だった。

 

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昭和15年9月1日付け、岩佐東一郎の大野良子宛て葉書。詩集『馬頭琴』受贈の御礼と『文藝汎論』に紹介したい旨の事務連絡。岩佐の自宅・文藝汎論社の「大井庚塚町四九二八番地」の住所印が押されている。「胸に愛国 手に国債」の標語入り消印。

 

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昭和32年の岩佐東一郎の年賀状。「鶏鳴賀春」に「とりなくさとのはる」とルビが振ってある。昭和20年に強制疎開で隣町の大井出石町に移ってから、岩佐は終生出石町の住人であった。



戸板康二が「交書会」に参加している当時の日々のことは、串田孫一著『日記』(実業之日本社、1982年7月30日)でも少し垣間見ることができる。串田孫一著『日記』は、敗戦前後の串田孫一の「日記」と知友の書簡を交えて編んだ一冊で、敗戦前後の戸板康二の動向を探る上で欠かせない。 

 

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 昭和20年3月28日付けの串田孫一への葉書によると、家族の疎開により一人暮らしとなった父山口三郎宅に戸板夫妻が同居することになり、5月25日の空襲の父の家が焼けたことで、その隣りの伯父の家に移ったあとで敗戦を迎える。が、人に貸していたので荏原七丁目の自宅に戻るのは翌昭和21年4月8日となる。丸一年、戸板康二もそれなりに流浪の生活を強いられていた。その間、蔵書の一部やそれまで書いていた日記や水中亭内田誠から貰った岡鹿之助のカトレアの油彩(『スヰート』の表紙原画)やを焼いてしまったものの、さいわい自宅家屋は無事だった。

 

空襲に遭った父の家からあたふたと隣りの伯父の家に移り、でも一家はなんとか全員無事、とりあえず人心地ついたであろう直後の5月26日午後に、串田孫一へのハガキに「もうこれからは海水浴をしてゐる間に夕立が降つてもあはてないでいいといふのと同じ心境です。」と記したあと、

きのふ安否をたづねかたがた折口さんの所へ行き、無事だつたので又「話」をきいて來ました。洋々としてゆるがざるものに触れたこゝろ切です。

と書いている。そして次月、6月16日付けの串田孫一宛ての書簡では、芝明舟町のアパートへ川尻清潭を訪ねたことなどを報告している。

このところ二度ほど川尻氏をたづねいはゆる全盛期のカブキの裏の秘話を無数にききノートを肥やしました。焼野原の真中にふしぎに一軒だけポツンとのこつたアパートに唐棧のモンペを着て平然と團十郎の声色をつかつてきかせてくれる江戸つ子がゐる事はなかなか愉快です。

落ち着かない生活を強いられつつ日本演劇社の雑誌記者として過ごしていた敗戦直前の日々は、戸板康二にとっては「洋々としてゆるがざるものに触れ」る日々でもあったのだった。

 

そして、雑誌刊行もままならなかった敗戦直前とは打って変わって、にわかに演劇ジャーナリズムが活況を呈し身辺が騒がしくなった戸板康二の敗戦直後の日々が串田孫一の『日記』からも伝わってくるようになるのだったが、昭和20年5月に岩佐東一郎邸ではじまった「交書会」についての記録が最初にみえるのは、昭和21年3月6日付け串田孫一書簡。

……神田に三月二日行つてみると、大道の素人本や岩波文庫星一つ十五円見当でうつてゐる始末でおどろきました。かうしてみると、例の岩佐家の交書会なぞうそのやうな廉さです。その後あの会では谷崎の「初昔きのふけふ」、ジイドの「女の学校」など手に入れました。

というふうに報告している。これより以前に二人の間で「交書会」の話題が出ていることが伺え、戸板康二の「交書会」への参加はこれより少し前と思われる。2か月前の1月14日付串田宛書簡に《島木健作の「再建」、広津の「芸術の味」「北京襍記」などいずれも暮の古書会で入手》とあり、もしかしたら、この「古書会」というのは「交書会」のことを言っているのかもしれない。とすると、昭和20年暮れの会には参加していたということになり、先に引用した『風船蟲』に収録されている、昭和20年12月当時の文章「交書会」が書かれたのと同じころ、すでに戸板康二がメンバーに加わっていたということになる。

 以下、串田孫一『日記』で、以降の戸板康二の「交書会」報告を拾ってゆくと、

・昭和21年4月11日付け書簡に、《……「コンゴ紀行」(但し文庫)交書会で入手、それをもつて一度伺ひたいと思つています。》。

・昭和21年6月3日付け書簡に、《……きのふ岩佐家交書会あり、堀口大學の「三人女」や何や相当贅沢な本が出ました。小生思ふに、昭和七八年頃の堀口、鈴木といつた書物クラフトの作つた工芸品のやうな本を見ると、この一たちの精神は、傲慢といふかともかく奢りを極めたものだといひたくなります。(中略)交書会の値段が安くなつたのは結構です。岩波文庫が★一ケ三円位、きのふはベルンハイムの「歴史」など三円で手に入れました。》。

・昭和21年9月8日串田日記に、《午後、戸板康二君を訪ねる。岩佐東一郎氏の家へ、本の交換会があつて出掛けた後で不在。》。

……というふうになり、昭和21年9月までの様子を確認できる。


串田孫一著『日記』は、昭和18年10月23日から昭和21年9月25日までの日々、巣鴨に住み上智大学で哲学を講じ、昭和19年11月以降東京の空襲が頻繁になり、翌20年3月10日の大空襲を経て、一家で東京を去り山形県新庄に移住し、4月の空襲で巣鴨の家と書物を失い、敗戦を迎え、財産を整理して新出発、昭和21年9日に三鷹牟礼に居を構えるまでの日々が記録されている。本書には昭和18年10月25日にさっそく、戸板康二の葉書が紹介されていたりと、山水女学校の教師を経て、昭和19年7月に日本演劇社に入社、すなわち敗戦のほぼ1年前から演劇記者となった戸板康二の戦中戦後もときどき垣間見える書物であり、淡いような深いような、深いような淡いような、でもやっぱり深く濃密な、小学校以来の旧友だからこその、二人の知的で誠実な交友ぶりに胸打たれる。

 

戸板康二の方では、敗戦三十年を経たあと、書き下ろしとして刊行した『回想の戦中戦後』(青蛙房・昭和54年6月25日)を、昭和21年5月13日に山形県新庄に串田孫一を訪ねた戦後初めての旅行のときのことを綴った「新庄に友を訪う」で締めくくっているのであった。

 この地方の一番いい季節だったらしい。木も草もすべてみずみずしく、東京では吸ったことのない空気のおいしい味がした。(中略)
 かえる時に、袋に入れた米をもらった。そのころは、量の多い米を持ち歩くと、途中の検問でとりあげられるおそれがあったので、雑貨屋で見つけて買った火消し壺にはいる程度の米にしてもらった。
 今でもおぼえているが、火消し壺の中の米の上に、串田君が小川で摘んだセリを、そっとのせてくれた。それが白米を運ぶという無風流を、ひと味ちがうものにした。筋骨たくましくなっていたが、串田君は、やはり詩人であった。
 しばらく経って、火消し壺が割れた。
 ぼくの戦後の回想も、この火消し壺と同じく過去のものになったが、手にかかえた重さの実感は、いまだに、ぼくの中に残っている。考えれば、あのころ、何もかも重かった。

というふうに、戸板康二の「回想の戦中戦後」全体は山形から持ち帰った火消し壺とともに締めくくられている。「新庄に友を訪」なったのは、羽左衛門の死から1年たった昭和21年5月のことだった。1年前の5月は、『日本演劇』昭和20年6・7月合併号に掲載の「橘屋羽左衛門」の原稿依頼のため、久留米村の楠山正雄を訪れ、その車窓をのちに《麦生の青い色が、混雑を極めた電車の窓から目にしみて見えたのを、おぼえている。僕は羽左衛門の気風を思わせる新緑だなと思いながらそれを見た》と回想していた戸板康二だった(『劇場の椅子』所収「名優」)。敗戦直前の5月の東京郊外の車窓の麦の青とその一年後の山形県新庄の木々の緑、昭和20年と翌21年の5月の戸板康二の目に映ったそれぞれの新緑を思う。

 

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串田孫一の水彩画、串田孫一『日記』(実業之日本社、昭和57年7月30日)口絵より。山形県新庄にて、昭和21年4月27日に串田孫一が描いた森の絵。後記によると、串田が当時毎日近くの森に絵を描きに行っていたうちの1枚で、唯一串田の手元に残っている絵という。この絵が、2015年11月3日から2016年1月17日まで小金井市立はけの森美術館で開催の《生誕100周年 串田孫一展》にて展示されているのを目の当たりにした瞬間の感激といったらなかった。戸板康二が新庄の串田孫一を訪れる前月に描かれた山の緑と空の青。

  

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明治製菓の宣伝小冊子『スヰート』第16巻第1号(昭和16年1月25日発行)。表紙:岡鹿之助。大政翼賛会国民生活指導部長の喜多壮一郎の巻頭言「新体制下の国民の心構へ」のあとに、内田百閒「鬼苑随筆 小さな汽車」、石坂洋次郎「年頭菓子談義」、小川未明「童話・お菓子の夢」、池部鈞の漫画……等といった目次。『思い出す顔』(講談社、昭和59年11月20日)の「「スヰート」と「三田文学」」で、

「スヰート」は隔月刊だったが、その執筆者や、表紙を描いていただく画家にも、次々に紹介されて行った。
 表紙の原画は、内田さんが自分で買ってしまった。会社の予算では到底依頼できない、立派な絵が使われているのは、そのためだ。
 岡鹿之助氏の四号のカトレアの絵も、そのひとつだが、内田さんの「遊魚集」という本を編集した時に、ぼくにくれた。しかし、この絵、父の客間で、空襲で焼けてしまったのが残念でならない。……

と回想されているのがこの表紙絵のことだと思う。明治製菓宣伝部にて、水中亭内田誠のもとで、社の業務だけでなく水中亭の私設秘書的な仕事もこなしていた戸板康二の二十代。内田誠の随筆集『遊魚集』(小山書店、昭和16年3月20日)の編集がそのハイライトだったのだと思う。そのよき記念であった岡鹿之助の絵は昭和20年5月25日の空襲で、歌舞伎座と新橋演舞場を焼いた大空襲で焼けてしまったのだった。

 

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と、残っている絵と消えてしまった絵に思いを馳せつつ、羽左衛門が死んで歌舞伎座が焼けた昭和20年5月にはじまった岩佐東一郎の交書会についての覚え書きの続きは次回にて。

 岩佐曰く《会員には詩人あり作家あり劇作家あり俳人あり新聞記者あり巡査あり画家あり教師あり医者あり会社員あり学生あり老いたるあり、若きもあり、実に唯「書籍」を血縁として集る人々》が集った場であった交書会が敗戦を迎えると、にわかに盛り上がった出版ブームに乗ってゆく場となったのは必然だった。そこに戸板康二もほんの少し関わることとなる。以下、次号。

 

 

『演劇界』の「家で楽しむ歌舞伎 この一冊」執筆者&書名リスト(2007年9月号~2015年12月号)

『演劇界』が2007年5月号をもっていったん休刊し、新装復刊第1号の2007年9月号(第65巻第6号)から「私のこの一冊」と銘打った読み物がはじまった。これは、「家でたのしむ歌舞伎」という見開きページの右側に書籍の紹介、左側に「テレビ・ラジオ放送ガイド」が設けられ、書籍コーナーに新刊本の紹介とともに、「私のこの一冊」として、月ごとに異なる書き手が思い入れのある本についてのエッセイを寄稿するコーナーで、毎月、新しい号が出るとまっ先にこのページを開いている。と、当初は「私のこの一冊」として異なる書き手が登場するというスタイルであったのが、2013年9月以降は「この一冊」とタイトルを変えて、現時点では、金子健・葛西聖司・阿部さとみ・児玉竜一・広瀬依子の5氏+ゲスト執筆者の計6氏が交替で寄稿するという態勢になっているようである。そして、最新号の11月5日発売の2015年12月号にて、100冊目の本が登場した次第。

明治40年創刊の『演藝画報』の流れをくむ雑誌『演劇界』が、戸板康二が在籍していた日本演劇社が刊行していた第1次(昭和18年11月号・第1年第1号から昭和25年5月号・第8巻第5号まで)、利倉幸一がはじめた第2次(昭和25年11月号・第8巻第6号から2007年5月号・第65巻第5号)を経て、2007年9月号(第65巻第6号)より小学館の傘下に入った演劇出版社が「歌舞伎エンターテインメント誌」と装いを変えて、『演劇界』は第3次として現在刊行中。『演藝画報』100周年の2007年にはじまった第3次の『演劇界』が2015年12月号(第73巻第12号)をもって、祝・通巻100号となったのであった。戸板康二生誕百年となる2015年12月にちょうど100号となった偶然がちょっと嬉しい。

……というわけで、第3次『演劇界』の通巻100号を記念して、2013年7月19日付「旧戸板康二ノート」(http://toita1214.exblog.jp/20523154/)に追加補正して、以下、「家で楽しむ歌舞伎 この一冊」執筆者&登場本リスト。敬称略。


※「家で楽しむ歌舞伎 私のこの一冊」2007年9月号~2013年8月号

  1. 2007年9月号:利根川裕/戸板康二『歌舞伎への招待』(衣裳研究所、昭和25年1月)※2004年1月に岩波現代文庫(解説:山川静夫)
  2. 2007年10月号:山田庄一/『日本戯曲全集 歌舞伎編』全50巻(春陽堂、昭和3年~8年)
  3. 2007年11月号:橋本治/鳥越文蔵〔ほか〕校注・訳『新編 日本古典文学全集77 浄瑠璃集』(小学館、2002年10月)※仮名手本忠臣蔵(長友千代治校注・訳)、双蝶蝶曲輪日記(黒石陽子校注・訳)、妹背山婦女庭訓(林久美子・井上勝志校注・訳)、碁太平記白石噺(大橋正叔校注・訳)
  4. 2007年12月号:関容子/丸谷才一『忠臣蔵とは何か』(講談社、昭和59年10月)※昭和63年2月に講談社文芸文庫(解説:野口武彦)
  5. 2008年1月号:鳥越文藏/歌舞伎評判記研究會編『歌舞伎評判記集成』第1期、全10巻+別巻(岩波書店、昭和47年9月~52年12月)
  6. 2008年2月号:馬場順/邦枝完二『松助芸談 舞台八十年』(大森書房、昭和3年9月)
  7. 2008年3月号:岡野竹時/小泉喜美子『歌舞伎は花ざかり』(駸々堂出版、昭和61年1月)
  8. 2008年4月号:木村隆/渡辺保『歌舞伎手帖』(駸々堂出版、昭和57年7月)※最新版は角川学芸文庫(2012年10月刊行)
  9. 2008年5月号:古井戸秀夫/郡司正勝『おどりの美学』(演劇出版社、昭和32年11月)
  10. 2008年6月号:奈河彰輔/雑誌『演芸画報』全440冊(明治44年1月創刊、昭和18年10月終刊)
  11. 2008年7月号:諏訪春雄/守随憲治・秋葉芳美共編『歌舞伎図説』第1~第12輯(萬葉格、昭和7年12月~昭和8年2月)
  12. 2008年8月号:森西真弓/高谷伸『明治演劇史伝 上方篇』(建設社、昭和19年7月)
  13. 2008年9月号:山川静夫/木村菊太郎『芝居小唄』(演劇出版社、昭和35年11月)※昭和54年11月に改訂増補版
  14. 2008年10月号:津田類/藤間紀子『高麗屋の女房』(毎日新聞社、1997年10月)
  15. 2008年11月号:林京平/小池章太郎『考証江戸歌舞伎』(三樹書房、昭和54年10月)※1997年7月に増補新訂版
  16. 2008年12月号:大笹吉雄/河竹繁俊『日本演劇全史』(岩波書店、昭和34年4月)
  17. 2009年1月号:葛西聖司/戸板康二・吉田千秋共著『カラーブックス72 歌舞伎』(保育社、昭和40年2月)
  18. 2009年2月号:河合眞澄/三代目中村仲蔵著・郡司正勝校註『手前味噌』(青蛙房、昭和44年11月)
  19. 2009年3月号:大岩精二/六代目尾上菊五郎『芸』(改造社、昭和22年10月)
  20. 2009年4月号:福本和生/三宅周太郎『歌舞伎研究』(拓南社、昭和17年12月)
  21. 2009年5月号:鈴木治彦/大木豊『あの舞台この舞台 大劇場閉鎖から東宝カブキまで』(劇評社、昭和30年12月)
  22. 2009年6月号:今井豊茂/飯塚友一郎『歌舞伎細見』(第一書房、大正15年10月)※昭和2年12月に増補改版
  23. 2009年7月号:権藤芳一/服部幸雄『絵で読む歌舞伎の歴史』(平凡社、2008年10月)
  24. 2009年8月号:近藤瑞男/三宅三郎『かぶきを見る眼』(新樹社、昭和31年9月)
  25. 2009年9月号:田口章子/八代目坂東三津五郎『聞きかじり見かじり読みかじり』(三月書房、昭和40年9月)※2000年2月に新版
  26. 2009年10月号:藤井康雄/三宅周太郎『演劇往来』(新潮社、大正11年2月)
  27. 2009年11月号:西形節子/日本地図選集刊行委員会・人文社編集部編『嘉永慶応 江戸切絵図 全』(人文社、昭和41年3月)
  28. 2009年12月号:今岡謙太郎/河竹登志夫『作者の家 黙阿弥以後の人びと』(講談社、昭和55年8月)※最新版は岩波現代文庫(2001年12月刊行、全2冊、解説:井上ひさし)
  29. 2010年1月号:岡安辰雄/六代目尾上菊五郎『おどり』(時代社、昭和23年10月)
  30. 2010年2月号:木本公世/加賀山直三『ある女形の一生 五代目中村福助』(東京創元社、昭和34年2月)
  31. 2010年3月号:法月敏彦/西原柳雨『川柳江戸歌舞伎』(春陽堂、大正14年11月)
  32. 2010年4月号:犬丸治/巌谷槙一『僕の演劇遍路』(青蛙房、昭和51年10月)
  33. 2010年5月号:武藤純子/服部幸雄『江戸の芝居絵を読む』(講談社、1993年11月)
  34. 2010年6月号:後藤美代子/十三代目片岡仁左衛門『芝居譚』(河出書房新社、1992年10月)
  35. 2010年7月号:神山彰/千谷道雄『舞台裏の人々 裏方物語』ハヤカワ・ライブラリ(早川書房、昭和39年12月)
  36. 2010年8月号:清水可子/松井俊諭『歌舞伎家の芸』(演劇出版社、2002年10月)
  37. 2010年9月号:水田かや乃/郡司正勝『新訂 かぶき入門』現代教養文庫361(社会思想研究会出版部、昭和37年1月)※最新版は岩波現代文庫(2006年年8月刊、解説:武井協三)
  38. 2010年10月号:船曳建夫/三井高遂写真・郡司正勝編『歌舞伎名優時代 舞台写真・大正から昭和へ』(二玄社、昭和63年5月)
  39. 2010年11月号:大島幸久/戸板康二『今日の歌舞伎』(創元社、昭和27年11月)
  40. 2010年12月号:吉田弥生/今尾哲也『変身の思想 日本演劇における演技の論理 』(法政大学出版局、昭和45年6月)
  41. 2011年1月号:粟屋朋子/森鴎外・三木竹二『月草』(春陽堂、明治29年12月)※2004年6月に三木竹二『観劇偶評』(岩波文庫、解説:渡辺保)刊
  42. 2011年2月号:児玉竜一/稲垣浩『ひげとちょんまげ 生きている映画史』(毎日新聞社、昭和41年8月)※昭和56年5月に中公文庫(解説:佐藤忠男)
  43. 2011年3月号:阿部達二/戸板康二『歌舞伎輪講』小学館創造選書30(小学館、昭和55年5月)
  44. 2011年4月号:金子健/六代目尾上梅幸『女形の芸談』(演劇出版社、昭和63年11月)
  45. 2011年5月号:村上湛/折口信夫『かぶき讃』(創元社、昭和28年2月)※2004年12月に中公文庫(解説:二代目中村獅童)
  46. 2011年6月号:濱口久仁子/郡司正勝『和数考』(白水社、1997年6月)
  47. 2011年7月号:矢野誠一/戸板康二『演芸画報・人物誌』(青蛙房、昭和45年1月)
  48. 2011年8月号:阿部さとみ/堂本正樹『男色演劇史』(薔薇十字社、昭和45年4月)
  49. 2011年9月号:岩豪友樹子/葛西聖司著・菊地ひと美絵『ことばの切っ先 心にせまるセリフ』(小学館、2006年4月)
  50. 2011年10月号:長谷部浩/渡辺保『女形の運命』(紀伊國屋書店、昭和49年10月)※最新版は岩波現代文庫(2002年6月刊、解説:三浦雅士)
  51. 2011年11月号:上田由香利/諏訪春雄『心中 その詩と真実』(毎日新聞社、昭和52年3月)
  52. 2011年12月号:小林恭二/戸板康二『役者の伝説』(駸々堂出版、昭和49年12月)
  53. 2012年1月号:榎その/松田青風著・野口達二編『歌舞伎のかつら』(演劇出版社、昭和34年9月)※昭和61年9月に改訂版、1998年8月に改訂新装版
  54. 2012年2月号:池内紀/花田清輝『俳優修業』(講談社、昭和39年10月)※1991年6月に講談社文芸文庫(解説:森毅)
  55. 2012年3月号:寺田詩麻/河竹登志夫『近代演劇の展開』新NHK市民大学叢書11(日本放送出版協会、昭和57年3月)
  56. 2012年4月号:赤江瀑/河原崎国太郎『女形の道ひとすじ』(読売新聞社、昭和54年11月)
  57. 2012年5月号:矢内賢二/野口達二『歌舞伎』(文藝春秋新社、昭和40年12月)※昭和51年9月に改訂増補新装版
  58. 2012年6月号:朝倉摂/河竹登志夫監修・林嘉吉写真『歌舞伎舞踊劇 道成寺』(講談社、昭和50年11月)
  59. 2012年7月号:織田紘二/安部豊編『魁玉夜話 歌舞伎の型』(文谷書房、昭和25年3月)※昭和34年6月に学風書院より再刊
  60. 2012年8月号:加納幸和/田口章子編『今尾哲也先生と読む『芸十夜』』(雄山閣、2010年10月)
  61. 2012年9月号:石山俊彦/渡辺保『千本桜 花のない神話』(東京書籍、1990年10月)
  62. 2012年10月号:内山美樹子/祐田善雄校注『日本古典文学大系99 文楽浄瑠璃集』(岩波書店、昭和40年4月)※菅原伝授手習鑑、義経千本桜、一谷嫩軍記、妹背山婦女庭訓、艶容女舞衣、摂州合邦辻、伊賀越道中双六、絵本太功記
  63. 2012年11月号:菊地ひと美/田口章子『江戸時代の歌舞伎役者』(雄山閣出版、1998年9月)※2002年12月に中公文庫(解説:諏訪春雄)
  64. 2012年12月号:鈴木英一/須田敦夫『日本劇場史の研究』(相模書房、昭和32年5月)
  65. 2013年1月号:生島淳/市川猿之助『演者の目』(朝日新聞社、昭和51年3月)
  66. 2013年2月号:大西秀紀/山口廣一企画・編集『「幕間」別冊 大阪の延若』(和敬書店、昭和26年5月)
  67. 2013年3月号:亀和田武/服部幸雄文・一ノ関圭絵『絵本夢の江戸歌舞伎』(岩波書店、2001年4月)
  68. 2013年4月号:齊藤千恵/赤穂市総務部市史編さん室編集『忠臣蔵』全7巻(兵庫県赤穂市)※第1巻は1989年3月刊、第7巻は未刊(2013年7月時点)
  69. 2013年5月号:埋忠美沙/河竹繁俊『河竹黙阿弥』(演芸珍書刊行会、大正3年12月)
  70. 2013年6月号:神田由築/喜多川守貞著、朝倉治彦・柏川修一校訂編集『守貞謾稿』全5巻(東京堂出版)※岩波文庫で『近世風俗誌』全5巻(宇佐美英機校訂)として刊行
  71. 2013年7月号:津川安男/服部幸雄、国立劇場芸能調査室編『〈歌舞伎の文献・3〉戯塲訓蒙図彙』(国立劇場調査養成部・芸能調査室、昭和44年3月→2001年3月に改訂新版発行)
  72. 2013年8月号:赤坂治績/犬丸治『「菅原伝授手習鑑」精読 歌舞伎と天皇』(岩波現代文庫、2012年4月)

    ※2013年9月より「家で楽しむ歌舞伎 この一冊」に。

  73. 2013年9月号:金子健/渥美清太郎著『歌舞伎狂言往来』(歌舞伎座出版部、昭和2年6月)
  74. 2013年10月号:葛西聖司/望月太意之助著『歌舞伎の下座音楽』(演劇出版社、1997年8月)※昭和50年1月刊『歌舞伎下座音楽』の復刊
  75. 2013年11月号:阿部さとみ/尾上松緑著『踊りの心』(毎日新聞社、昭和46年10月)
  76. 2013年12月号:児玉竜一/武智鉄二著『かりの翅』(學藝書林、昭和44年2月)※巻末に堂本正樹「かりの翅の輝き」
  77. 2014年1月号:広瀬依子/松島まり乃『歌舞伎修業 片岡愛之助の青春』生活人新書034(日本放送出版協会、2002年7月)
  78. 2014年2月号:竹内久美子/中村勘三郎著『十八代勘三郎』(小学館、2013年3月)※『襲名十八代』(2005年5刊)を改題、加筆修正。
  79. 2014年3月号:金子健/中村歌右衛門・山川静夫著『歌右衛門の六十年―ひとつの昭和歌舞伎史―』岩波新書・黄328(岩波書店、昭和61年1月)
  80. 2014年4月号:葛西聖司/鈴木秀次郎著『常磐津林中』(IBC開発センター、昭和47年8月)
  81. 2014年5月号:阿部さとみ/郡司正勝・榎本由喜雄・柴崎四郎編『道成寺』(小学館、昭和57年11月)
  82. 2014年6月号:児玉竜一/小宮麒一編『配役総覧』(私家版)
  83. 2014年7月号:広瀬依子/水落潔著『上方歌舞伎』(東京書籍、1990年9月)
  84. 2014年8月号:安田文吉/安田徳子著『地方芝居・地芝居研究 名古屋とその周辺』(おうふう、2009年2月)
  85. 2014年9月号:葛西聖司/『三田村鳶魚全集 第十八巻 芝居と史実 芝居の裏おもて』(中央公論社、昭和51年5月)
  86. 2014年10月号:阿部さとみ/天津乙女著『踊りごよみ』(宝塚歌劇団出版部、昭和34年4月)
  87. 2014年11月号:児玉竜一/深瀬芳流著『舞台九十年 実川八百悟郎藝談』(高知新聞社、昭和36年5月)
  88. 2014年12月号:金子健/初代田中凉月・小林責著、国立劇場調査養成部芸能調査室編『〈歌舞伎資料選書・8〉田中凉月歌舞伎囃子一代記』(国立芸術文化振興会、1992年11月)
  89. 2015年1月号:広瀬依子/『常磐津一巴太夫素語り 歌舞伎一期一会』(NTT出版)
  90. 2015年2月号:日置貴之/中村哲郎著『西洋人の歌舞伎発見』(劇書房、昭和57年4月)
  91. 2015年3月号:葛西聖司/金森和子編『歌舞伎衣裳附帳』(松竹衣裳株式会社、1991年4月)
  92. 2015年4月号:阿部さとみ/服部幸雄著『変化論 歌舞伎の精神史』平凡社選書41(平凡社、昭和50年6月)
  93. 2015年5月号:金子健/川尻清潭著『〈歌舞伎資料選書・2〉芝居おぼえ帳』(国立芸能調査養成部・芸能調査室、昭和53年3月)
  94. 2015年6月号:児玉竜一/市川楽三郎著『市川楽三郎手記』(私家版、昭和59年1月)
  95. 2015年7月号:広瀬依子/森彰英著『武智鉄二という藝術 あまりにもコンテンポラリーな』(水曜社、2011年1月)
  96. 2015年8月号:細谷朋子/稀音家義丸著『長唄囈語』(邦楽の友社、2015年3月)
  97. 2015年9月号:葛西聖司/岡本綺堂著『綺堂芝居ばなし』(旺文社文庫、昭和54年1月)
  98. 2015年10月号:阿部さとみ/町田孝子『舞踊の歩み百年』(桜楓社、昭和43年12月)
  99. 2015年11月号:金子健/「京都・南座の記録」出版委員会編『京都・南座の記録―やわらかい劇場論』(六燿社、1990年12月)
  100. 2015年12月号:児玉竜一/坪内逍遥著『少年時に観た歌舞伎の追憶』(日本演芸合資会社出版部、大正9年12月)



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『演劇出版社30年』(演劇出版社、昭和54年10月25日)の函と本体。演劇出版社30年、すなわち第二次『演劇界』30年を記念して、利倉幸一が編んだ豆本。全103ページ。「非売品」となっているけれども、残部が希望者に頒布されている。

【目次】

  • 扉絵:坪内節太郎
  • カラー口絵:玉三郎のお染/歌右衛門の夕霧/松緑の暫/菊五郎の与三郎/海老蔵の松王/勘三郎の熊谷/梅幸の揚巻/猿之助の忠信
  • 憚乍口上
    • 北條秀司「よくやった」
    • 吉川義雄「わが虚実皮膜の間」
    • 土方正巳「「演劇界」と私」
    • 戸板康二「ぼくの中の「演劇界」」
    • 郡司正勝「楽しき哉「演劇界」」
    • 中村歌右衛門「「演劇界」と共に」
  • 同人忌辰録
    • 利倉幸一「演劇出版社30年物語」
    • 播本脩三「三人から八人へ」
    • 梅村豊「続けること」
    • 今村富士子「ひと言お祝いを」
    • 有吉佐和子「私にとっては育ての親」
    • 野口達二「五月人形」
    • 大笹吉雄「そして現在」
    • 藤田洋「あっという間に七十年」

戸板康二がここに収録されている「ぼくの中の「演劇界」」を書いたのは、喉頭がんの手術をして7月末に慶應病院を退院し、自宅で療養をしている時期。

ぼくの中の「演劇界」   戸板康二
 「演劇界」が利倉さんによって再発足してから、三十年の月日が流れた。まったく夢のようだ。
 日本演劇社で、いわゆる第一次「演劇界」を渥美清太郎さんを手伝って、こしらえていた経験があるので、毎号の企画のプラン会議の様子まで、一般の人にくらべると、よくわかっている。
 戦後とはいえ、築地の共立ビルの二階の編集室で作った雑誌は、原始的なものだった。バックナンバーを見ると、一面なつかしくはあるが、何ともきまりが悪い。
 それにくらべると、いまの「演劇界」は天と地の差がある。第一カラー写真なんか、昔はなかった。歌舞伎の雑誌も贅沢になったものだ。
 「演劇界」三十年のスタッフを思い返し、ぼくの書いた原稿だの、対談した先輩だののことを考えると、この雑誌の歴史が、ぼくの中で、かなりのウェイトを持っているのに気がつくのである。

と、例によって、ひと筆書きふうのさらっと衒いのない文章だけれども、戸板さんの戦中戦後の来し方を思うと、いろいろと味わい深い。大病の年の暮れ、昭和54年12月14日に「寒燈や生きてことしの誕生日」と詠んで年が明けて、昭和55年の1年間、戸板康二は『演劇界』で「思い出の劇場」の連載をしたのだった。第1回は「本郷座」。と、この「思い出の劇場」全12回は、戸板康二の珠玉のエッセイのひとつと思う。


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『演劇出版社30年』に挟み込まれている挨拶文。発行日の昭和54年10月25日は「復刊第一号発行の日」。