1930年代新宿の青年歌舞伎(1)戸板康二の形成と青年歌舞伎

(2023年11月16日:末尾の注釈欄に訂正と追記を記載しています。)

はじめに

1930年代新宿の青年歌舞伎について書き連ねたいとずっと思っていた。十数年来の宿願であった。

新宿新歌舞伎座(新宿第一劇場)で青年歌舞伎が始まった昭和7年(1932)は、戸板康二が慶應義塾の予科に入学した年でもあった。毎興行見物したという青年歌舞伎について、戸板康二は後年、《まことに貴重な歌舞伎教室だった。》と愛着たっぷりに回想している(『思い出の劇場』、「新歌舞伎座」)。

大正4年(1915)12月14日生まれの戸板康二は、昭和の年数に十を足した数が満年齢となる。戸板康二は敗戦の年の師走に満30歳となった。戦前昭和は「戸板康二の形成」の歳月であった……と図式化した上で、昭和7年(1932)という年をその起点と位置付けつつ、

と、かつて2回にわたって、1930年代の戸板康二と歌舞伎興行に思いを馳せたことがあった。

これからしばらく、1930年代の戸板康二と歌舞伎興行に思いを馳せるシリーズの最終回として、青年歌舞伎について長々と書き連ねていこうと思う。

以下は、その第1回、戸板康二と慶應歌舞伎研究会と青年歌舞伎について。

次回以降、京都歌舞伎座の関西青年歌舞伎を中心として明治期から戦前昭和までの松竹を大雑把に浅く概観し、続いて、1930年代新宿の青年歌舞伎について詳述、最終的にはその上演記録作成を企図している(第1回で終わらないように気をつけたい……)。


昭和7年4月、慶應歌舞伎研究会に入会する

戸板康二は昭和7年(1932)3月に暁星中学校を卒業し、同年4月に慶應義塾文科の予科1年生となった。入学と同時に、歌舞伎研究会に入会した。*1

東京山の手の芝居好きの子として育った戸板康二は、暁星小学校ではのちの七代目梅幸と同窓だった。昭和3年(1928)春に暁星中学校に進学する頃には、演劇書に親しむと同時に新聞劇評の切抜きにもいそしんで、ますます芝居にのめり込んでいた。それは、昭和4年(1929)2月に五代目菊五郎の二十七回忌に際して刊行された、伊坂梅雪著『五代目菊五郎自伝』について後年、《当時中学生のぼくが、この本を読みふけった日の喜びを今でも思い出す。》と回想していることからも窺えよう(『演芸画報・人物誌』、「伊坂梅雪」)。

『回想の戦中戦後』(青蛙房・昭和54年6月)の「かよった学校」には、

同級生で、歌舞伎を見にゆく友人がいた。須田孝二、石井敏夫、出浦宜雄などと、運動場で、ヒソヒソ芝居の話をした。須田は、当時、中井といっていたが、劇評を洋罫紙に書いて見せる。こっちも、劇評のようなものを書いて、交換した。

という一節があり、『思い出す顔』(講談社・昭和59年11月)の「先輩の劇評」には、暁星中学校の日々のことを、

中学にあがってから、芝居を見たあと、感想を洋罫紙に書いて、中井という友人に見せ、中井もまた自分の見た芝居について、何か書いて見せた。これがつまり、はじめて書いた「劇評」ともいえる。

という回想がある。『回想の戦中戦後」の「須田孝二」と『思い出す顔』の「中井という友人」は同一人物である。



『暁星学校 同窓会員名簿 昭和十一年十二月一日現在』より。

戸板康二が中学時代に「劇評のようなもの」を交換していた同級生・須田孝二は、三回忌の配り本『「ちょっといい話」で綴る戸板康二伝』(1995年1月刊)に「「ボタンを押さねど越後の獅子は」」というタイトルの文章を寄稿している。肩書きは「株式会社須田鉄会長」である。

戸板君とは暁星中学校から中学の四年間迄一緒で終始芝居の話をしたり中学の頃は劇評らしいものを取りかわしていました。私のことを演劇界に「中学の頃私より歌舞伎が好きな友達がいた」と書いてくれたことがあります。

というふうに、戸板康二の回想を裏書きするようなことが書いてあり、さらに、

戦後堀留の私の店に尾上橋助という名題下の老優が留守番がてら住んでいた時に一度見えたことがありましたが、後年「あゝいふ人には独自の藝談があつたと思います。何か聞いてる事があつたら教えてください エッセイに書いてみたい気がします。六代目一座の伊三郎鯉三郎新七菊十郎等あの頃の脇役がなつかしくてなりません」という手紙もあります。

という、嬉しいエピソードを披露している。須田孝二は織物卸を生業としていた。


第一書店『劇評』第4巻第10号(昭和27年11月)掲載「大部屋俳優放談会」に尾上橋助が出席している。写真左より坂東調四郎、尾上音三郎、尾上梅祐、尾上龍之助、尾上橋助。橋助は《六十八才。黙阿弥もの、世話ものに精通した故実を心得た貴重な人》と紹介されている。

須田孝二は幼い頃から市村座に通って六代目菊五郎に熱中していた。終生、菊五郎一座にもっとも愛着を感じていた下町の芝居好きの子だった。菊五郎は仰ぎ見る存在であると同時に、同級生のお父さんという幾分身近な存在でもあった。戸板康二と須田孝二は、遠いような近いような、近いような遠いような、六代目菊五郎への距離感を共有する間柄だった。


須田孝二は、『演劇界』1991年1月号の特集記事「今月の俳優 尾上梅幸」に「梅幸さん江」を寄稿している。

彼らが暁星中学校に入学した昭和3年(1928)という年は、菊五郎が松竹に入った年でもあった。彼らの4年間の中学生活は、六代目菊五郎が《松竹の役者として、いろいろな意味で、王者のように君臨》(戸板康二「〈特集・平成元年 昭和歌舞伎を顧みる〉役者で綴る前半期」、『演劇界』1989年2月号)していく時期にあたっていた。

暁星中学校の4年間を経て、戸板康二は、昭和7年(1932)4月に慶應義塾大学文科の予科生となった。三田の山の上では、歌舞伎研究会が満16歳の戸板康二を待っていた。

 

堀野正雄『正しい露出と写し方』(新潮社・昭和13年7月)より。

おりしも、戸板康二が慶應義塾に入学した昭和7年(1932)は、慶應義塾内の学生サークル、歌舞伎研究会の活動が活発化していた時期だった。

『慶應義塾大学歌舞伎研究会八十年史』(歌舞伎研究会三田会・2006年5月。以下、『八十年史』。)は、大正14年(1925)9月に発足した「三田歌舞伎研究会」を起点とした慶應義塾大学の歌舞伎研究会の「八十年史」である。今や百周年目前である。

以下、現在まで続く慶應義塾大学の学生サークルである歌舞伎研究会を「慶應歌舞伎研究会」と表記する。

『八十年史』所収「慶應義塾大学歌舞伎研究会史」によると、慶應歌舞伎研究会の起源は大正11年(1922)秋の「三田新聞学会」にあるという。三田新聞学会の村田種雄が《歌舞伎劇の系統的な研究をする会を作ろうとして準備にかかった》ものの、進捗状況が芳しくないまま震災に遭ってしまい、やがて、大正13年(1924)12月中旬に「三田観劇会」が誕生した。

その三田観劇会を発展させるかたちで、翌14年(1925)9月に「三田歌舞伎研究会」が発足した。『八十年史』が慶應歌舞伎研究会の起点としているのが、この三田歌舞伎研究会である。大正14年(1925)1月に第3期歌舞伎座が竣工していた。震災復興のまっただ中の時期に、慶應歌舞伎研究会は誕生したのだった。

小池隆一法学部教授を会長とし、木村錦花、川尻清潭、岡鬼太郎が顧問として名を連ねた。創立時の会員のうち、のちの名簿に唯一名前が載っているのは上沼道之助で、『八十年史』には《上沼(一九三〇〈昭5〉年頃卒?)は松竹社員として要職に就いていたが、後辞して七世宗十郎と行を共にし、戦後脚本朗読会の世話をされたりしていたが不幸にも早逝された。》と記録されている。




第3期歌舞伎座新開場と同年の大正14年(1925)に発足した慶應歌舞伎研究会。第3期歌舞伎座の緞帳、金森敦子編『歌舞伎座百年史 本文篇上巻』(松竹株式会社・1993年7月)に掲載の写真。大正14年1月の絵本筋書に、《予て、大懸賞を以て図案を募集した緞帳も、ミツワ石鹸本舗丸見屋商店寄贈の楽苑は、三越呉服店の調製になり、御園白粉本舗伊東胡蝶園寄贈の歓喜瑞祥は高嶋屋呉服店調製になり、更に丸見屋商店寄贈のものと三張が完成し、劇場内部の装飾の主要部分ともなり、且は、幕間に、労れた観客諸賢の慰めになることゝ存じます。》とある。

三田歌舞伎研究会は昭和に改元する頃に休会状態となったものの、昭和4年(1929)に「慶應歌舞伎劇研究会」と改称、ふたたび活動が活発化する。渥美清太郎、岡鬼太郎、三宅周太郎、池田大伍、本山荻舟、石割松太郎、岡本綺堂ら劇壇人のみならず、六代目坂東彦三郎、吉田栄三といった実演家による講座が開催された。吉田栄三の講座に関しては、昭和4年12月7日付「三田新聞」に「本日〇時半から十四番教室で開催」の旨、記事が出ている。同月の栄三は新橋演舞場で興行中だった(12月7日は二の替で午後3時開演、栄三は『廓文章』の伊左衛門。『義太夫年表 昭和篇 第1巻』参照)。

と、劇評家、劇壇人、実演家の講座が設けられた充実の2年間を経て、昭和6年(1931)に慶應歌舞伎劇研究会は「歌舞伎研究会」と改称、諸講座と合わせて、会員の学生による脚本朗読が始まった。この年に志野葉太郎こと田坂仁郎が入学している。そして、戸板康二が入学する昭和7年(1932)となる。

一年先輩の志野葉太郎のことを、戸板康二は《三田の歌舞伎研究会時代に、観劇ノートの目のつけどころや、日本戯曲全集に上演台本とのちがいを書きこむことを教わった先輩》というふうに回想している(『回想の戦中戦後』、「わが交友記(中)」)。

戸板康二は、暁星小学校から暁星中学校に進学する直前、昭和3年(1928)2月の本郷座の永井荷風原作・木村富子脚色『すみだ川』を見物する際に、事前に『演芸画報』掲載の台本を読んだ記憶があるという(『思い出の劇場』、「本郷座」)。その『すみだ川』の上演脚本が掲載されている昭和3年(1928)2月号の『演芸画報』に、春陽堂の「日本戯曲全集」の広告が初めて掲載されたのであった。「日本戯曲全集」は、昭和8年(1933)までに「歌舞伎篇」が計50巻、「現代篇」が計18巻刊行されることとなる。

「黙阿弥脚本集」(大正8-11年)、「歌舞伎脚本傑作集」(大正10-12年)、「黙阿弥全集」(大正13-15年)、「大南北全集」(大正14-昭和3年)、そして、「日本戯曲全集」(昭和3-8年)。戸板康二および慶應歌舞伎研究会の若者たちは、《歌舞伎台本の出版刊行》(河竹繁俊編『歌舞伎十八番集』講談社学術文庫・2019年9月、児玉竜一「解説」)の恩恵を若き日から享受できた世代だった。

昭和4年(1929)に「慶應歌舞伎劇研究会」と改称して活動が活発化したとき、その中心にいたのは、のちに大谷竹次郎の引きで松竹に入社する内田得三だった。昭和9年(1934)11月4日、三田祭の展示場で慶應歌舞伎研究会の飾り付けをしていたら、「梅幸が倒れた」と会場に入ってくるなり言ったというエピソードでおなじみの内田得三である。『回想の戦中戦後』には、六代目梅幸の急逝当時は松竹に入ったばかりだったとある。

それから10年余りの時を経て、内田得三は演劇宣伝係長となったものの、昭和20年(1945)1月27日正午頃、新富町の松竹本社に直撃焼夷弾が落下し、無惨にも他界した。このとき社長室で大谷竹次郎と用談をしていた川口松太郎は、

用談の最中に空襲警報が出て米軍機の爆撃があった。白昼の銀座空襲で、爆弾の一発が松竹本社の屋上へ落ちた。危険と見て私は地下室へ逃げ込もうと思い社長室の外の廊下へ出た瞬間に爆弾落下、六階の角をかすめて斜めに隣家へ落ちた。
 廊下へ出たのが幸いして私は無事だったが、大谷社長は鼓膜を破られてこの時以来、耳が遠くなった。(中略)六階にいた社員数人は爆風に飛ばされて死んだ。

という記述を残している(川口松太郎『八重子抄』中央公論社・昭和56年8月)。この記述をそのまま受け取ると、内田得三は「六階にいた社員数人」のうちの一人だったということになる。

敗戦後最初に出た『演劇界』昭和20年(1945)9・10合併号に掲載の渥美清太郎との対談「九ヶ月間の回顧」で、戸板康二は内田得三の死について、

「塾の先輩でしたが、ほんとうにいい人で、よりによつて、僕等の周囲に於ける最初の犠牲者になるなんて、何といふ事かと思いました。近頃でこれも善い人で不慮の死をとげた友右衛門と共に何かまちがつた事のやうな憤りを感じます。」

と語っている。

また、内田得三にまつわるエピソードは、『思い出す顔』に以下のように登場している。

 大学時代に、歌舞伎座の一幕見にゆこうとすると、友人につれられて時々遊びに行っていた伊庭孝夫人と、そのひとり娘の三七子さんに会った。
 三階席のうしろの立見で、十五代目羽左衛門の「源氏店」を見おわって降りて来ると、劇場の前に、監事室勤務で、慶応の歌舞伎研究会の先輩の内田得三氏がいる。
 美しい女学生とならんで芝居を見たあと、はしゃいでいたぼくは、よせばいいのに、内田さんに、「これが伊庭孝さんの奥さんとお嬢さんです」と紹介した。しかも御ていねいに「音楽評論家の」と注釈までつけ加えたのだ。
 夫人が笑いながら、「戸板さん、内田は主人の甥なのよ」といった。今思い出しても、顔が赤くなる。

内田得三は伊庭孝の甥っ子であった。小宮麒一『配役総覧』を参照すると、戸板康二の大学時代、十五代目羽左衛門の『源氏店』が歌舞伎座で上演されていたのは、昭和8年(1933)4月と10月、昭和10年(1935)11月、昭和13年(1938)4月の計4回であった。内田得三が監事室にいた頃のエピソードというから、昭和10年11月とみるのが妥当か。


昭和8年(1933)9月、岡鬼太郎を囲んで(前列右より戸板康二・内田得三・渡辺耕一・岡鬼太郎・上沼道之助、後列右より西園寺進・福田元次郎・武井秀夫・田坂仁郎・平松嘉兵衛・内山精一・城所一郎・村林栄一)、『八十年史』に掲載の写真。

この写真のなか、予科生でただ一人前列に座る戸板康二。その隣りに座る内田得三と渡辺耕一は卒業年が昭和8年(1933)であり、このときは OB ゆえ背広を着ている。内田と渡辺の二人は昭和4年(1929)に「慶應歌舞伎劇研究会」と改称したときの同志であり、いわば慶應歌舞伎研究会の中興の祖であった。

戸板康二入学当時の慶應歌舞伎研究会には、昭和9年(1934)春に卒業してゆく加賀山直三や川口子太郎もいた。

川口子太郎は、『回想の戦中戦後』に、

 川口さんは慶応にいた時の歌舞伎研究会の先輩で、生家は京橋大根河岸の米喜という青物問屋だった。ひとり息子で、だから喜一といったが、姓名判断で裕之と通称、子太郎は「妹背山」の丁稚の名前を借りた筆名である。
 三田の経済学部では、高橋誠一郎門下だったが、在学中から義太夫を習っていたので、芝居の話の時に、ごく自然に口三味線を入れたりした。

というふうに回想されている。経済学部出身ならではの…かどうかはわからぬが、歌舞伎に対する精緻な分析をしつつも、演者としての気質も兼ね備えていたのが川口子太郎の持ち味であった。昭和20年代の演劇雑誌で活躍していた気鋭の評論家であり、また演出もこなす鬼才であった。


『役者』第15号(昭和24年1月)の座談会の写真。左より市川染五郎(八代目幸四郎)、戸板康二、川口子太郎、池田弥三郎、小野英一、中村もしほ(十七代目勘三郎)。

川口子太郎は昭和49年(1974)7月に他界。『演劇界』昭和49年9月号「五行通信」に《氏は歌舞伎研究家で戦後の三越歌舞伎頃には文芸面でも活躍していましたが、その後病気のため長期入院中でした。》とある。

加賀山直三は明治42年(1909)生まれ、昭和9年(1934)に国文科を卒業した。

 加賀山さんは下関の人で、麻布の四の橋のそばに下宿していた。国文科だったが、折口先生の周囲にいる学生には反発している傾向があった。
 ぼくより四年上だが、ずいぶん、ませていて、虎の門の晩翠軒の喫茶室へゆくと、リプトンの青缶で紅茶がのめますなどといっていた。予科生のぼくに、ドビュッシーの評論や、画家アングルのパンセなどお読みなさいともいった。
 癖のつよい、狷介なところが、劇評の味だったが、反面、世わたりはへただったように思う。

と、『思い出す顔』にあるポルトレは、加賀山直三のスタイリストなところが垣間見られて味わい深い。

和角仁氏は、師とする加賀山直三について、

先生には、岡鬼太郎氏から直接手ほどきを受けたのだ、という誇りが常にあって、それが、いかなる障害をも跳ねのけることが出来るのだ、という確信にまでつながっていたように思う。

というふうに書いている(『かぶきの風景 増補新版』の栞に掲載の「厳しかった先生」)。常に確固たる規範とともにあったのが加賀山直三であった。

加賀山は卒業直後の5月末に松竹入社したものの、最初の1年半は見習いで監事室詰めで無給だったという(加賀山直三「〈歌舞伎と私〉埒も他愛もなく」、『劇評』昭和29年9月号)。加賀山も内田得三とともに、歌舞伎座の監事室で梅幸の倒れる姿を目撃していた(「舞台で倒れた俳優の面影」、『増補改訂 かぶきの風景』)。六代目梅幸は加賀山にとって《生涯における最大の贔屓役者》だった(『演劇界』昭和47年5月号、加賀山直三「十五世羽左衛門と六世梅幸と」)。加賀山と内田は同じ昭和9年に松竹に入社したのだったが、学校では内田の方が一年先輩だった。

のちに、戸板康二は『銀座百点』昭和30年(1955)10月号誌上の座談会で、

「戦争前に松竹に入つていた友達に聞いた話ですが、あれは大谷さんの嫌な芝居のいくつかに入つていたのだそうです。大谷さんの嫌いなのは新薄雪物語に金閣寺、それからこの山の段、この三つは嫌いだというのです。そういえばなるほど山の段も金閣寺も昭和五、六年ころまで一ぺんも出ていませんよ、震災後。」

という発言をしている。ここで語られている「松竹に入つていた友達」というのは内田得三か加賀山直三と思われるが、いずれにせよ、学校の先輩の松竹社員とのひそひそ話も慶應歌舞伎研究会のたまものであった。


新富町の松竹本社、『松竹百年史』(松竹株式会社・1996年11月)より。昭和30年(1956)9月落成の松竹会館に移転するまで、昭和2年(1927)10月竣工のこの建物が東京の松竹本社だった。その後も菊栄ビルとして近年まで残っていた近代建築。2013年11月に解体工事が始まり、翌年1月には完全に更地になっていた。現在はマンションが建っている。


昭和38年(1963)10月の築地橋。池田信著『新装版 1960年代の東京』(毎日新聞社・2019年2月より)。



『電通サロン』第208号(昭和42年7月)より、丹下健三設計の電通築地ビル(2021年に解体)の竣工を記念する号に掲載の空中写真。築地橋際の元松竹本社の並びは新富座跡地に建つ京橋税務署である。

加賀山直三や川口子太郎と同期だった菅沼富雄は、『八十年史』制作時にその取材にこたえていた。

現在のOB会最長老の九十四歳(二〇〇四現在)にも拘らず極めてお元気で、しかも抜群の記憶力の持主。今回の取材に応じて話をされた時、年時、場所、人名等を淀みなく指摘し、延々四時間にわたっても疲れを知らない驚嘆すべき人であった。七世中車夫人の甥に当り、前記河合、川口、内田らとの交友談はそれだけで一冊の著書になるようなよき時代の三田生活が再現されていた。

「河合、川口」は河合忠兵衛と川口子太郎、同じく同期の加賀山直三の方はあまり集まりには出てこなかったという。さもありなんである。

河合忠兵衛は、戸板康二を銀座七丁目出雲橋際の「はせ川」に初めて連れて行った人物でもあった。

 そのはせ川ののれんを最初にくぐったのは、昭和九年、慶応の予科三年のときであった。誘ってくれたのは、三年先輩の経済学部の学生である。
 浅草の並木にある商家の若旦那で、いかにも下町の東京っ子という気質の人だったが、歌舞伎研究会の若い後輩を、ご馳走してくれたのである。
 しかし、まだぼくは、酒が飲めなかったので、ビールをやっと一杯飲んだだけで、真っ赤になった。思えば、隔世の感である。

これは『銀座百点』第369号(昭和60年8月)に掲載の「思い出の一杯」の一節であるが、別の文章では「先輩の河合さん」と実名を出している(「銀座長廊下」、『目の前の彼女』)。河合忠兵衛は浅草雷門の機械商、井坂屋の御曹司だった。暁星の同級生の須田孝二といい、慶應歌舞伎研究会の先輩の川口子太郎や河合忠兵衛といい、若き日の戸板康二の周囲の芝居好きには、下町の商家の若旦那たちが印象的に登場する。*2


『春泥』第11号(昭和6年1月)に挟み込まれていた「はせ川」の開店チラシ。同号で、長谷川春草は「銀座」と題する小文に《十二年ぶりでまた銀座に住む身となった。》と書いている。その12年前の春草は俳書堂に勤務していて、籾山梓月主宰の第一次『俳諧雑誌』の編集に携わっていた。

文壇の人びとによって語り継がれる銀座七丁目、三十間堀川の出雲橋際の「はせ川」が開店したのは昭和5年(1930)12月だった。俳句の師として久保田万太郎に親近していた長谷川春草(万太郎と同年の明治22年生まれ)が主人で、昭和9年(1934)7月11日に春草が他界したあとは、夫人で同じく俳人だった長谷川湖代が店を切り盛りしてゆく。

「はせ川」が文壇人の溜まり場となったのは、久保田万太郎に伴われて永井龍男が訪れたことで文藝春秋の関係者が次々と暖簾をくぐったのが端緒だった(井伏鱒二「はせ川」、永井龍男「三十間堀の灯」)。戸板康二が『三田文学』の座談会の席上で久保田万太郎と対面するのは、初めて「はせ川」の暖簾をくぐった4年後、国文科を卒業した年の昭和13年(1938)の6月であった。

河合忠兵衛、川口子太郎、加賀山直三と同期だった菅沼富雄は、慶應歌舞伎研究会の生き字引であり、戸板康二の在学時代の《よき時代の三田生活》の空気を伝える人物であった。『三田歌舞伎』(http://www.mitakabuki.com/information/mitakabuki.html)2009年5月号に、『八十年史』の制作に携わっていた馬場和夫氏(昭和21年卒)の「菅沼富雄先輩四方山ばなし」(http://www.mitakabuki.com/information/pdf/mitakabuki_200905_baba.pdf)が掲載されている。ここに、

昭和六~九年は戦前の歌舞研の最盛期で 歌舞伎滅亡論などがマスコミにささやかれているのに反抗するように盛沢山の行事を実行している。

という一節がある。

そんな《戦前の歌舞研の最盛期》のまっただ中の昭和7年(1932)、戸板康二は慶應歌舞伎研究会に入会したのだった。その背後には《歌舞伎滅亡論などがマスコミにささやかれている》という状況があった。


 慶應歌舞伎研究会の機関誌『浅黄幕』

大正14年(1925)に慶應歌舞伎研究会が発足し、翌年、その機関誌『浅黄幕』が創刊された。

『八十年史』によると、『浅黄幕』は大正15年(1926)2月に上沼道之助の主導で創刊、《創刊号はB5版ガリ版92頁建ての立派な冊子で、上沼以下、荒川、村田、渡部、河野道明、城田節、他ペンネームの人名を咥えた九人が執筆している。すべて創立時の方々である。》とのことで、原本は、『配役総覧』および『上演年表』でおなじみの慶應歌舞伎研究会 OB 小宮麒一氏(昭和27年卒業)が所持しておられ、『八十年史』の記述はそれを踏まえてのものである。

『浅黄幕』は大正15年(1926)3月中旬に第2号、同年6月24日に第3号が出たものの、その後は刊行が途絶えていたという。そもそも、昭和改元とともに「三田歌舞伎研究会」の活動そのものが途絶えていた。

内田得三と渡辺耕一が中心となり、昭和4年(1929)に「慶應歌舞伎劇研究会」と改称して活動が活発化、昭和6年(1931)に「歌舞伎研究会」と改称して、ますます軌道に乗ったところで、昭和7年(1932)、晴れて『浅黄幕』が復活したのだった。


『浅黄幕』第1号(慶應歌舞伎研究会・昭和7年11月15日)。表紙にはデンと真ん中に勘亭流で「淺黄幕第一號」、「慶應歌舞伎研究會會報」「昭和七年十一月一日再刊」の文字(奥付の表記は11月15日)。6年ぶりの「浅黄幕」復活である。


扉ページの表記は「復活第一号」となっている。

すべての記事を掲載ページ順に書き起こすと以下のようになる。

脚本「寿曽我対面」
曽我のいろ/\
劇評
・歌舞伎座(九月) 田坂、内田、川口、石井
・新歌舞伎座(九月)加藤、西岡、戸板、福田
・歌舞伎座(十月)河合、鈴木(治)、平松、鈴木(福)、椎橋
・新歌舞伎座(十月)菅沼、渡邊、粂
浜松行
慶應歌舞伎研究会沿革
昭和七年度歌舞伎研究会事業報告
山上各会連盟創立一周年記念会概況
会員名簿

同年10月31日に日本青年館で開催された、慶應義塾の学生サークルによる「山上各会連盟」一周年の記念会での慶應歌舞伎研究会の出し物『寿曽我対面』朗読の台本と会員による劇評(歌舞伎座と新歌舞伎座の9月と10月興行の劇評)を二大柱とする紙面構成で、全32ページ。


扉ページを開くと、復刊の辞がある。同号に掲載の「慶應歌舞伎研究会沿革」(『八十年史』所収「慶應義塾大学歌舞伎研究会史」の昭和7年までの記述はこの記事を典拠としている。)では大正14年(1925)9月上旬とされている慶應歌舞伎研究会の起点が、この復刊の辞では、大正12年(1923)4月とされている。その根拠は不明である。

戸板康二が入学した昭和7年(1932)は慶應義塾創立75周年の記念の年にあたっており、入学早々の5月に大々的に祝賀行事が挙行され、学生サークルもこれに参加、慶應歌舞伎研究会は展示と合わせて、『白浪五人男』『修禅寺物語』『髪結新三』の脚本朗読を披露した。


その約半年後の10月31日の日本青年館における『寿曾我対面』の脚本朗読では、最下級生の戸板康二も「番卒三」として参加している。当然のことながら、「番卒一」「番卒二」に続いて、三番目にセリフがある。「此上もなき恐悦にて、祐経どのの御目見得より、吉例欠かさず参りし我々」である。このとき、五郎に扮していたのが川口子太郎で、

ぼくの予科一年の時、脚本朗読で「対面」の五郎を演じたが、打ってつけの適役だった。日本青年館のステージに制服を着てならび、台本を読むだけだが、名のりの所では堂々と見得をした。

という回想が『思い出す顔』にある。十郎は河合忠兵衛、工藤が内田得三であった。

戸板康二が慶應義塾に入学した昭和7年(1932)は、慶應歌舞伎研究会の活動が活発化していた真っ最中だったと前述したが、慶應歌舞伎研究会だけでなく慶應義塾内の各サークル団体の活動が活発化していた真っ最中であり、1年前の昭和6年(1931)に塾内サークルの団体「山上各会連盟」が結成されていたところだった。その気運にのって、昭和7年という年は、慶應歌舞伎研究会が2度にわたって脚本朗読を観衆に披露するという対外活動が行われた年となり、いやがうえにも会員の士気は鼓舞されたことだろう。

そんななか復活した『浅黄幕』は、『寿曾我対面』の脚本と学生による劇評を二大柱とする誌面構成となった。

ちなみに、『浅黄幕』に掲載された『寿曾我対面』の脚本は、日本青年館の公演当日に頒布された脚本を再録したものであり、その脚本は早稲田大学演劇博物館の図書室に所蔵されている(請求記号:ロ5 11691)。脚本の方は、資金集めのために集められたであろう広告が多数掲載されている。特に、三田界隈の飲食店の広告が楽しく、その当時の町の雰囲気が彷彿とするようである。

その『寿曾我対面』の脚本には、昭和8年(1933)10月、慶應歌舞伎研究会の催しで戸板康二が初めて三宅周太郎の顔を見た日のエピソードしておなじみの明治製菓売店の広告も掲載されている。


昭和4年(1929)9月に開店した明治製菓売店の三田支店の店内風景、明治製菓広報誌『スヰート』第4巻第4号(昭和4年10月発行)より。

大正15年(1926)に創刊された第1次『浅黄幕』と同じように、昭和7年(1932)の『浅黄幕』復活第1号、すなわち第2次『浅黄幕』にも、慶應義塾歌舞伎研究会に所属する学生による文章が掲載されることとなった。

『浅黄幕』復活第1号では、ほぼ全員が短い劇評を寄稿している。最下級生であった予科1年生・戸板康二の劇評も掲載されている。戸板康二の劇場家デビュウは国文科の本科に上がり折口信夫の教室に入ったのと同時期、昭和10年(1935)5月号の『三田文学』に掲載の「追善興行の歌舞伎座」であった。その3年前に『浅黄幕』復活号、すなわち慶應歌舞伎研究会の機関誌に載ったこの劇評は、戸板康二の最初に活字化された劇評ということになるもかもしれない。この劇評欄については、あとで詳述する。

劇評欄の余白に掲載の「浜松行」は会員十名で8月1日に浜松歌舞伎座の吉右衞門一座の旅興行を見物した記録で、最上級生の経済本科3年の内田得三を筆頭に、本科2年の川口子太郎、予科2年の田坂仁郎(志野葉太郎)の名が続く。予科1年の会員もいるが、残念ながら戸板康二は参加していない。この年の夏、戸板康二の父・山口三郎が関西へ転勤したので、夏休み中は阪神間に仮住まい中の実家に行っていたのかもしれない。*3

8月1日の早朝5時に浜松駅に到着した一行は、

当日開業の浜松ホテルに落ち着きそれより浜名湖弁天島を見物し、午後二時吉右衞門を宿に尋ね、一時間半程歓談の後浜松歌舞伎座にて観劇す。平土間を右往左往する男衆出方、奈落のない西日のさし込む小屋等、昔風の観劇気分に皆大喜び、狂言は「鞍馬山暗争」「近八」「関の馬子唄」「夏祭」「浜松風」、吉は大熱演にて上出来団七の姿の儘皆と握手を交した。一行はそれよりそれより市中見物の後午後十一時五十分の汽車で浜松を去る。吉右衞門は、もしほ、吉之丞、七三郎を連れてプラツトホーム迄見送つてくれた

というふうに、吉右衞門一座から手厚い歓待を受けている。《平土間を右往左往する男衆出方、奈落のない西日のさし込む小屋等、昔風の観劇気分に皆大喜び》という浜松歌舞伎座に戸板青年も行っていたら、さぞよい思い出になっていたことだろう。その後、浜松歌舞伎座は昭和12年(1937)2月に焼失している。


浜松歌舞伎座、『浜松市史 三』(浜松市役所・昭和55年3月)、「浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブ(https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2213005100/2213005100100030/ht005800)」より。

『八十年史』によると、第2次『浅黄幕』第2号は翌8年(1933)4月に発行、岡鬼太郎が青年歌舞伎の『盛綱陣屋』評を寄稿、会員は加賀山直三、川口子太郎こと川口裕通、志野葉太郎こと田坂仁郎、西園寺忠二こと粂忠二、内田得三こと内田新康が寄稿している由。《編集責任者の川口と加賀山は、上沼はじめOBが現役との連関を密にすべく本誌の維持に協力してくれていると書いている。》とのことである。この2ヶ月後に、第3号が刊行され、第2次『浅黄幕』のおそらく最終号となった。


第2次『浅黄幕』第3号(慶應歌舞伎研究会・昭和8年6月16日)

池田大伍「演劇の批評」
上沼道之助「文楽座印象記」
内田進康「通老人話雀聞書[とうしろばなしすゞめのききがき]」
加賀山直三「無駄な希望」
粂忠二「明治座の「河原の達引」」
田坂仁郎「「喜内住家」に就て」
編集後記(川口)

ページ数は全16ページで、第1号のちょうど半分。巻頭の池田大伍は《今日の劇界の為めに記録をのこす心で、筆を執らるゝことをお薦めする。これが一番芝居の評を書く上には、大事のことである。》と、慶應歌舞伎研究会の若者たちにエールを送る。

池田大伍のあとは、会員による劇評が5篇掲載、すべて昭和8年(1933)5月興行の劇評である。上村道之助はの四ツ橋文楽座の見物記、内田得三こと内田進康は歌舞伎座の『実録先代萩』について、加賀山直三は明治座の六代目菊五郎新演出の『保名』に対する痛罵、西園寺忠二こと粂忠二は明治座『近頃河原の達引』、志野葉太郎こと田坂仁郎は歌舞伎座『太平記忠臣講釈』の劇評を寄せている。

寄稿者は第2号とほぼ同じ、この年にOBとなっていた内田得三、最上級生の国文科の加賀山直三と経済学部の川口子太郎、戸板康二の1年上級の経済予科3年生の田坂仁郎(志野葉太郎)と西園寺忠次という顔ぶれである。印刷所は京橋区槇町三丁目の「瀬味印刷所」であり、川口子太郎の実家と同じ町内である。


『浅黄幕』復活第1号には編集後記がなかったが、「曽我のいろ/\」という記事のみ「文責在進康」とある。『浅黄幕』の復刊はこの年に経済学部本科3年の最上級生だった内田進康こと内田得三の主導であることがなんとはなしに窺えるような気がする。

翌年の第2号では川口子太郎と加賀山直三が「編集責任者」である由。そして、第3号では川口子太郎が編集後記を書いている。

浅黄幕第三号を、又もや予定の期日よりも甚しくおくれて送ることになつた。
弁解の言葉もいろ/\あるが、第二号より更に充実した内容で送り得たことを以て御諒承は願へると思つてゐる。
池田大伍先生、先輩上沼氏、内田氏が御多忙中玉稿を賜はつたことを深謝する。

がその全文。昭和7年(1932)創刊の第2次『浅黄幕』はおそらくこの第3号を最後に刊行が途絶えて、大正15年(1926)創刊の第1次『浅黄幕』と同じく三号雑誌となった模様である。

昭和7年(1932)、『浅黄幕』の復活号、すなわち第2次『浅黄幕』第1号が最上級生の内田得三の主導(と推測)で世に出た。翌8年(1933)、この年の最上級生、川口子太郎と加賀山直三が『浅黄幕』を引き継いで、第2号と第3号が刊行されたものの、第1号のような慶應歌舞伎研究会のほぼ全員が参加する誌面構成とはならなかった。

戸板康二は『思い出す顔』に、第2次『浅黄幕』の2号と3号に携わった慶應歌舞伎研究会の先輩たちについて、

「演劇界」に書いている志野葉太郎氏(田坂仁郎が本名)も、歌舞伎研究会にいた。川口、加賀山、志野三氏の批評の視覚には、ぼくの場合と同じく、岡さんや三宅さんの影響を大なり小なり、受けているように思う。と同時に、見ている芝居が、いま思うと夢のように、豊かな舞台だったのが財産でもある。

というふうに書いている。第2次『浅黄幕』の第2号と第3号には、彼らの若き日の姿が活写されている。慶應歌舞伎研究会の劇評家は、岡鬼太郎、三宅周太郎の系譜に連なる三田系の劇評家ということになろうか。とすると、その系譜は、渡辺保氏、犬丸治氏……というふうに今も連綿と続いている。

第2次『浅黄幕』以降、慶應歌舞伎研究会の機関誌としては、以下のものがある。

  • 『三田歌舞伎研究』/『浅黄幕』復活第3号の翌年、昭和9年(1934)2月に創刊、同年7月発行の第2号、昭和10年(1935)3月発行の第3号、昭和11年(1936)1月発行の第4号まで刊行が確認できる。
  • 『慶應歌舞伎研究』/『三田歌舞伎研究』の後続誌として刊行されており、その第3号(昭和14年11月5日)が早稲田大学演劇博物館の図書室に所蔵されている(請求記号:KA 1385)。第3号の編集同人は津田信國、栗本茂夫、西園寺進、内山雄太郎、中西福太郎。岡鬼太郎が「歌舞伎といふもの」、渥美清太郎が「明治時代と演劇」を寄稿している。
  •  第3次『浅黄幕』/『八十年史』所収「歌舞伎研究会年表」によると、『浅黄幕』が昭和23年(1948)6月に復刊、昭和24年に第2号、昭和25年に第3号が出ている。
  • 第4次『浅黄幕』/『八十年史』所収「歌舞伎研究会年表」によると、昭和27年(1952)に4回目の復刊、第1号から第3号まで刊行。
  • 『月報』/『八十年史』所収「歌舞伎研究会年表」によると、昭和29年(1954)に第1号から第5号まで刊行。

このあとも何度か会報は刊行されたようだが、『浅黄幕』という名のものは、大正15年(1926)創刊の第1次、昭和7年(1932)復刊の第2次、昭和23年(1948)復刊の第3次、昭和27年(1952)復刊の第4次まで数えることができるようである。

第2次『浅黄幕』を最後に、戸板康二在学時の慶應歌舞伎研究会においては、学生による劇評が掲載される雑誌は刊行されていないと思われる。


第2次『浅黄幕』とともに、戸板康二の在学中の慶應歌舞伎研究会の機関誌である『三田歌舞伎研究』は劇壇人による寄稿で占められており、学生による劇評が中心だった『浅黄幕』とは雑誌の性質が大きく異なっている。寄稿者は第1号(昭和9年2月)が岡本綺堂・池田大伍・石割松太郎・上沼道之助、第2号(昭和9年7月)が岡鬼太郎・木村荘八・水木京太、第3号(昭和10年3月)が池田大伍・渥美清太郎・鏑木清方、第4号(昭和11年1月)が池田大伍・守随賢治・三宅周太郎。

第1号の編集後記は、予科3年生の志野葉太郎こと田坂仁郎が書いており、

……ここに第一号を送る事が出来た。会員の原稿も、猶勉強の上、見て戴く事として、その微力を、索引作成に注ぐ事とした。我々と同じ熱情を持つて居られる諸兄に、少しでも資する所あれば、幸甚に思ふ。

という文言がある。《会員の原稿も、尚勉強の上、見て戴く事として》とあるのを見ると、いずれは学生による劇評や論稿を載せる意図はあったようであるが、『三田歌舞伎研究』ではその前段階の勉強に重点が置かれている。学生による記事は巻末の「演劇雑誌索引」と編集後記のみである。

以降の編集後記の文言を拾ってゆくと、第2号は《第一号の延長として歌舞伎本質追求の基礎工事を続ける事にした。》(「編集室」名義)、第3号は《鏑木先生(中略)池田、渥美両先生の玉稿は、合せて我々の研究の良き指導となるであらう。》(「編集室」名義)、そして、第4号は

 吾々は、現在の歌舞伎劇の状態にあきたらない気持から、何とかして、一つのまとまつた形での、処方箋を作り度いと思つてゐる。
 本誌の意図は、当然そこに集中されるのである。歌舞伎を八方から打診して、一つの方針を編み出すまで、吾々は努力を惜しむまい。(「戸板」名義)

というふうになっている。

『思い出す顔』に、慶應歌舞伎研究会について《本科に行ってからは、ぼくも退部してしまった。》と突き放すような回想を残しているにも関わらず、昭和11年(1936)1月の本科1年の冬に発行された慶應歌舞伎研究会の機関誌に熱い編集後記を寄せている戸板康二である。

戸板康二が予科3年生であった昭和9年(1934)10月、日本青年館において「福沢諭吉生誕百年記念・山上各会連盟主催」による「劇・音楽・映画の夕」が開催され、慶應歌舞伎研究会は『大序』と『車引』の脚本朗読を披露した。2年前の『対面』同様、岡鬼太郎の監修である。その脚本が早稲田大学演劇博物館の図書室に所蔵されており(請求記号:ロ5 11690)、それまで第2号まで刊行されていた『三田歌舞伎研究』の案内が載っている。ここに、

本誌の趣旨は、あらゆる角度から歌舞伎の本質を考察、把握して、確固たる基礎を築いた上で、新しい問題に進むつもりである。

とある。

戸板康二はのちに学生歌舞伎に対して再三にわたって苦言を呈したが、戸板康二在学時の慶應歌舞伎研究会においては、実演どころか劇評家気取りも不遜という空気が、『三田歌舞伎研究』が創刊された昭和9年(1934)以降に醸成されていたのだろうか。


『演芸画報』昭和9年(1934)8月号。表紙:小村雪岱《すがた》。同年5月号に「尾上菊五郎に寄す」募集の記事が出た(締切りは5月30日)。7月号に受賞者の名前が出て、受賞作は8月号に掲載された。

戸板康二は予科3年のときに、上記の「尾上菊五郎に寄す」に応募し優秀作に選ばれて、上掲の号に「歌舞伎を滅す勿れ」が掲載された。慶應歌舞伎研究会の仲間たちの反応はどのようなものだったのだろう。

戸板康二は翌年、『三田文学』昭和10年(1935)5月号で五代目菊五郎三十三回忌の追善興行の劇評で劇評家としてデビュウすることになるのだが、その推薦人は水木京太だった。

 慶応の予科のころ、「三田文学」で紅茶会という集まりを時折開いた。先輩につれられて麻布の竜土軒に行くと、水木京太さんがいて、雑誌に劇評を書かないかといわれた。
 階下のビリヤードで球を撞いていた編集長の和木清三郎氏に紹介してもらい、次の月から、毎号見ひらきの二頁に、ぼくの、今読むと文字通り若書きの、きまりの悪い原稿が。掲載されることになる。
 つまり、水木さんは、劇評家としてのぼくの原点に立って、はげましてくれた、同じ道の大先輩であった。(「水木京太」、『わが交遊記』三月書房・昭和55年8月)

この時期、紅茶会が麻布龍土軒で開催されているのは、昭和9年(1934)10月26日のみなので(『三田文学』昭和9年11月号「消息」)、戸板康二の龍土軒という記憶が正しいとすると、この日に水木京太に勧められたということになる。

また、同じ文章に、

 水木さんの勤めている丸善の別館へ時々遊びに行った。腰かけている椅子を指して、「内田魯庵がここにかけたんです」といわれた。
 すぐ近くに月山[がっさん]という汁粉屋があって、そこに連れていかれる。「月山をどう読むかと尋ねて、その人の国語能力をテストします」というのが癖だった。ぼくは、同じことを、三回聞かされた。

というくだりがある。当時の丸善界隈が彷彿とする。

紅野敏郎はその著書『「学鐙」を読む』(雄松堂出版・2009年1月)において、水木京太の『学鐙』の編集長としてのセンスを高く評価している。水木京太は演劇人あるいは実務家としては志半ばだったかもしれないけれども、水木の書斎人としての風合いは、若き戸板康二を大いに感化するものがあったに違いないと思う。

予科2年から3年に進学する春休み、すなわち、昭和9年(1934)の春、阪神間の地で、戸板康二は父の同業の知人である藤木秀吉の知遇を得て、その書斎に自由に出入りさせてもらうようになり、膨大な演劇書を読みふけることとなる。同時に、芝居と書物という共通の趣味を持つ同好の士として、世代を超えた交流をもった。『演芸画報』の論文に当選したことを藤木秀吉は我がことのように喜んだに違いない。

予科3年になった昭和9年から、戸板康二は1学年上の池田弥三郎と知り合うとともに、水木京太や藤木秀吉といった大人の人たちとの交流を深めるようになっていた。このあたりに、慶應歌舞伎研究会に対する《本科に行ってからは、ぼくも退部してしまった。》という回想の理由の一端があるのかもしれない。


『浅黄幕』復活号(昭和7年11月)に載った青年歌舞伎の劇評

昭和7年(1932)11月、のちに松竹宣伝課員となった内田得三の主導(と推測)により復刊された、慶應歌舞伎研究会の機関誌『浅黄幕』の中心は学生による劇評であった。

『浅黄幕』復活第1号の目次に「劇評」とあったページを開くと、「浅黄幕落柿[こけらおとし]草紙」と銘打ってある。この命名にも内田得三の好みが窺える気がする。昭和7年(1932)の歌舞伎座と新歌舞伎座の9月と10月の劇評である。劇評を寄稿した会員の氏名と所属を書くと、以下のようになる。

歌舞伎座(9月)
・田坂仁郎(志野葉太郎/経済予科2年)「有職鎌倉山」
・内田進康(内田得三/経済本科3年)「「金八」漫語」
・川口裕通(川口子太郎/経済本科2年)「雪暮夜入谷畦道」
・石井昇(特別会員)「初日のお染」
新歌舞伎座(9月)
・加藤僑利(法律予科1年)「大序より三段目まで」
・西岡鋭(文科予科1年)「四段目と道行」
・戸板康二(文科予科1年)「五段目、六段目」
・福田二也(経済予科1年)「七段目」
歌舞伎座(10月)
・河合平六(経済本科2年)「木挽町の地震加藤」
・鈴木治夫(青山学院)「黒塚」
・平松嘉兵衛(法律本科1年)「出陣絵巻」
・鈴木福五郎(法政大学)「東京の昔話」
新歌舞伎座(10月)
・菅沼富雄(経済本科2年)「春日局」
・渡邊耕一(経済本科3年)「「真如」を覗く」
・粂忠二(西園寺/経済予科2年)「桂川連理柵」
・椎橋壽夫(商業学校4年)「出陣絵巻に就て」

巻末の会員名簿によると、会長は小澤愛圀、顧問は小池隆一、特別会員は上沼道之助・富田龍男・石井昇の3名だった。名簿に載る現役生は全18名、このうち15名が寄稿し、石井昇と合わせて、計16篇。

9月の新宿新歌舞伎座の青年歌舞伎の劇評は予科1年生に機械的に割り振られているのが一目瞭然である。

新宿新歌舞伎座における青年歌舞伎の忠臣蔵は、昭和7年(1932)9月の二の替りで14日初日、大序から七段目までの上演。師直・由良助(我当)、お軽(児太郎)、薬師寺・伴内・定九郎・弥五郎(簑助)、顔世(ひとし)、直義・お才(鶴之助)、判官(もしほ)、桃井・石堂・不破・平右衛門(しうか)、勘平(家橘)といった配役であった。





『歌舞伎若人』第4号(昭和11年7月)、桜井悦三郎編「青年歌舞伎年代記(三)」に掲載の舞台写真。

戸板康二は五段目と六段目を担当している。

 五段目になつて先づ簑助の定九郎は吉右衛門の型を学んでゐるらしい。する事にそつはないが、年功の積んでゐない悲しさには、舞台の輪郭が小さく、何だか端敵風な役に見えた。併し之は簑助の罪ではない。
 家橘の勘平は六段目の方が未だしもよい。五段目では闇の中を歩く足取りがそれらしく見えないし、「こりや人」のセリフも栄えずしどろの引込みも巧味がなく、著しく不得要領な勘平である。六段目では例の「猟人の女房」のセリフや門口へ来てのステゼリフがまづい。この人は今少し捨台詞を勉強すべきだと思ふ。形では財布を見る時、二人侍を迎へる時の形がよくない。かうして見ると悪い事だらけだが、顔に憂ひがあつて、「畳に喰つき」以後の愁嘆場あたりは割合によかつた。手負ひになつてからの調子にも一層の研究が必要だ。兎に角この人の勘平は本役ではなかつた。
 児太郎のお軽は六段目ではいさゝか荷が重げに見えた。尚この場の児太郎はつくりのせいか、非常に福助に似てゐたやうに思ふ。
 村右衛門の判人は大いに派手に演つて六段目の前半を一人でさらつてゐたやうである。鶴之助のお才は柄はいゝが、セリフが現代語めいて場面と調和を欠いてゐた。
 しうかと簑助の二人侍は後者の方が神妙。しうかの不破は盛んに顔芝居をしてやゝうるさい感じがする。羽太蔵のおかやは見た目がなんとなく遣手婆見たいである。

200字原稿用紙に換算するとちょうど3枚が与えられた字数であったようだ。戸板康二16歳の眼は辛辣である。

何度も繰り返すが、劇評家・戸板康二の出発点は『三田文学』昭和10年(1935)5月号に掲載の「追善興行の歌舞伎座」であった。同年3月の五代目菊五郎三十三回忌追善興行を評した劇評である。

暁星小学校で七代目梅幸と同級だった戸板康二にとって、六代目菊五郎は父の世代だった。明治の団菊左を第一世代とすると、戸板康二が少年時代から慣れ親しんでいた六代目菊五郎、二代目左団次、初代吉右衞門は第二世代となる。戸板康二は第二世代の役者たちの全盛期に歌舞伎に夢中になった世代で、明治の名優についてはいわゆる「団菊爺い」の回想(自慢)を聞いて憧れるのみだった。戸板康二の劇評家デビュウが五代目菊五郎の「追善興行の歌舞伎座」であったことは、つくづく象徴的なことだったと思う。

と、劇評家としての正式なデビュウは昭和10年(1935)の『三田文学』だったけれども、慶應歌舞伎研究会に所属していたおかげで、また、入学が昭和7年(1932)だったおかげで、戸板康二の初の活字化された(と思われる)劇評が、慶應歌舞伎研究会の機関誌の第2次『浅黄幕』に載った青年歌舞伎の忠臣蔵の劇評となったという事実も、「戸板康二の形成」ということを思う上で、つくづく象徴的なことだったと思う。

青年歌舞伎は戸板康二と世代を同じくする、戦後昭和歌舞伎を担っていく世代の役者を中心とする興行だった。戸板康二は後年、青年歌舞伎について愛着のこもった回想を繰り返すこととなる。慶應歌舞伎研究会の機関誌『浅黄幕』復活第1号に掲載された劇評が、以後60年の長きにわたる劇評家生活の始まりを飾る(と思われる)劇評となったこと、その劇評が忠臣蔵の通しの劇評であったことは、戸板康二読者の一人として、含蓄あることだと思わずにはいられないのである。

戸板康二は後年、『思い出の劇場』の「新歌舞伎座」の項では、青年歌舞伎について以下のように回想をしている。初出は『演劇界』昭和55年(1980)7月号で、かっこ内の役者の表記は昭和55年当時のものである。

 昭和七年というと、慶応の予科に入った年であるが、その七月から、新歌舞伎座で松竹が青年歌舞伎の興行をはじめた。奨励劇という名称を宣伝に使っていたようである。
 名門の息子たちが、親や兄に指導されて、古典の大役を次々に手がけてゆく芝居が、以後しばらく、この劇場で行われる。ぼくには、それがまことに貴重な歌舞伎教室だった。
 この劇場は戦後も開場していた。新宿駅の甲州街道口を出て、東のほうにおりた左側に正面入口があり、楽屋口の前を北にゆくと、ムーラン・ルージュや武蔵野館に出あう、そういう位置にあった。
 青年歌舞伎は座頭格に我当(現仁左衛門)、立女形に松莚(八代目宗十郎)、書き出しの二枚目にしうか(十四代目勘弥)、若女形に児太郎(現歌右衛門)、ほかにもしほ(現勘三郎)、簑助(八代目三津五郎)、鶴之助(四代目富十郎)、ひとし(現我童)、脇役にふけの源十郎、腕達者の中三郎(舞踊家に転じた)、高麗五郎(現八百蔵)がいた。子役として、広三郎(現雀右衛門)が加わったり、時々扇雀(現鴈治郎)、田之助(先代)、染五郎(八代目幸四郎)、段四郎(先代)が一座もした。
 児太郎が数えの十六歳で、『娘道成寺』と『堀川』のお俊を演じた第一回の興行から、ほとんど欠かさずにかよった。木挽町で見る名優とちがい、楷書で教わった通り演じている若手の舞台だから、歌舞伎の演出つまり型や手順をおぼえるのには好適でもあった。
 我当でいうと、与次郎以降、『寺子屋』の松王、由良助、『吉田屋』『太十』『封印切』、政右衛門、盛綱、団七、『ちょいのせ』『炬燵』『熊谷陣屋』、仁木、『毛谷村』を、東劇の出開帳を別にして、わずか三年の間に演じてゆくわけだ。
 大勉強である。岡鬼太郎さんの「歌舞伎眼鏡」に当時の劇評がのっているが、新聞の都合で、昼夜二部の一部だけだったり、二の替りについてふれなかったりしているのが惜しい。
 ほかに、もしほが才能を発揮した。『寺子屋』の千代、『炬燵』のおさん、『毛谷村』のおそのなどが目に残っている。児太郎が福助になってから演じた『鏡山』の尾上、我当と訥升(松莚)による『助六』、いろいろ思い出されて来る。毎月十日すぎに発表される演目がたのしみであった。時には芝鶴が上置きで、『実録先代萩』を出し物にし、『丹下左膳』という夏芝居があり、我当が大河内伝次郎と別のタイプの左膳、芝鶴の櫛巻お藤、ちょび安を広太郎が演じた。そんな興行もあった。

青年歌舞伎に対してたいへん愛着のこもった回想を繰り広げているのであるが、歌舞伎研究会の『浅黄幕』の劇評については一切触れられていない。

昭和7年(1932)に慶應義塾の予科生となり、慶應歌舞伎研究会に入会し、「歌舞伎勉強」ないしは「劇評勉強」の日々を過ごすことになったであろう戸板康二であったが、その「歌舞伎勉強」ないしは「劇評勉強」と並行するようにして、松竹は若手俳優の一座による興行を始めたのだった。次回以降に詳述するが、新宿新歌舞伎座の青年歌舞伎に先立って、木挽町の歌舞伎座においても同年1月から3月にかけて本興行とは別の「若手修練歌舞伎」が試みられていた。

戸板康二は、新宿新歌舞伎座のち新宿第一劇場の青年歌舞伎はすべて一階席で見たという。

 松竹系では、昭和七年十一月に九代目団十郎の三十年祭の興行に、大幹部総出演という企画が成功してから、豪華版と称する顔ぞろいの芝居を年に三、四回は必ず行うようになり、団菊祭を恒例の行事にしたが、その月が九円である。しかし、大学を卒業して初任給七十円という時代の九円は、庶民にはぜいたくな出費だったろう。
 大学にはいって、小づかいで見る芝居は、三階席や一幕見が多かったが、歌舞伎座の三階は、梅席とか菊席という段階があった。六代目菊五郎が実力者だったので、音羽屋にちなんだ梅と菊だという説もあった。
 新宿第一劇場の青年歌舞伎は、いつも一階で見たが、ここは最高が二円五十銭だった。同じころ、新橋演舞場の前進座が、やはり一等が二円五十銭だった。
 ついでに書くが、新劇は、当時の一流劇団で一円だったと思う。
(週刊朝日編『続・値段の明治 大正 昭和風俗史』(朝日新聞社・昭和56年10月)、戸板康二「劇場観覧料」)

若き戸板康二は、その興行をつぶさに見物した。そして、それは戸板康二にとって《まことに貴重な歌舞伎教室》となった。

劇評家として、戦後昭和歌舞伎を見続けてゆくことになる戸板康二にとって、六代目中村歌右衛門、十七代目中村勘三郎、十三代目片岡仁左衛門、十四代目守田勘弥、八代目坂東三津五郎……といった役者を見るとき、青年歌舞伎の彼らの姿が脳裏をよぎったことだろう。彼らの歌舞伎役者としての円熟は戸板康二の劇評家としての歳月でもあった。

戸板康二の初めて活字化された劇評が、慶應歌舞伎研究会の機関誌『浅黄幕』復活第1号に載った、青年歌舞伎の第3回興行『仮名手本忠臣蔵』の劇評だったとすると、それが世に出たのは、昭和7年(1932)11月、歌舞伎座の九代目団十郎三十年祭の真っただ中だったということになる。そして、繰り返しになるが、『三田文学』昭和10年(1935)5月号において、戸板康二がデビュウを飾った劇評が対象とするのは五代目菊五郎の三十三回忌の追善興行だった。

 

『アサヒグラフ』昭和10年3月20日号より、同月歌舞伎座・五代目菊五郎三十三回忌追善興行のうち『水天宮利生深川』の舞台面。亀之助の妹娘・菊之助の姉娘・菊五郎の筆耕。清元は延寿太夫の唄に栄寿の三味線。

追善興行1か月目の3月の狂言立ては、『尾上鐘春曙』『小坂部』『音羽嶽暗争』『伽羅先代萩』『鈴ヶ森』『口上』『土蜘』『水天宮利生深川』『弁天娘女男白浪』というものだった。弱冠二十歳の戸板康二は、

この中で一番技巧的に秀れてゐるのが菊五郎のリアリズムに依る「水天宮利生深川」だといふ事も、甚だ愉快である。菊五郎は、最も溌剌と動く、床も清元をも一切超越して、幸兵衛の描写にその細緻なる技巧を尽してゐる。延寿太夫の咽喉も黙殺の憂目に遭つた。

と書いている。

『演芸画報』昭和10年4月号より、『水天宮利生深川』の姉娘・菊之助と妹娘・亀之助。この興行は、松本豊改め二代目尾上松緑、丑之助改め三代目尾上菊之助(のち七代目梅幸)、亀三郎改め七代目坂東薪水(のち十七代目羽左衛門)、伊三郎改め五代目尾上松助、の襲名興行でもあった。

東京山の手の芝居好きの子として育った戸板康二にとって、少年時代にもっとも印象に残った舞台のひとつは、大正14年(1925)1月の二長町市村座の菊吉合同興行であったことは確実だと思う。『一谷』陣門から陣屋、『三社祭』『四千両』、久保田万太郎言うところの「二長町といふ感じ」極まれりという狂言立てだった。それは、戸板康二の知らない、大正一桁の二長町市村座の絶頂期の残照だった。

戸板康二はこのとき満9歳、愛宕小学校に引き続き転校先の暁星小学校でも同級生だった丑之助を客席から見ていた。



大正14年(1925)1月市村座の『四千両小判梅葉』、上が菊五郎の富蔵と吉右衛門の藤岡藤十郎、下が友右衛門のうどんや六兵衛、鬼丸の富蔵女房おさよ、丑之助の娘おたみ。『芝居とキネマ』大正14年2月号より。

戸板康二が『三田文学』の劇評家となったのは、この十年後だった。そして、五代目菊五郎三十三回忌追善と同月、新宿第一劇場は青年歌舞伎の三周年記念興行だった。

 

『演芸画報』昭和10年4月号より、新宿第一劇場三月狂言・三周年記念御礼口上。上手より、もしほ、鶴之助、段四郎、福助、我当、勘弥、簑助、芦燕、福之丞、松莚。座頭格の我当(のち十三代目仁左衛門)が挨拶をしている。

 

 

 

*1:特に何の裏付けもなく「入学と同時に、歌舞伎研究会に入会した」と軽率に書いてしまったが、戸板康二自身、《慶応の予科にはいった時、二学期から歌舞伎研究会に入れてもらった。》と回想していた(『演劇界』昭和51年9月号「〈連載・ロビーの対話〉差出人大名一同」→『ロビーの対話』所収。)。(2023年11月16日追記)

*2:前掲「〈ロビーの対話〉差出人大名一同」によると、河合忠兵衛は川口子太郎と同じ週に没したという。(2023年11月16日追記)

*3:前掲「〈ロビーの対話〉差出人大名一同」によると、戸板康二は二学期に入会したとのことなので、夏休みの時点では入会していなかった。(2023年11月16日追記)