昭和7年3月の歌舞伎座。十六歳の戸板康二が入学試験のあとに見た六代目菊五郎と十五代目羽左衛門。

 

戸板康二は暁星中学校を経て、昭和7年4月に慶應義塾大学文学部に進学し、予科3年と本科3年、その後約半年間大学院に在籍し、昭和14年4月に明治製菓に入社した。つまり、昭和7年4月から昭和13年夏まで、6年余りの三田生活を送った。「戸板康二の形成」というようなことを考えるとしたら、6年余りの三田生活を前半、昭和13年夏に久保田万太郎に出会って以降の明治製菓宣伝部、女学校教師を経て昭和19年夏に日本演劇社に入社するまでの6年間を後半、というふうに分かつことができるかと思う。大正4年12月14日生まれの戸板康二は、昭和の年数に十を足した数が満年齢となる。戸板康二は敗戦の年に満三十歳となった。昭和戦前は「戸板康二の形成」の歳月であった。

 

とかなんとか、突然、ここで「戸板康二の形成」のはじまりを昭和7年と位置付けて、三田入学と同時に入会した慶應歌舞伎研究会のことを中心に、

  1. 昭和7年3月、慶應予科の受験を終えて、歌舞伎座へゆく
  2. 昭和7年4月、三田入学と同時に慶應歌舞伎研究会に入会する
  3. 歌舞伎研究会機関誌『浅黄幕』と新歌舞伎座の青年歌舞伎

というような項目で(予定)、昭和7年の戸板康二とその周辺について、これからしばらくだらだらと書き連ねてゆくのであった。以下は、その第1回目である。



昭和7年3月、慶應予科の受験を終えて、歌舞伎座へゆく。


昭和7年3月、満16歳の戸板康二は暁星中学校を卒業して、翌4月、慶應義塾大学文学部の予科1年生となった。当初は、麹町区富士見町の自宅から飯田橋駅へ歩いて、田町まで省線に乗って通学していたが*1、この年の夏、藤倉電線に勤める父山口三郎の関西転勤が決まり九段の家が畳まれて、一家は関西に仮住まいすることなった。戸板青年はしばらく洗足の祖父山口貴雄の家に寄宿するも、翌昭和8年に芝山内で一人暮らしを始めている*2。洗足に寄宿していた時期は目蒲電車で目黒に出て省線で通学していたと思われるが、昭和8年秋頃に下宿生活を始めたことで、生まれた町・芝に戻ってきた格好となった。芝での下宿生活は、昭和12年春、すなわち本科3年に進学する春休みに仙石山アパート(芝区神谷町十八番地)に越すまでまで続いた。ちなみに、晩年に執筆した『あの人この人 昭和人物誌』(文藝春秋、1993年7月10日)の「川尻清潭のナイトキャップ」に、 《私が慶応に通学していた頃、川尻さんは私のいた、現在の東京タワーのまん前の金地院の近くの家と背中合せのところにいたというのを後年知った。「演芸画報」の司馬宏遠(時には江猿) の匿名は、つまり芝公園をもじった川尻さんの執筆だったわけである。》という一節がある。清潭翁は昭和10年12月に明舟町に越したようである(永井荷風『断腸亭日乗』の昭和10年12月28日に「川尻君数日前芝公園の家を去り江戸見坂明舟町に移りしと云ふ。」。)。

 



戸板康二の通っていた当時の三田風景として、『ホーム・ライフ』一周年増大号(昭和11年8月1日)より「慶應義塾大学風景 三田山上から東京都(芝浦)を望む、左手の建物は図書館」。


慶應文科を受験したときのことについては、『回想の戦中戦後』(青蛙房、昭和54年6月25日)の「かよった学校」で、

四年を終了した時に、慶応の文科を受験した。フランス語の問題で、封建時代という意味がなかなかわからずに弱ったが、幸いに入学できた。試験の日の夜、歌舞伎座に行って、十五代目羽左衛門、六代目菊五郎、五代目福助という一座の「加賀鳶」の通しを見た。「肉弾三勇士」の芝居が、さし幕になっていた。

というふうに、例のごとくにさらりと回想している。昭和7年の歌舞伎座において『加賀鳶』と『肉弾三勇士』の上演のあった月は3月、当時の入学試験は3月に行われていたらしい。暁星に学んだ戸板康二は外国語はフランス語で受験したのであった。

 



『昭和六年版 慶應義塾案内』の広告、丸善の広報誌『学鐙』第35巻第2号(昭和6年2月20日)より。戸板康二の受験の前年の広告であるが、彼もこういうのを入手して準備をしたのかどうかは不明。

 



昭和7年の慶應義塾学生募集広告、「三田新聞」第276号(昭和7年1月28日)掲載。大学予科の願書受付は1月25日から2月29日までで、文学部の第1次試験は3月15日、16日の両日である。慶應義塾の機関誌『三田評論』同年2月号に掲載の「昭和七年度慶應義塾大学予科第一学年学生募集」によると、第1次試験に先立ってまず身体検査があり(場所は信濃町の慶應義塾大学病院)、第1次試験の試験科目は漢文、英語(英文和訳・和文英訳)、数学(平面幾何・代数)の3科目で、試験問題は全学部共通、文学部に限り英語以外にドイツ語かフランス語の選択が可能だった。募集人員は文学部80名、経済学部720名、法学部240名、医学部120名となっており、経済学部が圧倒的多数、最も定員が少なかったのが文学部であった。

 
そして、3月24日付「三田新聞」で第1次試験合格者、すなわち「第二次受験資格者」の受験番号が掲載されている(同日朝に塾監局裏の掲示板に発表)。戸板康二の受験した文学部の志願者数は計117人であり、1次試験の合格者数を数えてみるとちょうど100人。第2次試験は作文と口頭試問、各学部とも作文は同月26日午前10時開始、文学部の口頭試問は30日に実施となっている。よって、入学試験の終了は厳密には3月30日ということになるのだけれども、昭和7年3月の歌舞伎座興行の初日は6日、千秋楽は28日だったから、大学入学を控えた戸板康二が歌舞伎座の三月興行を見物したのは、1次試験の終了した3月16日の夜、ということなろうか*3

 



新聞広告《急告 初日変更 六日初日 木挽町歌舞伎座》、昭和7年3月1日付「都新聞」より。戸板青年が慶應義塾を受験した昭和7年3月の歌舞伎座は、菊五郎が大正11年以来二度目の耳下腺炎に患ったことにより、初日がのびて、6日が初日となった。

 


新聞広告「病気全快(六日初日)出勤御挨拶 尾上菊五郎」、昭和7年3月5日付「都新聞」より。初日前日には、各紙に上掲の広告が掲載。通し狂言『盲長屋梅加賀鳶』、『色彩間苅豆』、『肉弾三勇士』という狂言立て。

 

 


昭和7年3月歌舞伎座『盲長屋梅加賀鳶』。尾上菊五郎の按摩竹垣道玄・市村羽左衛門の加賀鳶梅吉、序幕「御茶の水土手際の場」、『演藝画報』昭和7年4月号口絵写真。同号掲載の「加賀鳶漫談(加賀鳶考察録)」における菊五郎の談話「道玄の年」は、

どうも道玄は祟つてね。この前の明治座の時も病気をしてね、波野君に三日代つてもらつたんだが、今度も病気で…お庇で大分よくなりましたが、まだ酒を止められてゐる次第ですよ。

というふうに始まっている(「この前の明治座」は昭和4年1月)。梅吉は羽左衛門がつとめ、菊五郎は松蔵と道玄、五郎次の三役、お兼は多賀之丞、松蔵女房おさくは源之助であった。『加賀鳶』は黙阿弥が五代目菊五郎のために明治18年11月初演の『四千両』に続いてこしらえた作で、明治19年3月千歳座初演。菊五郎ともに掲載の羽左衛門の談話記事「眼の潰れた原因」では、

加賀鳶の書卸しかね。わたしが十三の時サ出てゐましたとも、竹松でね。今度右近がやつてゐるでせう。あの小按摩寒竹つてえのをやつてゐたんだ。何しろこの書卸しの時に出てゐた人はといふと、みんな死んでしまつて残つてゐるのは永田町の梅幸[あにき]と、わたしと菊三郎だけなんだから心細いね。梅幸[あにき]はおあさをやつてゐましたよ。菊三郎は、今度福之丞のやつてゐる茶屋女と、竹三郎のやつてゐる松蔵の妹をやつてゐたんで、若い盛りだつたね。書卸しは大入でしたよ。四千両に引つづいて出したんだが、死神が当つてこれも大入サ……

というふうに初演時の思い出が語られている。そして、明治18年8月に生まれた六代目菊五郎は、七代目三津五郎襲名の明治39年4月歌舞伎座の『加賀鳶』を回想して、

明治三十何年だつたか、橋尾さんが道玄で、市村の兄貴が梅吉をした時、わたしは子守のお民をやつてゐて、松助の五郎次をよく見て置きましたから、今度も松助の真似をやつてゐますよ。  

と初役の五郎次について語っている。

 

明治19年3月初演時でも松助はお兼とともに五郎次を勤めていた。道玄は生涯をとおしての菊五郎の屈指の当たり役であり、昭和24年4月東京劇場、菊五郎の最後の舞台も道玄であった。一方、大正13年7月の市村座所演以降、菊五郎最後の舞台までずっと付き添っていた多賀之丞のお兼も、後年戸板康二が「絶品・多賀之丞のお兼」(『演劇界』昭和45年12月号→『戸板康二劇評集』)と評するような、生涯の傑作となってゆく。その昭和45年11月歌舞伎座の劇評で、戸板康二は《梅吉が雷のために吊った蚊帳の過失で女房を離別する筋も、黙阿弥らしいきめのこまかい段どりがあって、よく書けている。ぼくは昭和七年の歌舞伎座の歌舞伎座の通しと、戦後の菊五郎劇団に海老蔵参加の時の通しと二度見たが、二度とも堪能した。》というふうに、「道玄のほうの筋とべつに勢揃いだけを見せる、いつもの幕数」とは違う「加賀鳶の通し」を見た昭和7年3月の歌舞伎座のことをちらりと回想しているのであった(ちなみに「戦後の菊五郎劇団に海老蔵参加の時の通し」は昭和27年3月明治座。)。

 


昭和7年3月歌舞伎座『盲長屋梅加賀鳶』。三幕目「竹町質見世の場」、『演藝画報』昭和7年4月号口絵写真。


さて、3月15日付「都新聞」に載っている伊原青々園の劇評は、

 「盲長屋」の通しといふのが鳥渡気を引く、これには加賀鳶のくだりと道玄のくだりと二つの筋が織込まれて、片つ方だけを演ずるのが普通になつて居るからである、今度は加賀鳶が羽左衛門、道玄が菊五郎で、多少の抜差しはあるが殆ど原作そのまゝを味はふ事が出来る
 だが、原作は無人芝居の為に書かれて先代菊五郎が加賀鳶と道玄の二役を兼る所にヤマがあつた、これを二人で別々に分担する事になると、そのヤマが無くなつて興味が薄い勘定になる
 羽左衛門の梅吉は無事な嵌り役といふだけで、特別にいふ所がない、菊五郎の道玄はゆすり場で始めはヤンワリと出て追ひ/\言葉のゾンザイに荒くなる所が自然でよい、五郎次といふ安敵に廻つたは好奇心をそゝるが、役者がよ過ぎて安つぽさが足りなかつた、死神の場へ花道からの出は淋みがあつて結構である、その死神は羽左衛門で煙のやうに薄ぼんやりとした姿はうまく出来たが、後に下手の柵に消える具合が中くらゐだつた……

となっている。大学受験(一次試験)を終えた戸板青年が歌舞伎座を見物したのが先に記した3月16日だったとしたら、その前日の新聞に載った劇評ということになる。これに先立つ、同月11日付「東京日日新聞」の三宅周太郎の劇評は、

 今度は松助の持役だつた五郎次を菊五郎がやる。やや好奇心をそそるが、菊五郎だと巧くはあるが役者はよすぎて、性悪の小人らしくない。が、松蔵や道玄と代へて見せるためか、目の上に疵のあとをつけた顔のこしらへなど細心な注意はわかる。及び二幕目「梅吉内の場」で、梅吉におすがを中傷する台詞や何かは勿論急所を射てゐる。ただそれが内輪すぎ、上品すぎるのが損だ。もつと安手に突つ込んでやればいいものになる。
 結局、三幕目の「質見世」が今度もまた第一の見ものになつた。今更でないが菊五郎のこの道玄はうまい。底に無気味な感じを持たせつつ、ぬうつとした愛嬌のある悪党ぶりが堂に入つてゐる。梅吉に(原作では松蔵)清書と言はれてキセルを指から離す所、「お茶の水」のせりふでそれを落す所、「質屋の書つけ」といはれてびつくりする所、最後に梅吉の捌きを「流石は」と感心する所、その表情、顔、面白い。もう一度いふが菊五郎のこの四つの顔、顔、顔、顔。

云々と、いつもながらに実感の湧く書きぶりが後世の読者にとっては大変ありがたい。菊五郎のこの四つの顔、顔、顔、顔…。はるか後年の昭和45年、十七代目勘三郎の道玄を《ほとんど不安はないが、内のある個所に、もっと充実させてもいいところがある。六代目菊五郎はお朝をおどかす時に、薪であちこちを音立ててたたくことが、おかしみでなく、一種の凄さになっていた。髪結新三や筆屋幸兵衛で六代目に肉迫、部分的には六代目にない感覚を示した勘三郎にもうひと奮発願いたい。》というふうに評しているとき、戸板康二の脳裏には、「菊五郎のこの四つの顔、顔、顔、顔」がよぎっていたことであろうと勝手に思って、一人で勝手にしみじみしてしまうのであった。

 

 


昭和7年3月歌舞伎座・中狂言『かさね』、羽左衛門の与右衛門・菊五郎の腰元かさね。『演藝画報』昭和7年4月号口絵より。同号の今谷久平(渥美清太郎)「歌舞伎座の『累』」によると、装置は小村雪岱による「菊五郎説に基づく黒バック」、衣裳は「矢絣に模様のある着附け」で「国貞か何かの錦絵から取った」、羽左衛門は鼠地のような袷。その後昭和9年10月歌舞伎座での『かさね』では、羽左衛門は紫紺地の衣裳で、菊五郎は「銀鼠の白ぼかしに夏紅葉に水車小屋の模様、帯は白の金つゞれといふ着附」であったという(『十五世市村羽左衛門舞台写真集』舞台すがた社、昭和26年7月5日)。


前出の「都新聞」の伊原青々園の劇評では、

 「累」の浄瑠璃で、羽左衛門の与右衛門に菊五郎の累、両花道でなく一所に本花道から出て、累が例の大袱紗をかぶらない代りに、口説のくだりから後に男の刀をそれで扱ふといふやうにノべつに利用して居た、例の土手から転げ落ちなどせず、幕ぎれに土手の柳を離れて、土橋の上に立つたゞけは俗悪でなくてよい、また何でもない事だが薄どろを打つて髑髏が流れて来る前に累がゾツとする身振をしたのが大層凄みを助けた。
 後ろの書割をよして黒幕にしその配合から与右衛門が鼠地の着付になつたも眼先が変る、加賀鳶だけで物足りなく思つた評者は此れを見て満足した、山台の延寿太夫も先月と違つた熱演で充分に堪能させられた。

というふうに書かれており、昭和4年1月帝劇評で岡鬼太郎が「羽左衛門の好いところばかりを握り固めたやうなもの」(『歌舞伎と文楽』三田文學出版部・昭和18年5月1日)と書いたような羽左衛門屈指の当り役の与右衛門とともに、菊五郎も存分に巧さを発揮し観客を魅了していたことが窺える。

 

 


昭和7年3月歌舞伎座の『かさね』、『映画と演藝』昭和7年4月号より。


『演藝画報』昭和7年4月号の今谷久平(渥美清太郎の筆名)「歌舞伎座の『累』」でも、

菊五郎の累は、原作をよく呑み込んでゐるだけに、この狂言の累としては全く完全な演出であると思ふ。肥つてゐる点はどうにも仕様はないが、踊つてゐる間に、そんな欠点も隠れてしまふ。いきなり出て来て「モシ」と袖を捕へるなぞが、既に累になり切つてゐる証拠である。クドキの間の型は先づ平凡の方だが、不具になつてからのクドキは非常にすぐれてゐる。鏡を見る件も、くどくなくつていゝ。最初は三度鬘をとりかへたが、今度は二度らしい。幕切れも柳につかまるより、この方が変つてゐて結構と思ふ、羽左衛門の与右衛門は、理窟を云へば少し若過ぎるが、この一幕ではそれを咎る理由もない。何しろ天下一品だ。浪人者の色悪、姿だけでも真似手はなし。菊五郎の累も、この与右衛門あつて完全になり得たと思ふ。

と菊五郎、羽左衛門ともに大絶讃、書き写しているだけでうっとり。六代目菊五郎のかさねは大正14年7月市村座のときの南北『法懸松成田利剣』通し上演の折が初役で(与右衛門は勘弥)、羽左衛門とのコンビは昭和7年3月が初めてであったようである。この2年前の昭和5年4月の東劇のこけら落としで羽左衛門と梅幸のコンビで『かさね』が上演されたときは、菊五郎はごちそうで捕手に出てとんぼを切ったのだった。『かさね』は大正9年12月歌舞伎座で十五代目羽左衛門・六代目梅幸・五代目延寿太夫の三幅対で復活されたあと、六代目菊五郎が新解釈で上演、以後の『かさね』には二通りの演出が生じ、これが戦後昭和歌舞伎、梅幸型でやる六代目歌右衛門と菊五郎型である十七代目勘三郎・七代目梅幸とに引き継がれて、『かさね』は綿々と上演され続けて、21世紀の現在に至っているのであった。

 



「菊五郎のかさね 六世梅幸が得意にしたが菊五郎には新解釈の加わった別の味があった。」、『アルスグラフ2 歌舞伎 歌舞伎鑑賞のための入門』(昭和27年1月20日)に掲載の写真。

 


さて、昭和7年という年は年明け早々、1月28日に始まった第一次上海事変により、戦意高揚の気分が醸成され、各種商品も満洲ブームに大いに便乗していたところで、2月22日の3人の兵士が敵陣に突入して自爆した事件が「肉弾三勇士」もしくは「爆弾三勇士」と呼ばれて、美談にしたてられて、世は「三勇士」で沸き上がり、映画ないし演芸も便乗し、昭和7年3月の劇場は「三勇士」で席巻されていた。関係ないが、藤沢清造が芝公園で凍死体で発見されたのは同年1月29日の早朝のことである。

 



昭和7年4月22日付「東京朝日新聞」朝刊に掲載のキリンビールの広告。こういった三人の兵士が突撃している図柄が、いわゆる「時代のアイコン」と化していた。荷風が小名木川神社裏手での目撃談として「児童群集しあたりの鉄条鋼[網]を破りて戦争の遊びをなし居れし。上海戦争三勇士の真似事なり」と『断腸亭日乗』に記録したのは、この広告の三日後の4月25日のこと。ついでに書くと、昭和9年の春、すなわち予科3年に進学前、その書斎に戸板康二を招待した藤木秀吉は、三勇士にまつわるあらゆる新聞や雑誌の記事、書籍、広告、商品を蒐集していた熱心な「三勇士」コレクターでもあった。この広告の切り抜きも藤木氏のスクラップブックに貼られていたことだろう*4

 
金森和子編『歌舞伎座百年史 本文篇上巻』(松竹株式会社・株式会社歌舞伎座、1993年7月1日)によると、歌舞伎座の『肉弾三勇士』は菊五郎の発案で取り上げられ、初日前の3月4日には青山斎場で開催の爆弾三勇士追悼会に、上演関係者一同が出席。また、作者の松居松翁と装置の田中良が稽古中に喧嘩をして、菊五郎が田中良に加勢したという一幕があったと伝えられている*5

 



昭和7年3月8日付「都新聞」の記事「歌舞伎座に陳列された三勇士の写真と軍服」。陸軍省の好意で、三勇士が生前に着用した軍服その他を原隊より取り寄せて、陸軍省人事局の丹羽玄少佐が持参貸与し、3月興行二日目の3月7日より陳列された。

 



『演藝画報』昭和7年4月号口絵写真より、各座の勇士劇。

 



各座の千秋楽近く、「都新聞」昭和7年3月24日付の遊覧案内。演舞場の宝塚少女歌劇以外は「三勇士」ものを上演しているさまが一望できる。浅草公園オペラ館のエノケンのピエル・ブリヤントでは大町龍夫作『噫珍弾三勇士』、カジノ・フォーリーでは山田寿夫作『爆笑三勇士』なる一幕が。次月の4月の四ツ橋文楽座では『三勇士名誉肉弾』が上演されており、翌5月に東劇に巡演している*6

 



ついでに、『映画と演藝』昭和7年4月号「三勇士映画」より、この3月に封切られた6本の「三勇士映画」のうちの1本、小林正原案脚色・木藤茂監督の日活映画『壮烈 爆弾三勇士』、右から城木晃の北川一等兵、島津元の江下一等兵、宇留木浩の作江一等兵。島津元は佐分利信の松竹入社前の旧芸名。江下一等兵は歌舞伎座では菊五郎、明治座では花柳章太郎、日活映画では佐分利信なのだった。

 

 

という次第で、「三勇士」に席巻されていた昭和7年3月に慶應義塾予科文科の入学試験を順調に通過して、戸板康二の6年半の三田生活がはじまったのであった。戸板康二はのちに『六代目菊五郎』(演劇出版社、昭和31年4月10日)に、《僕の記憶で、彼の多方面にわたる才能の千変万化を特に感じたのは、昭和五年という年だ。》と書いた。渥美清太郎は『芝居五十年』(時事通信社、昭和31年12月20日)に、

菊五郎のために建てられた東京劇場から、昭和六年ごろ出て、歌舞伎座へ移った。劇場だけでいえば昇格したわけだが、菊五郎にとっては非常にマイナスな結果になった。東劇では事実上、座頭の地位に座っていたから、狂言もおもうように選択ができた。したがって新作も多く演れたので、「盲目の弟」「くら闇の丑松」「一本刀土俵入」「江戸から東京へ」「上州土産百両首」「金子市之丞」「盗人と親」「阿難と呪術師の娘」「本尊」などは、みなここから生まれたのだし、古典にしても「千本桜」の知盛、「鬼一法眼」の大蔵卿なども、ここなればこそ初役で決行されたのだ。ところが歌舞伎座へ来てみると、歌右衛門、羽左衛門という先輩がいるから、どこがどこまで自分の勝手というわけにもゆかない。多少の遠慮はあるし、松竹としては歌舞伎座の不入りが最も痛手なのだから、菊五郎の出し物にも危険な試みなどはさせず、きわめ附きの狂言だけならべて客を引く。満州の空気が怪しいため、客足にも影響してきたので、大事ばっかり取りたがる。菊五郎にとっては、けいこもろくにしないですむものばかりだから楽は楽だ。その楽に馴れてしまって新作への努力などは忘れ、同時に役を投げることも始まった。いやだと思う狂言でも、頼まれれば引受けないわけにはゆかなかったからだ。一日のうちに「勧進帳」と「道成寺」を兼ねたこともあった。投げるつもりなら、菊五郎にとって、この兼帯も平気だったのである。

というふうに1930年代の菊五郎について綴っている*7。昭和5年5月東劇の『盲目の弟』については、後年戸板康二が『思い出の劇場』の「東京劇場」の項で、

菊五郎と勘弥の共演した、山本有三の『盲目の弟』を、東劇で見た。いい芝居だった。ふでぶてしい道玄や新三のうまい六代目が兄の役で、気の弱い、ひたすら誠実で、微塵もいきなところのない人間を、みごとに演じていたのが、忘れられない。同じ月、玉手御前で艶然とした女に扮した同じ俳優が、つやを消しきっている、うまさがあった。

と書いているのが、それこそ忘れられない。一方で、昭和54年の大病の直後のエッセイ「飴湯」(『悲劇喜劇』昭和54年12月号→『思い出の劇場』)で、《ずっと見て来た芝居を思い出して、現実にはあり得ないが、いまもう一度見せてもらえるなら何をリクエストするかというふうに考えた揚句、日本のものでは六代目菊五郎の(最高条件の)『暗闇の丑松』》というふうに書いている戸板康二である*8

 



その『暗闇の丑松』の初演は俳優学校の第1回公演であり、この公演で『鏡獅子』をつとめた昭和9年6月のことを『思い出の劇場』で《渾身の演技を堪能させた。心身ともに、この名優が頂点に達していた》と書いている一方で、菊五郎の道成寺について、

 菊五郎は『六歌仙』では業平がむずかしく、『道成寺』では、羯鼓の扱いがむずかしいと語っていた。山づくしで、羯鼓の撥を持った両手を交互にのばし、独特の表情で、舞台の上を動いている菊五郎が、今でも目の前に、すぐ浮かぶ。
 見ている時、こういうおどりを見たという眼福をのちのちまで誇ることができると思いながら、いつも見ていた。
 ぼくが見た菊五郎の『道成寺』で、いちばんよかったのは、昭和六年六月の歌舞伎座の時ではなかったかと思う。技術の円熟と同時に、菊五郎が歌舞伎界に君臨しようという時期であったために、舞台に一種の威容が加わっていた。可憐な白拍子を表現する『娘道成寺』という本質を離れて、これはいうのである。

と書いている戸板康二である(『演劇界』昭和46年3月号「特集・私の見た『道成寺」、戸板康二「菊五郎の気品」)。また、慶應歌舞伎研究会では戸板の1年先輩にあたる志野葉太郎は「歌舞伎黄金時代の醍醐味 菊吉全盛時代」(『演劇界増刊 昭和の歌舞伎界』(第47巻第6号・1989年5月31日)に

六代目の歌舞伎座への出演が多くなったのは昭和七年頃、その実力と抜群の人気から歌舞伎界への第一人者となったのが九年頃、それ以前の六年頃までは東劇、新橋演舞場、明治座等への出演が多かったが、同時に最も意欲的な舞台をみせたのもその時期である。

と書いている。そんな1930年代の全盛期の菊五郎を見ている歳月が、冒頭に記したような「戸板康二の形成」の中心にあったといってよかろう。


松竹が東京のすべての劇場を傘下におさめていた1930年代の歌舞伎。羽左衛門と菊五郎の共演が増えていった時期である。羽左衛門と菊五郎の盤石の当たり役と時局劇という1930年代的なあまりに1930年代的な狂言立てを目の当たりにしたあとで、翌4月に三田に入学した戸板康二はすぐさま歌舞伎研究会に入会し、劇評家の話を直接聴く機会を得たり、機関紙に短い劇評を寄稿したりもして、批評家の視点のようなものを彼なりに学んでいくこととなる。そんな「戸板康二の形成」の日々のなかで、若き戸板康二の眼差しの向こうに屹立していたの全盛期の菊五郎だった。

 

などと、つい菊五郎のことばかり強調してしまいたくなるが、戸板康二は「二人のスター」(『オール読物』昭和45年4月→『夜ふけのカルタ』)で、《ぼくは、六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門、二代目市川左団次の舞台を、それぞれなつかしく思うが、ほんとうの意味で、歌舞伎の陶酔境に誘われたのは、この羽左衛門である。》とも書いていて、この感覚もなんとなくよくわかるような気がする。とにかくも、菊五郎・吉右衛門・左団次が鼎立し、理屈抜きに陶酔するスターとして羽左衛門がいる1930年代歌舞伎のさなか、戸板康二は昭和10年5月号の『三田文學』で劇評家として世に出て、以後六十年の劇評家人生を送ることとなる。昭和7年4月に始まる慶應歌舞伎研究会での歳月は、十代後半の戸板康二にとってはなによりも「劇評家」勉強の歳月だったのだと思う……ということを次回以降に書き連ねていこうと思う。

 

 


大正15年1月19日撮影の歌舞伎座の舞台写真、三井高遂写真集『歌舞伎名優時代』(二玄社、昭和63年5月31日)より。『神明恵和合取組』の「浜松町辰五郎内の場」。め組辰五郎(市村羽左衛門)・辰五郎女房お仲(市川松蔦)・同一子又八(録丸)。


三宅周太郎『俳優対談記』(東宝書店、昭和17年5月10日)の巻頭をかざる「市村羽左衛門の巻」で、三宅周太郎が「正月に貴方を歌舞伎座で見ないと、新年の気がしない。」と言っているが、これはきっと、十五代目羽左衛門の舞台とともに生きていた人びとにとって、共通の感慨だったはず。大正末期の子供時分から芝居を見続けてきた戸板康二も、たとえば「歌舞伎座百年の俳優」(『演劇界』昭和63年1月号→『名優のごちそう』に「歌舞伎座百年の役者たち」として収録)で、《羽左衛門が実質的には、歌右衛門のいる頃から座長格で、一、二回の例外はあるが、毎年春芝居に必ず出演していた。正月の興行で見た『石切』、『め組の喧嘩』。何ともいえない春のめでたさを思わせた》と書いているのだった。戸板康二にとって、春芝居の羽左衛門を認識させた最初の興行は、大正15年1月歌舞伎座の『め組の喧嘩』だったと思われる。

 



昭和7年1月歌舞伎座の『名橘誉石切』、『演芸画法』昭和7年1月号口絵より。中村福助の娘梢・市村羽左衛門の梶原平三景時・守田勘弥の六郎太夫。


戸板康二が三田に入学した昭和7年のお正月の歌舞伎座では、羽左衛門は代表的な当たり役・石切梶原に出演していた。「剣も剣」「切り手も切り手」とさぞかし、お正月気分が横溢していたことだろう。羽左衛門もさることながら、勘弥について《死ぬ年の一月、『石切』の六郎太夫が、まことにいいものだった。》と、後年戸板康二は回想している(「歌舞伎座百年の俳優」)。昭和7年は6月に十三代目守田勘弥が、8月に伊井蓉峰が死んだ年でもあった。

 

 


十五代目市村羽左衛門のポートレイト(熊谷辰夫撮影)、『日本写真年鑑 昭和十三年版』(朝日新聞社、昭和13年5月1日)に掲載の写真。

 

 

*1:『新東京百景』(講談社、昭和53年4月10日)所収のエッセイ「新東京百景」に、《当時のぼくは、麹町冨士見町からよそに行く時に、省線電車(いまの国電)に飯田橋駅から乗って、またそこまで帰って来る場合が多かった。中学の暁星は、家から徒歩で十分たらずの所にあったので、乗物には関係ない。昭和七年四月に、慶応にはいると、定期を買って、飯田橋と田町のあいだを往復した。そして、乗り換えたのは、神田駅ではなく、いつもこの東京駅であった。》。

*2:『「ちょっといい話」で綴る戸板康二伝』(私家版、1995年1月23日)所収、林えり子「追悼に代えて――小評伝」で翻刻されている戸板自身による「年譜・仮稿」に、下宿生活を始めた経緯ととして、昭和7年の項に《同年秋、父の妹、原島達子叔母が娘をつれて、祖父の家に来た。叔父の進がアメリカへ行ったためである。従妹の黎子がいたずら盛りのため、同居に耐えずして下宿することに決める。上京してきた父と芝麻布を物色する。六本木の竹皮屋アパートというのに入った。ところが部屋の真下にレコード屋があり、当時流行の「東京音頭」を一日中かけているために、これまた耐えられず、そこを出ることにする。結局、芝公園内の震災当時にいた金地院に近い、芝区栄町十八番永島良太郎の家、二階六畳に下宿することになった。》とある。東京音頭の爆発的なヒットは翌昭和8年のことであるので、下宿生活を始めたのは昭和8年と考えるのが妥当と思う。

*3:前掲の「林えり子「追悼に代えて――小評伝」にて翻刻されている「年譜・仮稿」では、《慶應義塾文学部予科の試験を受け、合格。試験の前の日に歌舞伎座を観た。》というふうに記されていて、『思い出の劇場』(青蛙房・昭和56年11月20日)所収「歌舞伎座」では《慶応受験の翌日に見た。》、「十五代目羽左衛門・再論」(『歌舞伎』第4巻第4号・昭和47年4月1日発行→『歌舞伎この百年』)では《慶応の予科の試験を受けた日に見に行った。》とある。前日・試験の当日・翌日の三説入り混じっているが、とりあえずここでは、あいだをとって「その日の夜」、すなわち3月16日に試験を終えてまっさきに歌舞伎座に駆けつけたということにして、話を進める。気がかりな入学試験を終えた解放感とともに、取るものも取り敢えず歌舞伎座に行ったと考えたい。

*4:一周忌に際して、戸板康二が編集した『武蔵屋本考その他 藤木秀吉君遺稿』(昭和15年4月28日発行)に「肉弾三勇士」が章立てされており、6編の文章が収録。1930年代の「三勇士」ブームの好資料になっている。藤木秀吉の住む関西での三勇士の第一報は2月24日朝刊。藤木氏曰く、《新聞記事は新しいと云ふことが生命であるから、如何に大きく取扱はれた事件でも、一度時が過ぎて了へば忘れたやうに捨てゝ顧られぬのが常である。然るに三勇士関係の記事は、二月が過ぎて三月に入り、三月が過ぎて四月となり、五月となつても滾々として尽きず、これはあとの事であるが次第に稀薄にはなつても、年を越えて昭和八年になつても、叙勲、一週間前後、臨時招魂祭、銅像、記念碑の建設など猶続いてゐる有様である。この記事の分量と新聞学の原則を破つた記事の永続性とは、真に未曾有と云ふべき》云々…。三勇士ブームについての実感の湧く藤木さんの書きぶりとあいまって、読み物として結構面白い。

*5:渥美清太郎『芝居五十年』(時事通信社、昭和31年12月20日)に、《昭和七年、満州事変劇の「肉弾三勇士」を上演したときなどは、舞台げいこの日、菊五郎と田中良を相手に喧嘩が始まった。「もう今後、あたなの脚本や演出では舞台に立ちません」「わたしも舞台装置はしません」「結構です」というような会話で睨み合いのまま幕になったときなど、頭取はオドオドしていた。松居の舞台げいこというと、たいていなにか事件がおこるので、楽屋取締りの木村錦花などは、いち早く姿をかくしたものだ。》。

*6:文楽版「肉弾三勇士」の『三勇士名誉肉弾』は歌舞伎学会誌『歌舞伎 研究と批評』第24号(1999年12月20日)に翻刻が掲載。児玉竜一氏の解題に、《文楽座の「三勇士名誉肉弾」は、この松居松翁作を食満南北が脚色して浄瑠璃に書き改めたものである。松翁作では、出立・爆破・追悼式の三場に分け、歌舞伎座では三勇士を演じた菊五郎・羽左衛門・彦三郎が追悼式でそれぞれ二役の上官を演じることになっているが、この構成を改めて、追悼式を簡潔にしている。》。

*7:ここで挙がっている菊五郎初演の新作を年代順に並べると、山本有三『盲目の弟』(昭和5年5月東劇)、長谷川伸『一本刀土俵入』(昭和6年7月東劇)、松居松翁『江戸から東京』(昭和6年10月東劇)、山本有三『本尊』(昭和7年2月東劇)、川村花菱『上州土産百両首』(昭和8年9月東劇)、長谷川伸『暗闇の丑松』(昭和9年6月東劇・日本俳優学校劇団第1回公演)、長谷川伸『盗人と親』(昭和9年9月東劇)、長谷川伸『金子市之丞』・岡本かの子『阿難と呪術師の娘』(昭和9年12月東劇・俳優学校公演)となる(『阿難と呪術師の娘』には菊五郎は出演していない)。昭和7年6月初演の長谷川伸『刺青奇偶』、昭和10年9月初演の宇野信夫作『巷談宵宮雨』のように歌舞伎座初演の新作もある。渥美清太郎が東劇なればこそ決行されたという知盛は昭和6年7月、大蔵卿は昭和6年7月。『勧進帳』の弁慶と『娘道成寺』を同興行でつとめたのは昭和9年3月歌舞伎座。

*8:『演劇界』昭和24年第8号(昭和24年8月1日)の「六代目菊五郎特集」所載、「菊五郎の一生 昭和時代」では、《作者が俳優によつて教へられ、脚本をさへ改訂したといふ「坂崎出羽守」(初演は知らないが)以来、「中山文里」「一本刀」「暗闇の丑松」に至る間の、彼の、才気にあふれた舞台がなつかしい。「坂崎」は、大阪で見た時(十一年)がすばらしく、「丑松」の初演の時の、最後の幕の引込みのうまさは、「心闇」の親分、「上州土産」の板場の職人等と共に、忘れることが出来ぬ面白さだった。昭和七、八、九、十年頃の菊五郎の新作はうまいといふ以外に、一々、面白かつたのだ。ほんとうに張り切つて挙手投足に身の入つてゐた舞台であつた。》。