1940年代の本所緑町の寿座(寿劇場)。戦時下の芝居好きが集った東京最後の小芝居劇場。

 

はじめに――川向うの劇場、Old Vic と本所寿座


福原麟太郎は、昭和4年(1929)7月から昭和6年(1931)6月まで、文部省在外研究員としてロンドンに留学した。ロンドン大学キングズ・コレッジでイズレイル・ゴランツ教授の詩歌史と戯曲史を聴講、大英図書館に日参しつつ、書店や劇場に足繁く通った。

そんな典雅な滞英生活にまつわる散文は、『春興倫敦子』(研究社・昭和10年9月)、『英文学旅程』(玄理社・昭和23年1月)、『メリ・イングランド』(吾妻書房・昭和30年7月)といった書物に収録されていて、その読み心地は、テンプル版シェイクスピア全集の瀟洒な装本に触れているときの気分にとてもよく似ている。

そのうちの一篇、「ロンドンの霧」(昭和9年2月)と題したエッセイにこんなくだりがある。

 オウルド・ヴィックという劇場。ここはシェイクスピアとオペラの小屋である。(中略)本所寿座のように、河向うウォータールーの通りのごみごみした四辻にあって、秋から春にかけていつも開いている。そこへ通ってゆくのが英文学留学生の日課の一つである。夜の興行の外にマチネーもある。マチネーは私のように北郊ミッドルセックス州ゴウルダース・グリーン村に住んでいた者にとって甚だ都合がよかった。私はだから甚だ多くのマチネーにウォータールー橋を渡って通ったものである。
 肌寒い夕方の薄暮の色のテムズを眺めて外套の襟を立てるのはそのマチネーから帰るときである。(中略)
 私はいく度この橋の上を、いま見たシェイクスピアの舞台のまぼろしが未だ去らない眼を以て、いつも新しい興奮を覚えながら、渡ったことか知れない。この国はいま衰えつゝあるかも知れない。この都はいまにヨーロッパの一中心たる勢力を失うかもしれない。然しこのきらめく夜の狭霧の景色ばかりはいつまでも老英国の象徴として旅人の胸をうつであろう。

当時のオールド・ヴィックは、ハーコート・ウィリアムズの演出により、シェイクスピア劇を連続上演していた。ジョン・ギールグッド、イーディス・エヴァンズらの舞台を、英文学留学生・福原麟太郎は目の当たりにしたのである。



英文学留学生・福原麟太郎が見ていたシェイクスピア。1929-30年シーズンの『ハムレット』は、ジョン・ギールグッドのハムレットとマーティタ・ハントのガートルード。1930-31年は『ヘンリー四世・第1部』でラルフ・リチャードソンがハル王子に扮して、オールド・ヴィックにデビュウしたシーズン、対するホットスパーはジョン・ギールグッド。 Harcourt Williams, Old Vic saga (Winchester, 1949) より。


と、シェイクスピア上演史に燦然と輝く名優たちのシェイクスピアをたっぷり観劇した福原麟太郎は、オールド・ヴィックの場所を《本所寿座のよう》なところと書いている。この見立ては、ひとえにテムズの《河向う》という立地ゆえであった。

福原麟太郎より30年近く前、明治35年(1902)から明治37年(1904)まで留学生としてロンドンに滞在した島村抱月も、ウエスト・エンドを《京橋から麹町へかけて、栄華と権勢とを集めた形》、テムズ川の対岸を《正に東京の本所深川といふ形勢》というふうに書いている(「英国の劇談」明治36年3月2日稿、『滞欧文談』春陽堂・明治39年7月)。



『新演芸』大正6年(1917)3月号附録《大正六年二月調査 東京演芸地図》より、本所あたりを拡大。本所というと、人はまっさきに『作者の家』を思い出すであろう、と河竹繁俊の南二葉町をしみじみ眺めてしまうのであった。



さて、大正6年当時の寿座の住所は「本所区緑町二ノ二三」。



大正5年(1916)の地図(陸軍参謀本部陸地測量部発行・一万分一地形図)より、本所区緑町二丁目の寿座の区画を拡大。寿座の正確な位置がわかる。明治44年(1911)12月28日に、東京市電の江東橋線(両国二丁目~錦糸堀)の緑町三丁目が開通、寿座の最寄りの停留所となった。


昭和3年(1928)年《「商工図(本所区)」(すみだ郷土文化資料館蔵)》、『みる・よむ・あるく 東京の歴史5』(吉川弘文館・2018年11月)より。小谷青楓「寿劇場の今昔」(『演芸画報』昭和16年4月号)によると、電車通りを挟んだ向かいにある吉村呉服店は《寿劇場の金主》だったらしい。


帝都復興事業完了時の昭和5年(1930)の地図(陸軍参謀本部陸地測量部発行・一万分一地形図)。市区改正にともなって、最寄りの停留所は昭和4年(1929)、緑町二丁目に改名している。昭和3年の地図にはなかった西竪川橋が架かっている。竪川に平行する電車通り、西竪川橋と竪川橋の間の地点を北上させた位置、二丁目16番地の角に「本所寿座(寿劇場)跡」の碑が建っている。かつて寿座のあった場所の、現在の住居表示は「墨田区緑二丁目16-2」。


『本所区全図』(内山模型製図社・昭和16年8月)。寿座(寿劇場)の位置は西竪川橋と竪川橋の間の地点に位置していると思っていたが、この地図では寿座の位置が西竪川の真上の延長線上に示されている。要検証。



『大東京写真帖』(東京書院・昭和5年3月)に「帝都の工場地帯」として掲載の写真。府立三中(現・都立両国高校)から錦糸町駅の高架線をのぞむ。京葉道路を市電が通る。西側(左)に大横川が流れている。大横川に架かる江東橋を渡り、緑町四丁目、緑町三丁目の停留所を経て、寿座の最寄りの緑町二丁目となる。この写真に写る万年筆屋、風月堂の店舗がよい風情。寿座界隈も「帝都の工場地帯」のこんな感じの町並みが続いていたのだろう。


同じく、『大東京写真帖』に掲載の両国橋の写真。柴田宵曲『明治の話題』(ちくま学芸文庫・2006年12月)の「両国橋」の項に、

新たに架け換へられた両国橋は鼠色に塗った鉄橋であった。永代橋も厩橋もそれ以前に鉄橋になつてゐたが、幅が狭いので電車は出来ても単線でなければ通らず、橋の袂に旗振りがゐて赤青の旗を振ってゐた。最初から複線の電車を通した橋は、隅田川に在っては両国がはじめてである。

 と書かれている。明治30年(1897)8月10日の夜、川開の花火の群衆により木橋の両国橋が落下するという大惨事が起こり、位置を川上に移して明治34年(1901)から鉄橋への架け替え工事が始まって、明治37年(1904)年11月12日に開通式が挙行された。両国橋を渡る市電が開通したのは翌38年(1905)だった。この橋は関東大震災の罹災を免れた。昭和5年(1930)2月から新しい橋の架け替え工事が始まっていた。


寿座について、『新訂増補 歌舞伎事典』では、以下のように解説されている。

① 明治八(一八七五)年から明治二十七年まで、本所相生町(はじめは緑町五丁目)にあった劇場。
② 東京本所緑町二丁目に明治三十一年に開場した小芝居。のちに寿劇場と改称。森三之助ら新派が出演した時代もあるが、昭和十二(一九三七)年宮戸座が閉座した後は、東京唯一の小芝居常打として、市川新之助・松本高麗之助・中村歌扇・実川延松らが珍しい演し物や演出で貴重な芝居を見せた。戦災で焼失。
(阿部優蔵)

戸部銀作「寿劇場の記録」(『日本演劇』昭和22年11月)によると、① の寿座が、実際に興行を開始したのは明治9年(1876)3月、本所緑町五丁目で常盤座として開場、明治10年(1877)1月に税金滞納のため鑑札を返上、同年3月に別の興行師が譲り受けて寿座と改称、相生町五丁目に移転して、いわゆる中芝居の格で興行を続け、明治23年(1890)に一応大劇場に認められたが、明治25年(1892)に法的に改築の期限が切れて再建かなわず、そのまま廃座となっていた。

② の明治31年(1898)5月に本所緑町二丁目に開場した小芝居の寿座は、宮坂徳次郎が座名のみ引き継いで新たに建てたまったく別の劇場であった。大正4年(1915)に宮坂家と森三之助の共同経営になり、大正15年(1926)以降は、宮坂徳次郎の甥にあたる梶田政太郎の単独経営となった。梶田は明治40年(1907)、二十二歳のときから伯父を助けて、寿座で働いていたという。昭和11年(1936)1月に株式会社への改編にともなって寿劇場に改称した。

 

近代東京の小芝居について、『最新歌舞伎大事典』の「小芝居」の項を参照すると、

近代の東京では明治23年(1890)に劇場取締規則が改定され、それまでの官許劇場が「大劇場」、小芝居(公的名称は「道化踊」)が「小劇場」となった。のち明治33年にはこの区別も廃され一律に「劇場」となったが、「小芝居」という通称は残った。明治中期から大正にかけて、小芝居の劇場は歌舞伎だけでなく新派や連鎖劇、活動写真なども舞台にかけるようになり、庶民の娯楽として存在意義を発揮した。浅草などに多くの小芝居があり、大芝居の若手の役者も出演して修行の場となっていた。しかし次第に数が減り、本所緑町(現、墨田区緑)の寿劇場が小芝居として残っていたが、昭和20年(1945)の空襲で焼失した。(佐藤かつら)

とあり、また、『新訂増補 歌舞伎事典』の「小芝居」の項には、

明治の終り頃から活動写真が出現すると、小芝居はその影響を受けた。そこで考案されたのが連鎖劇で、芝居の間に活動写真を挟んで上演、長い幕間の退屈を解消すると同時に、新しい物への興味を満足させて喜ばれ、歌舞伎・新派を問わず大正初期にはほとんどの小芝居が連鎖劇を上演した。小芝居が衰えはじめたのは大正中期からで、これに追打ちをかけるように関東大震災が東京の小芝居の大部分を焼失させた。それでも震災後復活した小屋は十指を超えたが、昭和に入ると年々減少し、代表的な小芝居であった宮戸座も昭和一二(一九三七)年座を閉鎖し、以後、本所緑町二丁目の寿劇場(前の寿座)一軒になった。(阿部優蔵・小池章太郎)

とある。本所寿座は《庶民の娯楽として存在意義を発揮した》典型的な「東京の小芝居」だった。

小芝居ならではの歌舞伎の演目や珍しい型を見せていただけでなく、大正期の寿座では新派役者の森三之助一座による連鎖劇が上演されていた時期もあった。最後の女役者・中村歌扇の最後の舞台も寿劇場と名を変えていた寿座だった(昭和14年7月)。本所緑町の寿座は、そんな典型的な東京の小芝居だった。そして、東京最後の小芝居劇場だった。

佐藤かつら「猛優の時代――小芝居と大衆娯楽」(神山彰編『〈近代日本演劇の記憶と文化1〉忘れられた演劇』森話社・2014年5月)に、松崎天民による探訪記事「小芝居めぐり」(東京朝日新聞・明治42年8月5日~19日)が紹介されている。

本所の寿座を天民生は「小芝居中での小芝居」と称している。暑いので場内は三分の入りだが、七、八歳から十三、四歳の小娘が最も多く、幕間にはその少女たちが土間を走ったり舞台に上がったりして我が物顔に振る舞うのが興を添えるとしている。『矢口渡』で中村芝鳥扮するお舟が新田義岑に恋い焦がれる気持ちを人形振りで演じると、少女達もじっとして見物。ここが「恋を指南」という記事の表題の由来である。寿座は小屋が綺麗なわりに大道具が粗末すぎるが、天民生の見たところ、見物は芝居を見るよりは役者を見ているらしく、悪口のかけ声はない。ここの見物は「近所界隈の商人や職工」が中心である。

寿座を活写した「恋を指南の寿座」が載ったのは最終回、明治42年(1909)8月19日の紙面だった。この年の1月、松崎天民は国民新聞から東京朝日新聞に移り、社会部長渋川玄耳のもとで第二の「新聞記者修行」に入り、天民は名物となる数々の探訪記事を書いていった(松崎天民『人間秘話 記者懺悔』新作社・大正13年9月)。

天民が「小芝居めぐり」を書いたのは、前年10月に焼失した寿座が明治42年(1909)1月1日に再開場して数か月という時期。だから《小屋が綺麗》だった。その後、活動写真の台頭、関東大震災、帝都復興、開戦を経て昭和20年(1945)2月に閉場し、そして東京大空襲で焼失するまで、産業構造および社会構造の変化、交通網の整備、歌舞伎をとりまく情勢の推移等による客層の変遷はあっただろうけれども、寿座は《小芝居中での小芝居》であり続けた。本所緑町の路地で明治31年(1898)5月に始まった寿座の歴史は、そのまま、近代東京の小芝居の半世紀だった。



野沢寛編『写真・東京の今昔』(再建社・昭和37年7月)に寿座として掲載の写真。幟に「尾上紋三郎」とおぼしき文字が見える。四代目尾上紋三郎は明治41年(1908)4月歌舞伎座で襲名、以降、明治43年(1910)5月まで寿座に出演しているらしい(『大橋屋 尾上幸蔵と紋三郎』)。よって、明治末期の写真と推定できる。明治42年(1909)1月の新開場以降の写真であろうか。



三島由紀夫『芝居日記』(中央公論社・1991年7月)に同じ写真が紹介されているが、こちらはトリミングされておらず、左下に近所の子供が写り込んでいる。都筑道夫が『猫の舌に釘をうて』で、《東京のイースト・エンドの顔》と描写していたような少年。

 

戸板康二と寿座(寿劇場)とその回想をめぐって


東京の小芝居の代表的な存在だった宮戸座は昭和12年(1937)2月、座主の山川金太郎の他界(昭和12年2月17日歿)により、その歴史に終止符を打った(山川金之助「宮戸座のことども」、『演劇界』昭和53年9月号)。以降、東京で唯一の小芝居の劇場となった寿座に、戸板康二はたびたび足を運んだ。寿座は、大正4年(1915)生まれの戸板康二にとって、たびたび足を運んだという点では唯一の小芝居体験となった劇場だった。

明治31年(1898)5月に開場した寿座が寿劇場に改名したのは昭和11年(1936)の年初だった。戸板康二が足を運んだ頃は寿劇場という名前になっていた。以下、煩雑ではあるけれども、昭和11年以降の事項については「寿座(寿劇場)」と記す。


「〈思い出の劇場〉寿劇場」と「〈ロビーの対話〉小芝居回想」


『思い出の劇場』(青蛙房・昭和56年11月)に収録された「思い出の劇場」全12回は、『演劇界』に昭和55年(1980)1月号から12月号まで連載された。その第11回(昭和55年11月号)で寿座(寿劇場)が回想されている。

 寿劇場という名前になっていた、むかしの寿座にも、時々行った。
 ことに、戦局がはげしくなり、都心の小屋の大歌舞伎が情報局の指令で固苦しい国民演劇を上演している時、隅田川の向うにゆくと、大正期まで歌舞伎に残っていたはずのいささか猥雑な舞台が見られるのが魅力だった。
 錦糸町行の市電の緑町二丁目で降りて、北に入ったあたりに位置する寿劇場は、関東大震災後のバラック建てがそのまま保存されていて、舞台の間口は九間か十間だったが、かつての本郷座あるいは浅草松竹座に似た感じだった。桟敷に提灯がさがったりして、芝居好きにはたまらなく楽しい風物詩が、昭和二十年三月十日の空襲で焼けるまで、ここには残っていた。

「山の手育ちの東京っ子」という立ち位置に終生こだわることとなる、二十代後半の戸板康二にとって、《大正期まで歌舞伎に残っていたはずのいささか猥雑な舞台》の見物のために《隅田川の向うにゆく》ということは、それだけでとても胸が躍るような体験だったに違いない。



大正14年(1925)7月浅草松竹座の舞台面、吉右衛門の『酒井の太鼓』上演中(馬場美濃守は三升)、『芝居とキネマ』大正14年8月号より。

戸板康二は、寿座(寿劇場)を《舞台の間口は九間か十間だったが、かつての本郷座あるいは浅草松竹座に似た感じだった。》と回想している。寿座(寿劇場)は平屋建てだったけど、舞台の間口が本郷座あるいは浅草松竹座を思い出させた。本郷座は、大正13年(1924)10月に昼夜続けて見物して、七代目中車の富樫と九段目の由良之助の「一種異様な古典的風貌」が子供心に印象に残った。浅草松竹座は大正14年(1925)1月に、七代目中車の『対面』の工藤と『太十』の光秀を見て、ふたたびその「一種異様な古典的風貌」が強烈に印象に残った(『思い出の劇場』第一回「本郷座」)。



大正14年(1925)1月浅草松竹座の七代目中車の光秀、『新演芸』大正14年2月号。

本郷座も浅草松竹座も、大正4年(1915)生まれの戸板康二にとっては、観劇の記憶が確かになってくる最初期の「思い出の劇場」だった。いずれも七代目中車の「一種異様な古典的風貌」とともに記憶に残った劇場だった。大正14年(1925)1月に浅草松竹座で『絵本太功記』の光秀を見たときのことを、のちに戸板康二は《一番最初に、歌舞伎の面白さとはかういふものだとわかった》とまで記している(『劇評』昭和27年1月号「歌舞伎と私」)。

二十代後半の戸板康二が寿座(寿劇場)に行ったとき、少年の日の本郷座と浅草松竹座の印象とともに、七代目中車の「一種異様な古典的風貌」を見たときの感覚を漠然と思い出していたのかもしれない。寿座(寿劇場)は、「少年時に観た歌舞伎の追憶」がなんとはなしに戸板康二の胸によみがえってくるような雰囲気がただよっていたのだろう。


そして、昭和19年(1944)7月に日本演劇社に入社したあとは、渥美清太郎と一緒に寿座(寿劇場)へ行った。

 昭和十九年に日本演劇社にはいってからは、始終渥美清太郎さんと一緒に出かけた。渥美さんには、ぼくとちがった打ちこみ方が、この劇場に対してはあったようで、何となく上機嫌だった。
 興行主の梶田政太郎さんと幕間にしゃべっている話を、そばで聞いているだけで、ぼくの知らない知識が、鉄砲水のようにぼくを衝撃した。大変な人であった。

一見なにげないような文章だけれども、戸板康二とは《ちがった打ちこみ方》を寿座(寿劇場)にしていて、《何となく上機嫌》だったという、渥美清太郎その人に大変心惹かれるものがある。

明治25年(1892)下谷七軒町生まれの渥美清太郎は、三つの頃から叔母さんに芝居に連れて行ってもらった。と言っても、団菊の芝居なんぞではなく、浅草七軒町の開盛座、三味線堀の柳盛座、水道橋の三崎座の三座に決まっていて、これら三つの小芝居を毎月「追込み」で見てまわり、たいていの狂言はこの三座でひととおり修行できたという。ちなみに、当時の柳盛座の座頭は中村梅雀(前進座の翫右衛門のお父さん)、のんびりした芝翫型の芸で、踊りが非常にうまく、梅雀が『関の扉』や『浦島』を出すとなると、踊りの師匠さんがこぞって見に来た。この三座を卒業すると、宮戸座と寿座の常連になった。《中学にいる時分から、折々、追込みや立見の席で、いつも桟敷に陣取つている、伊原[、]中内、杉[、]永井などという先生がたの姿に逢つた。どうかして、ああいう態度で、芝居を見たいというのが、わたしの、その時分の、一番の願いになった》(『劇評』昭和29年7月号「歌舞伎と私」)。

いわば、小芝居は渥美清太郎の学校だった。東京の小芝居は、博覧強記で鳴らした渥美清太郎の学校だった。寿座(寿劇場)への執心も年季が入っていた。だから、東京の唯一の小芝居小屋となった寿座(寿劇場)に行くと、懐かしい母校に帰って来たような気分になるのか、いつも《何となく上機嫌》になってしまうのだった。



晩年の渥美清太郎、戸板康二『わが人物手帖』(白鳳社・昭和37年2月)口絵より。

戸板康二曰く《徹底的な個人主義で、人の生活にも介入しないし、自分の生活も話したがらない》。渥美清太郎にとって小芝居は血縁みたいなものだったのだと思う。その意味で、『劇評』昭和29年7月の「歌舞伎と私」は例外的な文章かもしれない。渥美清太郎の小芝居に対する思いは、折口信夫の曾我廼家五郎や二代目延若に対する親近感に似ていたのではなかろうか。『折口信夫坐談』の、《先生は、五郎にも延若にも、血縁に類するような親近感を持っていた。そして、五郎や延若の欠点に対しても甘い反面、その芸の体臭に一種のうっとうしさも感じられたらしい。血縁に感じる、それのように。》というくだりを思い出すのであった。


戸板康二は、「小芝居回想」という文章でも寿座(寿劇場)について回想している。「思い出の劇場」の3年前、『演劇界』のエッセイ「ロビーの対話」のうちの一篇で、「小芝居回想」は昭和52年(1977)9月号に載り、『ロビーの対話』(三月書房・昭和53年2月)に収録されている。《昭和十七年ごろから、本所の寿座には、よく行った。渥美清太郎さんとも、何回も行った。》とあり、こちらにも渥美清太郎の名前が登場する。



『三十五区 大東京市区分地図』(雄文館)より、両国界隈を拡大。



『大東京写真大観』(白星社・昭和7年10月)に「両国御茶水間電車」として掲載の写真。右は隅田川に架かる鉄橋、左が御茶ノ水駅に向かう高架線。昭和7年(1932)7月1日、両国・御茶ノ水間で電車運転が開始。それまで終着駅だった両国駅から総武本線が隅田川を渡るという新しい都市風景が誕生した。これに合わせて、浅草橋・秋葉原・御茶ノ水の高架線が建設された(『御茶ノ水両国間高架線建設概要』鉄道省・昭和7年6月30日)。1930年代東京遺構として今もおなじみの都市風景である。


同じく、『大東京写真大観』より「両国橋と隅田川」。現在の両国橋は昭和7年(1932)5月に架橋。同年10月1日、東京市は、それまでの15区に周辺5郡82町村を編入し新たに20区を設置し、35区となる。新しい両国橋は「大東京」と歩調を合わせるようにして誕生した。



穂刈三寿雄撮影「両国橋」、『大東京観光アルバム』(東京地形社・昭和12年4月)より。佐多稲子は、《何かの用事でこの川の橋を渡るときは特別な気持になる。》と書いた(「隅田川」、『佐多稲子全集 第十七巻』)。隅田川を渡るとき、いつもこの言葉を思い出す。両国のシアターXにゆくときは、最寄りの両国でなく一つ手前の浅草橋で下車して柳橋と両国橋を渡って、劇場にゆくのがいつも楽しい。



昭和40年(1965)11月の両国橋を渡る都電25系統・1539号、吉川文夫著『東京都電の時代』(大正出版・1997年5月)より。

両国橋を渡る市電(昭和18年7月以降は「都電」)に乗って、戸板康二は寿座(寿劇場)に行った。須田町から錦糸堀行きの市電に乗って、両国橋を渡る。隅田川に向かってまっすぐに(市電は昭和4年8月10日に現在の靖国通りにルート変更)、岩本町、豊島町、浅草橋、両国の停留所を経て、両国橋を渡ると、靖国通りは京葉道路と名を変える。市電が両国橋を渡る直前、国技館の大きなドーム屋根が迫ってくる。橋を渡っているとき、頭のなかで「あれも一生、これも一生、こいつは宗旨を替えにゃあならねえ」と菊五郎の声色で反芻していたかも……と想像せずにはいられない。


戸板康二の寿座(寿劇場)見物クロニクル


戸板康二は寿座(寿劇場)で、どんな歌舞伎を見ていたか。印象に残っている舞台について、「〈ロビーの対話〉小芝居回想」では、

 九代目団十郎の古い門弟の介十郎がいて、白内障で失明していた。『寺子屋』の玄蕃に出ていて、捕手に手を引かれて、花道をはいった。
 新之助の『石切の勘平』というのを見た。『油坊主』という、めずらしい狂言も見た。高麗之助の『関の扉』も見た。たしか墨染が鶴蔵、小町が鶴太郎であった。それから鶴蔵の『児雷也』の蟇六住家というのも見た。いかにも、寿座らしい演目だった。
 当時の寿座のファンに、いちばん喜ばれたのは、延若の弟子の延松だったと思う。
 細おもてで、目の切れが長くて、すこし顎のしゃくれた、いかにも役者らしいマスクを持っていた。似ている人をさがせば、空襲で死んだ魁車に、おもかげが近かった。
 延松の『寺子屋』の源蔵は、師匠というよりも末広屋(中村宗十郎)の型というので、花道を考えこみながら出て来て、門口の前を通りすぎて、引っ返して来るというやり方であった。寺子の書いた習字が、格子戸の外に掲示されていた。
 『忠臣蔵外傳・植木屋』の杢右衛門、『陣屋』の弥陀六も見た。『先代萩』の八汐の時は、千松を懐剣で刺し、「これでもか」といいながら、箱せこで小柄の上を叩いたりした。
 延松の役では、かならず何か、小芝居らしい型が見られるのが楽しみで、一緒に行っている友人とニッコリ顔を見合わせたりしたものだ。
 小芝居らしいといえば、『すしや』を見た時、誰の弥助であったか、弥左衛門に「まずまず」と上座にすわるように招じられ、二重にあがって、片膝を立てすわる時、手に針金のわくに白い布を張った笏を持った。今まで持っていた手拭があッという間に笏に変わったという感じで、その小道具を持っているあいだ、三位中将維盛になっている解釈なのであろう。

「〈思い出の劇場〉寿劇場」では、

 介十郎は古い団門の役者で、何だったかの口上の時に、マサカリのカツラに、柿色のかみしもを、嬉しそうに着けていた。『寺子屋』の玄蕃の時、捕手の一人に手を引かれて花道をはいったが、白内障だったらしい。
 その『寺子屋』で源蔵を演じ、戻って来た時門口を通りすぎてしまう末広屋(中村宗十郎)の型を見せた延松という役者が、ぼくにはいちばん興味があった。
 立役を演じている時の魁車の顔にちょっと似て、ふしぎな愛嬌があった。
 いがみの権太を師匠の型で演じたのだが、蝙蝠安のように、女房小せんの着物を着て出て、袖を動かすのが、おかしかった。
 高麗之助の『関の扉』にも、古風なおどりの特殊な味があった。
 昭和十九年十一月の『蘭奢待新田系図』が、軍人援護強化運動参加という肩書をつけていたが、これは渥美さんが、今使われる言葉の監修者になっていたのだろう。
 若くて美しい鶴太郎を、ぼくはひそかにひいきにしていたが、劇場の焼けた晩、この女形は死んだということである。

というふうに回想している。戸板康二が挙げている役者を列挙すると、

  • 市川介十郎:九代目団十郎の弟子
  • 五代目市川新之助:九代目団十郎の次女富貴子の婿、三代目市川翠扇の父、寿座の座頭格
  • 松本高麗之助:七代目松本幸四郎の弟子
  • 三代目坂東鶴蔵:二代目坂東彦十郎(五代目彦三郎の弟子、四代目富十郎の父)の弟子
  • 中村鶴太郎
  • 実川延松:二代目延若の弟子

であり、戸板康二が挙げている芝居の上演年月を、小宮麒一編『配役総覧』および『上演年表』を参照して、時系列に配列を試みると、

昭和16年(1941)

  • 10月一の替り(9月29日~):『関の扉』関兵衛(高麗之助)・墨染(鶴蔵)・小町(鶴太郎)・宗貞(米十)
  • 10月三の替り(20日~):『先代萩』八汐(延松)・政岡(新之助)・仁木(高麗之助)・男之助(米十)
  • 12月二の替り(9日~18日):『すし屋』権太(延松)・弥助(竹若)・お里(鶴太郎)・弥左衛門(市昇)

昭和17年(1942)

  • 4月三の替り(21日~):『熊谷陣屋』弥陀六(延松)・熊谷(新之助)・相模(鶴太郎)
  • 11月一の替り(10月30日~):『植木屋』弥七(延松)・お蘭(鶴蔵)・杢右衛門(吉次)
  • 11月一の替り(10月30日~):『関の扉』関兵衛(高麗之助)・墨染(鶴太郎)・小町(福之助)・宗貞(鶴蔵)

昭和18年(1943)

  • 9月一の替り(8月28日~):『石切の勘平』勘平(新之助)・由良之助(延松)
  • 9月二の替り(11日~):『先代萩』八汐(延松)・政岡(鶴蔵)・仁木(新之助)・男之助(鶴一)

昭和19年(1944)

  • 9月一の替り(2日~):『寺子屋』松王丸(高麗之助)・源蔵(延松)・玄蕃(助十郎)
  • 9月一の替り(2日~):『自雷也物語』自雷(鶴蔵)・鹿六(吉次)・藪平(小五郎)
  • 10月一の替り(9月30日~):『熊谷陣屋』弥陀六(延松)・熊谷(高麗之助)・相模(鶴蔵)
  • 10月二の替り(14日~):『油坊主』甲賀(新之助)・陸奥(延松)・忠盛(竹若)・口上(助十郎)
  • 11月一の替り(10月28日~):『蘭奢待新田系図』村路(新之助)・お此(鶴太郎)・彦七(高麗之助)・蝦蟇(延松)・綾部(福之助)

昭和20年(1945)

  • 1月二の替り(14日~):『植木屋』弥七(福之助)・お蘭(鶴太郎)・杢右衛門(延松)

というふうになった。寿座(寿劇場)は昼夜同演目で入れ替えなし、昭和18年1月までは毎月三回興行、昭和18年2月以降は半月替わりの二回興行だった。

延松が八汐に扮した『先代萩』は、昭和16年(1941)10月と昭和18年(1943)9月の二度出ている(延松の八汐の昭和19年10月二の替りの先代萩は竹の間)。『関の扉』も二度出ているが、戸板康二の挙げている配役のとおりなのは昭和16年10月一の替りであるから、このときには寿座(寿劇場)に行っていた可能性もあるが、昭和17年(1942)11月一の替りの『関の扉』の思い出を語っている可能性もある。『植木屋』も二度出ているが、延松が杢右衛門に扮したのは、昭和20年(1945)1月後半の興行である。延松が弥陀六に扮した『熊谷陣屋』は、昭和17年(1942)4月と昭和19年(1944)10月と二度あるが、戸板康二が回想しているのは後者であろう。

戸板康二がここまで具体的にイキイキと躍動感たっぷりに回想している延松のいがみの権太が、昭和16年(1941)12月二の替り以降は出ていないようなので、戸板康二は遅くとも、昭和16年12月の二の替りまでには確実に寿座(寿劇場)に行くようになっていた、と断定してもいいかもしれない。昭和16年12月二の替りは9日から18日まで。開戦の日の12月8日は月曜日だった。当時、明治製菓に勤めていた戸板康二が寿座(寿劇場)に行ったのが日曜日だったとすると、12月14日ということになる。戸板康二の満26歳の誕生日である。

 児玉竜一「戦中戦後歌舞伎日録 一九四〇~一九五〇 東京を中心とする雑録記事集成」(歌舞伎学会誌『歌舞伎 研究と批評 25〈特集:戦中戦後の歌舞伎(後編)〉』2000年6月)を参照すると、朝に開戦が報道された12月8日の夜7時、各劇場でラジオが流され、

歌舞伎座は菊五郎の「浮かれ坊主」が恰度切れたところ……国歌演奏直前に客席、楽屋共に一斉起立、やがて場内拡声器を通じて、御詔書は格調正しくアナウンサーによつて謹読された。……次いで東條首相の録音放送、一億国民鉄石の団結は、しつかりとこの夜各劇場に集つた人々の胸に刻み込まれ、斯くて芸能報国の真摯な意気に燃える人々の演技は再び続けられたのであつた

 というふうに、翌日の都新聞に報道されている。年中無休だった小芝居の寿座(寿劇場)でも似たような光景が繰り広げられていたのだろうか。

 開戦日の翌日の出来事について、戸板康二は『思い出す顔』(講談社・昭和59年11月)の最終章「さまざまな情景」に、

 昭和十六年十二月九日、つまり太平洋戦争の開戦した翌日、つとめていた明治製菓の宣伝カーが供出させられ、大政翼賛会の演説のために、銀座や上野のさかり場をまわった。
 花森安治氏との初対面がこの日で、当時は五分刈りの頭の花森さんが車の屋根から群集に呼びかけた。
 明菓の者がついてゆかないわけにはゆかないので、ぼくが駆り出された。昼の休憩時間、銀座にいたので、歌舞伎座に行った。何の用だったかおぼえていないが、楽屋の頭取部屋にゆく必要があり、「報道」と書いた腕章をつけて、奈落(地下室)を通りぬけようとした時、楽屋から簀の子のあゆみの上を歩いて来る人がいた。
 扮装を完成して、これから舞台に出る「野崎村」のお染である。当時二十七歳の中村芝翫、いまの歌右衛門である。
 しとやかな町娘が裾をつまんで、うつむくように歩いて来た姿は、身も心も、油屋の娘になっている。ハッと息をのむような美しさだった。同時に、戦争の緒戦の勝利でわきかえっている世の中と隔絶した、こんな娘が目の前にいるのに、何とも溜め息の出るような感動をもった。

というふうに、一度読んだら忘れられないようなことを書いている。

昭和26年(1951)1月、新装開場の歌舞伎座の花道七三から「八ツ橋の笑い」を見せて、戦後の歌舞伎界に君臨してゆく第一歩を歩み出した、その約九年前、歌右衛門はお染の振袖姿で歌舞伎座の奈落をうつむくように歩いていた。

昭和16年(1941)12月の歌舞伎座は六代目菊五郎単独興行、11月30日初日で『義経千本桜』の「川連法眼館」、『羽根の禿』と『浮かれ坊主』、『恩讐以上』、『道行浮塒鴎』という狂言立て。並行して、12月5日初日で正午開演のマチネー興行として若手花形俳優「歌舞伎会」メンバーによる「歌舞伎会第四回公演」があり、『源太勘当』、『峠の石仏』、『大森彦七』、『野崎村』が上演されており、本興行に合わせて、菊五郎は『野崎村』の久作にも付き合うハリキリぶりであった。菊之助(七代目梅幸)のお米、又五郎の久松だった。

戸板康二はこの『野崎村』について、『演劇年鑑 一九四七年版』(北光書房・昭和22年12月)第一部の「〈記録〉歌舞伎」に、

昭和十六年十二月太平洋戦争の初つた月の、歌舞伎座の昼興行は、若手の芝居だつた。「野崎村」が出て、菊之助のお光、芝翫のお染、又五郎の久松に、菊五郎が久作を特に補導の意味でつとめた。之が、なにか象徴的な感じだつた。菊五郎の肩に又五郎がつかまり、菊之助がその膝の所にゐる。外の方から芝翫が家の中をのぞいてウロウロしてゐる。といふのは、今日も尚つゞく、歌舞伎の青年俳優と指導者の姿でなければ何であらう。

というふうに書いている。当時満24歳の六代目歌右衛門は、昭和16年10月1日初日の歌舞伎座の「五世中村歌右衛門一周年祭追憶興行」と銘打った興行で六代目中村芝翫を襲名したばかりだった。追善興行は、翌11月の歌舞伎座でも同じ顔ぶれで続いた。



《六世芝翫襲名披露〈絵本太功記〉初菊(昭和16年10月~11月歌舞伎座)》、図録『六世中村歌右衛門』(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館・2009年3月)より。


昭和16年10月歌舞伎座『絵本太功記』、嫁初菊=福助改め六代目中村芝翫・武智十次郎光義=十五代目市村羽左衛門、『歌舞伎座百年史 本文篇上巻』(松竹株式会社・株式会社歌舞伎座・1993年7月)より。満24歳の歌右衛門を相手に、満67歳の羽左衛門の驚異的な美貌!

昭和17年(1942)頃からたびたび寿座(寿劇場)へ足を運ぶようになったと回想する戸板康二であるが、昭和14年(1939)4月から勤めていた明治製菓を昭和18年(1943)8月に退社、翌9月に折口信夫の紹介で山水高等女学校の教員となり、翌19年(1944)7月に久保田万太郎の紹介で日本演劇社に入社する。昭和17年以降は二十代後半の戸板康二にとって、戦時下の情勢のもと、身辺が慌ただしい歳月だった。

「〈思い出の劇場〉寿劇場」に《新之助の『石切の勘平』が出た時は、都新聞の記事で知って、かけつけたのだと思う。》とある、『石切の勘平』が上演されたのは昭和18年(1943)9月一の替りだった。すでに「都新聞」は「東京新聞」になっていた(昭和17年9月30日付が「都新聞」の最後)。山水高等女学校に着任する直前というタイミングの8月末に、寿座(寿劇場)に《かけつけた》のかもしれない。

通っていたわけではなく、《時々行った》に過ぎなかったけれども、戸板康二のほとんど唯一の小芝居体験となった寿座(寿劇場)は、生涯の思い出になるような、きわめて鮮烈な印象を残した。戸板康二の回想する寿座(寿劇場)の多くは、日本演劇社の社員として渥美清太郎とともに出かけた、昭和19年(1944)9月以降の記憶のようである。

『演芸画報』は第二次演劇雑誌統合により昭和18年(1943)10月号をもって終刊し、情報局から下命されて設立された有限会社である日本演劇社を刊行元として、同年11月1日、『演劇界』と『日本演劇』の二誌が創刊される。翌19年7月、戸板康二が日本演劇社に入社する。

 昭和19年(1944)2月25日に突然、情報局が決戦非常措置要綱を発令、「国内の弛緩せる士気を高揚するため」に「高級娯楽場」の一時閉鎖が決まり、歌舞伎座は千秋楽まで二日を残して25日を最後に自動的に休演となった。『歌舞伎座百年史』には、《演劇興行史上特筆すべき緊急事態に立ち至った。》とある。3月5日に決戦非常措置が発効、全国19劇場の大劇場が閉鎖された。東京では、歌舞伎座、東京劇場、新橋演舞場、有楽座、東京宝塚劇場、帝国劇場、明治座、国際劇場、日本劇場が閉鎖されることとなった。4月1日に演劇興行時間が二時間半に制限されて、明治座と新橋演舞場が再開、8月には歌舞伎座と帝劇が「東京都臨時公会堂」となって再開場することなる。

松竹の本興行の歌舞伎座は昭和19年(1944)2月25日をもって突然打ち切られ、その後の歌舞伎座は、慰問公演のための貸し劇場に使用される等を経て、昭和20年(1945)5月25日夜半の空襲により炎に包まれている姿を加藤武青年に目撃されるにいたる。

 

日本演劇社の設立そのものが、戦時体制の産物であった上に、戸板康二が日本演劇社に入社した昭和19年7月以降は、歌舞伎をとりまく状況は戦時体制の末期ともいうべき時期に当たっていた。戸板康二は渥美清太郎とともに寿座(寿劇場)に時々行ったのは、そんな時期だった。なおのこと、寿座(寿劇場)の芝居風景は戸板康二にとって強烈に印象に残ったのだと思う。



昭和19年(1944)3月、閉鎖した歌舞伎座の正面、『演劇界』昭和19年4月号のグラビア。《閉鎖した東京歌舞伎座の表。華やかな絵看板も今は力強い決戦標語に変つてゐる。》とある。



渥美清太郎『芝居五十年』(時事通信社・昭和31年12月)に《決戦非常措置で閉場中の歌舞伎座》として掲載の写真。閉鎖後の歌舞伎座の前に「一時休場仕候」の看板が掲げられた。

昭和19年(1944)4月、新橋演舞場と明治座の措置令が解除されたものの、昼夜二部制で一回が二時間半、一日に二度同じ演目を繰り返すという小芝居のような上演形態となった。《演舞場を出て歌舞伎座へくると、入口に「一時休場仕候」と書いた札がブラ下がっている。それを見ると、元気もなにもなくしてしまったものだ。》と、渥美清太郎はいう。

 

戦時下の寿座(寿劇場)で上演されていた歌舞伎――『鉢の木』『古寺』『油坊主』『蘭奢待新田系図』


情報局の管轄のもとに演劇雑誌の第二次統合が敢行され、新たに日本演劇社が設立、昭和18年(1943)11月1日、『演劇界』と『日本演劇』の二誌が創刊された。

 『日本演劇』創刊号(昭和18年11月号)の、羽田義朗「〈十月劇壇時評〉大衆演劇に於る軍人援護作品」にさっそく寿座(寿劇場)が登場する。《十月の軍人援護行事と呼応して、大衆演劇でも日本文化中央聯盟主催・軍事保護院後援による軍人援護強化運動作品が各劇場で公演されることになり、東京都下では十六劇団がこの行事に参加した。》とあり、寿座(寿劇場)は、10月二の替り(11日初日)の『鉢の木』をその参加作品とした。

羽田義朗は《今回の参加諸作品中唯一の古典劇》、《久しく舞台へ上がらなかつたものを原作どほりそのまゝ上演してゐる。》、《新之助の時頼、竹若の常世、鶴蔵の馬子など一応熱演とは云へやうが、何にしてもこれでは少々冗漫すぎはしないだらうか。》と書いている。

小宮麒一編『配役総覧』によると、『鉢の木』(黙阿弥作『小春宴三組杯觴』)は、東京では大正3年(1914)2月宮戸座以来の上演であった(時頼は浅尾工左衛門)。ひさしく舞台に出ていない幕末の狂言を軍事援護の作品として上演しているということが、いかにも寿座(寿劇場)らしくて痛快に思えるのだけれども、これも渥美清太郎の入れ知恵だったのだろうか。

ちなみに、この興行に高見順が出かけている。

吾妻橋に出て、ポンポン蒸気にのる。(中略)遺族章を胸につけた人々が大勢蒸気に乗っている。両国で降りる。ここが終点。ポンポン蒸気は両国、吾妻橋間だけになり、吾妻橋より上流は廃止になった。上流の船着場は取り払われて、吾妻橋にみんな集められた。寿座は満員、以前はガラガラだったのだが。出し物は「大久保盥登城」「鉢の木」「銘作左小刀」「本朝廿四孝」

と、昭和18年(1943)10月15日の日記に書かれている(『高見順日記 第二巻下』勁草書房・昭和41年5月)。以前はガラガラだったという寿座(寿劇場)の、1940年代の熱気がなんとはなしに伝わってくるようだ。ちなみに、このとき高見順は、東京新聞の連載小説『東橋新誌』の取材のため、隅田川沿いを散策していたのだった。



三代歌川豊国・安政5年(1858)10月市村座『小春宴三組杯觴』、馬かた小仏藤六=四代目市川小団次・最明寺時頼入道=五代目市川海老蔵。早稲田大学演劇博物館デジタルアーカイブ(http://www.waseda.jp/enpaku/db/) > 浮世絵データベース:作品番号100-5147。

『歌舞伎登場人物事典』に、《四代目市川小団次が扮した藤六のせりふを時頼の七代目団十郎がじっと聞き入る件りが好評で、後世の「肚芸」などに通じる面を持つ役。(今岡謙太郎)》とある。寿座(寿劇場)の新之助が見せた「肚芸」的くだりは、羽田義朗にとっては《少々冗漫すぎ》だったということだろうか。


『演劇界』に寿座(寿劇場)の劇評が載るのは昭和19年(1944)3月号、柏村三千雄「大衆演劇評判記」に、松竹座(不二洋子一座)、公園劇場(金井修一座)、常盤座(清水金一一座)、万盛座(橘花枝と五一郎)、新宿座(作文館、旧ムーラン・ルージュ)と合わせて、寿座(寿劇場)が「新之助一座」として評の対象になっている。柏村三千雄は明治33年生まれ、財団法人大日本興行協会(昭和18年4月10日設立)勤務という人物(『日本演劇』昭和19年12月号「人名録」)。

 此の座の狂言の並べ方はなかなか面白い。一つは大歌舞伎で上演中のものへかぶせて出し、一つは滅多に上演されない珍らしいものを選び、お客にも馴染みのある狂言といつた風なやり方で、此処数年大入を続けてゐる。
「双蝶々曲輪日記」角力場は歌舞伎座で上演中。「鞘当」と「かつぽれ」は此処暫く大劇場で上演されてゐない。
「鞘当」など女郎買ひの喧嘩で、時局下上演禁止すべしと一口に云つて了へばそれ迄だが、歌舞伎の美と音楽を最上に表現した見本のやうなもので、歌舞伎の立派な形式を具備した代表狂言として保存すべき価値がある。
「かつぽれ」最初に、奴さんの替歌の桃太郎を踊るのは、米英を鬼に見立てた洒落だらうが、観客はお賑やかなので訳もなく大喜びである。芸者に「将門」の~ほのぼのと」の件を踊らせるのは、珍しくもあり、綺麗で結構だが、子供にストトンを演らせるのは時節柄どうかと思ふ。
「大石内蔵之助」山科閑居。一時間半の長丁場を熱心に真面目に見物してゐる此の座の観客層は、軽演劇のお客より、演劇に対して真面目である。口先だけの勤王愚劇より古くても此の方が結構。他に「湯殿の長兵衛」といふ盛沢山である。

 昭和19(1944)年2月一の替り(1月31日初日)の評である(『鞘当』は昭和14年5月歌舞伎座、『かっぽれ』は昭和15年10月東京劇場で上演されているから「此処暫く大劇場で上演されてゐない」というわけではなさそう。)。

同月の歌舞伎座(決戦非常措置で2月25日をもって突然打ち切りになる興行)の『双蝶々曲輪日記』「角力場」の放駒長吉は羽左衛門、濡髪長五郎は菊五郎であった一方で、寿座(寿劇場)では放駒は延松、濡髪は吉次であった。羽左衛門の向こうを張って、延松はどんな型を見せたのか。



昭和19年(1944)2月歌舞伎座『双蝶々曲輪日記』、放駒長吉=十五代目羽左衛門・濡髪長五郎=六代目菊五郎。『歌舞伎座百年史 本文篇上巻』より。


戸板康二による寿座(寿劇場)の劇評が載るのは、『演劇界』昭和19年(1944)10月号、「大衆演劇とお客と」というタイトルが示すように、浅草の大勝館と常盤座、新宿の作文館、本所の寿座(寿劇場)の四つの劇場をめぐって、《私は舞台に対するのと同じ程度、いやもつと熱心に客席に注目した。》というふうに、「エトランゼの立場」を気取って書かれている。常盤座の梅沢昇評が面白い。

この評の対象となった寿座(寿劇場)の興行は、9月一の替り(2日初日)の『寺子屋』『古寺』『自来也物語』という狂言立ての興行である。

 本所に於ける、いや東京に於ける大衆歌舞伎の、特異なる存在とも呼ぶべき寿劇場は、児雷也といふそのかみの大衆文芸の寵児があらわれて、大時代の六方をふんで見せ、やはり今日といへども依然人々を魅了してゐる。坂東鶴蔵は、要領よく、鹿六の千両箱を小脇にかかへて巫女の宝子からの引きぬきも、鮮かだつた。中央の大歌舞伎にたへて久しい此種の芝居に、江東でめぐりあつて、見物席の喜びやうを見るにつけ、歌舞伎は結局この味、この面白さを忘れてはいけないのだといふ思ひを、新たにする。
 それと面白かつたのは、「寺子屋」の延松の源蔵だ。私の見た源蔵の中で一番油つ濃いのは鴈治郎だつたが、延松はその鴈治郎の演技の系統に於て、更に輪をかけた活躍をほしいままにする。松王が帰つたあとの「五色の息」のさわぎ方など、呆然と此方がなる位であるが、すべての型が、説明的で、いひかへれば、見物にわかり易いものになつてゐる事は、大衆の歌舞伎ゆゑに、一理あるといへよう。鶴一郎の戸浪が、「木地をかくしたぬり机」で、机の代りに文庫をもち出して小太郎とかいた名札を剥ぎとるといふ型の如き、いかに先代秀調の演出とはいへ、悪型だが、これとても、「之がすなはち」小太郎のものだといふ、舞台と併行した、裏の註釈になつてゐる事は確で、お客はそれで得心が行くのである。

当時の劇評は当然ではあるが、のちの回想よりも臨場感たっぷりで面白いし、興味深い。

浅草と新宿の客席は《若い産業戦士、学生》が多かった一方で、本所は《小屋が小屋、ものがものだけに、特殊なお客》が多かったという。加藤武とおなじ昭和4年(1929)生まれの都筑道夫も、学徒徴用で中島飛行機の工場に勤めるかたわら、浅草の軽演劇へ熱心に通っていた《若い産業戦士》だった(『推理作家の出来るまで』フリースタイル・2000年12月)。

どこへ行つても感じた事は、お客の感じ方が、極めて純粋で、何の衒ひも虚飾もない、といふ事だつた。面白くない時は、ニコリともしない。舞台にそのニコリともしない白けた気分がたちどころに反映して、之では俳優もいきほひムキにならざるを得ない。

と、「エトランゼの立場」で「大衆」を観察する戸板康二に、俗に言う「上から目線」を感じなくもないけれども、《何の衒ひも虚飾もない》というのは、戸板康二自身が失って久しい観劇態度でもあったのだろう。《中央の大歌舞伎にたへて久しい此種の芝居に、江東でめぐりあつて、見物席の喜びやうを見るにつけ、歌舞伎は結局この味、この面白さを忘れてはいけないのだといふ思ひを、新たにする。》というくだりが深く印象に残る。

前述の、佐藤かつら「猛優の時代――小芝居と大衆娯楽」に、松崎天民の探訪記事「小芝居めぐり」について、《上演されている作品の劇評や役者についての論評ということにとどまらず、むしろ、その小芝居に集まる観客たちを描写しようという態度が見て取れ》る、という指摘がある。日本演劇社に入社して間もない戸板康二が『演劇界』に書いた「大衆演劇とお客と」も、探報記者の視点だった。一観客としてでなく、いわば業界人として芝居に接するようになって間もない戸板康二がここにいる。

 

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三代歌川豊国・嘉永4年(1851)9月市村座『源氏模様娘雛形』一番目四幕目「ふる寺怪異の場」、たそがれ=初代坂東しうか・足利光氏=八代目市川団十郎・しのゝめ=二代目市川九蔵・仁木良清=三代目嵐吉三郎。早稲田大学演劇博物館デジタルアーカイブ(http://www.waseda.jp/enpaku/db/) > 浮世絵データベース:作品番号100-5380~82。渥美清太郎『系統別歌舞伎戯曲解題』にある《光氏は黄昏を連れ落ちのび、野中の古寺へ宿ると、東雲は鬼女を粧って又も害せんとする。》ところを、仁木喜代之助が山伏姿で支える場面。この古寺の場は富本「名夕皃雨の旧寺」。

見ているはずの戸板康二の文章ではまったく言及されていない『古寺』であるけれども、『寺子屋』『古寺』『自来也』という、いかにも寿座(寿劇場)らしい狂言立てにしみじみ感じ入ってしまうのであった。


この劇評の翌月、昭和19年(1944)10月は、前半に延松の弥陀六の『熊谷陣屋』、後半に『油坊主』が上演されている。いずれも戸板康二が回想していた演目であった。小宮麒一編『配役総覧』第3版所収「寿劇場 興行総録」に「甲賀=新之助、陸奥=延松、忠盛=竹若、橘=鶴次、撫子=寿々」という配役とともに、口上役として「助十郎」の名がある。「助十郎」は、先の劇評にある延松の武部源蔵の『寺子屋』では、春藤玄蕃を勤めている。「〈思い出の劇場〉寿劇場」に、《捕手の一人にてを引かれて花道をはいったが、白内障だったらしい》とあった介十郎は、この当時の筋書では助十郎という表記だったらしい。

 

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豊原国周画・明治21年(1888)9月千歳座『油坊主闇夜墨衣』、油僧主雷玄=九代目市川団十郎・平忠盛=五代目尾上菊五郎。早稲田大学演劇博物館デジタルアーカイブ(http://www.waseda.jp/enpaku/db/) > 浮世絵データベース:作品番号101-5185~7。

『歌舞伎登場人物事典』の「油坊主」の項に、《文化六(一八〇九)年十一月江戸市村座『貞操花鳥羽恋塚』で五代目松本幸四郎が主演したときは、祇園の火点し実は遠藤武者盛遠が院宣を奪う設定であったが、明治二十一(一八八八)年、九代目市川団十郎が油坊主雷玄実は甲賀三郎義澄で活歴調の演出にした。(古井戸秀夫)》とある。『油坊主のだんまり』は、九代目団十郎ゆかりの演目だった。

戸板康二が「〈思い出の劇場〉寿劇場」に、《介十郎は古い団門の役者で、何だったかの口上のときに、マサカリのカツラに、柿色のかみしもを嬉しそうに着けていた。》とある口上は、『油坊主』の口上を指しているのかもしれないし、翌年20年1月の初春興行に『鳴神』が上演され、ここでも介十郎が口上役を勤めているから、戸板康二の記憶に残っているのは、こちらの口上なのかもしれない。いずれも、五代目新之助が市川家ゆかりの演目を勤めていたのだった。九代目団十郎の娘婿で三代目市川翠扇のお父さんは、寿座の座頭格だった

阿部優蔵『東京の小芝居』と『歌舞伎俳優名跡便覧[第五次修訂版]』(日本芸術文化振興会・2020年3月)を参照すると、市川介十郎は明治8年(1875)10月5日に生まれ、明治14年(1881)に九代目団十郎の門に入り、同年4月に新富座で市川勝栗の名で初舞台を踏んでいる。黙阿弥作『天衣紛上野初花』が初演された興行の新富座である。牛込赤城下の千代盛座に一座を組織して子供芝居をやっていた時期もあったという。明治30年(1897)3月に新開場の東京座で栗三郎と改名した。新開場の東京座では団十郎の『国性爺合戦』が上演されていた。明治44年(1911)1月に歌舞伎座で二代目市川介十郎を襲名して名題に昇進した。利倉幸一編『続々歌舞伎年代記 坤』によると、名題昇進披露の扇面は《表は鳥居清忠筆の弁慶の凧の図、裏は宗家の句と本人の句「薄着した育ちの重しきそはじめ」》。寿座には、明治37年(1904)12月の『忠臣蔵』の通しあたりから出演が確認できる(塩谷判官に扮している)。明治44年と大正5、6年(1911、1916-7)には活動写真に出演しているらしい(日本映画データベース:http://www.jmdb.ne.jp/person/p0152830.htm)。『歌舞伎俳優名跡便覧[第五次修訂版]』の備考欄には、《市川介十郎の二代目を自称》とある。

 

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大正9年(1920)12月2日初日「有楽座第一回狂言番組」、ヴィクトル・ユーゴー作・宇野四郎演出・久米正雄脚色『哀史』。早稲田大学演劇博物館デジタルアーカイブ(http://www.waseda.jp/enpaku/db/) > 演劇上演記録データベース:上演IDNo.08541-30-1920-12-01。

株式会社高等演芸場有楽座は、帝劇十周年の大正9年(1920)4月の末日付で帝国劇場株式会社に合併され(図録『よみがえる帝国劇場展』)、山本久三郎は久米秀治を有楽座支配人とし、宇野四郎にその幕内を託した。久米は大正14年(1925)元日に急逝するのだったが、山本は「もし久米が生きていたら、松竹に経営を託さずにすんだかもしれない」と語っていたという(円城寺清臣『〈歌舞伎資料選書・3〉東京の劇場』国立劇場調査養成部芸能調査室・昭和53年9月)。久米の劇場人としての有能ぶりは、三田文科の親しい友人であった久保田万太郎がたびたび活写していたのだった。大正14年の久保田万太郎は、1月に久米秀治、5月に岡村柿紅……と立て続けに、きわめて味わい深い追悼文を書いた。二人とも大正に殉じた演劇人として、若くしてその生涯を閉じた。

阿部優蔵『東京の小芝居』に、《大正の中期には十三世守田勘弥の文芸座に参加してゐる。新作や赤毛物の出来る新しさも持ってゐた人だったのである。》とある。この公演は文芸座ではないけれども、勘弥主演の『レ・ミゼラブル』に、介十郎は僧正と医師役で出演している。松崎天民は、

介十郎のミリエル僧正は、安ツぽい坊さんであつたし、嘉久子のフアンテーヌは、何時もの帝劇臭に堕ちたし、勘弥を他にしては、誰一人傑出して居ないが、然し芝居其ものは、見て居て心持の好いものであつた。訳本で読だ時よりも、別な意味に於て、ユーゴーの稀代な文豪であつた所以が、今更のやうに肯定されたりした。

と書いている(『四十男の悩み』成光館出版部・大正14年4月再版)。天民の読んだ訳本は徳田秋声訳だったはず(『哀史』新潮社〈西洋大著物語叢書第三編〉・大正3年9月刊:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948936/1/『哀史物語』新潮社・大正7年9月刊:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933206/1)。

天民が見物した日には、『哀史 第一部』が終わり、三越謹製の緞帳が下りたとたんに、三階三等席から社会主義の宣伝ビラが舞い降りてきて、日比谷署の警官が駆けつけるという騒動があったという。大正の時代相。同月の歌舞伎座では羽左衛門・梅幸・延寿太夫の三幅対の『かさね』が初演されていたのだった。

昭和19年(1944)10月の寿座(寿劇場)の『油坊主』あるいは、翌年敗戦の年の初春興行の『鳴神』で、《マサカリのカツラに、柿色のかみしもを嬉しそうにつけて》口上を勤めた介十郎は、団十郎にまつわるようなことを述べたのであろう。戸板康二は「何だったかの口上」ととぼけているけれども、実は団菊の昔に思いを馳せていたかもしれないし、よく聞こえなかったのかもしれないし、聞えてはいたけれども内容はよく覚えていないのかもしれない。

いずれにせよ、白内障でほとんど目が見えなかったという介十郎は《マサカリのカツラに、柿色のかみしもを嬉しそうにつけて》、敗戦間近という情勢のもとで、明治14年(1881)春に新富座の『天衣紛上野初花』のときに始まった役者生活の幕切れをむかえようとしていたのは確かだろう、新富座の舞台で一緒に初舞台を踏んだ一歳上の十五代目羽左衛門と同じように。

一方の羽左衛門は、渥美清太郎曰く、《晩年とくに異常なほどの光を放つていた》のだった(『六代目菊五郎評伝』冨山房・昭和25年12月)。

桜丸、与三、直侍、放駒、長吉、梶原、実盛、盛綱そのほかの何々、あれを爛熟の美といふか、返花の鮮かさといふか、一役ごとに技巧の冴えと肌理のこまかさと、心持の隈なさをみせて、時には舞台に漂ふ一種の神気に引入れられることすらあつた。これは団菊以後、わたくしの知るかぎりのどの老優の晩年にもない奇蹟であつた。それは晩秋名残の紅葉の絢爛でなく、やはり枝に霜降れどいや常葉の冬枯を知らぬ鮮緑であつた。
(楠山正雄「橘屋羽左衛門」、『日本演劇』昭和20年6・7月合併号)

この羽左衛門の輝きというのは、戦時下の東京で観劇を続けていた人にしか知りえない、体感しえない、特別なものだったのだと思う。

『演劇界』の戸板康二による寿座(寿劇場)の劇評は、もう一本ある。昭和19年(1944)12月号の戸板康二「軍人援護劇三つ」と題された劇評であり、《軍人援護強化運動参加という肩書をつけて》上演された『蘭奢待新田系図』のことが書かれている。

まづ、寿劇場は半二の「蘭奢待新田系図」を新たにアレンジした台本を、出し物としてゐるが、結局これは、珍らしい一つの「掘り出し物」としての上演と、併せて「援護」といふ文字を登場人物や床の浄瑠璃が口にするといふだけの事に止つた感じだつた。つまり直接今度のコンクールに加つたものとしての色彩は濃厚ではないのである。――尤も、太平記の時代は、たしかに軍人援護の主題の発見出来る「世界」である。恩地左近の後家村路といふ、この四段目寺子屋の中心人物は新之助で、うしろの襖をとり払うと、菊水の旗ひるがへり、粮米を積んでぬかりない臨戦態勢を示すのであるから、役柄が史劇の女丈夫めいて来てみえるのも無理はないが、ほんとうはもつと丸本物らしく動いてほしい。新之助はそれにこのところ元気もない。――尚、鶴太郎のお此といふ娘が、失明して刀の威光で再びまなこ開き、正武と織部野姫の祝言に嫉妬のほむらを燃やす辺り、お三輪と清姫をつきまぜたやうな、即ち丸本臭紛々の段取りが傍系となつてゐるが、この方がともすれば強く印象されたのは少し気にならないでもない。

近松半二の『蘭奢待新田系図』というと、2016年8月に国立文楽劇場の『文楽素浄瑠璃の会』で復曲上演されたのが記憶に新しいが、昭和19年11月前半に寿座(寿劇場)で上演された『蘭奢待新田系図』は、2016年に復曲上演された三代目切の「小山田幸内住家の段」ではなく、四段目の方であった。杉山其日庵『浄瑠璃素人講釈」では「盲恋[めくらこい]の段」となっている。小宮麒一編『配役総覧』によると、明治以降の東京で『蘭奢待新田系図』が上演されたのは、明治27(1894)12月の春木座と昭和19年(1944)11月の寿座(寿劇場)の二回のみ。春木座で上演されたのは「幸内住家」だった。


昭和19年(1944)11月に寿座(寿劇場)で上演された『蘭奢待新田系図』については、「〈ロビーの対話〉小芝居回想」には《記憶にまちがいがなければ、情報局の国民演劇のひとつとして、『蘭奢待新田系図』がこの劇場で上演されて、渥美さんが演出をしたことがあると思う。》とあり、「〈思い出の劇場〉寿劇場」には《これは渥美さんが、今使われる言葉の監修者になっていたのだろう。》とある。

『蘭奢待新田系図』の歌舞伎脚本は、渥美清太郎が編纂した『日本戯曲全集 第28巻 義太夫狂言時代物集』(春陽堂・昭和3年7月)に、三段目の「生田川の場」と「幸内の場」の二場が収録されている。《天保頃の大坂脚本であるが、俳優の名が記してない為、年代は詳かでない。》という台本である。収録されてない四段目については、

四段目は「道行園生の紫竹」で大塔の君の道行。中が「住吉祭の場」で大塔の君の危難。切が「寺子屋の場」で楠の後室が君と織部姫を隠まつてゐる。娘おこのが君に恋慕して母の手にかゝる。大森彦七と村上彦四郎が君を鬼女に仕立てゝ助けるという場で、おこのゝ件は日高川の清姫を[ママ]ソツクリである。

 と解題に書かれているが、寿座(寿劇場)で上演されたのはこの「寺子屋の場」の改作台本である。渥美清太郎は、『日本演劇』昭和19年7月号のアンケート「歌舞伎劇再検討」に、

左の古劇を復活して見たし。「姫小松子日迺遊」(洞ケ嶽)「太政入道兵庫岬」(教経調)「赤松円心緑陣幕」(壇風)「入鹿大臣皇都諍」(片輪場)「伊賀越乗掛合羽」(円覚寺)「軍法富士見西行」(靭負内)「大商蛭小島」(祐信館)「東鑑御狩巻」(押掛嫁)「敵討襤褸錦」(正月場)「物ぐさ太郎」(利休館)「蘭奢待新田系図」(幸内内)「小野道風青柳硯」(良実内)

と回答しているのだったが、昭和19年11月寿座(寿劇場)で上演された『蘭奢待新田系図』は幸内内ではなく、寺子屋の方であった。


渥美清太郎『系統別歌舞伎戯曲解題』の「大森彦七」の項の、より詳細な記述を参照すると、

楠木正成の後室は、女ながら寺子屋を営み、大塔の宮を匿つてあるが、詮議きびしいので、娘おこのを身替りに立てようとする。おこのは思い染めた男にも逢えぬうち、盲目となったので、悲観して身替りを承諾したが、大塔宮が名剣を抜くと、その威徳で目があく。見ると恋い慕つたのは宮であつた。おこのは急に身替りを厭といい出し、無体の恋を訴えるが、宮の許嫁織部姫も共にあり、狂乱の体となる。おこのの定まる夫大森彦七来つて、般若の面をかむつた女を負い去つたが、実はそれが大塔の宮で、おこのはやはり後室の手にかかり、身替りとして死んだのでその首を彦七は承知の上で持ち帰る。その間に上燗屋がま六実は村上義光が介在し、宮へ忠義をつくす筋。

《この筋は江戸の顔見世狂言「金幣猿島郡」に利用されている》、《強いて探偵的興味を覘つた半二式の作為》とある。また、『浄瑠璃作品要説〈3〉近松半二篇』には、

三の切についで、眼目となる四の切は、お此が嫉妬に狂う場面で、派手な人形の動きを見せることに中心があり、筋の運びそのものを見せようとする三の切とは対照的な性格を持っている。本作の主な作者が、近松半二と竹本三郎兵衛であることを考えると、三の切に半二の特色、四の切に人形遣い出身の三郎兵衛の特色がそれぞれ表れていると想像できるのではないだろうか。(田中直子)

と解説されている。



明和2年(1765)2月大坂竹本座『蘭奢待新田系図』絵尽より。早稲田大学演劇博物館データベース(http://www.waseda.jp/enpaku/db/)> 近世芝居番付データベース:登録No.ロ18-00023-16E。歌舞伎での初演は同年9月、大坂中の芝居。おこのは初代嵐雛助!


戸板康二の劇評では、「軍人援護強化作品」としてアレンジされた箇所よりも、鶴太郎のおこのによる《丸本臭紛々の段取り》の方が印象に残ってしまったが、翌月の『演劇界』昭和20年(1945)1月号の「観衆の声」欄に、相川章太郎による見物記が載った。

相川章太郎は由縁堂書店のご主人、この当時は高輪の電気通信工学校の学生だった。後年、《「蘭奢待新田系図」の「寺子屋」という芝居、発掘上演したときはその見たままの報告を、演劇界の当時薄っぺらの号に載せてもらったことがある。》と回想している(「想えば「こんぺえる」」)。詳しい演出がわかって貴重であるので、適宜改行を入れて、全文抜き書きする。

寺子屋ーー菅原では無く、「蘭奢待新田系図」の寺子屋が上演されたと言へば、誰でも(これは珍しい)と思ふであらうが、其の劇中で女主[をんなあるじ]の村路をして次の様な台詞を言はせてゐる。「寺子屋の名をかりて一人たりとも民草を、忠義の道にいざなふ所存、今にも敵軍来りなば傷つく強者[つはもの]幾千人、吾が大軍の軍人[いくさびと]、此の家に伴ひ介抱なすは、武士の娘と生れし吾が身、寺子と見せしは強者の看護の役の娘達、これ御覧ぜよ村上殿。」

正面の襖を外すと、奥に炊出しの為の兵糧庫が見え、襷鉢巻の寺子が長刀を小脇に抱えてゐる。村上義光は感じ入り、「楠木流の軍法に欠く処なき看護の法、傷きたる軍人への援護の心。」と言へば大森彦七は「吾れも神国日の本に生を享けたる武士の、例へ一時は逆賊に組せしと雖も、各々方の熱き心に導かれ、迷ひの心も醒めたる心地、君に生命を捧ぐる強者、援護の心忘れんや。」と言ふ。

とゞ源清き菊水の、水の流れの勲[いさをし]を末世に伝ふる楠公精神と渡り台詞で幕となる。仲々の名脚色で、俳優は座頭初め幹部級が総出演、観客も幕切れには途中の不可解な条りも忘れ「大当り。」と叫び、「仲々上品な狂言。」と誉める。東京本所は寿劇場の中、軍人援護強化作品の一幕だ。

『石切勘平』当時騒がれた古劇復興の言葉も此の頃は忘れられて来たが、尚此の狭い舞台には此の様な珍しい狂言が折々演じられて居る。歌舞伎を愛する人達よ、もつと此の劇場の存在と此の劇場の発展を識認すべきでは無からうか。又、劇場側も此の様な古劇は一回の上演で済ます事なく、工夫の上に工夫を加へ、菅原の寺子屋、先代萩、或ひは対面等と同様に毎年でも良し、要するに幾度でも繰返し上演する事により初めて本当の意味の復興が出来る事を考へねばならない。

 座頭の五代目新之助の村路、がま六実は村上義光に扮したのは延松、大森彦七の高麗之助、この三人が「軍人援護」の幕切れを勤めていた。

相川章太郎は、柏村三千雄の劇評にあった《一時間半の長丁場を熱心に真面目に見物してゐる此の座の観客層は、軽演劇のお客より、演劇に対して真面目である。》という、寿座(寿劇場)の典型的な観客層を形成する若い観客の一人だった。後年、『古本屋』第3号(昭和61年10月)に寄稿した「想えば「こんぺえる」」で、寿座(寿劇場)の回想を綴っている。


寿座(寿劇場)で『蘭奢待新田系図』が上演された昭和19年(1944)11月の下旬、24日にB29の東京初爆撃があった。その翌月の各座は、《平均して見るも無惨な不入り》だったと、大木豊著『あの舞台この舞台』(劇評社・昭和30年12月)にある。



昭和19年(1944)12月京都南座顔見世『与話情浮名横櫛』、与三郎=十五代目羽左衛門、お富=七代目家橘、蝙蝠安=八代目訥子。『歌舞伎座百年史 本文篇上巻』より。決戦非常措置以降の南座は4月に映画封切館として再開場、10月には演劇の興行が許可された。12月には吉例の顔見世が挙行された。結局この南座が、羽左衛門の生涯最後の本興行出勤となった。東京では前々月、10月明治座の実盛、権八が本興行としては最後だった。戸板康二が最後に見た羽左衛門はその明治座だった。

 

寿座(寿劇場)の終焉とかたばみ座


それでも、寿座(寿劇場)は敗戦の年の2月中旬まで興行を続けた。昭和20年(1945)1月後半に、戸板康二が「〈ロビーの対話〉小芝居回想」で言及していた延松の植木屋杢右衛門が上演されている。この興行では『明烏』が上演されていた。戸部銀作「寿劇場の記録」(『日本演劇』昭和22年11月号)には、

「明烏」の情緒は、いつときでも、夢の国へ誘つて呉れるだらうと思つて、見に行つた。が、奥庭だけとは言へ、曲の持つ頽廃味も、浦里の哀愁も、壁一重向ふの世界で、鶴蔵の醜骸のみが眼に着いた。

とある。最後の興行は昭和20年(1945)2月二の替り、14日初日『権三と助十』と『関取千両幟』、介十郎は小間物屋彦兵衛に配役されている。寿座劇団は劇場焼失の直前、昭和20年(1945)2月中旬をもって解散したと伝えられている。戸部銀作によると、《二月十八日、情勢の推移を見て再開と言ふことにきめて、開けてはやめの興行を中止し、三月九日に焼けた》という経緯だった。《情勢の推移を見て再開と言ふことにきめて》の解散だった。

利倉幸一は『演劇年鑑 一九四七年版』第一部の「〈記録〉大衆演劇」に、

 最後の小芝居、寿座も遂になつかしい本所の一角からその姿を消してしまった。
 劇場焼失以前に、劇団の解散の伝へられたのは、ぎりぎりまで踏み止まつてゐることに何かいさぎよさを覚える筆者にとつては、少しく惜しまれる終局であるが、それにしても、小芝居の最後の孤塁を死守した寿座劇団の健闘には十分なる敬意を払うものである。その末期、三四の歌舞伎研究家の支持と援助によつて、その小芝居の特殊性を発揮した二三の演目は、ほんの少数ではあつたが一応の関心を集めた。また興行成績も悪くはなかつたらしい。その終局の瞬時に於て、一閃の光芒を放つたことは、自ら慰さむらるゝところがあらう。

というふうに、寿座(寿劇場)に対して、心のこもった言葉を残している。これぞ利倉幸一、と思う。また、ムーラン・ルージュと寿座(寿劇場)とを、《ムーラン・ルーヂュと寿座劇団がともにかなりの歴史を有ち、その観客層も、一方は山の手の青年知識階級であり、一方は下町の市井人であつた対照は仲々興味が深い。》というふうに対照させているのが、ちょっと面白い。

陸軍記念日であった3月10日未明の東京大空襲により、明治座、浅草国際劇場、浅草松竹座、国民新劇場(築地小劇場)が焼失した。寿座(寿劇場)も焼失した。この一ヶ月後、4月11日、渋谷東横映画劇場で文学座が森本薫『女の一生』を初演、15日に戸板康二は海軍に応召されたものの、一週間で帰された。

新橋演舞場は2月17日初日の予定が、前日に艦上機の来襲があったため、初日が延期となってからのびのびになっているうちに、3月初めに羽左衛門は湯田中温泉へ疎開に行ってしまい、5月1日になってようやく再開した。菊五郎一座で『すし屋』『棒しばり』『東海道中膝栗毛・赤坂』が上演、午後1時開演の一回興行だった。菊五郎は権太と次郎冠者、弥次喜多は寿美蔵と訥子の出し物だった。

この時の菊五郎は、いつ死んでもいいように、辞世の句として、〝まだ足らぬ踊り踊りてあの世まで〟と詠み、戒名を〝芸術院六代目尾上菊五郎居士〟と定めるなど、異常な決意を以て舞台にのぞみ、二番目の「棒しばり」のあとで、扮装のまま客席に向い、〝もし空襲でこの演舞場が焼けたら、私は野天でも芝居をやらせてもらいます。私の死場所は舞台以外にございません〟と力強く叫び、満場の観客から浴びるような喝采をうけたのであった。
(『歌舞伎座百年史 本文篇上巻』に引用されている『松竹七十年史』を孫引き)

この興行の六日目、5月6日に十五代目羽左衛門が他界、5月25日に千秋楽となり、その晩の空襲で、演舞場も歌舞伎座も、芝公園の菊五郎の家も牛込若宮町の吉右衛門の家も、みんな焼けてしまった。

 久し振りに歌舞伎が観られるとばかり、忘れもしない同好の大西信行をさそって、廓を抜けた十六夜よろしく、軍需工場を抜けて駆けつけた。『すし屋』『棒しばり』『弥次喜多』の狂言立てであった。
 閉鎖前、演舞場の見納めは、たしか先代吉右衛門の『陣屋』の熊谷、『新口村』の孫右衛門であった。空襲激化の折に再び演舞場の客となるとは夢にも思っていなかった。感激の一瞬は、『棒しばり』の幕が下りた時だった。太郎冠者の扮装のまま、突如六代目が幕外にあらわれた。熱演の後の汗を拭いつつ六代目はきっぱりと言い切った。
「東京が、たとえ焼け野原になっても、テントを建ててでも、私は歌舞伎を皆さんにお見せします」
 ……場内割れんばかりの拍手の雨。とは言っても、六代目だって、我々だって、明日をも知れぬ命なのだ……と思ったら、私は、全身がかっと熱くなって、これ今生の別れとばかり、三階席の手摺りから身を乗り出して、渾身の力をふりしぼって、「音羽屋!」と声をかけていた。
 おそらく、六代目もしっかと私の掛声を受けてくれたに違いない。永生きのおかげで言わせて貰えば、私にとって六代目とイキが合った瞬間であった。私の記憶では、実に此の晩、空襲で演舞場は焼け落ちたのである。
(加藤武「やたらに好き」、『昭和悪友伝』話の特集・昭和51年5月)

5月25日午後10時頃から26日午前1時頃にかけて、東京はこの月最大のB29の空襲に遭った。このとき、加藤武は万年橋を渡り、歌舞伎座はす向かいの銀座松竹の前にたどり着き、炎に包まれる歌舞伎座を目の当たりにする。突然、轟音が響き、歌舞伎座の大天井がどっと崩れ落ち、入口や窓から火がいっせいに噴き出した(加藤武「歌舞伎座燃ゆ」、『街のにおい芸のつや』新しい芸能研究室・1993年7月)。



《空襲に遭った歌舞伎座。三層あった破風屋根の中央が吹き飛び、客席は壊滅。内部の焼けただれが、三階の窓付近の煤から伺える》、『歌舞伎座百年史 本文篇上巻』より。


『演劇界』は昭和20年(1945)2月1日発行号(第3巻第2号)を最後に休刊していたが、敗戦まもなく復刊の見込みが立ち、10月1日に復刊第1号(第3巻第3号)が刊行された。

楠山正雄の「演劇の廃墟に立つ」が巻頭を飾るこの復刊第1号に、渥美清太郎と戸板康二の対談「九ケ月間の回顧」が掲載された。

渥美 五月六日には、信州の湯田中へ疎開してゐた羽左衛門が急に歿り、演舞場の興行中ながら家橘と又三郎が駆けつけました。これで先づ確実に玄冶店だけは歌舞伎のレパートリーから削除されるでせう。
戸板 六月には歌舞伎座があくといふ事を前からきいてゐました。非常措置以後ずつと東京都に貸してゐて、慰問公演には使つたにしても、ちやんとした興行に使はずにゐたこの小屋がやつとあくと決まつた。しかも羽左衛門が出る事になつた。その矢先にまづ羽左衛門が死に、次に小屋もやけた。せめてもの事は羽左衛門が来月は自分は歌舞伎座に出るのだと思つて死んだ事です。

戸板康二の羽左衛門を送る言葉がしみじみ胸にしみいる。3月10日の大空襲で焼けてしまった寿座(寿劇場)については、

戸板 寿座は早晩小屋がやけるとでも思ったのか、二月中旬まで芝居をして、さつさと劇団を解消してゐたらしいですね。この小屋は最近でもレパートリーは、中には箸にも棒にもかからぬやうなものもありましたが、珍らしいものが多く、演出も突飛な又かなり緞帳臭のつよいものもありはしたものの、古風でいかにも歌舞伎の面白さの横溢したやり方があつて参考になりました。あの役者たちはどうなつたんでせう。
渥美 鶴蔵や竹若あたりが組んで、亀有あたりの映画館を利用して、芝居をやつてゐるやうに聞きましたが今はどうしましたか。よく大阪式の珍型を見せた延松といふ人は、猿之助一座へ加入を申し込んできたさうです。何しろ寿座のやうな、大衆相手に歌舞伎を見せる小屋が一軒ぐらゐ欲しいものですね。

というふうに語られている。渥美清太郎と戸板康二の寿座(寿劇場)についての対話が文字として残っているのはこれだけだけれど、万感の思いがあったことだろう。


寿座(寿劇場)の残党はその後、松本高麗之助、坂東鶴蔵、坂東竹若の三人が中心になって、昭和25年(1950)3月に、かたばみ座を旗揚げした。小宮麒一編『配役総覧』第7版「かたばみ座 興行 総録(補訂版)」に引用されている「内外タイムズ」昭和25年5月19日に、

戦災前まで都下唯一の小芝居の劇場として本所緑町にその存在を誇った寿座も戦災と戦後の冷たい世相に座員は四散して、座頭格の新之助は大阪歌舞伎に行ってしまい、延松は北海道で客死、鶴太郎は戦災死、その外三枚目の巧者八重之丞が菊五郎劇団に伍したり、福之助、升之丞の若女形が大歌舞伎に腰元級で出たりして哀れをとどめているが、寿座時代の郷愁と芝居への欲求に燃える高麗之助、鶴蔵、竹若の三幹部が寄り合って「かたばみ座」を組織(後略)

というふうに消息が語られている。

戸板康二はかたばみ座に対しては、「〈思い出の劇場〉寿劇場」の末尾に、《ぼくはこの劇団の芝居は、三回見に行っただけである。》と書き添えるのみで、いたってそっけない。

渥美清太郎は、『芝居五十年』の最終章「現在の芝居」の末尾に、

戦争前までは、小芝居なるものが各都会にあって、大劇場では見られぬ空気や製品を展げていたものだが、戦後はそれがなくなって、東京にただ一つ「かたばみ座」というものがあるきりだ。中味は昔の小芝居とだいぶ違う。その代り、歓楽街の興行場に、女剣劇や、ミュージカルショーや、裸ダンスがはびこって、若い人達に満足を与えている。

と書き添えている。東京の小芝居は、昭和20年(1945)3月10日の寿座(寿劇場)の焼失をもって、実質的には終焉したのだった。



『演劇グラフ』昭和28年(1953)1月号より、秋山安三郎文・渡部雄吉撮影「かたばみ座」。《東京唯一の小芝居として持て囃されているが、たまに見物するから新聞などには噂が出るので、実質は松屋小ホールの舞台が狭く、客席は侘しく(衣裳だけは上等に近い)、観ていて自分が落魄を感じるようなところである。》というふうに結ばれている。もうちょっとほかに言いようはなかったのだろうか。

三宅三郎『〈歌舞伎資料選書・5〉小芝居の思い出』(国立劇場調査養成部芸能調査室・昭和56年1月)所収「昭和期の小芝居」に、

 終戦後には、浅草の松屋デパートの六階の「すみだ劇場」というのに行った。かたばみ座が「いもり酒」などをやっていたからである。かたばみ座は、その初期は、上野の不忍池の近くで興行していたのを、見る機会がなかったので、一度は見物しておこうと思ったのだ。やはり小芝居などは、デパートの演芸場などで見るものではないように思えた。(中略)
 このすみだ劇場は、花道も附いているし、後方の見物席は広く、二階のように高くなっているし、比較的整ったよい演芸場である。ただ、ちょっと変わっているのは、入口のところに結婚式の控え室かなにかがあって、その部屋から角かくしに振袖姿の花嫁さんが悠然とあらわれたのに、偶然出会ってびっくりした。しかし六階の窓から見える吾妻橋からのすみだ川の両岸、舟の往き来や遠く向島のほうの眺めなど、私には楽しかった。六、七年前のことで、現在はどうであろうか。

とある。小宮麒一編『配役総覧』を参照すると、昭和27年(1952)6月と昭和28年(1953)7月に、スミダ劇場でかたばみ座が『いもり酒』を上演している。三宅三郎が、浅草松屋の六階から隅田川を見下ろしていたのは、このいずれかのときであろう。



戸板康二『芝居名所一幕見 舞台の上の東京』(白水社・昭和28年12月)より「両国橋」。「産業経済新聞」に昭和28年(1953)年6月から8月まで連載された「芝居名所一幕見」全80篇を収録している。昭和28年の東京写真集としても興趣のあるつくりとなっている。この取材のとき、両国橋に立った戸板康二は、十年前の寿座(寿劇場)見物のことを思い出していただろうか。

 

日本映画の若き日々の実川延松


戸板康二は「〈ロビーの対話〉小芝居回想」に、《当時の寿座のファンに、いちばん喜ばれたのは、延若の弟子の延松[えんまつ]だったと思う。》と書いた。読者にとっても、戸板康二による寿座(寿劇場)の回想でもっとも印象に残るのは、なんといっても実川延松である。延松の《小芝居らしい型》を見ると、一緒に行っている友人と《ニッコリ顔を見合わせたりもした》という、寿座(寿劇場)の椅子の戸板康二さながらに、戸板康二が描写する延松の珍型に頬が緩む。戸板康二曰く、《立役のときの魁車の顔にちょっと似て、ふしぎな愛嬌があった》という延松、その舞台写真すら見たことがないのに、いつのまにかすっかり贔屓役者になっている。


実川延松に関連して、「〈ロビーの対話〉小芝居回想」の載った次号の『演劇界』、昭和52年(1977)10月号の読者投稿欄「見物席」に以下の投稿が載った。

 戸板さんの「小芝居の回想」を読み、実川延松(えんまつ)を懐しく思い起した。小生の延松ファン時代は、寿座時代遡ること二十年余、大正末期のことで、嵐璃徳一座に書き出し役者として、二枚目と女形で活躍していた頃である。随分見た筈なのに、さて記憶にはあまりない。ただ『源平布引滝』はふしぎに憶えている。延松は小まんだった。
 その頃、これも近くの杉岡文楽堂という本屋の帝キネファン会から、小阪の撮影所へ見に行ったことがあった。そこで見た延松の撮影ぶりは面白かった。彼はカメラの前に立つと、身構え表情をつくりながら「まだやで、もう一寸待ってや」と間をおいて「よッしや」と大声を出す。そこでカメラマンはカメラを手で廻しはじめるという、いとものんきな風景だった。
 その後、璃徳は舞台へ返り咲いたが、延松の消息は長い間知らなかった。戸板さんの一文を読んで、東京の彼の舞台姿を是非見たかったものと、残念な思いである。
 ついでに私事を述べさせて貰うと、さきの平野町の杉岡文楽堂という本屋は、芝居好きのおやじが、「俳優名鑑」を最初に出版した本屋であり、小生も編纂を少し手伝ったものである。
 少し後で、「映画俳優番附」という一枚刷りを出したが、これはおやじに頼まれて、小生ひとりでこしらえたのだが、一枚四十銭でよく売れたのには驚いた。当時の四十銭は案外安くない値段だが、然し小生には一銭も呉れなかった。もっとも十四歳の船場のぼんちだから、そんな原稿料?はいらぬ、と文楽堂のおやじは踏んだのかも知れないが。
 それにしても昔はよかった。老いの繰言と笑わば笑えだ。

元「船場のぼんち」、奈良市在住の佐藤新一さんの投稿である。なんという嬉しい投稿であろうか。帝キネ小阪撮影所での延松の撮影ぶりも嬉しいし、杉岡文楽堂のエピソードも面白い…!



杉岡文楽編『俳優名鑑』(杉岡文楽堂、大正14年1月再版)。と、杉岡文楽堂といえば、この大正末期の『俳優名鑑』なのであるが、残念ながら延松の名前は載っていない。杉岡文楽堂の住所は「大阪市東区平野町一丁目」。船場モダニズム、というようなことを思う。昭和11年(1936)9月には御堂筋のガスビルを会場に「杉岡文楽主催 歌舞伎展覧会」が開催されている。


戸板康二は一切言及していなかったが、寿座(寿劇場)の人気役者の実川延松はかつて活動写真で活躍していたのだった(日本映画データベース:http://www.jmdb.ne.jp/person/p0159440.htm )。大正9年(1920)の帝キネを皮切りに、200本近くの活動写真に出演しているらしい。大正13年(1924)に松竹下賀茂へ移ったり、大正15年(1926)に独立プロ・延松映画を設立したりを経て、昭和期に帝キネに戻り、昭和5年(1930)まで出演が確認できるようである。

 と、ここで、児玉竜一「歌舞伎から映画へ――「芸能史」としての時代劇映画前史」(岩本憲児編『〈日本映画史叢書4〉時代劇伝説 チャンバラ映画の輝き』森話社・2005年10月)にある、

小芝居、旅役者の辛酸から這い出した連中が、新天地として求めたのが映画の世界だった。その意味では、歌舞伎と時代劇映画は地続きにあるといっていい。

 というくだりをまざまざと思い出して、胸が熱くなるのだった。



《「忍術膝栗毛 第二奮鬪篇」(1928[昭3]年、江後岳翠監督)ポスター》、図録『展覧会 映画遺産―東京国立近代美術館フィルムセンター・コレクションよりー』(2004年1月)より。実川延松とともに、嵐璃徳、坂東豊昇の歌舞伎畑の名前が並ぶ。明石緑郎はかつて、関西新派の連鎖劇のスターであった山崎長之輔の一門の女形だった。



キネマ旬報増刊10.23号 No.772『日本映画俳優全集 男優編』(キネマ旬報社・昭和54年10月)より、全文抜き書きする。

 1894年5月17日大阪市生まれ。本名・成子松太郎。小学校卒業後、大阪歌舞伎の実川延若(当時・延二郎)の門に入ったが、十九歳のとき修行のため上京し、歌舞伎座に籍をおいて、演技座、大国座、宮戸座などの小芝居を転々とし、1919年帰阪、天活大阪支店経営の連鎖劇場で映画と舞台に出演。20年、帝キネ創立とともに同社に転じ「修善寺物語」「鳥辺山心中」「袈裟と盛遠」23などに嵐璃徳と共演したが、24年3月、帝キネ退社。松竹下賀茂に転じて小谷ヘンリー監督「灯の桜」24に出演する。このころの下賀茂は蒲田から転じた沢村四郎五郎一派の旧劇を撮影していたが、古い舞台洋式からの脱却ができず、会社側がやきもきして、小谷ヘンリーのアメリカ様式を加味したモダン旧劇の衣替えを試み、市川荒太郎、東愛子などに延松を加えて、いわゆる時代劇の創作に方針の転換をはかっていた。しかし、マキノ式のチャンバラ時代劇にはおよばず、規模縮小となり、25年3月に、延松は流行の独立プロを興し、中川紫郎監督で「室町御所」「生玉心中」25などに主演したが、配給機構に恵まれず、やがて映画界から遠ざかった。(田中純一郎)

『日本映画俳優全集』では「えんしょう」とルビが振ってあるが、『演芸画報』および『演劇界』の記事では「えんまつ」とルビが振ってあり、中川哲『東京小芝居挽歌』でも「えんまつ」とルビが振ってあり、加藤武も「えんまつ」と発音していたから、歌舞伎では「えんまつ」だったと断言してもよさそうだけれども、菊池明聞き書き(https://oraltheatrehistory.org/archives/78)では「えんしょう」となっている。ややこしい。


帝キネは、大正9年(1920)5月に天活大阪支店の経営者であった山川吉太郎が設立した映画会社で、天活大阪は連鎖劇を得意としており、独自のカラーを持っていた(図録『映画遺産』)。嵐璃徳は、山川吉太郎が同社の時代劇に招聘し、実川延松も、坂東豊昇も同時に入社、帝キネ時代劇は嵐璃徳を中心に、坂東豊昇、実川延松、嵐笑三が幹部という陣容で出発した。

山川が天活時代に建てた大阪府御厨二九所在の、俗称小阪スタジオでは、彼の経営劇場に出演していた新旧舞台役者が、舞台の合間に声色入りの活動写真をうつしていた。脚本は舞台で使ったものを大して改訂もせずに使い、監督も舞台の時の監督が立ち会った。(田中純一郎『日本映画発達史 1 活動写真時代』)

大正11年(1922)に市川百々之助が入社すると、やがて、百々之助が圧倒的な大スターとして帝キネに君臨することとなった。

大正13年(1924)に松竹下賀茂に転じた延松については、稲垣浩『日本映画の若き日々』(中公文庫・昭和58年6月)所収「京都映画散歩 下賀茂」に、

 松竹キネマが泉川と鴨川の中間に撮影所を建てはじめたのは、大正十二年の初夏のころだった。当時帝キネを離れた沢村四郎五郎と監督の吉野二郎が蒲田に入社して時代劇を作りはじめたが、将来は時代劇にふさわしい条件の下賀茂に移すつもりだった。ところがその年の九月に関東大震災が起こって東京では映画が作れなくなったため、蒲田の撮影所はそっくり下賀茂へ移って急場をしのぐこととなった。(中略)
 時代劇だけを予定して作った撮影所のなかで現代劇を作ることさえ無理なことであったから、そのうちに四郎五郎一派を残して現代劇は蒲田へ引きあげた。沢村四郎五郎という俳優は日活の尾上松之助と張り合ったほどだが、そのころは彼の演技がもう時代に合わなくなっていた。
 そこで、実川延松、市川荒太郎、森野五郎、東愛子、柳さく子といった人々によって、新しい時代劇を作ろうと、所長野村芳亭が自ら陣頭に立って監督をはじめ、米国帰りのヘンリー・小谷監督(蒲田映画に功労の残した人)までが肩入れをした。その意気に感じて、延松、荒太郎などはかずらをかむることをやめて、髪をのばし、月代を剃るという熱心さだった。
「時代劇の役者が髪をのばし月代を剃って町を歩くのは当然のことです。お相撲は髪を結っているじゃないですか」
と言った言葉が印象的だった。だが、その意気込みと裏腹に、下賀茂時代劇は不評をあびた。

 男優が月代を剃るという画期的な運動は、この人たちだけで終わってしまったと、稲垣浩は『ひげとちょんまげ 生きている映画史』(中公文庫・昭和56年5月)に書いている。


稲垣浩言うところの「日本映画の若き日々」、

日本映画の最も華やかなりしころ(大正末期)は、映画界そのものも若かったが、そこで働く人々も若かった。伝統といったしかめつらしいものをもたない自由気ままな世界であったから、集まった者も多種多様、公卿や華族の子女もいたし、学者の娘や倅、あるいは世間を食いつめたろくでなしや、八九三[やくざ]者、社会主義運動家などが隠れこんだり、なかなか棲みいいところだった。

延松も「日本映画の若き日々」を彩った登場人物の一人だった。大正9年(1920)からはじまった約十年にわたる映画界での日々、徳川夢声と同じ明治27年(1894)生まれだったという延松にとっても、1920年代の映画界は《なかなか棲みいいところ》だったのだろうか。



いずれも『映画と演芸』の「帝キネ映画」に掲載の、延松出演の活動写真。『お薬献上』(昭和3年2月号)、『藤枝外記』(昭和3年12月号)、『森の石松』(昭和4年3月号)、江後岳翠監督『豪傑駕籠屋』(昭和4年5月号)。



2016年6月29日開催の「第695回 無声映画鑑賞会」にて、延松主演の帝キネ映画『魚や剣法』(昭和4年)が片岡一郎さんの説明で上映されている!


昭和6年(1931)に帝キネの代行会社として新興キネマが創立された頃、トーキー目前というタイミングで、延松は映画界に見切りをつけて、小芝居に腰を据えることにしたのだろう。小宮麒一編『上演年表』を参照すると、東京の小芝居では昭和7年(1932)の宮戸座あたりからその名を確認できて、翌8年(1933)4月以降、寿座に常時出演しているようである。延松は、以降の役者生活を、小芝居の人気役者として送ることとなった。

実川延松の名前は映画史の記録には残っていても、歌舞伎史の記録にはたぶん残っていない。しかし、寿座(寿劇場)に集った人びとの記憶に残った役者だった。そして、寿座(寿劇場)を見た人びとの回想によって、後世の芝居好きの心のなかで生き続けていった。大芝居、小芝居関わらず、ほかの多くの歌舞伎役者と同じように。


延松の幽霊:八代目中車から加藤武へ


寿座(寿劇場)焼失後の実川延松の消息については、戸部銀作「寿劇場の記録」(『日本演劇』昭和22年11月号)に、

彼は、二十一年八月、八百蔵一座で旭川へ巡業し、第一の当り役「鬼界ヶ島」の瀬尾をやつてゐる時、腹を切られた瞬間、舞台で倒れ、一週間後死んだ。

とある。この話は、八百蔵こと八代目中車により怪談話に仕立てられ、のちのちまで語り継がれることとなった。

まず、加賀山直三「〈幕間5分〉幽霊の声は低かった・中車の体験談」(『かぶきの風景 増補改訂』新読書社・昭和53年2月)を全文抜き書きする。

 先年ある会合で中車と話し合った時、私が「芝居の幽霊というのは、どれも低い声で語り、眠そうな動作をするけれど、だれかカン高い声で、活発に動く幽霊の芝居をしてみたらどんなものでしょうね」というと、中車は即座に「いや、幽霊というものは低い声のもので、現に私が実際に見た幽霊も非常に低い声で、動作もたいへん静かでした」といって、話してくれた幽霊実話を紹介しよう。
 終戦後間もない二十一年の夏、中車が一座を組んで北海道へ巡業した時、ひところ映画で鳴らし、後に本所の寿座に出ていた実川延松(故延若の弟子)が加入したが、体のぐあいが悪くて、妻女が看護婦役がてらに同行した。
 一行が旭川の劇場にかかった時、この妻女が二階から落ちて入院したので、延松は妻女を病院に残して旅を続け、釧路に来ると、食養生の世話役の妻がいなくなったせいか、彼の病勢は悪化して、中車の俊寛に妹尾[ママ]をしていた舞台で、急に倒れた。
 ちょうど俊寛との立ち回りになる前の足蹴(あしげ)にするくだりで、中車は立ち回りぬきですぐ妹尾[ママ]を殺して芝居はそのまま進行したが、閉幕後医者に見せると、内臓が破裂したらしく、とうてい命はもつまいという。
 終戦直後のころで、薬はなし、手術もできないので、本人の希望もあり、妻女のいる旭川の病院へ入れることにして、中車は事細かに指図して汽車にソッとのせて旭川へ送った後、さらに巡業を続けたが、遠軽(えんがる)の芝居に行く時には旭川を通るので、途中下車して病院を見舞うなど、できるだけの親切を尽くしたので、延松はたいへんに感謝した。病気は肝臓のおデキとかで、手術の結果はよかったのだが、心臓が弱っていたため、非常な重体だった。それでも、いろいろ励まして、中車は遠軽へ行き、そこのホテルに泊まった。見かけは洋間だが内部は日本間というその部屋で――
 夜中に、ふと入り口のドビラがあいた気配に中車は目をさました。暗ヤミだが、まくら元の右側に黒っぽい和服姿の男が座っているのがかすかに見える。その男が実に低い声で「延松が死にました」といった。
 中車はおかしいなと思い、聞いている自分は目がさめているのか、幻なのか、または夢を見ているのかと確かめたくなって、まくらの左側の方へ寝返りを打ち、そっちを見ると、昨夜、たばこ盆にさして置いた三本の蚊取線香のうち、両側の二本は消えて、真ン中のが危うく尽きかかっている。やっぱり現実だったのだなと確認して、もう一度怪しい人の方へ向き直り、念のため「え?」ときき返すと、その人はグッと傍に寄って、前より低い、しかし、ハッキリした声で「延松は死にました」というなり、スーッと出て行った。残りの線香がその時燃え尽き、中車は息を整えて立ち上がり、電灯をつけると、時計は二時三十八分を示している。
 その翌朝、旭川から延松の死去の知らせが来たが、まさにその時刻に息を引き取ったということだった。
 この怪談、しきりに幽霊の真偽を確かめるなど、理詰め派の中車にピッタリだが、俳優怪談にも昭和色のあるのが面白いではないか。

加賀山直三は戸板康二と違って、《ひところ映画で鳴らし》と延松の活動写真時代にについて言及してくれているのだったが、さて、加賀山直三の文章では、延松は釧路で倒れて、汽車で旭川の病院に移動して入院して死んだということになっている。中車が延松の訃報に接したのは遠軽だった。

この話は、戸板康二の「〈ロビーの対話〉小芝居回想」でも触れられていて、

 さっき書いた延松は、戦後、のちに八代目中車となった八百蔵と一座して、地方を巡業していた。『石切梶原』で、主人公はむろん八百蔵、延松が大庭か六郎太夫に出ていたようである。
 八百蔵がどうして、そういう一座で旅をしていたのか、事情は知らないが、北海道に行った時、小樽で延松が病気になった。
 病名は明らかではないが、さっそく入院させて、一座はほかの土地に移動した。
 これは、中車からじかに聞き、話術が何しろ昔からNHKで物語を放送しているだけにうまいのでゾッとしたのだが、釧路(としておこう)の宿で、蚊帳にはいって寝ていると、蚊帳のそとから声がかかって、「延松でございます」といった。
 「おや、もう、よくなったのかい」と、起きあがると、人がうずくまっているので、蚊帳から出ようとしたら、ふッと姿が消え、間もなく、弟子が部屋に来て、「いま電話がはいりました。延松さんがなくなったそうです」といったというのである。
 うずくまっていた人影のそばにあった、渦巻型の蚊取り線香の火が、ずっとハッキリ見えていたのだから、「こりゃア、夢でなかったんです」というのが話の結びであった。
 寿座に行くたびに楽しみに見たという意味では、ぼくも延松のファンのひとりだったので、この話は、他人事というよりは、身近のものとして聞かれた。

加賀山直三の文章と異なる箇所がいくつかあるけれども、延松が八百蔵の一座で巡業中に北海道で死んだこと、それが夏であったこと、蚊取り線香が重要な小道具となっていることは共通している。戸部銀作によると、それは昭和21年(1946)8月の出来事だった。その後、八百蔵こと八代目中車の怪談話で語られることで、延松の名前は語り継がれていった。


『演劇界増刊 歌舞伎俳優百科』(昭和34年12月)の「市川中車」の項に、

……一時、彼はラジオの物語の世界に逃避せざるを得なかったとも言える。
 終戦後、まだ東京の劇場が復活しなかった焼野原のとき、熱海の街に「ラジオ界の巨星市川八百蔵来演」というビラがかかっているのを、たまたま。ぼくは見出して感慨に耽った記憶がある。

と、竹越和夫が書いている。北海道巡業の折も、そういうビラがかかっていたのかもしれない。八代目中車こと市川八百蔵は、ラジオの物語放送で全国的に名を知られた役者だった。かつてのラジオは、かつての映画とおなじように、不遇をかこつ役者にとっては新天地のような場所だったのかもしれない。戸板康二は、『わが人物手帖』(白鳳社・昭和37年2月)の「市川中車」の項に、

中車は、八百蔵時代に、早くから放送の方では練達の士といわれた。物語が得意で、戦前、いろいろなものを僕も聞いている。その前には、新派の故梅島昇が、やはり物語のタレントとしてよく出たが、梅島の持ち味と中車の持ち味とが、どこか似ているのも、興味のあるところだ。

と書いている。と、梅島が引き合いに出されているのが非常に興味深いのだったが、『演劇年鑑 一九四七年版』の第一部「〈記録〉放送劇」で坂本朝一は、八百蔵出演の放送として、昭和18年(1943)9月放送の村上元三作『月夜囃子』、昭和20年(1945)3月2日から4日に放送の村上元三作『天田五郎』、4月6日放送の宇野信夫作・演出『薄紅梅』、6月18日放送の夢声と共演の宇野信夫作『朝すじめ』、7月18日放送の村上元三作『箱根馬子唄』を挙げている。八百蔵の脂ののった仕事ぶりがひしひしと伝わってくる。



ぐらもくらぶの2枚組CD『物語 宮本武蔵 吉川英治原作・市川八百蔵 甦る戦前のラジオ名朗読』。昭和16年(1941)7月発売のポリドール盤のSP音源がぐらもくらぶによりCD化されている。CDの惹句に《戦時下の国民娯楽としてのラジオ・コンテンツを70年の時を経て完全復刻》とある。

同CDの解説、濱田研吾「夢声の武蔵か、八百蔵の武蔵か…」によると、吉川英治作『宮本武蔵』はJOAKの連続物語として、昭和14年(1939)9月5日から翌15年(1940)4月28日まで全26回放送、坂東簑助(八代目三津五郎)が第1回、夏川静江が第2回、徳川夢声が第3、13~16、19~22回、神田伯龍が第4回、市川八百蔵(八代目中車)が第5~12、23~26回、棚橋公が第17、18回の語り手をつとめたという。

八百蔵こと八代目中車の語る『宮本武蔵』に夢中になっていたのが加藤武だった。夢声ではなく八百蔵の方に惹かれているあたり、天性の芝居好きが窺える。加藤武曰く、《六年生の暮に大東亜戦争とやらが勃発。我等、国民学校第一回卒業生となった》(『昭和悪友伝』所収「泰明小学校の同輩ども」)。昭和14年から翌年にかけての放送を聴いていたとしたら、泰明小学校時代ということになるけれども、戦時下に聴いていたという話だったから、昭和15年よりあとにも八百蔵独演の『宮本武蔵』が放送されていたのかもしれない(昭和18年9月以降には夢声独演の『宮本武蔵』が放送されていた。)。いずれにせよ、加藤武が、2005年6月から始めた独演会『加藤武 語りの世界』で『宮本武蔵』をとり上げたのは、八百蔵こと八代目中車へのオマージュだった。公演のマクラで語られていた八代目中車をはじめとする、歌舞伎役者の思い出話およびその声色がひたすら懐かしい。

夢声、八百蔵、加藤武のそれぞれの武蔵については、同CDの解説、片岡一郎「三人の『宮本武蔵』」に

八百蔵の語り口は豊かな地声と確かな口跡に妙味があり、聞く者の耳を飽きさせない。夢声が間を重視し、映画説明者(活動写真弁士)らしく物語世界を外部から俯瞰して語るのに対し、八百蔵は役の匂いや息遣いが伝わってくる生々しさをもって『宮本武蔵』を読んでいる。加藤の朗読は八百蔵の表現を念頭に置きつつ、新劇俳優としての説得力ある演技と諸芸に対する素養を併せたものと言えようか。

とあり、実演家ならではの解説が素晴らしいのであった。



2015年7月19日にお江戸日本橋亭で開催の『加藤武 語りの世界』のチラシと、その後に発売された2枚組CD『加藤武 語りの世界』。加藤武はこの12日後(7月31日)に急逝、最後の独演会となってしまった。同CDのライナーノーツに、2005年6月18日に日本橋亭で始まった『加藤武 語りの世界』の十年間にわたる全35回の上演年譜が掲載されている。

チラシの裏面には、主催者(宮岡博英事務所)の口上として、《加藤は、戦後三原橋で催された八百蔵の語りの会にも観客として参加しており、そのひそみに倣い、今回初演いたします。》とある。最後の独演会で披露された『市川中車の大島綺譚』のマクラに、八百蔵が延松の幽霊に遭遇した怪談話が語られている。つまり、寿座(寿劇場)で活躍していた実川延松について、加藤武が口にするところがCD化された。2015年7月31日に急逝した加藤武の最後の公演『市川中車の大島綺譚』がCD化されたことで、加藤武が「実川延松」と発音するところが記録として残ることなった。


加藤武「八百蔵の怪談話」(『街のにおい芸のつや』)では、八代目中車こと八百蔵の武蔵について、

 舞台もさることながら、中学生の私が八百蔵の熱烈なファンとなったのは、NHKラジオで吉川英治作『宮本武蔵』の朗読を聞いてからだ。
 放送局は、NHKしかなかった。徳川夢声の『武蔵』も、あの殺伐とした戦争中、ラジオを通して我々の心を癒してくれた。一方、八百蔵の『武蔵』は、さすがに役者で、人物の仕分けがうまく、その流れるような語り口に、思わず聞き惚れてしまった。

 と、八百蔵の武蔵に夢中になったのは、中学生のときのことと回想している。国民学校第一回卒業の加藤武の中学校生活はそのまま戦時下の歳月であった。戦後の三原橋での八百蔵の語りの会のときのこともたっぷり語られている。

 戦後、「市川八百蔵語りの会」を聞きに行ったことがある。三原橋の交番の後ろに貸席があって、そこで夏の夕べに催された。
 呂の着流し姿の八百蔵が、まずは『宮本武蔵』の朗読から始めた。宍戸梅軒、鎖鎌の一節、「風車」の件で満場をうならせた。これはテーブルを前にして椅子に坐って演じたが、休憩後は、「私の体験した怪談話」という題で、高座仕立てで怪談を一席語った。
 ご当人は、
「私も寄席が好きで、ずいぶん名人の話を聞きに通ったもんですが、本席はこんな形で怪談を語るなんて、いささか照れてしまいます」
と前置きしていたが、その話たるや、噺家はだしのできばえであった。

加藤武が『市川中車の大島綺譚』として語っていた、八百蔵が大島で自殺を企てたけれども思いとどまった顛末と合わせて、そのマクラで語られていた延松の話が「私の体験した怪談話」として三原橋の貸席で語られたようだ。

延松の幽霊話については、

 実川延松という小芝居の役者がいた。八百蔵とも親しくしていた。敗戦直後のことで、東京は、芝居をかける劇場がすべて空襲で焼けてしまって、役者は、地方に巡業に出かけなければならない。交通も食糧事情も最悪であったから、大変な旅であった。
 長い巡業に出ることになった延松は、八百蔵に別れを言いにきた。永の別れになるわけじゃあるましいと、とひやかして、お互い別々の旅路についた。
 八百蔵が行った先は、山形県の上山温泉。私の兄が偶然、疎開していた知人を訪ねて、このときの八百蔵の『切られ与三』を見ている。
 温泉の宿で寝ていた八百蔵は、誰かが枕元に坐って、顔をのぞき込んでいる気配で目を覚ます。東海方面を『俊寛』の瀬尾で回っているはずだった延松だった。「実川延松は死にました」とはっきり告げて姿を消した。
 旅先で、延松は食中毒にかかった。病を押して舞台を勤めていたある夜、「くたばれ、俊寛」と言った途端、倒れてしまった。
「くたばれ……と言って、延松、自分がくたばっちまいました」
 苦笑して、八百蔵は話を終えた。

加賀山直三や戸板康二の文章にあった、北海道巡業中の話ではなくなっている。けれども、八百蔵のもとに延松の幽霊が自らの死を告げにやってきたことと、延松の最後の台詞は瀬尾の「くたばれ、俊寛」だったという点は共通している。ちなみに、加藤武「八百蔵の怪談話」は1989年の一年間、歌舞伎座の筋書に連載されていたエッセイ「歌舞伎ちょっと寄り道」のうちの一篇である。戸板康二も招待日の歌舞伎座の椅子で読んでいたことだろう。


2015年7月の最後の独演会の前月に刊行された、『ユリイカ 特集・桂米朝』(青土社・2015年6月)に、加藤武は「聞き納め桂米朝話」を寄稿していて、

 私は観ていないが東京にも本所に「寿座」という小芝居の小屋があった。関西歌舞伎からドロップアウトした実川延松なる役者は座頭を務めていた。米朝さんはこの延松の芝居を観ていて延松が「先代萩」の八汐で見せた大阪式のくさい芝居を実演してくれた。奇しくも私は八代目中車から怪談めいた延松の話を聞いていた。戦争最中、巡業中の宿の中車の枕元に延松が現れて自分の死を告げて消えた。気にした中車が人伝てに訊くと、旅先で食あたりした延松は舞台で妹尾[ママ]を演じていて「くたばれ俊寛」と言った途端に倒れてしまったそうだ。この話を米朝さんは興味深く聞いてくれ何かの因縁を感じたようだった。

と、八代目中車の怪談話のことを綴っている。大芝居育ちの加藤武は寿座(寿劇場)には行ったことはなかったが、四つ年上の米朝は寿座(寿劇場)に行ったことがあるばかりでなく、延松の八汐のクサい芝居を実演してみせていた!

豊田善敬・戸田学編「桂米朝 年譜」(豊田善敬・戸田学編『桂米朝集成 第四巻 師・友・門人』岩波書店・2005年2月)を参照すると、米朝は昭和18年(1943)4月に上京して、大東文化学院に入学、翌月にさっそく正岡容の知遇を得て弟子入りしている。

この上京時代のことをのちに、《あの時代、結局東京には一年半ぐらいしかおらなんだけれども、私はいろんなところを見て廻ったりして、あの十代後半の学生時代に貴重な体験をすることができた。これは生涯残ります。》、《(関西には)講釈場はもうなかった。小芝居は、全然ないこともない。京都に一軒、兵庫の方に一軒。大阪には小芝居はもうなかったな。東京にはまだ、本所の緑町の寿座という小芝居があって、そこへよく行った。》と語っている(濱久雄・桂米朝「対談 大東文化学院本科に学んで」、『桂米朝集成 第四巻 師・友・門人』)。昭和18年4月から翌19年11月に入隊通知が届くまでの東京の学生時代の米朝は、講釈場、寄席、芝居というふうに《いろんなところを見て廻った》、そのなかのひとつが、寿座(寿劇場)だった。

米朝は初めての帰省の折、昭和18年(1943)8月、正岡容の紹介の名刺を携え、大阪市東成区片江町四一八の「楽語荘」に五代目笑福亭松鶴を訪ねた。米朝が寿座(寿劇場)で延松の八汐を見たのは、この一カ月後、帰省先から戻ったあとの9月後半(11日初日)だったはず。その翌月、10月10日日曜日正午に、大塚の鈴本演芸場で正岡容主宰の五代目松鶴の独演会が催されている。戦争中、正岡容は大塚の鈴本で「寄席文化向上会」を主宰していたのだった。『桂米朝集成 第四巻 師・友・門人』所収「五代目笑福亭松鶴」に、このときの案内はがきの図版が掲載されている。

案内はがきを受けとった徳川夢声は、大雨のなかを大塚へ出かけ、木戸銭(税込1円35銭)を払って寄席に入った。『夢声戦争日記(三)昭和18年』(中公文庫・昭和52年9月)に、正岡容が《釈台に両肘をついて、大阪落語の解説》をやり、松鶴は「伊勢参り」「猿後家」「三枚起請」「次の御用日」のたっぷり四席披露したことが記録されている。

始めて笑福亭松鶴老の話をきく。大いに面白く、大いに感服した。この結構な大阪落語というものが、このまま亡びて了うのは如何にも残念である。文楽人形を残しておくように、ちゃんと古典として残しておくべきものだ。事実、近来珍しく寄席の楽しさを味わう事ができた。四席やって飽きないという事も、えらいものだと思う。三代目小さんの独演会でも三席きくと飽きたものだが。もっとも、この頃は本筋の落語をあまり聴きつけないので、それで味がよかったのかもしれない。

 と、《大いに感服》してるのが、さすが夢声と思う。終演後、《楽屋に行って敬意を表すると、そこへ安藤鶴夫、斎藤豊吉の両君と、伊藤晴雨画伯がやって来て議論風発》となったという。なんと濃い顔ぶれであろうか。

『桂米朝集成 第四巻 師・友・門人』に、2004年12月4日に実施されたインタビュー「五代目笑福亭松鶴」(聞き手:豊田善敬、戸田学)が新規に収録されていて、『夢声戦争日記』に記録されている五代目松鶴の独演会についての話題が出ている。

――先ほどの正岡さんのハガキにあった、昭和十八年十月十日に開催された東京の大塚鈴本演芸場の「寄席文化向上会」で、五代目の独演会が行われていますが、この時は、もう師匠はお手伝いのような形で行かれていたんですか。
米朝 いやいや、まだ、そんなことはない。普通に行って、木戸銭を払うて、お客として聴きました。それで二、三日のうちに正岡さんのところへ行って、感想を述べたり、裏話を聞いたりしてましたんやけどね。
――その時は楽屋へは行かれてないのですか。
米朝 いや、その後は行くようになりましたけど、あの時はまだやな。

とあり、「聞き手も聞き手、語り手も語り手」といった感じのインタビュー記事に感動してしまうのだったが、寿座(寿劇場)に話を戻すと、米朝が延松の八汐を寿座(寿劇場)で見たのは五代目松鶴独演会の前月、昭和18年(1943)9月後半のことだった。思わず真似したくなってしまうような八汐だったのだろう。

加藤武が中車の怪談話のことを話したとき、《この話を米朝さんは興味深く聞いてくれ何かの因縁を感じたようだった》と、加藤武は言う。こうして、昭和18年(1943)9月の寿座(寿劇場)の延松の八汐は、桂米朝の実演を通して、加藤武の記憶に残ることなった。2015年7月21日に加藤武の最後の独演会『市川中車の大島綺譚』を聴いた身にとっては、八代目中車から伝えられた延松の登場する怪談を本編のマクラとして、加藤武から直接聴くことができた……ということに、寿座(寿劇場)の断片に直接触れることができたかのような《何かの因縁》を感じてしまう。かなり苦しいこじつけではあるけれども。

戸板康二は、歌舞伎座の筋書に、昭和58年(1983)年1月から「ちょっといい話番外」として、その月の上演演目にちなむコラムを連載していた。この連載は、1993年1月23日の他界まで続き、最後の「ちょっといい話番外」は1993年の二月興行の筋書に掲載された。

その「ちょっといい話番外」を全篇収録した、『歌舞伎 ちょっといい話』(岩波現代文庫・2006年1月)を繰ってみると、延松の名前が二度登場している。寿座(寿劇場)のことはずっと戸板康二の記憶に残っていたのだった。

昭和63年(1988)2月歌舞伎座「挿話 二月興行 菅原伝授手習鑑」
「寺子屋」は、ずいぶん、いろんな型があったようだが、中村宗十郎の型というので、源蔵が考えながら花道を出てきて、戸口の前を通り過ぎ、ハッと気がついてUターンするのである。私は戦争中、本所の寿座で、河内屋の弟子の延松によって、そういう源蔵を見た。
平成3年(1992)11月興行「伽羅先代萩ー御殿、床下」
戦争中、空襲で焼けるまでの本所の寿座の芝居を見にゆくのが楽しみだった。二代目延若の弟子の延松の型がいつもおもしろかったが、八汐に出た時、千松を刺したあと短刀の柄をピシャピシャたたくのには、驚いた。

 米朝が加藤武に実演してみせた《延松が「先代萩」の八汐で見せた大阪式のくさい芝居》のなかに、このくだりもあったのだろうか。と、それはわからないけれども、歌舞伎座の椅子で戸板康二の「ちょっといい話番外」を読んで、寿座(寿劇場)を懐かしく思い出す観客は、三十年前はまだまだ少なくなかったことは確かだろう。寿座(寿劇場)のことを思い出すとき、たいていの人は、実川延松のことを同時に思い出していたに違いない。

 

1940年代寿座(寿劇場)抜き書き帳


戸板康二は「〈思い出の劇場〉寿劇場」に、寿座(寿劇場)へ時々行くようになったときのことについて、

ことに、戦局がはげしくなり、都心の小屋の大歌舞伎が情報局の指令で堅苦しい国民演劇を上演している時、隅田川の向うにゆくと、大正期まで歌舞伎に残っていたはずのいささか猥雑な舞台が見られるのが魅力だった。

と書いた。これは、芝居好きの共通の感慨だったようで、1940年代は寿座(寿劇場)は芝居好きの間でブームのようなものになっていて、独特の活気に満ちていた。昭和16年(1941)頃から、戸板康二が寿座(寿劇場)に時々行くようになったのは、そのブームに乗ってみたという面もあったのだろう。

昭和15年(1940)5月23日の古川ロッパ日記に、

 十時起き。今日は本所の寿座へ、珍しい古い歌舞伎を見に行かうと、山野と市川光男を誘ったのだが、東宝本社へ三時に来てくれとの電話で予定変更。松竹座へ、新興演芸部の漫才きゝに行く。ハットボンボンスといふのをきゝたかったが、見損ふ、ワカナ・一郎その他の漫才貧弱。
(『古川ロッパ日記昭和日記〈戦前篇〉新装版』晶文社・2007年2月)

というくだりがある(ロッパはこの以前、昭和12年12月23日に寿座(寿劇場)で中山延見子一座の興行を見ている。)。昭和15年5月三の替りは『馬盥』『酒屋』『嫁おどし』『野ざらし』だった。1940年代の寿座(寿劇場)は、戦時下の情勢のもとで、《珍しい古い歌舞伎を見に》やって来た芝居好きの人びとで大いに賑わっていたのだった。


同時代の文章その1:小谷青楓「寿劇場の今昔」


1940代の寿座(寿劇場)の雰囲気を伝える、同時代の文章として、まず、『演芸画報』昭和16年(1941)4月号掲載の、小谷青楓「寿劇場の今昔」がある。

小谷青楓は、『演芸画報・人物誌』(青蛙房・昭和45年1月)において、とびきり印象的な人物のひとり。戸板康二は、昭和9年(1934)に慶應歌舞伎研究会の催しで、青楓の講義を聴いたことがあり、《声はちがうが、渥美清太郎と同じように、淀みのない雄弁だったように、おぼえている。》という。

小谷青楓は明治20年(1887)に生まれ、明治32年(1899)に日本橋通油町の水野書店に勤め、二年後に、神田通新石町の東陽堂に移った。『風俗画報』『絵画叢誌』の版元である。明治36年(1903)に勤めを辞めて、雷坡学館、東亜学館を経て、中谷中学の夜学校に入学、明治40年(1907)に特待生で卒業、夜学校の職員になり、その年の秋に、《深川高橋の本屋で「歌舞音曲」という雑誌(編集担当は半井桃水、右田寅彦、饗庭篁村)を見ていると、本所切り通しの上に移風音楽講習所というものがあるのを知って訪れた》と、このあたりから、のちに『長唄註解』(法木書店・大正2年4月)、『長唄の心得』(玄文社・大正9年3月)の著書を持つ長唄専門家となる端緒が開けてきた。

と、その明治36年(1903)から七年間、青楓は寿座の近所に住んでいた。《「石の上にも三年」といふ諺があるが、私は本所寿劇場横の石の上に七年も居ました。》という書き出しで、「寿劇場の今昔」の「昔」が語られてゆく。

 両国橋が鉄橋になつたのは明治三十七年で其前は「忠臣蔵」の義士引揚に見る通りの木橋でした。回向院の赤門に直面した位置で、橋の袂を北へ行くと「紅皿欠皿」阿部豊後守隅田川乗切の遺跡駒止橋があつた。これを渡ると直ぐ右折する細い道――南裏通りの所謂馬車通(錦糸堀万世橋間の円太郎馬車が往復して居た)よりは遙かに狭い道路がありました。これが今日の国技館前の電車通の前身です。それをズーツと緑町二丁目迄行くと「本所には過ぎたる物が二つあり、津軽大名炭屋塩原」俗に津軽ツ原と称する広大な原ツぱがあり、後に本所公園と命名された。この南端に緑亭といふ講釈場がありましたが、これが今停留所前の、家と家との間にある寿劇場広告、狂言名題俳優連名を書いたペンキ塗看板の位置に当ります。劇場は此後へ西向に建築されたのでして、電車線路の敷石の辺に四軒建の長屋があつた。駄餅屋パン屋煙草屋下駄屋が軒を並べて居たが、その煙草屋に私は明治三十六年から七年間巣を食つて居たのです。
 四十三年にこの四軒家は取払はれ、後の牧野子爵邸の庭跡に建てられたのが現在の東京瓦斯で、その隣家寿劇場の金主吉村呉服店は、昔の儘の位置でギーッと後へ引かれたゞけ、その真向の酒屋と娘の代に変つた産婆が相変らず栄えて居るのみで、周囲は全部一変しました。こゝだけではない。西は、亀沢町の乗換場から、東は江東橋迄、南側全部が取拡げられて、今日の電車通りが完成したのです。

徳川の時代から何度か架け替えられた両国橋は、明治30年(1897)8月の落下事故を機に、鉄橋の橋に架け替えられることとなり、明治37年(1904)11月に完成した。同年4月5日に、本所駅(現在の錦糸町駅)が終着駅だった総武鉄道が延伸し、両国橋駅(昭和6年に両国駅に改名)が開業していた。

東京市電の両国橋線(小川町~両国橋二丁目)のもととなる、小川町・両国間の電車が開通したのが明治36年(1903)年12月29日で、両国橋を渡った次の停留所、両国橋東詰は翌37年(1904)頃に開通した(『日本鉄道旅行地図帳 5号 東京』新潮社・2008年9月)。江東橋から寿座の最寄りの「緑町三丁目」を通る市電が開通したのは、明治44年(1911)12月28日だった。

明治36年(1903)に開業した東京の路面電車は、明治44年(1911)8月1日に東京市電気局が開設され「東京市電」となったところで、いち段落つくこととなる。伊原青々園言うところの「団菊以後」とは、電車の時代でもあった。小谷青楓が寿座の近くの煙草屋に下宿していた、明治36年(1903)以降の七年間は、電車の時代への過渡期だった。つまり、東京が大きな変貌を遂げてゆく真っただ中の歳月だった。



『江戸切絵図 嘉永新鐫 本所絵図』。国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286679/1)より。小谷青楓の文章をたどってみると、赤丸で囲んだ「駒留橋」を渡って右折する細い道がのちの京葉道路の前身である。明治25年生まれの芥川龍之介は、《両国橋の木造だった頃には、駒止め橋もこの辺に残っていた。》と回想している(「〈大東京繁昌記〉本所両国」)。徳川時代の本所といえば津軽屋敷、七千坪にわたる広大な地だった。明治期に東京府に公園として寄附された。戸部銀作「寿劇場の記録」(『日本演劇』昭和22年11月)によると、寿座はその一部を借り受けて、建設されたという。その場所はちょうど赤丸で囲んだ津軽越中守の屋敷であった。



昇亭北寿『東都 両国之風景』。ボストン美術館(https://collections.mfa.org/objects/268332/view-of-ryogoku-bridge-ryogoku-no-fukei-from-the-series-t?ctx=6b523675-18d7-4d2c-879a-c2d7bcbd486c&idx=117)。両国橋を渡った先に広大な津軽屋敷があった。



歌川広重『新撰江戸名所 両国納涼花火之図』天保10~13年(1839-1842)頃。ボストン美術館(https://collections.mfa.org/objects/237584/fireworks-in-the-cool-of-the-evening-at-ryogoku-bridge-ryog?ctx=c06ae76c-6715-4279-a286-3ec3b7f8c214&idx=106)。



小林清親『武蔵百景之内 両国花火』明治17年(1884)。ボストン美術館(https://collections.mfa.org/objects/255618/fireworks-at-ryogoku-bridge-ryogoku-hanabi-from-the-serie?ctx=f3f8e258-bb9b-4893-94da-b57cba05fe41&idx=1)。万治2年(1659)に完成以来、天保9年(1838)まで十数回架け変えられてきた両国橋であったが、明治8年(1775)12月架橋の橋が最後の木橋となった(石川悌二『東京の橋』新人物往来社・昭和52年6月)。



絵葉書《(大東京の十六橋)両国橋》。ボストン美術館(https://collections.mfa.org/objects/416573/ryogoku-bridge-tokyo-from-the-series-the-sixteen-great-brid?ctx=184e6b04-2d91-468a-a52a-7567fa3288d8&idx=230)。明治37(1904)11月12日に開通式が挙行された鉄橋の両国橋。電車の時代の幕開けを飾った両国橋。



絵葉書《(大東京)隅田川の名橋両国橋より国技館を望む》。ボストン美術館(https://collections.mfa.org/objects/420789/kokugi-kan-wrestling-hall-from-ryogoku-bashi-bridge-from-t?ctx=92b0d5fe-1f29-4406-b57f-c78f1f2ea03d&idx=265)。昭和7年(1932)5月18日、渡初式が挙行された(白井芳樹「隅田川震災復興橋梁両国橋の設計の考え方(http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/2010/30-0069.pdf)」、『土木史研究講演集』Vol.30、2010年)。久保田万太郎は翌月国技館へゆく途中、開橋記念で賑わう両国橋を車で渡り、《欄干だけの、野広い感じの、何の修飾もない橋》と悪態をついている(「角力」、『久保田万太郎全集 第十一巻』)。


小谷青楓「寿劇場の今昔」の「今」、昭和16年(1941)春の風景は、

電車道の角には遠くから望める目標の幟、その下に三枚、曲つて三枚、鳥居流の、鳥居流の絵看板が彩色も濃厚[こつてり]と美しく、赤塗の春日燈籠を数本装飾に立てたのは、神様じみるが優雅です。以前は角に小松家といふ芝居茶屋がありました。劇場[こや]は何式と云ひますか? 現代型の半バラツクで貧弱な建物の、左角が事務所、これと小路一つを隔てた北隣の撞球場[ビリヤント]は柏家といふ芝居茶屋の跡です。横手の楽屋口たる裏門迄の石塀は、位置も高さも形も昔の通りで、誠に古色蒼然たるものがあります。木戸前には贔屓先から俳優へ贈られた色取々の幟を、花やかに林立させてあるのが、春風に翻つて長閑です。この情景こそ今日では、大東京広しと雖も、此座以外に他では見られぬ、懐しい芝居町風趣でせう。

というふうに描写されている。寿劇場(寿座)の周囲には「今昔」が混在していた。

市電の「緑町二丁目」の停留所を降りると、その停留所の前には《家と家との間にある寿劇場広告、狂言名題俳優連名を書いたペンキ塗看板》があり、電車道と寿座(寿劇場)の路地の角の幟が遠くから見える。かつては小松家と柏家という名の芝居茶屋があった。

阿部優蔵『東京の小芝居』に引用されている『演芸画報』大正4年9月号の記事によると、芝居茶屋は森三之助一座が連鎖劇を開始する大正4年(1915)9月に廃止された。このときの改装で寿座は椅子席になった。柏家の跡地は撞球場になっている。劇場の建物は粗末な半バラック。それでも、《横手の楽屋口た裏門迄の石塀》は昔のまま、木戸前の《色取々の幟》が春風に翩翻と翻るさまと相まって、芝居情緒たっぷり。

 出勤俳優は座頭格、新之助、書出し所は高麗之助、其他鶴蔵、薪車、我蔵、延松、竹若、鶴太郎、米十郎、八重之丞と、何の事はない宛然、往年の宮戸座の引越興行といふ形ですが、この中で古い寿座を知つて居るのは新之助だけでせう。

「古い寿座」というのは、阿部優蔵『東京の小芝居』に《小芝居の花形小文次(後の新之助)が入座、九女八が複座》とある明治43年(1910)あたりのことを言っているのだろう。

その当時全盛期だった宮戸座は、昭和12年(1937)2月をもって閉場していて、以降、寿座(寿劇場)は東都唯一の小芝居小屋だった。寿座(寿劇場)に来ると、往年の小芝居好きはおのずと宮戸座を思い出していたのかもしれない。

 俳優ばかりではありません。宮戸座に似た所は、平家建で二階の無い事。左右に高土間式の特等席がある事、番組[プロ]をくれず、筋書として売る事、舞台の左右に次狂言の予告が出て居る事、幕間に寿司など売りにくる事等、総て宮戸流です。特等席の上へ藤棚のやうな屋根を作り、東西へ十五づつ、商店の売出し然と長い提灯をブラ下げて、片面へ「歌舞伎」片面へ「勧善懲悪」と書いたのと、鴨居や柱、花道の両端迄赤ペンキで塗つたのが異彩を放ち、南側に売店の並んだ運動場があるのは、小芝居としては広々と、のんびりして居ます。定員三百二十二人ですが超満員の大盛況、役者の幕を引くのも好い気持なものです。

往年の小芝居情緒が具体的に綴られていて、素晴らしい。寿座(寿劇場)とともに宮戸座にも思いを馳せる。ただし、ここでは《定員三百二十二人》と書かれているけれど、戸部銀作「寿劇場の記録」には、《定員は六百、詰めれば千人は楽に超す》とある。


このあと、同年2月28日初日の「三月上十日」の印象が綴られている。『矢口渡』『日光陽明門』『戻橋』『輝虎配膳』という狂言立てだった。『矢口渡』の頓兵衛を勤めた延松については、

此優[このひと]の老役は初めて見ましたが柄はあり、調子[こゑ]も寂びて居るので可い。壁を切り破る砂埃や、暗闇で柱へ額をぶつける可笑味、引込の韋駄天走りなどを特に入念に見せるので、手強さ、憎みよりも愛嬌の勝つた演出です。

と、小芝居気分のみなぎった感じが伝わってくる。『日光陽明門』は大正8年(1919)4月に、七代目宗十郎と七代目幸四郎により帝劇で初演された右田寅彦の新作で左甚五郎もの、渥美清太郎『系統別歌舞伎戯曲解題』には、《実は陽明門の大道具を見せる為の作だった。》と書かれている。この上演は帝劇以来の再演で、翌17年(1942)10月に寿座(寿劇場)で再び上演されたのを最後に、その後の東京では上演されていないようである。

『戻橋』は薪車改め三代目坂東鶴蔵の改名記念の演目で、綱に扮する座頭の五代目新之助が口上を勤めた。

 第三の戻橋で、新之助の綱は英姿颯爽、余吾将軍の如き気品を備へて大立派です。小百合を伴ふ所で草履を脱ぐので、これは珍型と驚いたが、両人舞台真中で坐しての口上。綱実は新之助は曰ふ、「これなる三代目阪東[ママ]鶴蔵は、前名薪車と申しました頃、当座に出勤致して居りましたが、改名致しましてよりは初めてのお目見得にござります」名調子凛々と響いて、座頭の貫禄充分です。但しこの綱殿破風造りの屋上で腕を切り(前に甚五郎、これで同人二度目の腕切)鬼女だけに宙乗をさせてのチヨンは、旭梅夫人の抗議からでも御座らうか。復座新加入鶴蔵の扇折小百合、踊は巧い優だが、小粒で猪首の三津五郎型なので美しさと凄みに乏しい。後ジテの鬼女になつてからは堂々たるものでした。歌男太夫、文治郎塔等の常磐津も、大薩摩連中も劇場[こや]相当。

『戻橋』では鶴蔵は宙乗りをしていたようだ。戸部銀作はこの鶴蔵の加入をもって、寿座(寿劇場)の五頭目が揃ったとしている。五頭目とは、新之助・高麗之助・鶴蔵・延松・竹若のことで、鶴蔵が戻ったことで、1940年代の寿座(寿劇場)では舞踊が多く上演されるようになった。その意味で、記念すべき興行であった。


ふたたび、小谷青楓は寿座(寿劇場)の「昔」を語る。

 現在の位置に建築竣工したのは……記録を持ちませんが、明治三十一年だと思ひます。座主は宮坂徳次郎、丸に剣かたばみが座の定紋です。

青楓は、明治31年(1898)5月の初開場のときも寿座に見物に行っているのだった。さっそく二日目に立見にゆくと、観客は平土間に三十人いるだけで、《高い所も安い所もガラン/\》だったという。

 この劇場[しばゐ]は何うして人気が無かつたかと云ふと、一つには当時は地の利が悪かつた。本所も北部の人は浅草に行つて了ふし、お江戸から橋を渡つて来る人は稀です。たゞ近所の者か小松川方面からの客だから心細い。もう一つは出方留場が皆「お控え下せい」の連中だつた。この土地を縄張にして居た何々一家の身内が出方になつたのですから、ともすると観客に剣鑿を食はせる。茶屋の若い者など客から祝儀を貰ふと、内懐から手を出して封を切り、腹巻を浚ひ込む形が「切られ与三」の引込でも見るやうで、粋……を通り越して下司張つた風体だつた。これらも座の評判を悪くした原因です。

このあたりの具体的な記述も素晴らしい。出方と留場が《「お控え下せい」の連中》だったせいで、堅気衆には近寄りがたい雰囲気があった。出方と留場は劇場内のお客さんにじかに接する人びと、それが東映任侠映画でいうと山本麟一や天津敏のような風体の連中だったのだからたまらない。

それでも十年、《俳優は入替へ引替へ、いろんな人が出勤》、圧倒的な超満員を占めたのが川上音二郎のお伽芝居で、寿座開場以来の盛況だったという。これは、阿部優蔵『東京の小芝居』を見ると、川上音二郎のお伽芝居は明治36年(1903)11月22、23日の二日間に上演、《川上音二郎、貞奴夫妻が、『狐の裁判』と『浮れ胡弓』を持って出演したが、これは十月の本郷座で川上児童劇と称して、子供は木戸銭十銭、附添は三十銭で三日間興行したお伽芝居を、そのまま持ち込んだもので、貞奴の『浮れ胡弓』が大成功だった》とあるものを指しているのだろう。

普通興行では、《蝶昇の「塩原多助」才三郎主演都新聞の続き物「天狗太郎」初出勤幸蔵の「髪結新三」栄次郎の「嫗山姥」麟昇の敵討芝居などが当つた方で、猿蔵団吉(のちに市十郎)先代翫右衛門も出た事があります。》という。

小宮麒一編『配役総覧』および『上演年表』を参照すると、蝶昇の『塩原多助』は開場間もない明治31(1898)年9月に上演されている。いわばご当地ものだから、客を集めたのかもしれない。都新聞の続き物、渡辺黙禅作『天狗太郎』は明治42(1909)前半にあちこちの小芝居で上演されていて、寿座では4月に二代目団升(前名が才三郎)が上演、幸蔵の『髪結新三』は明治38年(1905)7月、栄次郎の『嫗山姥』は開場間もない明治31年(1898)7月、先代翫右衛門すなわち前進座の翫右衛門のお父さん、すなわち柳盛座の座頭だった中村梅雀は、寿座にはとりあえず明治38年(1905)10月に出演が確認できる。……というふうに、小谷青楓の記憶の鮮やかなこと、鮮やかなこと。青楓はかくも熱心な寿座の観客だった。



二代目尾上幸蔵は安政2年(1855)3月11日生まれで、尾上紋三郎のお父さん。画像は、藤間幸三朗『大橋屋 尾上幸蔵と紋三郎』(藤間流紋三郎派事務所・昭和59年3月)より。渥美清太郎が同書引用の文章で《本所の寿座で五代目引き移しの魚屋宗五郎などを覚えています》と語っていて、幸蔵の宗五郎は寿座では明治42年(1909)9月に上演されている。『演劇界増刊 三代の名優』(昭和57年11月)に、

中村鴻蔵の子として出生。十三代目羽左衛門の門に入り、五歳の折り市之助を名乗り市村座で初舞台。五代目菊五郎の門弟となり明治元年八月幸蔵となる。『千本桜』の権太、『銘々伝』の清水一角、実盛、松王、辰五郎を当り役とし五代目菊五郎ばりに演じ小芝居で喜ばれた。晩年は六代目梅幸について帝劇へ行き、腰をおちつけ大番頭然としていたが、人柄が舞台に反映して大らかさの中に愛嬌があった。昭和九年二月八日、七十八歳で没した。

とある。明治38年(1905)7月に寿座で『髪結新三』を勤めたときも、さぞ《五代目菊五郎ばりに演じ》喜ばれたことであろう。



尾上幸蔵というと、まっさきに思い出すのは『法界坊』の番頭長九郎。というわけで、ついでに、昭和2年(1927)9月歌舞伎座、幸蔵の番頭長九郎と六代目菊五郎の法界坊。幸蔵の番頭長九郎は、三宅周太郎が翌月の『演芸画報』で、《この「法界坊」中での一番の傑作は幸蔵の番頭長九郎である。動かずにいてあのおかしみ、ことに「大七」のやけどの舞台代りの妙味など、正に百点である。》と大絶賛、当時小学生の戸板康二も見ていて、《じつに何ともいえない、おもしろさがあった》と回想している大傑作(「脇役の名舞台」、『演劇走馬燈』三月書房・昭和59年3月)。

幸蔵という名は、梅幸の幸から来ているので、音羽屋の高弟、そして演じる役柄として腹の黒い番頭の役が多かったためばかりでなく、尾上家の番頭といったニュアンスで、大向から「大橋屋」という屋号のほかに「大番頭」という掛け声がかかった。

戸板康二曰く、幸蔵の《最も知られている当り役》は『切られ与三』源氏店の番頭藤八で、《今思うと、十五代目羽左衛門の与三、六代目梅幸のお富、老優松助の蝙蝠安に、この藤八というのは、何とも贅沢な配役といわなければならない》。



『芝居と映画写真大観』(『講談倶楽部』昭和7年1月号・別冊附録)の「尾上幸蔵」のページは、『切られ与三』源氏店の番頭藤八。《今年七十八歳で東西俳優中の年頭》、《年甲斐もなくお富に懸想し顔に白粉を付けて貰つてエロ味を発揮する》、《図は『道成寺』を踊つて見せる姿。大橋屋独特、大当りの芸である》と解説されている。番頭藤八を一度も面白いと思ったことがない身としては、ただ見ているだけで面白かったという幸蔵みたいな、大らかで愛嬌あふれる藤八をいつの日か見てみたいものである。


明治36年(1903)年から七年間、寿座の近所に下宿していた小谷青楓は、明治41年(1908)10月5日の火事も目撃している。あいかわらず、青楓の文章が素晴らしい。

 斯くて迂余曲折の内に十年は過ぎたが、明治四十一年でした。十一月だつたと思ひます。私は夜中に時ならぬ芝居の大太鼓に夢を破られた。一番太鼓は毎日聞いて居たが、夜中にシヤギリでもなからうと不思議に思つて居ると「火事だ/\!」と絶叫する声が聞える。近所の者が駆付けた時は、中は既に朦々たる黒煙で何うする事も出来ない。家根へ燃え抜けると間もなく、深川高橋の蒸気ポンプが飛んで来ました。芝居の出火に大太鼓は茶気があるが、面白いのは此時、劇場全部烏有に帰したにも拘らず、丁度大道具の背景のやうに絵看板を掲げた木戸だけが残つた。何故あれだけ残したのかと異様に感じたが、このために半焼といふ事で済み、直ぐに再建築が許可になつたなどは、消防もさすがに馴れたものです。何でも正月に間に合せやうといふので其時の工事の速い事、速い事、亀沢町終点で電車を降りてボク/\江東橋迄歩く、第三中学の教師や生徒が、朝登校の時には屋根がまだ骨組みだつた劇場[こや]が、午後三時の帰途には、全部トタンが張れてチヨコレート色のペンキが塗られてあつたので、そのスピード振に一同アツと驚いたものです。

かくして、《十一月二十六日、本所寿座上棟式を挙ぐ。》、《明治四十二年一月元日、本所寿座開場式を挙ぐ。》(木村錦花『近世劇壇史』)とあいなり、寿座はめでたく再開場した。このとき京葉道路の市電は、亀沢町までしか開通していなかった。明治44年(1911)12月28日に本所緑町にも市電が開通し、寿座への交通が便利になった。



森林太郎立案『東京方眼図』(春陽堂・明治42年6月)より。市電が開通する以前は、第三中学の教師や生徒は亀沢町終点で降りて、京葉道路をテクテク江東橋まで歩いていたのだった。亀沢町交差点の停留所は明治38年(1905)に「亀沢町」として開業し、昭和5年(1930)6月に「緑町一丁目」、同年12月に「東両国緑町」と改名している。


大正期、寿座は他の小芝居小屋とおなじように、連鎖劇の時代を迎える。大正4年(1915)9月から森三之助一座が連鎖劇の興行を開始、

森三の経営に移つた時、平土間を取払ひ、椅子席にして、昼夜二回興行の入替無しといふ、即ち今日の浅草のやうな興行法に改め料金も安く大衆向に見せる事にした。これが人気を呼んで昼夜満員の盛況、森三も自ら舞台に立つて「袈裟と盛遠」などを演つたものです。尤も此時は電車も開通して交通も便利になり、本所一帯工業地帯として日毎に人口も殖え、発展したからでもありませうが、好漢時世を見るに敏だつかとも云へませう。

寿座の経営安定化の基礎を築いた森三之助は、その後「療術師に転向」したらしい。戸部銀作「寿劇場の記録」(『日本演劇』昭和22年11月)によると、渥美清太郎と幕間にしゃべっていたという梶田政太郎の経営になったのは大正15年(1926)以降、梶田は開場時の興行主であった宮坂徳次郎の甥にあたり、明治40年(1907)、二十二歳のときから伯父さんを助けて寿座で働いていたという。

森三之助は大正15年(1926)を最後に寿座の舞台を去ったが、寿座(寿劇場)隆盛の基礎を築いた功労者として、寿座(寿劇場)の歴史を語る上で欠かせない人物である。久保田万太郎のような「嘆かいの詩人」にとっては連鎖劇はひたすら唾棄される存在であり、演劇史においては連鎖劇は小芝居の終わりの始まりとして語られているように見えるけれども、寿座(寿劇場)が東京の小芝居として孤塁を守ることができたのは森三之助のおかげだったかもしれない。その後、昭和11(1936)1月に株式組織に改め、寿劇場に改名した折、梶田の下で働いていたのが森三之助の子息の森小太郎、昭和17年(1942)6月一の替りでは、森三之助の三回忌追善として、伊藤晴雨原作『森三之助』が上演されている。坂東鶴蔵が三之助に扮している。



『大日本東京全景之図』(精華堂・明治40年)より、両国橋界隈を抜粋して、明治座と寿座が描かれている辺りを丸で囲んだ。電車網が整備されている真っただ中の、「団菊以後」の東京が描かれている。

 

同時代の文章その2:岡鬼太郎「江東芝居風景」


小谷青楓が『演芸画報』昭和16年(1941)4月号に「寿劇場の今昔」を書いた翌年、岡鬼太郎が都新聞に「江東芝居風景」と題して、寿座(寿劇場)の劇評を書いた。昭和17年(1942)9月一の替り(4日初日)の劇評である。同月末日をもって、都新聞はその歴史に幕を閉じ、国民新聞と合併して、翌10月1日から東京新聞となった。

児玉竜一「戦中戦後歌舞伎日録」から孫引きすると、岡鬼太郎は昭和17年9月30日付都新聞の紙面にて、

数十年間幾千幾百の芸界人は「都」によつて、或は名を成し家を起し、師父の功績を顕揚して来つたのである。「都」の一字、これに対する愛惜の念は、到底筆紙に尽し難きものが彼等にあろう。更新勇躍の前途を前にして多少の感慨、敢て児女の情のみにあらざるを意ふ。

と述べている。



昭和17年(1942)9月歌舞伎座のチラシ。この月は恒例中村会。古典の『毛谷村』と『寿門松』と合わせて、「大日本忠霊顕彰会推薦」と銘打った高浜虚子作『時宗』と「歌舞伎検討委員会募集入選脚本」と銘打った田中青滋作・演出『遣新羅使』という狂言立て。

これも、戸板康二言うところの《都心の小屋の大歌舞伎が情報局の指令で固苦しい国民演劇を上演している時》の一例なのかもしれない。それでもやはり、鬼太郎が『毛谷村』を評した、《梅玉のお園が、飽くまで武家の生娘たる品と色気を失はず、動もすれば、人物の説明に囚はれて、力者武芸者の厳つさを露はす普通の過誤[あやまり]に陥らぬは上々の出来》というくだりにうっとり、《三津五郎の斧右衛門、八重之助の忍びも結構。》というくだりもなにやらふつふつと嬉しいのだった。



岡鬼太郎『歌舞伎眼鏡』(新大衆社・昭和18年3月)。装幀:岡鹿之助。左がカバーで、右が本体。昭和7年(1932)9月から昭和17年(1942)9月まで、都新聞と読売新聞に寄せた劇評を収録。引き続き、岡鬼太郎の劇評集として『歌舞伎と文楽』(三田文学出版部・昭和18年5月)が刊行、こちらは昭和4年(1929)1月から昭和6年(1931)12月まで東京朝日新聞に寄せた劇評を収録している。


さて、『歌舞伎眼鏡』所収「江東芝居風景」は、寿座(寿劇場)の昭和17年(1942)9月一の替り(4日初日)の劇評である。

狂言立ては、

  1. 『阿漕浦』平治:高麗之助、お春:八重之丞、治郎・庄屋:延松
  2. 『宮島のだんまり』袈裟:鶴蔵、絡み:延松・米十郎・鶴太郎・市昇・梅三・小五郎
  3. 『寺子屋』松王丸:高麗之助、源蔵:竹若、千代:鶴蔵、戸浪:福之助、玄蕃:市昇
  4. 『蘭蝶』蘭蝶・お宮:新之助、此糸:鶴太郎、源左衛門:吉次、紀文:米十郎


寿座(寿劇場)ファンを大いに喜ばせたに違いない鬼太郎の劇評の書出しは、

 久しぶりで寿劇場へ九月第一旬の芝居を見物に行つた。昼夜興行の正午開演といふ処へ駆付け、切符売場の前に立つと、不断着洋装の小肥りのおかみさんが、特等三人分の入場料三円六十銭を百円札で払つてゐる。売場の男は平然と五十銭五円取交ぜての剰銭[つりせん]を出す。馴れツこと見える。

小谷青楓同様に、微細にわたる記述が素晴らしい。当時、寿座(寿劇場)の特等席が1円20銭だったらしい。青楓曰く《藤棚のやうな屋根》の特等席は東の桟敷、上掲の歌舞伎座(一等席が4円94銭+税6割)と比較すると、ぐんと割安である。

 私は急いで三人の後から入ると、丁度第一の「阿漕」の平治内の開いた処だ。東の座席に無料の蒲団を貰つて坐つてゐると、客を連れ込む度往復する女案内人は、看客[けんぶつ]の前を一々小腰を屈めて通る。芝居道の行儀を弁へた娘さんである。大劇場の棒立ち嬢とは一緒にならぬ。私は此の娘さんから筋書を買ふ、二色刷りの表紙の付いたのが一冊十銭、役割挿絵解説ともチヤンと整つてゐる。

 百円札で切符を買っている《不断着洋装の小肥りのおかみさん》のすぐ後ろで待たされてイライラしていたであろう鬼太郎は、1円20銭の特等席を買ったらしい。東の桟敷に座り、劇場案内人の女性から筋書を買った。《芝居道を弁へた娘さん》と鬼太郎はご満悦である。明治期の寿座は出方と留場が《「お控え下せえ」の連中》だったので剣呑な雰囲気だった。それが、1940年代には《芝居道の行儀を弁へた娘さん》が案内をしてくれる。筋書は10銭。座布団は無料で貸してくれる。

 宅を十一時前に出た私の腹は大分北山である。何がなと思つてゐると、物穏かな中年の男が弁当と鮨の注文を聞いて歩いてゐる。得たりと一本頼むと、煎茶の土瓶と茶碗が弁当に付いて来る、一円と十五銭。座席で飲食し得られるのである。食堂などといふ設備の為よりも小屋での此の例外は、なか/\話せる。私は団菊時代の芝居を思ひ浮べて、三四十年若返つた。東京に唯一軒の定打ちの歌舞伎小屋、寿劇場よ全盛でゐてくれ。

田園調布の自宅から本所緑町までやって来たのだとしたら、まさしく遠路はるばるという感じである。腹が北山の鬼太郎が買ったお弁当は1円15銭。寿座(寿劇場)のお弁当については、戸板康二も「〈ロビーの対話〉小芝居回想」に、

 寿座には、地元の区民が常連で、毎興行かならず見るという熱心なファンが、ずいぶんいたらしい。どこで弁当をたのんでも無理だという時代に、本所の劇場にだけは、遅くまで、売店に幕の内のようなものがあって、正直、それも楽しみだった。

と回想しているのであった。これも、地域密着型の小芝居ならではの風景なのだろう。


さて、お弁当を食べて煎茶を飲んで人心地ついたところで、「江東芝居風景」の続き。

 一時頃になると、客は溢れるやうな物凄い大入り。出し物が利いたのであらうが、御定連の数も大いに手伝つてゐるに違ひない。舞台には「ひゐき」から贈られた役者の幕が、交る交る引かれて、柝の音シヤギリの鳴物も生きて聞える。唯一つ目に立つ欠点は、大道具の甚くお粗末な事だ、材料人手の関係はあるにしても、定式物ぐらゐはもつと手入れをして置くべきだ。経営者の奮発を望む。
 此の道具の前に車輪で働く立者たちは、小芝居生存の自然法則として皆柄がいい。よく白粉の乗る人達だ、歌舞伎専門家だけに顔の仕方も巧い。羽二重もろくに合はせ得ぬ新劇団だらけの世には、感心してやつて好い。
 四ツの狂言「阿漕」「宮島のだんまり」「寺子屋」「蘭蝶」の中で、上出来は新之助の蘭蝶女房おみや、先代源之助の俤があり仕事も巧い、調子に注意すれば尚結構。次には、体が少しエゴいが鶴蔵の千代が好い、台詞廻しは特に本筋である。鶴江の小太郎の確。高麗之助の松王、竹若の源蔵も、御通家には臭がられやうが、古風の大芝居で却て一興。鶴太郎の此糸も色気があつて好い。
 あとの優は又の折の御紹介として「蘭蝶」と「寺子屋」の此の成績なら、十日替りは惜く思ふ。

以上、全文を書き写してしまったが、タイトルそのままの「江東芝居風景」、鬼太郎の文章のなんと素晴らしいことだろう。寿座(寿劇場)に対する鬼太郎のまなざしの、なんと親切なことだろう。

寿座(寿劇場)の若い観客だった戸部銀作は、「寿劇場の記録」(『日本演劇』昭和22年11月)に、

其の頃の都新聞は、ムーランや剣劇の批評は時々書くが、寿劇場は変つた狂言が係つた時、稀に出すに過ぎなかつた。本興行を珍しく故岡鬼太郎氏が、大劇場並みのスペースを割いて批評してゐた。

と、岡鬼太郎の「江東芝居風景」に言及している。昭和15年(1940)から寿座(寿劇場)に通っていた戸部銀作は、《十七年から十八年に掛けては、寿劇場の極盛期である。正月や盆或ひは日曜などは、朝から劇場の周囲を取り巻いてゐた。盆の十六日に行つて、えらい眼にあつたことを覚えてゐる。》と証言している。

岡鬼太郎の「江東芝居風景」は、その《寿劇場の極盛期》を伝える珠玉のドキュメントである。小谷青楓とおなじように、鬼太郎がここにスケッチしてくれていなかったら、後世の者の知ることのなかったであろう劇場の細部描写がその名文によりキラキラと輝きを放っている。

翌年、岡鬼太郎は昭和18年(1943)10月29日に他界した。日本演劇社の社長に就任しつつも一回出勤しただけとなった(竹下英一『岡鬼太郎伝』青蛙房・昭和44年4月)。

『演劇界』昭和18年12月号の追悼記事「岡鬼太郎氏の業績」に、小林一三が「学生時代から」と題して追悼を寄せている。明治25年(1892)に慶應義塾をともに卒業後、鬼太郎は時事新報、一三は三井銀行に勤めるのだったが、その後のふたりのそれぞれのあゆみを対照させるとしみじみ味わい深いとかねてより思っている。二人には演劇のみならず、実は花柳小説の書き手という共通項があった。三田時代、二人はいわゆる「文学青年」だった。

……其頃の慶應義塾は(中略)まだ、実業界に進出しない、文学者志願といふ奇特な青年などは皆無であつた時に、不思議に、私達の級には五六人の文学青年が集つた。岡君は其中の一人である。

 誰がリーダーといふのではないが、岡君は麻布の西町に化物屋敷のやうな冬でも藪蚊がゐる広大な屋敷を持つて居つたから、時々そこへ集つた事もあるが、まださういふ組織的のグループは出来て居らない、時時連れ立つて芝居に行く、さういふ仲間の自作小説の回覧といふ程度であつたが、芝居見物の方は仲々盛んであつた。其頃岡君の屋敷の下町に、盛元座、高砂座、開盛座といふ、芝居が三座櫓をならべて、年中開場といふ盛況であつた。盛元座には板東[ママ]勝之助一座。市川久米八[ママ]といふ女優の一座が、高砂座か開盛座か忘れたがどちらかに陣取つてゐた。川上音次郎[ママ]のオツペケペー一座の東京初上りも、高砂座か開盛座かどちらかであつた。久米八[ママ]一座、勝之助一座が、毎月二回狂言をかへての連続興行であるから、忠臣蔵は勿論のこと、重の井の子別れ、岩見重太郎のうはばみ退治、あらゆる芝居を見つくしたものであるが、恰度其頃木挽町に歌舞伎座が新築されて、市川団十郎の活歴がはじまる、私達は余りに芝居見物が熱心であつた為に学校の成績はとても面白くない、いつも尻から五六番うろうろしてゐるけれど、堕落書生といふやうな方面には一向無頓着で、学校の成績よりも言論文章の雄なるものであれば、クラスの中で威張つて居られたので、平気で文学青年を気取つて居たものである。

 明治12、13年(1879-80)頃に麻布森元町に開場した森元座と開盛座、開盛座は明治23年(1890)9月に川上音二郎一座「書生にはか」として東京に初めて登場した芝居小屋であった。明治16年(1883)頃開場した永寿座が18年(1885)1月に初音座に改称し、さらに21年(1888)2月に改築新開場し高砂座として開場、森元座と開盛座の間にあったので「麻布中の芝居」と呼ばれた。

岡本綺堂も『明治劇談 ランプの下にて』(岩波文庫・1993年9月)に麻布三座の回想を残している。綺堂は鬼太郎と同じ、明治5年(1872)生まれ。

明治十八、十九年頃に、小芝居として最も繁昌していたのは、牛込の赤城座、下谷の浄瑠璃座、森元の三座などで、森元の三座などで、森元の三座とは盛元座、高砂座、開盛座をいうのである。わたしは盛元座と高砂座へたびたび見物へ行った。木戸銭は三銭ぐらいで、平土間の大部分は俗に〝追い込み〟と称する大入り場であったから、腰弁当で出かければ木戸銭のほかに座布団代の一銭と茶代の一銭、あわせて五銭を費せば一日の芝居を見物することが出来たのである。盛元座の座頭は市川団升、高砂座は坂東勝之助(後に雛助)で、団升も勝之助も大芝居から落ちて来た俳優であった。

これら麻布三座は、明治24年(1891)に開盛座、翌25年(1892)に残り二座が廃業した。

小林一三と岡鬼太郎が慶應義塾を卒業した明治25年(1892)には森元町のすべての小芝居が廃業した。時事新報に入社して「御社の先生」となった鬼太郎にも小芝居通いに熱中していた歳月があった。もちろん、その後も小芝居へは行っていただろうけれども、学生時代の思い出は格別だ。昭和17年(1942)9月に寿座(寿劇場)を訪れたときの、鬼太郎のあたたかい筆致は「東京の小芝居」への郷愁ゆえだったのだと思う。渥美清太郎と同じように、《何となく上機嫌》になっていたのだろう。


明治42年(1909)12月の『新小説』の巻頭を飾った、永井荷風の『すみだ川』を読んだとき、久保田万太郎は宮戸座の立見席のくだりがいたく身につまされたという。

それにしても、嘗ての、関東大震災まへまでの東京の劇場……それも中以下の小屋にあつた〝立見席〟の構造と、そして、その〝立見席〟を利用する一ト幕見の客の心理とを、これほど、巧妙に、且、正確につたへた記述を外にぼくは知らない。……といふことの、自信をもつて、はッきりぼくにいへるのは、この作に描かれた宮戸座をはじめ、浅草座、常盤座、開盛座、深川座等の小芝居修行を、年も丁度、長吉位の時分、ひたすら〝床板の斜になつた低い屋根裏〟でしたぼくだからである。
(岩波文庫『すみだ川 他三篇』解説、昭和30年5月)

明治42年は万太郎が慶應義塾の予科に進学した年であった。翌43年(1910)に慶應義塾文科が刷新、永井荷風が教授に就任し、『三田文学』が創刊、小山内薫は週一回演劇を講ずることとなった。荷風も小山内も鴎外の招聘による人事だった。

明治45年(1912)4月に慶應義塾に入学した三宅周太郎は、上京するとすぐさま芝居見物に邁進、《私は東京にゐて喜び勇んで歌舞伎座、明治座、市村座、新富座、本郷座、帝劇、それに神田の東京座、浅草の宮戸座や蓬莱座、本所深川の寿座や深川座迄、ある限り悉く見て廻つた。》と後年回想している(『観劇半世紀』和敬書店・昭和23年12月)。


戸板康二は、《ぼくは、文芸一般、小説でも評論でも、世代交替のひとつのめどとして、雅号の有無があげられると思っている。》と、『演芸画報・人物誌』(青蛙房・昭和45年1月)の「幸堂得知」の項に書いている。三宅周太郎はそれ以前の時代と一線を画する劇評家の代表であるわけだが、劇評家の世代を分ける指標のひとつに、「小芝居修行」の有無あるいは濃淡も挙げられるかもしれない。戸板康二の父の世代、明治22年(1889)生まれの久保田万太郎は宮戸座の全盛期に青春時代を過ごした世代だった。戸板康二のような東京の大正ッ子は、小芝居が廃れてゆく時期に芝居開眼をした世代だった。そんな大正ッ子たちにとって、寿座(寿劇場)は、かつての東京の小芝居、ひいては、古きよき時代(と見える時代)の東京の歌舞伎に思いを馳せる場所でもあった。



森田恒友えがく麻布森元町、小山内薫「〈大東京繁昌記〉芝、麻布」(東京日日新聞・昭和2年)の挿絵、『大東京繁昌記 山手篇』平凡社ライブラリー(平凡社・1999年4月)より。

昭和2年(1927)の東京日日新聞に連載されたルポルタージュ『大東京繁昌記』の「芝、麻布」を執筆した小山内薫は、大正6年(1917)11月から9年(1920)まで麻布森元町に住んでいた。

 麻布の森元町も特色がないようで、特色のある土地である。
 ちょうど天文台の下にある窪地で、飯倉四丁目の停留所から細道を曲がりくねってはいる一区域である。昔は小芝居などもあったらしく、芝公園の山の上から、幟なども見えていたらしい。
 私の住んでいた頃は、お妾さんや女優や旧劇の女形などが住んでいるのが目についた。気のせいか世に隠れているような人達ばかりが巣を食っているように見えた。
 併し、私は決して隠れてはいなかった。私は慶応義塾へ歩いて通えるのが第一都合がよかった。私は一週に一度古川橋を渡って、綱町の高台へ登って、それから坂を降りて、裏門から三田の教室へ行った。子供達はまだ小さくて、芝公園の幼稚園へ通った。

 小山内の言う古川橋とは、中之橋のことであろう。



森林太郎立案『東京方眼図』(春陽堂・明治42年6月)より。芝森元町から古川を渡る橋、中之橋を渡った先には神明坂、ここをのぼると綱町の高台に出る。神明坂沿いの三田小山町に昭和11年(1936)1月から昭和20年(1945)3月まで、久保田万太郎が居を構えていた。赤羽町は有馬藩邸跡地の「有馬ヶ原」で当時は原っぱだった。と、有馬ヶ原を左手に神明坂をあがって左折して、三井邸で右折して綱坂をくだると慶應義塾の裏門につく。

前述のように、明治43年(1910)から小山内は慶應文科で演劇を講じていて、大正6年(1917)の聴講者は三宅周太郎と水木京太の二人だけだった。三宅には日本演劇、水木には西洋演劇というふうに、それぞれのために語りかけるという細やかな配慮を見せていたことを水木が回想している(『三田文学』小山内薫記念号・昭和4年3月)。水木は森元町に下宿していて、この年の大晦日に、近所に住む小山内薫が左団次らを引き連れているのに出くわした。彼らは更科で年越蕎麦を食べた帰り道だった。「自由劇場が歩いている!」とじっと見送る水木だった(「小山内先生のこと(三)」都新聞・昭和3年12月30日)。左団次は先代以来、一門を引き連れて大晦日に更科へ蕎麦を食べに行くのが習慣だったという。



『新演芸』大正6年(1917)3月号附録《大正六年二月調査 東京演芸地図》より、麻布森元町界隈を拡大。『東京方眼図』を右に九十度回転、西が上部である。森元座跡のみ地図に表記がある。鬼太郎は依然、麻布西町に住んでおり、翌7年(1918)に今戸二十九番池へ居を移した(『演芸画報・人物誌』)。その花柳小説のほとんどは麻布西町時代に書かれた。この地図の大正6年2月当時、小山内は赤坂区田町に住んでいたが、3月に火事に遭い芝区明舟町へ、9月中旬に芝区高輪車町へ、翌10月頃に麻布区森元町へ……というふうに、転居を繰り返していた(『三田文学』消息欄)。森元町には大正9年(1920)まで住んでいたらしい。



中之橋のひとつ下流に架かるのが、芝公園の南端の赤羽橋で交通の要所、さらに下って芝園橋、その次の将監橋の近くに菊五郎の邸宅があった。

 私は市村座の顧問に雇われて、こゝから殆ど毎日下谷の二長町へ通った。菊五郎が芝公園に住んでいたので、二、三度遊びに行ったこともあった。六代目は話好きで、夜おそくまで客を帰さなかった。併し、私は近いので、気を揉まずに済んだ。公園の六代目の家のことで、私が一番はっきり覚えていることは、宏大な台所の揚板の下に平野水の瓶が列をなしていたことである。六代目はウィスキイが強かった。

玄文社華やかなりし時代の芝公園界隈。



『東京方眼図』にもどり、岡鬼太郎の屋敷のあった西町、麻布三座のあった森元町、慶應義塾、菊五郎の邸宅の将監橋の位置関係を見てみよう。西町は広尾に向かって仙台坂をのぼった先にある。坂をのぼったりくだったりを繰り返す、この界隈の大地の起伏。都市風景は一変していても、この界隈を歩くといつも、その大地の起伏に「東京の昔」を感じるのだった。


同時代の文章その3:三島由紀夫『芝居日記』


昭和19年(1944)3月、決戦非常措置により大劇場が閉鎖され、十九歳の三島由紀夫はいてもたってもいられず、寿座(寿劇場)へ馳せ参じた。



三島由紀夫『芝居日記』(中央公論社・1991年7月)。装幀・題字:佐多芳郎。帯文は《歿後二十年、初めて公刊する劇評ノート》、《歌舞伎に魅せられた青春時代、戦中戦後の六年間、記しつづけた百番の観劇ノート。演劇のみならず、三島文学・芸術の根源を知るうえで必読の資料。〔舞台写真多数入り〕》。



と、1991年7月に公刊された三島由紀夫の「芝居日記」とは、表紙に「平岡公威劇評集」とある二冊のノートの翻刻、一冊目は昭和17年(1942)正月から昭和19年(1944)12月23日まで、二冊目は昭和20年(1945)2月18日から昭和22年(1947)11月23日までの劇評が書かれている。


『芝居日記』は、「平岡公威劇評集」の翻刻と合わせて、解題的な文章として織田絋二「「芝居日記」について」、六代目中村歌右衛門のインタビュー「「三島歌舞伎」の世界」(聞き手:織田絋二)、解説として二篇、戸板康二「若書きの新鮮さ」、ドナルド・キーン「「芝居日記」の底に流れるもの」を収録している。

織田絋二「「芝居日記」について」によると、《平岡公威の名を冠した『劇評集』は、昭和五十四年一月に開催された「三島由紀夫展」(毎日新聞社ほか主催。伊勢丹新宿店ほか)で初めて公に展示され、その後昭和六十二年十一月の国立劇場における「椿説弓張月」再演を記念した館内展にもごく短期間展示された》。その後、『マリ・クレール』に1989年10月号から翌1990年5月号まで連載されて初めて「平岡公威劇評集」の全貌が明らかになった。歌右衛門のインタビューも同誌に四回にわたり掲載された。その後、注記を整え、ノートに添付された新聞劇評、参考写真を組み入れて、1991年7月、『芝居日記』として公刊された。


三島由紀夫が寿座(寿劇場)に出かけた昭和19年(1944)という年は、9月に半年繰り上げで学習院高等科を卒業し、東京帝国大学法学部に入学した直後の10月15日を刊行日、七丈書院を版元に、第一小説集『花ざかりの森』を上梓した年だった。十九歳の三島由紀夫はそんな忙しい日々のさなかにあっても、毎月芝居見物を欠かさない。

『芝居日記』における寿座(寿劇場)の観劇記録は、昭和19年(1944)3月から9月までの四回に及ぶ。

  • 3月27日:「実録先代萩」「宝島の寇」「佐太村」「喜せん」
  • 4月下旬(観劇日不明):「日向島の景清」「魚屋宗五郎」「越後獅子」
  • 6月4日:「合邦」「五郎蔵」
  • 9月20日:「車引」「河内山」「菊畑」

ただし、4月と6月は記録のみで、劇評は書かれていない。

戸板康二は同書解説「若書きの新鮮さ」で、若き三島の寿座(寿劇場)行きについて、もちろん言及している。

 おもしろいのは、約百近く見ている歌舞伎の中で、本所の寿座(寿劇場)の小芝居にも行っていることである。昭和十九年に四度も行っているが、私もそのころ、この劇場では、ほかに演じられない狂言が見られるので、たびたび足を運んだ。
 三島君の観劇の時期は私より前で、「菅原」の賀の祝を昭和十九年三月に見た時は、「菅原」三段目の「賀の祝」を、「(当時交付された)四時間制もどこ吹く風と、一時間廿分にわたつて演ずるが珍しくもうれしく、松竹さんのよくせぬ処」とある。
 この劇場には、九代目団十郎二女の女婿の新之助、高麗之助、福之助、鶴太郎、鶴蔵、吉次、延松などがいて、大歌舞伎では見られない珍しい型が私にも楽しみであった。
 十九年九月、同じ劇場の「菊畑」の延松の虎蔵は珍品だったらしく、鶴太郎の皆鶴姫については「色気といひ演技といひはづかしからぬ」出来だったと評している。
 鶴太郎はやはり三島君の好みの女形であったが、戦災で死んだのが惜まれる。

 晩年の戸板康二は、寿座(寿劇場)について《三島君の観劇の時期は私よりも前》と書いているのが興味深い。前述のように、戸板康二は遅くとも昭和16年(1941)12月には寿座(寿劇場)に出かけているはずなのだけれども、晩年の戸板康二にとっては、昭和19年(1944)7月の日本演劇社入社以降の、渥美清太郎とともに出かけたときの印象が強かったことが窺える。


『芝居日記』の寿座(寿劇場)見物のページの注釈に、《大劇場が閉鎖され、大歌舞伎が見られなくなって、本所にまで足をのばしたあたり歌舞伎狂いの面目躍如たるものがある。》と書かれているが、まさしくそのとおり、昭和19年(1944)3月5日に決戦非常措置により劇場が閉鎖され、3月20日に閉鎖を免れた邦楽座へ寿美蔵一座の『仮名手本忠臣蔵』を見に行き、これだけに飽き足らず、一週間後の3月27日には寿座(寿劇場)へ足を運んでいるというのが、まことに微笑ましいのだった。

この3月、三島は日本出版会から『花ざかりの森』出版の内諾を得て、版元となる七丈書院へ「出版届」を渡したり、《春休みに三井高恒や三谷信らが、学校で体操やランニングをするというので誘われたが、一日でやめてしま》ったりしている(佐藤秀明・井上隆史編「年譜」、『決定版 三島由紀夫全集 42』新潮社・2005年8月)。そんなさなかの寿座(寿劇場)見物であった。


さて、三島が初めて寿座(寿劇場)へ出かけたときのノートは、

大劇場にあぶれて寿座へ初見参。
この小芝居頗る気に入つた。但し至つてお寒き「宝島の寇」はのぞいて。
鶴蔵の浅岡、仁左ばりの大舞台のセリフ、演技も臭くなく、佐太村の吉次の白太夫と共に、総体での好一対の演技。

 という書き出し。昭和19年(1944)3月後半の狂言立ては、『実録先代萩』『宝島の寇』『賀の祝』『喜撰』で、『宝島の寇』は第三回国民大衆演劇コンクール参加作品で郷正夫の作による新作で、文政7年(1824)の宝島事件を題材にした時局劇だった(『演劇界」昭和19年4月号、池谷作太郎「大衆演劇コンクール」)。

初めての寿座(寿劇場)、鶴蔵と吉次が《好一対》として三島の印象に残った。鶴蔵の浅岡に対して《仁左ばりの大舞台のセリフ》と評している。その「仁左」、十二代目仁左衛門は、三島が初めて歌舞伎を見た昭和13年(1938)10月歌舞伎座の忠臣蔵において、顔世御前に扮していた。十三歳の平岡公威少年にとっての歌舞伎の第一印象は十二代目仁左衛門だった。

 私はその時、歌舞伎座の花道の方の桟敷から見ていましたから、すぐに目の前に花道が見えるわけです。私は当時中学一年生ですから、弁当を食べたり、その他にもいろいろ食べるものがあるし、面白くてたまらない。そうすると、やがて芝居が始まり、花道から不思議な人が出て来た。これが顔世御前です。顔世御前は素足で出るのが本式で、あれは足袋を履いちゃいけないんです。どういう訳か昔から素足で出るんです。その素足の顔世御前が花道のすぐ目の前を通りました。それはもう皺くちゃでした。これがこの「忠臣蔵」という大事件を起こす発端になる美人だなんて、想像もつかない。で、いきなり大声を出すので、私はびっくりしてしまった。よく男でこんな声がでるもんだと、ただただ呆気にとられて見ておりますうちに、私は歌舞伎というものには、なんともいえず不思議な味がある、何かこのくさやの干物みたいな、非常に臭いんだけど、美味しい妙な味があるということを子供心に感じられたと思うんです。

(昭和45年7月3日国立劇場歌舞伎俳優養成所での特別講義。『新潮』昭和63年1月号に「悪の華―歌舞伎―」と題して発表。織田絋二「「芝居日記」について」より孫引き。)

 三島は昭和18年(1943)4月の歌舞伎座で『先代萩』の十二代目仁左衛門扮する政岡を見ているが、ノートに劇評は書かれていない。鶴蔵の浅岡に対して、《小芝居とはいへ、仁左衛門の政岡などよりよほどこちらの方がいたゞける。》と書いているから、仁左衛門の浅岡はお気に召していなかったらしい。

『実録先代萩』では、延松の片倉小十郎に対しては、

また相手の延松の小十郎が思ひ切つて小芝居風な大芝居。といふと逆説めくが、温厚謹厳の士たるべき小十郎が、お節介の巧言令色、連判状の件りなぞ、どつちが悪人かわからぬ処、かへつて愉快にて、目先が変つてゐて面白かりき。

とあって、《小芝居風な大芝居》とは言い得て妙、そのまま延松のキャッチフレーズにしたいような名文句。



イメージ画像として、大歌舞伎の『実録先代萩』。初代鴈治郎の小十郎と福助(三代目梅玉)の乳人浅岡、大正15年(1926)10月中座。『映画と演芸』大正15年11月号。


戸板康二が留飲を下げていた、

また「佐太村」で感心なは、三の切をそつくりそのまゝ、四時間制もどこ吹く風と、一時間廿分にわたつて演ずるが珍らしくもうれしく、松竹さんのよくせぬ処。
幕開きは白太夫と百姓とのやりとり。そこへ八重がきて、やがて春、最後に千代。春は七三でつみ草のまねごと。茶せん酒の端場を大ていねいにやつたは大出来。

のくだりは、1940年代の寿座(寿劇場)が東京の芝居好きの人気を呼んでいた所以を端的に語っている。寿座(寿劇場)は、「とにかく芝居をたっぷり見たい」というような真面目な観客が多かった。《四時間制もどこ吹く風》は、昭和18年(1943)10月から四時間制興行(従来は五時間半以内)となったことを指している(『日本演劇』昭和18年12月号「劇壇時事」)。

『喜撰』については、《「喜セン」は高麗之助のはまり役ならず、むしろ鶴太郎のお梶がスレてゐてよい。》とあり、『関の扉』で称賛を集めていた高麗之助の喜撰は三島のお気に召さなかったけれども、鶴太郎への評言が面白い。戸板康二が「〈思い出の劇場〉寿劇場」に《若くて美しい鶴太郎を、ぼくはひそかにひいきにしていた》と書いていた鶴太郎、《鶴太郎はやはり三島君の好みの女形であった》とわが意を得たりだった戸板康二。

3月に続いて、4月下旬と6月上旬に寿座(寿劇場)を訪れた三島由紀夫であったが、劇評は残していない。4月下旬に上演されている「日向島の景清」は、戸部銀作「寿劇場の記録」(『日本演劇』昭和22年11月)で珍しい上演として特に名を挙げていた演目であった。

そして、昭和19年(1944)9月20日が、四度目にして最後の寿座(寿劇場)見物となった。この月、三島は学習院を首席で卒業し、翌10月1日に東京帝国大学法学部に入学するというところで、また、『花ざかりの森』上梓を間近に控えているところだった。三島はのちに、この時期のことを、

 当時私は満十九歳、その秋に大学生になったばかりであった。高等学校が本来三年制なのが、戦時特例で二年半に短縮され、それだけ徴兵猶予の期間が繰り上げられたわけなのである。
 体が弱いだけで病身というわけではない私は、来年怱々、いつ来るかわからぬ赤紙を覚悟せねばならぬ立場にあった。そこへ、思いがけず、短篇小説中「花ざかりの森」を引受けてくれる出版元があらわれた。これは「文芸文化」同人の推薦によるところはもちろんだが、直接には、富士正晴氏の奔走のおかげで実を結んだのである。私は何よりも、自分の短い一生に、この世へ残す形見が出来たことを喜んだ。

というふうに回想している(「「花ざかりの森」のころ」、『うえの』昭和43年1月号)。


さて、寿座(寿劇場)の9月後半の狂言立ては、『車引』『河内山』『菊畑』だった。

車引、はじめの梅王桜丸の引込みまで浅黄幕のそとでやる。こゝへ鉄棒引がでてきたところ、昔の芝居らしくて、うれしきこと限りなし。
車引一幕は、道具の粗末と倹約から来る無理、及び、仕丁のひどさを除けば(たとへば松王の肌ぬぎで化粧声をかけず、その後でかけても寝言のごとし)出てくる役者、出てくる役者、みなほんもの。
かな棒引からしてはつきりしたセリフ。大まかな動き、大歌舞伎へ出してもはづかしからず。
福之助の桜丸は柄にはまつてよく、鶴蔵の梅王は踊り上手ゆゑ立派で巧く、無理かと思つた竹若の松王も古風でよく、一層無理かと思はれた八重之丞の時平公も、これ亦たしか、充分妖気ある化物たりえた。
幕切れなどは四人そろつて殊にたのしかつた。

と、『車引』にはかなりご満悦の様子。《無理かと思つた》、《一層無理かと思はれた》と連発しているあたり、三度の寿座(寿劇場)見物を経て、一座の役者の芸風のようなものがちょっとわかってきている様子。

そして、昭和17年(1942)3月に岡鬼太郎が「江東芝居風景」で《唯一つ目に立つ欠点は、大道具の甚くお粗末な事だ》と指摘していた欠点は改善されていないことがわかる。これは時節柄いたしかたなかった……というよりも、明治42年(1909)8月の松崎天民「小芝居めぐり」でも《大道具が粗末すぎる》と書かれていたから、お粗末な大道具は寿座(寿劇場)の伝統だったのだろう。

続いて、五代目新之助の『河内山』。

それが河内山へくると、新之助の河内山をのぞいてそろ/\いけなくなる。河内山も道具の倹約で、玄関とも二杯でやつてしまひ、幕外には直侍を出さぬといふ大改訂だ。しかし新之助新案の幕外は遉がにうまく、直侍に注意されて、ヌケ/\と態度を変へ、互に式礼あつて澄ましているやり方でなく、そのヌケ/\とすましたところは、花道まで来ぬさき、大膳とすれちがふところでやつて了ひ、幕外になつてからは無言劇で、袂を上げて、重みをたしかめ、北叟笑んでから、ツト真面目になり入りかけながら、ドウモ愉快でたまらぬ、可笑しくてたまらぬといふ思ひ入れで又吹き出して吹き出しつゝ入るやり方で表情なぞ巧かつた。
新之助の河内山は主として後半がよく、前半は「誠に意外の御血色」で声を張り上げたりする、やりすぎがあるが、ユスリのテンポが早くなるにつれ、矢張老巧なるを思はせる。
幸四郎の河内山より、巧いといふ点では確かに巧いと思ふ。
鶴一郎の松江は一寸吉右衛門に似た顔だが、セリフがまるでとほらず、つまらない。
高木になる吉次といふ老役を僕は好きだつたが、この高木をみて、どのみち小芝居の俳優だといふことを痛感した。まるで熱のないセリフ。いやみがないだけで、なんの面白味もない演技。
むしろセリフがまるでとほらぬかはりに、顔のいかにも古風でそれらしい、八重之丞の数馬の方がよかつた。

成田屋ゆかりの役を勤める五代目新之助の演技のさまが微細に描写されている。《幸四郎の河内山より、巧いといふ点では確かに巧いと思ふ。》と七代目幸四郎をクサすあたりに微苦笑する。

幸四郎の『河内山』を、昭和17年(1942)4月の歌舞伎座で見ていて、十七歳の三島は、《この人の活歴臭も、今では博物館的存在価値を帯びたり。かうなれば持味にて、欠点も欠点ならず、たゞ人柄のよさをみるべし。》と評していたのだった。このとき羽左衛門が幕外の直侍に扮していた。三島にとっては《結局幕外の羽左の直侍が最高点という松江邸》だった。そして、3月の初めての寿座(寿劇場)見物の折に、『賀の祝』の白太夫を見て以来《好きだつた》吉次のことを、《どのみち小芝居の俳優だといふことを痛感》と言い放つに至った三島であった。



河内山が「馬鹿め!」と啖呵を切って花道へ引っこむと直侍が供侍の姿で迎えに来る場面のあるときのイメージ画像として。昭和6年(1931)11月中座、吉右衛門の河内山と魁車の直侍、『映画と演芸』昭和6年12月号。「御両人!」と掛け声がかかり、場内大喜び。



昭和14年(1939)6月歌舞伎座の『河内山』では十五代目羽左衛門が十年ぶりに河内山に扮し、六代目菊五郎が松江侯と直次郎の二役。画像は『歌舞伎ダイジェスト』より。戸板康二はこのときの『河内山』について、《あんまりいい男なので、河内山というより、延命院日当みたいであった。》、《松江侯は六代目菊五郎だったが、幕外に片岡直次郎の化けた侍に早替りする。それで殿様のほうは、顔のよく似た九朗右衛門が幕切れだけ代わった。見物は、びっくりしていた。》と回想している(『歌舞伎 ちょっといい話』)。


最後は、『菊畑』。戸板康二の回想ですっかりおなじみになった介十郎(助十郎)、延松、高麗之助、鶴太郎といった面々が登場する。

「菊畑」になると、助十郎の鬼一といふ、驚愕措くあたはざる不可思議なものが出て来る。小芝居へわざ/\来るのは、小芝居的面白味、一種の小芝居趣味の大車輪がなつかしい故であつて、何も役者の寝てしゃべつてゐるやうな怠け芸をたのしみに来るのではない。
この鬼一にはいかな僕も腹が立つた。
しかし、高麗之助のすこぶる立派な智恵内、延松の小芝居趣味的古風さをもつた虎蔵、それから、あらゆる条件をぬきにしても、色気といひ演技といひはづかしからぬ鶴太郎の皆鶴姫、この三人がノリにかゝるあたりの舞台は、寿座らしくてうれしかつた。これでやつと救はれた形だ。湛海になつた小五郎も神妙でよかつた。
たゞ延松の仕勝手が仕勝手すぎ、「皆鶴姫を殺害するに及ばす」といふセリフを「皆鶴を殺すに及ばず」とか云つてみたり、幕切の絵面をあとの二人は型どほりやつてゐるのに虎蔵だけ右手を色気もなくつき出して形をこはしてしまつたりするのには少々困つた。

同月上旬、介十郎(助十郎)は『寺子屋』の春藤玄蕃を勤めるも捕手の一人に手を引かれながら花道を入るところを戸板康二に目撃され、次月の10月下旬には『油坊主』で《マサカリのカツラに、柿色のかみしもを嬉しそうにつけて》口上を勤める姿を目撃されている介十郎(助十郎)。戸板康二の回想により、いろいろな意味で印象に残る役者だったけれども、三島にとっては、《驚愕措くあたはざる不可思議なもの》でしかなかった。《寝てしゃべつてゐるやうな怠け芸》だったとは、他の所演も推して知るべし……なのかもしれない。

なにはともあれ、延松、高麗之助、鶴太郎といった戸板康二の回想によりおなじみの面々を若き三島に評されているのを読めるということはなんという僥倖であろうか。期待を裏切らない延松の《小芝居趣味的古風さ》もさることながら、高麗之助、鶴太郎の三人がノリ地になったあたりの《寿座らしくてうれしかつた》というくだりが嬉しい。

 『演芸画報』の古老、岡鬼太郎と小谷青楓は、1940年代の寿座(寿劇場)を綴るに際して、劇評よりも、その芝居風景に字数を割いていたのに対して、三島由紀夫の『芝居日記』は「平岡公威劇評集」と銘打っているだけあって、当然ながら劇評が中心である。寿座(寿劇場)の所演が劇評としてたっぷり論評されているという点が嬉しく、また新鮮であった。


戸板康二「三島由紀夫断簡」(『悲劇喜劇』昭和51年11月号→『五月のリサイタル』)によると、《宗十郎が好きだというのと同じような、少数意見の持ち主として、三島君は、「実録先代萩」だの「どんどろ(阿波の鳴門の子別れ)」だのが好きだと、手紙に書いて来た。どこかの小芝居で見た葛の葉の感銘を忘れがたいとも、いっている。》という。

昭和19年(1944)3月にいきなり寿座(寿劇場)に足を伸ばしたのは、『実録先代萩』が上演されていたから、というのも理由のひとつだったのかもしれない。三島由紀夫は見ていないが、『どんどろ』は女役者・中村歌扇の十八番でもあった。こういった小芝居的なものへ嗜好が、三島由紀夫と歌舞伎を考えるうえで非常に興味深いのであった。

三島が《どこかの小芝居で見た葛の葉の感銘を忘れがたいとも、いっている。》と、この「どこかの小芝居」は、昭和19年(1944)8月の渋谷劇場における市村門三郎一座のことで、『芝居日記』に所感が書かれている。

胆を奪ふおそろしい大道具、舞台裏で芝居をしてゐる趣なれど、一寸した役者がゐて上出来。
「葛の葉」みたさに勇を鼓して行つたが、相当惹き入れられた。

 とある。まさしく、三島由紀夫の小芝居好きの面目躍如という感じなのだった。



昭和22年(1947)7月東劇の『摂州合邦辻』の舞台写真、『スクリーン・ステージ』第2号・昭和22年9月10日発行より。この三代目梅玉の玉手御前を見た直後、三島由紀夫は日本演劇社の戸板康二に手紙を書いた。《「合邦」の梅玉の素晴らしさには文句なしに兜を脱ぎました。後半の演技は盛り上りがなく、いかにも真女形の弱々しさで映えませんが、前半は実に無類でございますね。》という書き出しで、「三島由紀夫断簡」にたっぷり引用されている。



昭和23年(1948)10月、三越劇場で七代目宗十郎の『蘭蝶』を手がけた。戦前はもっぱらには小芝居で上演されていた『蘭蝶』の戦後初の上演。画像は『演劇博物館五十年』(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館・昭和53年10月27日)より。おそらく戸板康二が懇請したのだろう、三島由紀夫の劇評「宗十郎の「蘭蝶」」が『日本演劇』昭和23年11月号に掲載されている。

 

戦後の回想その1:戸部銀作「寿劇場の記録」+「戦災までの寿劇場」


これまで何度か言及した戸部銀作「寿劇場の記録」は、1940年代の寿座(寿劇場)を伝える文献として、質量ともに最上のものと思う。昭和22年(1947)11月、戸板康二が編集長をしていた『日本演劇』に掲載された。学級的な筆致を基調にしつつも、毎興行通っていた人ならではの愛惜の情が横溢していて、劇場内の事情に通じたことも窺える。寿座(寿劇場)の消滅とともに終わった「東京の小芝居」文献でもある。

戸部銀作は大正9年(1920)生まれ、早稲田の学生時代、錦糸堀行きの市電に乗って寿座(寿劇場)に通い、観劇ごとに丹念にノートをつけていた。また、七十連勝を続けた早大排球部の黄金時代に選手生活を送っており、関逸雄(馬術)、佐貫百合人(マラソン)ともに、《歌舞伎ジャーナリズム界のスポーツマン三人男》と書かれたりもしている(『役者』第19号・昭和27年1月「歌舞伎雑誌の編集者たち」)。昭和18年(1943)5月3日付で早稲田大学演劇博物館の館員に就任している(『演劇博物館五十年』)。

僕が、寿劇場に足繁く通ひ出したのは、十五年に入つてからだ。其の頃は、東京にいや日本に唯一の常打ち歌舞伎劇場として、稀有の存在であつた。僕等に取つては、珍しいだし物、変つた演出と言ふ舞台的興味はもとより、芝居を本当に一日享受する人に交つて、昔の観劇気分は、斯うであらうと想像するのが、何よりも楽しく、為にもなつた。学校の講義をさぼつて、「寿に行くから、代返頼むよ」と出掛ける時は、生きた歌舞伎教室へ通ふつもりでいた。休まず通ひ詰めた五年間に、現行歌舞伎狂言の殆どを見てしまつたのだ。

寿座(寿劇場)の記憶が芝居好きの人びとのなかで鮮明だったときに発表された、戸部銀作「寿劇場の記録」は11頁にわたる論稿。まず「小芝居の伝統」でその歴史と制約について綴り、次に「寿劇場小史」として、明治31年(1898)5月から、戸部が通うようになる昭和15年(1940)までの流れをまとめ、最後に自らの観劇ノートをもとに、昭和15年(1940)から昭和20年(1945)までの記録を、その年に上演された演目を中心に時系列に綴っている。



『日本演劇』第5巻第8号(昭和22年11月1日)。表紙:石井柏亭。戸部銀作「寿劇場の記録」掲載号。

『日本演劇』に戸部銀作が登場したのは、〈劇評家列伝〉シリーズの「六二連の事」が最初で(昭和21年3、4月合併号)、このときは河竹繁俊の推薦だったという(『わが人物手帖』)。その後、同年11・12月合併号に「〈芸術祭〉若手芸術祭から」、翌22年(1947)7月号に「〈劇評〉高麗屋三兄弟」というふうな短い劇評を寄稿したあと、この「寿劇場の記録」が掲載された。


戸部銀作も錦糸堀行の市電に乗って、両国橋を渡って緑町二丁目で下車して、寿座(寿劇場)に通った。

 錦糸堀の市電を、緑町二丁目で降りて、ちよつと戻り寿劇場の前に立つ。「何々丈江」と書いた幟も、種信描く絵看板も、春日燈籠も、小芝居情緒と言へるものなのであらう。バラツク建ての粗末な外形とともに、場末にはふさわしい。中へ入る。上手が特等席、下手花道外が一等席で何れも桟敷、中は土間で、今にも壊れさうな六人掛けの椅子が置いてある。定員は六百、詰めれば千人は楽に超すと言ふ。間口九間半の舞台には、「新之助さんへ」「竹若丈え」などの幕が入れ替り掛けられる。贔屓がいくらか出したにせよ、役者が身銭を切つて作つた幕なのだ。お稲荷さんのある運動場のそばに、売店が二軒。楽屋は一畳半ぐらゐにし切つた幹部の部屋に、小さな大部屋。これが、総坪三百二坪の寿劇場の全景である。

戸部はこの二十年後、『演劇界』昭和43年(1968)6月号の〈特集・小芝居のはなし〉に、「戦災までの寿劇場」を寄稿している。「寿劇場の記録」と内容はかなり重なっているけれども、「戦災までの寿劇場」の方には、《土間の上手か下手、立って見るかぶりつき》が戸部の指定席だったと書いてある。

岡鬼太郎「江東芝居風景」には、《舞台には「ひゐき」から贈られた役者の幕が、交る交る引かれて》とあったけれども、実はこの幕は役者が身銭を切って作っていたらしい。それから、鬼太郎の文章に、切符売り場の男、場内の《客を連れ込む度往復する女案内人》が登場していたが、役者以外では、経営者の梶田政太郎、《作者は最近竹柴鳳二只一人、はやし五人、ちよぼ四人、道具方五人、床山一人、表方三人、事務員三人、案内三人に頭取、幕内主任》といった人びとが働いていた。これは、《終り頃の寿座劇場》の陣容である。


戸部銀作は、昭和15年(1940)6月二の替り以降、寿座(寿劇場)に通うようになった。その興行で上演されていたのが、『宿無団七』と『三島噺』。

正三の「宿無団七」(岩井風呂)と、五瓶原作の「定助権八」が出た六月二の替りが、特に珍しかつた。僕が続けて見出したのも、此の興行からだ。前者は、正三内を抜いたのを始め、後半のひどいカツトは残念だつたが、上方風二番目物の面白味はあり、団七は延松で、大歌舞伎では、大正十三年九月、浅草松竹座にて、延若がやつたのが一番新しい。五瓶の「平井権八吉原衢」に、余程後になつて手を入れた後者は、珍しいと言う点を除けば、たいしたものでなく、研辰もどきに死ぬのを嫌がる定助と、権八の駕籠破りに興味があるに過ぎない。竹若が二役をやつてゐたが、昭和六年十二月、林長三郎(現又一郎)が、「槍一筋三島駅路」と題して、大阪角座で出した。

戸部は、《生きた歌舞伎教室へ通ふつもりで》で寿座(寿劇場)に通っていた。《休まず通ひ詰めた五年間に、現行歌舞伎狂言の殆どを見てしまつた》。

大劇場には殆ど上演されないが、明治以来小芝居に主として演ぜられたものや、宮戸座の金子重香他の座附作者の筆になつた芝居を見てゐると、段取りが甘いにせよ、大衆演劇としての歌舞伎の一面は好く現れ、研究者に捨難い資料を提供して呉れる。

寿座(寿劇場)の狂言立ては、興行主の梶田政太郎がだいたい考えたものだった。

事務所に何年間かの上演表が出来てをり、務めて重複を避けてゐたと言ふ。幹部は一役主演し、一役助演するのが極りだつたが、附き合ひの役は、誰も好い加減だ。稽古は初日二三日前、朝から開幕時間まで、簡単にしたらしい。

幹部とは、

中心になる大黒柱はゐず、新之助を座長頭格として好く纏まつてゐた。新之助は言ふまでもなく、団十郎二女、故旭梅の夫で、「二月堂」の良弁が大得意らしいが、「そばや」の直侍の風情は捨て切れない。高麗之助は、寿美蔵のやうな真面目な芸、鶴蔵は、藤間章三郎と言ひ、踊りが達者、「鳥羽絵」は代表芸である。竹若は口跡が好く、鶴太郎や、美男の福之助とともに人気があつた。延松に、師匠延若同様、和事よりかへつて、赤つ面や老役に傑作を持つ。

といった面々である。小谷青楓が「寿劇場の今昔」を綴っていた昭和16年(1941)3月に、薪車改め坂東鶴蔵が新たに加入したことで、《これで所謂五頭目が揃ひ、鶴蔵が戻つた結果、舞踊が多く上演されるやうにな》った。この五頭目のうちの三人、高麗之助、鶴蔵、竹若により、戦後に旗上げされたのが「かたばみ座」であった。


昭和15年(1940)前後に、入りをよくするために、新聞入れ込みの只札を出したりなどしていて、それも効を奏したのか、昭和16年(1941)に入って、寿座(寿劇場)はますます好況になった。6月には、

六月には、坪内士行氏を幹事にし、文壇人で寿劇場を見る会が結成されるなど、漸く識者の間でも、話題になつて来た。

その翌月、7月7日には、

軍用機献納興行を七月七日に催し、当時の俳優協会々長羽左衛門以下、菊五郎、猿之助、三升が舞台から挨拶を述べた。嘗ての緞帳芝居へ時の名優達が顔を出す。寿劇場界隈は、其の噂で持ち切つてゐた。

児玉竜一「戦中戦後歌舞伎日録」を参照すると、昭和16年(1941)6月29日に《歌舞伎座で、軍用機「俳優号」献納興行基金募集のマチネー。》とあり、《演目は阿古屋、修禅寺物語、源氏店。本所寿座でも下旬の一日を献納興行として、羽左衛門・菊五郎が観客に挨拶をした。》と補足されている。そして、同年11月15日、《羽田の東京飛行場で、「俳優号」の献納命名式が行われる。》、《俳優号を含む報国号十二機が献納され、羽左衛門が代表として感謝状を受ける。特設舞台で、寿式三番叟(吉・三・菊)が奉納される。》。



《大日本俳優協会集合写真(昭和16年1月20日・新橋演舞場)》、歌舞伎学会誌『歌舞伎 研究と批評 24〈特集――戦中戦後の歌舞伎(前編)〉』(1999年12月)グラビアより。寿座劇団を代表して五代目新之助が、最後列の左から二番目、四列目のロッパの左後ろに写っている。

昭和15年(1940)10月12日に大政翼賛会が結成された。その二日後、10月14日には、歌舞伎座で大日本俳優協会の結成式が挙行された。内務省の推奨による、政府の演劇人への時局対策の一環だった。そして、同年12月6日に情報局が発足し、以降、演劇は「国民演劇」の名のもとに統率されていった。

 昭和十六年から太平洋戦争がはじまった。政府は国民をがんじがらめに統制して、いよいよ戦争一途に向わせた。軍部や高官は酒をガブガブ呑みながら、国民には与えないというやり方だから、演劇などが贅沢視され、揉みくちゃにされるも当然だった。「健全なる娯楽」と認めたものでなければ許されなかったのだ。
 「国民演劇」というものができた。歌舞伎も新派も新劇もない。健全な脚本と認められたものは、みんなその中へ入れられてしまうのだった。情報局は新作の国民演劇を募集し、またその選奨事業をやった。旧作で国民演劇参加ということになると、まずその脚本が情報局できびしく検閲され、さしつかえないときまったら、審査員が見てまわって点をつけ、最上のものに情報局総裁賞、以下に情報局賞が与えられる。歌舞伎でも「春の霜」と「菅原」が、人形でも「千本桜」が総裁賞をもらったことがある。現在の芸術祭に似たようなものだ。

(渥美清太郎『芝居五十年』時事通信社・昭和31年12月)

 《現在の芸術祭に似たようなものだ》と書いているのがなんとなく皮肉であるが、さて、この年、昭和15年12月、演劇雑誌の第一次統合が行われ、『中央演劇』『新演劇』『舞台』の三誌が合併して、翌16年(1941)3月、『国民演劇』が創刊する。



『国民演劇』昭和17年(1942)10月号。表紙:中川一政。昭和18年(1943)11月、演劇雑誌の第二次統合により『国民演劇』と『東宝』が合併して、『日本演劇』が創刊される。牧野書店で『国民演劇』の編集をしていた羽田義朗が『日本演劇』の編集者となったが、その後退職したため、その欠員補充のため、昭和19年(1944)7月に戸板康二が日本演劇社に入社したのだった。


戸板康二が「〈思い出の劇場〉寿劇場」に、1940年代の寿座(寿劇場)について、《戦局がはげしくなり、都心の小屋の大歌舞伎が情報局の指令で堅苦しい国民演劇を上演している時、隅田川の向うにゆくと、大正期まで歌舞伎に残っていたはずのいささか猥雑な舞台が見られるのが魅力だった。》と書いた。

戸部銀作も、《十七年から十八年に掛けては、寿劇場の極盛期》であったとしている。戸部は、その理由として、第一に《入場料の低廉》を挙げている。

十五年頃は、四十銭ー一円だつたが、当時は税を入れても、五十銭―一円二十銭で、焼ける時も、六十三銭―一円五十銭ぐらゐだと思ふ。一定の役者に、きまつた道具、衣裳を松竹から借りるだけで、経営は合理化され、支出が少くても、充分やつて行けたお陰である。道具は何時も悪かつたが、衣裳はぜいたくになつて来た。

そして、客を呼んだ最大の理由として、《一定した顔触が、年中無休でやつてゐたため噂が伝り、嘗ての小芝居フアンを段々吸収した点が挙げられる》としている。

義太夫狂言の一本も出ない時は、めつきり入りが薄くなつたのより考へても、来る人種は、はつきり分るであらう。大宮、蒲田方面までを含んで、東京全地域から人が集り、昼が夜より遙かに混んでゐた。彼等は一度行けば、顧客になり、寿座へ一日の享楽を求めに来たので、隣り合せに座つた同じ芝居好きと、宮戸座を語り、訥子や歌扇を論じて、帰りにはすつかり仲好しになる。

歌舞伎をたっぷり見たいという、真の芝居好きが集っていた。かつての小芝居は近所の住民が観客の中心だったけれども、東都唯一の小芝居劇場となった寿座(寿劇場)には、遠路はるばる来る客も少なくなかった。


また、1940年代における寿座(寿劇場)の好況には、《歌舞伎の一時的好況》も反映しているという。この時期、特に若い世代のなかで、歌舞伎そのものの人気が高くなっていたというのが、戸部銀作の実感だった。

古典復興の掛け声につれて、此の頃は、歌舞伎座も毎月大入で、特に、若い年代の人々の歌舞伎への関心が高まつた。十四・五年頃は、金ボタン姿では恥しかつたが、学生は来、近所の女子の子が暇を見ては毎日のやうに舞台際にかぶきついて、竹若、鶴太郎、福之助らの噂をし、時には「音羽屋」と黄色い声を挙げてゐた。

戸部青年のような学究的な観客が以前よりもぐっと増えたにせよ、明治42年(1909)8月の寿座で松崎天民が目撃していたような、近所の娘さんたちも観客として健在だった。

小劇場の常として、幕の中に首を突つ込んで、女子達は贔屓役者の顔を少しでも長く、ちつとでも身近かに拝まうとする。僕も時々首を入れては、大道具を取り附けたり、外したりするのを、眼のあたり見て勉強した。時代、世話、所作、いろ/\の場面を見学して、これは大いに参考になつた。

戸部が幕の中に首を突っ込んだのは、大道具の取り付けや外し方の勉強のためであり、娘さんたちは贔屓役者の顔を見るために幕の中に首を突っ込む。幕開きの柝が入るまで首を出さない。そんなことをしても怒られない。そして、《寿劇場のかぶりつき立見席は、目的の違う若き男女歌舞伎ファンの交際の場所になった。》。


昭和16年(1941)に、坪内士行を幹事に《文壇人で寿劇場を観る会》が結成されて、寿座(寿劇場)が識者のなかで持て囃されている様子が見て取れるが、昭和18年(1943)2月には、早稲田大学演劇協会で「寿劇場後援会」なるものが結成された。

此の年二月、早稲田演劇協会は、「寿劇場後援会」なるものを作つた。顧問、寺澤高信、河竹繁俊、坪内市行、渥美清太郎の四氏。会員は、幹事、印南高一、竹柴光葉の二氏。会員は、日高只一、岡田八千代、浜村米蔵、上山草人、竹中荘吉氏他百九十名の老若男女で、会費一年二円。此の会は、七月と十二月に歌舞伎研究会を催し[た]だけで、有名無実に終つた。幹事二氏が、寿座や大衆歌舞伎を愛する気持より出たのではないから、何ら、劇場側に益する処はなかつたのだ。研究会は二回とも、顧問諸氏の講演。下座音楽、実演で、河竹先生や渥美さんが演壇に立つと、「芝居の神様」の半畳が入るなど、場所柄を思はせて、微笑ましかつた。

 戸部が《幹事二氏が、寿座や大衆歌舞伎を愛する気持より出たのではないから、何ら、劇場側に益する処はなかつた》と書いているのは、戸部がいかに《寿座や大衆歌舞伎》を愛していたかということでもあろう。

「寿劇場後援会」については、『演芸画報』昭和18年9月号の「近事一括」に

本所の寿劇場では、七月に一夕研究会を開催した。これには河竹繁俊氏の歌舞伎に関する講演があり、下座音楽を解説つきですつかり解剖して聴かせまた「安達原」一幕をこれも鑑賞に要する解説を附けて演じた。超満員の成功だった。斯うした重要な試みが大衆劇場から始められるなどは面白い。

と報じられている。芸能学会誌『芸能』昭和18年8月号の「芸能界彙報」には、

早大演劇博物館では、歌舞伎の古典的演出保存のために、寿劇場に於て「歌舞伎研究、お話と実演の会」を去十日六時から催した。挨拶に(寺澤高信、坪内士行、印南高一、市川猿之助諸氏)、歌舞伎の変遷に就いて(河竹繁俊氏)、下座音楽の実演と解説「奥州安達原」の実演と解説(渥美清太郎氏、寿座劇団及びお囃子連中)又去る十七日は太功記の語り方と三味線の味ひ方を竹本織太夫が出演。

というふうに、さらに詳しい記述がある。

相川章太郎が、昭和19年(1944)11月に『蘭奢待新田系図』が上演された折に、《『石切勘平』当時騒がれた古劇復興の言葉も此の頃は忘れられて来た》と書いていたのを思い出す。戸板康二が「〈思い出の劇場〉寿劇場」に《都新聞の記事で知って、かけつけたのだと思う。》と書いていた『石切の勘平』が上演されたのは、昭和18年(1943)9月一の替りだった。早稲田演劇協会の「寿劇場後援会」に関連して、寿座(寿劇場)で騒がれていた《古劇復興の言葉》だったのだろう。


昭和18年(1943)の寿座(寿劇場)は、《識者の間に持て囃されていることを知った劇場側は、狂言立てにもがぜん張り切った》。戸部銀作は、昭和18年を《今年ほど珍しい狂言や良心的な並べ方をしたことはなかった。》と振り返っている。

で、結局、勝能進・諺合作「佐野鹿十郎」本名題「妻乞鹿浮佐野讐」(明治八年十月道頓堀筑後の芝居)、三代如皐作「世界花小栗外伝」の浪七住家、勘平を伴内に直した「お軽伴内道行」と、珍しくはないが、「法界坊」の四つに止を刺す。これらを見てゐる時は、本当に昔の小芝居へ行つた気分で、唯腹を抱へてげら/\笑つた。僕のノートには、其の感想が詳しく書かれている。戦運漸く不利となつた当時何のわだかまりもなく笑へるのさへ、有り難かつたのだ。「佐野鹿十郎」で、継ぎ剥ぎだらけの明治初期の大阪脚本を、「小栗外伝」「法界坊」では、歌舞伎脚本の人物出し入れの巧さを、今更ながら知つた。鹿十郎、浪七は延松、伴内は鶴蔵、法界坊は高麗之助。良心的な舞台としては、「源太勘当」と「無間の鐘」の同時上演、奥庭の鬼一を活歴にしない「鬼一法眼三略巻」、適当なカツトの「道明寺」などが、印象に残つてゐる。

昭和17年(1942)と18年(1943)の二年間が1940年代の寿座(寿劇場)の絶頂だった。『佐野鹿十郎』のことは、中川哲『東京小芝居挽歌』(青蛙房・1997年6月)でも、

上方色濃厚な実川延松が、いかにも小芝居向きの『佐野鹿十郎』という滑稽味の多い仇討ものを演っていて、大車輪に客席を飛びまわったり、東の桟敷にとびこんだりして連れの女友達を喜ばせてくれた。 

 と回想されていて、実に楽しそうなのだった。


翌年、昭和19年(1944)、決戦非常措置により大劇場が閉鎖された3月の下旬に三島由紀夫がさっそく寿座(寿劇場)へ走っていたが、

大劇場がなくなつたため、寿劇場は更に好況になると思はれたが、四囲の情勢はそれを許さず、此の頃を契機として、段々客は来なかつた。十一月空襲が始まつてからは、ガタ落ちで、遠方から来てゐた人の多かつたことが分る。

という状態で、寿座(寿劇場)もそれまでの客足を保つことができなくなっていた。戦時体制の強化により、芝居見物どころではなくなってしまった人たちが多かったのだろう。戸板康二が渥美清太郎と一緒に出かけていたのは、そういう時期であった。

その昭和19年(1944)の上演演目については、

此の頃になると、劇場側の意力を失つて、珍しい狂言は影を潜め、月並みのものばかりをするやうになつた。十九年前半では、「菅原」の天拝山、「日向島」を数へるに過ぎない。「天拝山」は、文楽でも、最近は殆ど見せず、東京の大劇場では、勝能進・諺蔵父子が改作した「神霊菅原道真記」が明治四十年六月明治座に上演された以来と言ふ珍しい場である。然し、舞台は、院本を其の儘読んでゐるやうで、歌舞伎に仕立てられてゐず、巻切の宙釣りを見せたいために出したのだと思へた。其の新之助の大荒れも、たいしたこともなかつた。「日向島」も同様、演出がだめだ。初春興行は、新之助は念願かなつて、歌舞伎十八番をやつた。「鳴神」である。成田屋ゆゑに、小芝居でも十八番が許された訳だが、こゝいらの客は、十八番のレツテルには驚かず、話題にしてゐなかつた。八重之丞と吉次の坊主が古風で好く、新之助の鳴神は、二代目団十郎張りと称してゐたが、柄に不足した。

それでも、昭和19年1月下旬という時期に「天拝山」を上演しているのが驚きなのだったが、実は後年、相川章太郎が《「菅原伝授」の「天拝山」を観たいと思って、劇場あて葉書で投書したところ、早速採り上げて上演してくれた。》と回想しているのだった(「想えば「こんぺえる」」)。

小宮麒一編『配役総覧』を参照すると、「天拝山」は昭和期での東京では、この寿座(寿劇場)と昭和37年(1962)9月の東横ホールでの三代目権十郎、昭和41年(1966)12月の国立劇場の八代目中車の菅丞相の三度しか上演されていない。中車の菅丞相、さぞくどかっただろうなあとちょっとわくわくする。前年の昭和18年(1943)1月には歌舞伎座で「筆法伝授」が菊五郎の菅丞相、吉右衛門の源蔵で上演されたのが非常に珍しく、戸板康二のそのときの所感が『丸本歌舞伎』にあるが、寿座(寿劇場)でも歌舞伎座の真似をして、昭和18年5月に「筆法伝授」を上演している。この場でも延松の源蔵は、三島言うところの《小芝居風な大芝居》を見せていたのだろうか。

戸板康二の劇評にあった昭和19年11月下旬の『児雷也』と『蘭奢待新田系図』については、

「児雷也」は、鹿六内だが、巫子から児雷也に引き抜いての引つ込みは、読本、草双紙と通ずる江戸の大衆娯楽味で、この芝居のみは印象に残つた。「新田系図」は、軍人援護強化運動参加と銘打ち近松半二の「蘭奢待新田系図」を新脚色し、軍人援護に結び附けたもので、活歴染み失敗だつた。

というのが、戸部の感想だった。

正岡容は宮戸座について《今日にして浅草宮戸座は、黙阿弥、三世如皐、其水、新七らが特定狂言の研究室であつた、図書館であつた、宝庫であつたとも亦云へよう。》と書いていたが(「旧宮戸座の記憶から」、『東京恋慕帖』ちくま学芸文庫・2004年10月)、これはそのまま、戸部銀作にとっての寿座(寿劇場)にも当てはまることだった。《僕等に取つては、珍しいだし物、変つた演出と言ふ舞台的興味はもとより、芝居を本当に一日享受する人に交つて、昔の観劇気分は、斯うであらうと想像するのが、何よりも楽し》かったという1940年代の寿座(寿劇場)は、戸部にとって、明治・大正の東京の小芝居に思いを馳せるだけでなく、徳川時代の歌舞伎にも思いを馳せる場所だった。

戸部銀作の「寿劇場の記録」でもっとも印象深い箇所は、岡鬼太郎が「江東芝居風景」を書いていた、昭和17年(1942)9月一の替わりの『蘭蝶』のくだりであろう。鬼太郎が《上出来は新之助の蘭蝶女房おみや、先代源之助の俤があり仕事も巧い、調子に注意すれば尚結構。》と評していた興行。新之助の十八番だった『蘭蝶』は寿座(寿劇場)で毎年のように繰り返し上演されていたのだったが、このとき、戸部銀作は召集令状の来た友人を誘って、特等席で、すなわち東の桟敷で『蘭蝶』を見た。

当時、歌舞伎座へは官憲の眼が届き、骨と皮ばかりの歌舞伎を見せられてゐたので、寿へ通ふ一つの目的は、稍眼こぼしで許されてゐた遊びと情緒の世界を楽しみに行くことであつた。其の代表的なものとして、新之助十八番の蘭蝶「紫頭巾」を挙げる。私事にわたるが、僕の友達に作家志望の土居と言ふ男がゐた。召集令を手にし東京を発つ二日前彼を誘つて寿座の桟敷へ上つた。武蔵太夫のはらわたを掻きむしられる新内の節調を聴き、新之助、鶴太郎の色模様を見終つた時、彼は、これで兵隊に行つても思ひ残すことはないと、心から喜んでゐた。後で聞けば、翌る日も忙しい中を割いて、本所まで行つたと言ふ。彼はビルマへ行き、まだ帰つて来ない。僕は、「蘭蝶」を見せて、親友に最大の贈物をしたと、今でも思つてゐる。

戸部は、『演劇界』昭和43年6月号の〈特集・小芝居のはなし〉に寄稿した「戦災までの寿劇場」で、ふたたび、ビルマから帰ってこなかった親友の土居包について書いている。

土居包は宇和島出身で、早稲田へは大塚の待合から通うというようなことをし、江戸文化や江戸歌舞伎に憧れを持っていたという。入隊前の土居と『蘭蝶』を見た一年後、昭和18年(1943)夏に戸部は満員の夜行列車に乗り、香川県の善通寺に行った。ここで、日曜日の外出が出来た土居と一緒に、延寿太夫の『三千歳』のレコードを聴いたという。これが土居との今生の別れとなった。そして、そのとき歌舞伎の勉強を続けてくれと何度も言っていた。《戦後、ときどき彼の帰国した夢を見たが、いまはもう見なくなった。》と、昭和43年(1968)に戸部は書いている。そして、

 戦時中を学生で過したぼくらの青春は寿劇場にあった。当時の仲間は、土居のように、戦死したり病死した人もあり、生きている者も、皆芝居以外の仕事にたずさわり、戦後実社会へ進んだ。ぼくだけが歌舞伎の仕事をしているが、寿劇場で学んだ知識は血となり肉となり、ぼくの歌舞伎観や演出の方向を決定づけた。
 昭和二十年三月十一日、下町一帯が焼野が原になったつぎの朝、燃え残りの煙や、焼死体の間を何時間も歩き、池袋のわが家から本所緑町に辿りついた。映写室以外跡かたもなく、小芝居最後の殿堂は、消えうせていた。廻りの凄惨な光景は目に入らず、江戸の芝居情緒を残してくれたこの小屋の思い出がつぎつぎによみがえった。
 その時、小芝居の持つ娯楽性、大衆性を伝えることがぼくの宿命になった。

というふうに、「戦災までの寿劇場」(『演劇界』昭和43年6月号)を締めくくっている。

そして、戸部銀作は、歌舞伎の勉強をつづけてくれと何度も繰り返していたという友人の言葉どおりの仕事をまっとうした。《寿劇場で学んだ知識は血となり肉とな》り、戸部銀作は、国立劇場芸能部演出室長を務め、多くの復活狂言に携わった。

戸部銀作というと、三代目猿之助を思い出すのであるが、猿之助が自主公演「春秋会」を旗揚げしたのは昭和41年(1966)7月東横ホールであった。

 この第一回公演は三日間の公演で、復活狂言『太平記中心講釈』と、新解釈新演出の『俊寛』、そして舞踊の『酔奴』の三演目を上演した。〝春秋会〟を通して初めて芝居の企画・制作・販売・脚本・演出・もちろん主演と、すべてを完全に自分一人でやってみた。
 この経験が、現在の私の演劇活動の重要なポイントになっている。いわば、〝猿之助歌舞伎〟の出発点でもあったわけである。

と、これは血気盛んな四十代半ばに執筆された『猿之助修羅舞台』(大和山出版社・昭和59年5月)の一節。《戸部銀作氏が上演作品のアレンジをやってくれる》とある。そして、この二年後、昭和43年(1968)3、4月の二ヶ月にわたり、国立劇場における『義経千本桜』通し上演の折に、初めて宙乗りの演出が導入された。戸部銀作の発案であった。

戸部銀作が『演劇界』昭和43年6月号に寄稿した「戦災までの寿劇場」を執筆したのは、ちょうど、国立劇場で猿之助が大はりきりで宙乗りをしているときだった。戸部の《小芝居の持つ娯楽性、大衆性を伝えることがぼくの宿命になった。》という言葉の裏付けをここに見る思いがする。



昭和30年代の戸部銀作、戸板康二『わが人物手帖』(白鳳社・昭和37年2月)口絵より。

東京大空襲で焼けた翌日、戸部銀作は池袋から本所緑町まで歩いて、寿座(寿劇場)の前へ行ったのだったが、

 それから二年以上過ぎたつい先き頃、始めて再び緑町へ行って見た。映写室と石の塀はその儘で、小屋のあつた処には、草が生え、玉蜀黍が植ゑられている。周囲に家を建てゝ帰つて来た嘗ての寿座ファンの誰もが、再建を望んでゐながら、いろ/\の事情で実現不可能だし、出来ても、昔のやうな形態は残し得ないであらう。小芝居と言ふ大衆歌舞伎は、もう演劇史の中にのみ存在する形態となつてしまつた。

 「寿劇場の記録」を発表するにあたって、昭和22年(1947)秋、ふたたび本所緑町へ行った。

梶田氏は、寿劇場脇の会社に通ひ、毎日焼跡を見、復活しようと思ひながらも、種々の難点、殊に道路拡張のため地所がはつきりしないので、実現出来そうにない。横浜、伊勢崎町のオリエンタル劇場、同じく磯子の杉子座が、今の処歌舞伎の常打をやつてゐるが、何時まで続けられるか分らず、軽演劇の劇場にさへ事欠く東京では、中処歌舞伎の常打ち小屋など夢であらう。

昭和22年秋の時点では、《新之助・高麗之助・竹若・福之助・升之丞は旅を専門に、鶴蔵は再び薪車に返り、葛飾の金剛劇団の専属として、東京近郊を廻り、八重之丞は宗十郎一座に加入し、紀三郎がブローカーになるなど、寿座の面々は、何れも、我が道を行つてゐる。》という状態だった。高麗之助、鶴蔵、竹若により「かたばみ座」が旗揚げされるのはこの3年後、昭和25年であった。

昭和22年(1947)に戸部銀作が書いたとおり、戦後昭和の東京において、小芝居の常打ち小屋がつくられることはなかった。しかし、歌舞伎をとりまく社会状況の変化を見据えつつ、《寿劇場で学んだ知識》が《血となり肉とな》っていた戸部銀作は、沈着に自らの仕事をまっとうしたのだった。


戦後の回想その2:相川章太郎「想えば「こんぺえる」」


相川章太郎は、京王井の頭線池ノ上の由縁堂書店のご主人。昭和19年(1944)11月に「軍人援護強化運動」という肩書きをつけて『蘭奢待新田系図』が上演され、その劇評を『演劇界』12月号に戸板康二が書き、さらに、その次号の『演劇界』昭和20年(1945)1月号に、相川章太郎による見物記が掲載された。小宮麒一『配役総覧』第3版「寿劇場 興行記録」を見ると、昭和18年4月以降の箇所は、相川所蔵の筋書が典拠になっている箇所が多く、かねてより、寿座(寿劇場)の熱心なファンであったことが窺えたものであった。

安藤鶴夫『ごぶ・ゆるね』(旺文社文庫・昭和55年7月)所収「古書会館ひらく」に、

 いらっしゃい、よくおいで下さいました、と、いわれて、顔を見たら、相沢[ママ]章太郎さんである。相沢[ママ]さんは、たいへんな歌舞伎、落語の通人で、世田谷の代沢二丁目で、由縁堂という古書店をひらいている。
 戦後、黒美寿会というのをつくって、望月太意之助さんの解説で、歌舞伎の、鳴物の付帳を、たくさん刊行した。
 茶半紙の、小型、横長の、活字本では出せない凝った謄写版の印刷で、たとえば〈梅雨小袖昔八丈〉永代橋の場だと、髪結新三が、忠七を足で蹴って、「ざまアみやがれ」と、傘を肩に、とんと、きまると、ドンドン、と大きく浪音の太鼓が入って、吹けよ川風……、という佃の唄が入る、といったふうなことを書いた本である。
 相沢[ママ]さんは、戦後の、まだ、いろいろなものが不自由で、なんだか、みんな、一様に、こころの荒れ果てている時分に、そんな本を出して、わたしをおどろかした。そんな、若い、古本屋の主人である。

というくだりがある。相川章太郎の名字が「相沢」と誤植されている。ふだんは「由縁堂さん」と屋号で呼んでいて、うっかり間違えてしまったのだろう。「古書会館ひらく」は、『かんだ』昭和38年(1963)初秋号から昭和44年(1969)36号まで連載された「ずいひつ・かんだ」のうちの一篇、昭和44年9月9日の安藤鶴夫の他界まで続いた連載だった。

かれこれ二十年ほど前のことになるだろうか、由縁堂書店の名前は、五反田の古書展に通っているうちにいつのまにかおなじみになっていた。そんなある日、池ノ上駅附近を適当に歩いていたら、偶然、由縁堂書店の前を通りかかってびっくりしたときの感激は今でもよく覚えている。以来、日本近代文学館の帰りや、下北沢で観劇する日の行き帰りに、たまに立ち寄るのを楽しみにしている古本屋さんとなった。上掲の安藤鶴夫の文章で、そのご主人が《たいへんな歌舞伎、落語の通人》と知って、勝手に親しみを抱いていたものであった。いつのまにか、建物が一新していたときもびっくりしたものであった。


『古本屋――その生活・趣味・研究――』は堀切の青木書店発行、昭和61年(1986)から五年間、1990年まで全十号刊行された、誌名のとおり古本屋のご主人がその生活、趣味、研究等を綴った文章を寄稿している雑誌である。稲垣書店の中山信行さんが「ある映画青春記」と題した自叙伝を連載している。

その第3号(昭和61年10月)に、由縁堂書店の相川章太郎が「想えば「こんぺえる」」と題した随想を寄稿している。全12頁にわたる文章の後半は、湯浅喜久治の思い出が綴られている。「こんぺえる」とは、湯浅喜久治が《プロデューサーとして大きな飛躍を夢見》て企画した《若手の芸術家集団》のことで、活動が始動しないまま、湯浅の死により解散が決定した。「こんぺえる」は相川章太郎の命名によるもの、店にあった和仏辞典で「狂言回し」を引いて出て来た単語(compère)が由来という。

安藤鶴夫の文章に出て来る黒美寿会は、古本が趣味だった望月太意之助が由縁堂をしばしば客として訪れているうちにその主人と意気投合し、会を作ることになったのが発端だった。附帳を刊行しようということになり、謄写版の『黒みす』第1号を昭和25年(1950)3月に発行、計22種を十年かかって刊行したという。そんなある日、「今まで出ている附帳を売って下さい」と店を訪ねて来たのが湯浅喜久治だった。それが、湯浅と相川との交流の始まりであるが、初対面からして《よい感じは受けなかった》という湯浅とのつき合いは、昭和34年(1959)1月末のその死まで続いた。湯浅が手がけていた本牧亭の機関誌『ほんもく』(昭和26年創刊)、その後続誌『寄席風流』(昭和28年創刊)の編集を手伝い、そして、湯浅プロデュースの第一生命ホール「若手落語会」、東横ホール「東横寄席」「東横落語会」の印刷物一切を手弁当で引き受けていたのが相川だった。


相川章太郎は、昭和20年(1945)12月に旧制の電気通信工学校を卒業、敗戦直後の世相のなかで就職難な上、《授業をさぼっては映画や芝居に熱中していたので、よけいに電気関係には気が進まなかった》ので、《目の前の蔵書から好きな本で古本屋を始めようと決心》、由縁堂の屋号は『助六由縁江戸桜』に由来する。


相川章太郎が歌舞伎に夢中になったそもそものきっかけは、寿座(寿劇場)だった。

 歌舞伎を観るようになったのは映画にやや飽きてきた頃、昭和十八年の正月、さて何を観ようかと、都新聞の映画演芸案内の広告欄を見たところ、本所緑町寿劇場の、初春興行花形歌舞伎一座の広告が目に入った。妙に心がひかれ、早速本所まで足をのばした。

昭和18年(1943)1月一の替りは、『熊谷陣屋』『式三番叟』『引窓』『お祭佐七』という狂言立てだった。

 始めて入った寿座、先ず目に刺戟的であったのは、「熊谷陣屋」の二重屋台の銀ぶすまであった。舞台と客席との距離がないだけに、その銀ぶすまは煙草の銀紙を鼻先に押しあてられたように、異様なまぶしい光景である。そして、その銀ぶすまのにぶい照りかえりの中に展開してゆく、熊谷次郎直実の悲劇。熊谷を演じたのは実川延松という役者、かすれた口跡は聞きとりにくかったが、上方役者らしいせかせかした動きは、かえって身につまされる興趣があった。演目の第二は『寿式三番叟』、鶴蔵、鶴太郎というコンビで踊る二人三番で楽しく、第三は座頭市川新之助の「引窓」、第四「お祭佐七」であった。お祭佐七は松本高麗之助で、長身のため小腰をかがめたような姿で、せりふを言うたびに顔を右に左に、いそがしく振るのがくせだが、身体から発散する愛嬌があり人気は仲々であった。
 さて、見終って多ぜいの観客と重なるようにして小屋の外へ出たとき、映画を観たあととはまた違う、言いようのない興奮が戦りつのように身体に残っているのを覚えた。

という次第で、相川章太郎の歌舞伎とのつき合いは、延松の熊谷で始まった。お正月休みに、元都新聞の東京新聞の演芸欄を見て、気が向いてふらっと行ってみたというきっかけがとてもいい。


寿座(寿劇場)は長らく十日替わりの月三回だったが、昭和18年1月を最後に三回興行でなくなり、2月以降は月二回興行となった。相川章太郎は寿座(寿劇場)に通い詰めることとなった。

劇場は平屋建て、正面土間に縦に三列に椅子席。椅子席を挟んで上手下手に畳の坐席があり、それぞれ特等席、一等席となっている。等級が分れているのは、花道を出入りする役者が演技をするとき、そちらを向くか、背を向けるかの違いで、むしろ役者を身近かに見ようと思ったら、一等席の方がお白粉のはげ具合まで、ぐっとリアルに見えて楽しい。

上手すなわち西の桟敷が特等席、東の桟敷が一等席だった。戸部銀作言うところの《今にも壊れさうな六人掛けの椅子》が土間に三つずつ並んでいた。


昭和17年(1942)と18年(1943)の二年間を、戸部銀作は寿座(寿劇場)の最盛期としていた。そして、昭和18年には、早稲田演劇協会が「寿劇場後援会」を組織したりと、識者により注目されたことで、劇場側も俄然張り切った。相川章太郎が寿座(寿劇場)に通い始めたのは、戸部銀作が《今年ほど珍しい狂言や良心的な並べ方をしたことはなかった。》と振り返っている昭和18年だった。『石切の勘平』が上演されたのは同年9月一の替り、戸板康二は東京新聞の演芸欄で知って駆け付けた。このときのことを《『石切勘平』当時騒がれた古劇復興の言葉も此の頃は忘れられてきた来た》と、相川が『演劇界』昭和20年1月号に投稿した『蘭奢待新田系図』見物記に書いていたのは前に見たとおりだ。相川章太郎は、そんな昭和18年の寿座(寿劇場)の空気に大いに鼓舞されて、芝居見物に邁進したのだった。

 寿劇場にはその後、十五日替わりの、ほとんど替り目ごとに通うようになる。そのうち戦争が激しくなってくると、鉄兜、防空頭巾、そしてゲートル姿での芝居通い。両国駅から緑町まで歩くうち、途中雑炊食堂の行列に並んで腹ごしらえ、などという時代になる。
 私にとって寿劇場は歌舞伎を勉強するのに、恰好の塾・学校のような存在であった。珍しい狂言の上演も多く「菅原伝授」の「天拝山」を観たいと思って、劇場あて葉書で投書したところ、早速採り上げて上演してくれた。また「蘭奢待新田系図」の「寺子屋」という芝居、発掘上演されたときはその見たままの報告を、演劇界の当時薄っぺらの号に載せてもらったことがある。

『天拝山』は昭和19年(1944)1月二の替りに上演されている。新之助の菅丞相であった。『蘭奢待新田系図』が上演された同年同月の、昭和19年11月24日にB29の東京初爆撃があり、その翌月の各座は《見るも無残な不入り》と大木豊が書いていたが、相川章太郎が空襲が頻繁になっても、寿座(寿劇場)に通い続けた。

 空襲が頻繁になってくるとさすがに観客は少くなったが、芸能報告ということで芝居は続けられた。「本朝二十四孝」という芝居の開演中、突如ポーッというサイレン、すわ空襲と、観客は総立ちになったが、やがてサイレンは機関車の汽笛とわかり、ほっとした観客はまた席に座り直した。見ると舞台では、上杉謙信役の助十郎という役者がすっかり長袴を脱いでしまって逃げ仕度でうろうろしているのである。客席も舞台も一せいに大笑いになってしまった。

ここで回想されている『本朝廿四孝』が上演されていたのは、昭和20(1945)2月一の替り(1月30日)の興行である。昭和19年9月一の替りの『寺子屋』で春藤玄蕃を勤めたときは捕手の一人に手を引かれて花道を入ってゆく姿を戸板康二に目撃され、同月二の替りの『菊畑』の鬼一では《寝てしゃべつてゐるやうな怠け芸》と三島由紀夫を呆れさせていた介十郎(助十郎)は、つくづく記憶に残る役者であった。

相川章太郎は、寿座(寿劇場)の最後の興行となる昭和20年(1945)2月二の替りの筋書も保存しており、小宮麒一『配役総覧』に貢献している。昭和18年(1943)1月から昭和20年(1945)2月までの寿座(寿劇場)をつぶさに見物した観客だった。


相川章太郎は当時、目蒲線の西小山に住んでいた。戸板康二が住んでいた洗足の隣駅である。

 そして、三月十日、大空襲となる。当時目蒲線の西小山に住んでいたが、下町の空は夜空まで焦げているように真赤であった。翌日になってもなかなか黒い煙はおさまらない。
 二、三日してから高輪の学校を昼ころ出て、都電で京橋までゆき、それから先は電車不通のため歩いて両国橋を渡って本所まで行く。とにかく一望の焼野が原で、僅かに土蔵だけがなんとか建物らしく残っている。道路には着のみ着のままの、焼け出された人たちが行きかい、中にはシャツ姿で片鬢を焦がした角力取りの姿もあったりした。
 あたりには余燼と異臭がたちこめている。道路の脇の歩道には、十メートルおきくらいに防空壕が掘られていて、気がつくとその一つ一つの防空壕からはすすを固めたようなものが、必ずと言ってもよいくらい突き出ている。よく見るとそれは防空壕に飛びこんで焼死した人たちの凄まじいばかりの死体の有様であった。寿劇場も、見事に焼失していて、辛うじて片側の厚い石塀だけがその形を留めていた。
 のちに、一番贔屓にしていた坂東鶴太郎という女形が防空壕で焼死したことを聞かされた。

戸部銀作とおなじように、相川章太郎も、大空襲の直後に本所緑町へ歩いて、寿座(寿劇場)の焼失をその目に刻んだ。


電気通信工学校を敗戦の年の12月に卒業して、由縁堂書店を開業する。そして、家業のかたわら、ますます、芝居と演芸に邁進してゆく。

ただでさえ、あまり売れないのに、雨でも降ればますます売れなくなる。そこで朝から雨ならその日は休業、勇んで芝居を観に出かけてゆく。途中から雨が降りだしたらそこで店を閉め劇場へ駆けつける。東劇・演舞場・明治座・三越劇場・帝劇、それに歌舞伎座も一足遅れて復興し、こまめに出かけないと、全部見きれない。そしてその恰好はジャンバーで朴歯の高下駄、傘は番傘にゆかり堂の四文字を回し書きにしたのをさし、片手にノートなど入れた小さなボストンバッグを持ち、そんななりで銀座でも丸の内でも平気で歩いていた。

望月太意之助と黒美寿会を結成し、昭和25年(1950)3月より、謄写版の『黒みす』の刊行を開始した。望月太意之助は寿座(寿劇場)で「下座鑑賞会」を開いたことがあったという。昭和18年(1943)7月10日に、寿劇場後援会が開催した「歌舞伎研究、お話と実演の会」のこと指しているのだろうか。相川章太郎がお客として店を訪れた望月太意之助と意気投合したのも、寿座(寿劇場)の記憶が点火装置になったのかもしれない。そして、この『黒みす』をきっかけに、湯浅喜久治と知り合った。戸部銀作が《寿劇場で学んだ知識は血となり肉となり》と書いていたのと同じように、寿座(寿劇場)の若い観客だった相川章太郎も、寿座(寿劇場)の濃密な二年間がその後の人生を決定づけた。

『役者』第19号(昭和27年1月)のアンケート「あなたの感心した歌舞伎人(俳優・劇場関係者演劇評論家等)について」に、相川章太郎は「演劇研究家」という肩書きで以下のように回答している。

 僕は一介の三階の観客で、俳優の方々、或いは劇場関係者、ジャーナリストの方々と、別におつき合ひもなく、従つてそれらの方々の美談のやうなものは、一さい書くすべがありません。唯。芝居に観客の存在を無視することが出来ない事を思ふ時、いまだに三階席に残つている本当に芝居を愛している人達の存在こそ、一つの美談ならぬ美談として提供したいと思ひます。席をつらねる他人同志が、互にいたはり合い乍ら、時には持参の飲食物のやりとりまでする、気のおけない親しみ。幕があけば、思ひやりのこもつた温い目で、しかも一心に芝居に見入る嬉しさ。芝居が終れば、同席出来たよろこびを互ひに感謝しあいつゝ、又逢ふこともありませうと名残を惜しむ礼儀正しさ。このやうな人たちの中にあつて、芝居のまゝに泣き、笑ひ、喜び、悲しみすることの出来る自分を本当に幸福と思つています。感心――といふよりも、それは尊敬すべき人たちです。


戦後の回想その3:中川哲『東京小芝居挽歌』


『東京小芝居挽歌』の著者である中川哲は、大正10年(1921)に九段中坂の荒物屋「美濃屋」に生まれた。



中川哲『東京小芝居挽歌』(青蛙房・1997年6月)。装幀:宮内裕之。

  • 招魂社のおまつり
  • 三階席と小芝居
  • 寿座と明治座を軸芯に
  • 佳い芸を追いかける
  • 冬は寒いし夏は暑かった

という章立てで、子供時分から戦中戦後、1920年代から1950年代の芝居見物の思い出が綴られている。書名のとおりに、小芝居の思い出がたっぷり語られていて、実感的な筆致が臨場感たっぷり。寿座(寿劇場)文献としても、極上の一冊となっている。

芝居好きの祖母に連れられて初めて行った芝居は、神田劇場の中村歌扇一座の女芝居だった。と言っても、3、4歳の頃のことで、記憶には残っていないという。土田牧子「女役者と小芝居の行く末――神田劇場時代の中村歌扇」(神山彰編『〈近代日本演劇の記憶と文化1〉忘れられた演劇』森話社・2014年5月)で論じられている、大正4年(1915)年から昭和2年(1927)までの、歌扇の神田劇場時代。



大正14年(1925)2月神田劇場『二十四孝』十種香の場、八重垣姫=中村歌扇、『新演芸』大正14年4月号より。哲少年がお祖母さんに連れられて神田劇場に行った頃の歌扇。この号の『新演芸』には、亀居鉄弥「〈傍流を行く人々(2)〉中村歌扇の舞台とその味」が掲載。『新演芸』の最終号である。


九段中坂に育った中川哲の少年時代の思い出が招魂社のお祭りがあった。

 招魂社のおまつりがある春・秋の二回は子供たちが大はしゃぎするだけけではなくて、荒物屋という商売が商売だけに、境内の見世物小屋や露店の設営に必要な縄、釘、莚などの手当てに来る客で店のほうも賑わっていた。ことに店の裏手の貸家に曲馬団の元締めのお妾さんとかいうひとが住んでいたせいか、ただでいろいろの見世物にはいれる切符が貰えたから、小学生のころは四月と十月の大祭をわくわくして迎えたものである。
 どういうわけか、絵空事の芝居や見世物が大好きで、野球や運動会や徒競走にはなんの興味も持てなかったし、いまだに運動神経は特別に劣っている。独りっ子のお祖母さん子だったせいかもしれない。
 中坂の途中には一六稲荷(江戸時代は田安稲荷といったらしい)とかいう小さい神社があって、一の日と六の日には夕方から露店がならび、アセチレンガスの匂いが立ち込め、がらくた道具やあやしげな古雑誌の店、飴細工のおじさんやら一口カツの揚げ物屋なんかで、結構な賑わいをみせていた。

 1920年代文化の真っただ中で、少年時代を過ごし、歌舞伎のみならず、いろいろな芸能に惹かれていったのだった。

 大正十二年(一九二三)の関東大震災で倒壊焼亡した九段中坂近辺も、昭和の初めにはどうやらバラックが本建築で復興し、験直しの繁盛を取り戻した時代なのでだろう。私の記憶に映る頃になると、つぎの大不況時代への束間を楽しもうとしていた時期であり、エロ、グロ、ナンセンスの勃興期にあたったように思える。

昭和2年からの五年間、中川哲より五歳年上、大正4年(1915)生まれの戸板康二も九段界隈に住んでいた。祝祭感あふれる招魂社の近所ですれ違ったこともあったかもしれない。

大正4年(1915)生まれの戸板康二は、昭和2年(1927)から昭和7年(1932)まで麹町区富士見町の高台に住んでいた。暁星小・中学校を経て、慶應予科に入学した年までの五年間であった。当時、かなり広い原っぱと空き地があって、子供たちはそこで凧をあげたり、独楽をまわしたり、隠れん坊をしたりして遊んでいたという。

学校が暁星で、うちも富士見町にあったので、大祭の時はジンタが風に送られて、朝から夕方まで聞えていた。花火が揚って、中から角力取りの人形が、ふうわりふうわりと飛んで、神田の方へ流れて爼橋の辺りに落ちた。どうも、そういう印象が、しかし、僕には、春の大祭りのこととしてのみ残っている。葉桜の頃である。からっと晴れずに、そのくせ花火が揚った時だけ、空が青く見えるというような幻覚があったりするのだ。九段に住んでいた何年かのあいだに、この祭の時にかかるものの中には変転があった。のちにそれがすっかり取り払われて殺風景なパノラマがとって代るまで、小屋掛けの長い歴史の総じまいを、ここでしてみせたかのように、あらゆる種類の見世物が、その五・六年の短期間に、姿を見せ、あわただしく消えて行った。僕はそれを殆ど全部見て歩いたのである。
(戸板康二「九段の季節」(『春燈』昭和24年7月→『劇場の椅子』))

昭和2年から7年にいたる戸板康二の「九段の季節」は、祝祭感あふれる招魂社のお祭りがあわたただしく消えていく季節だった。昭和初年代の東京風景の一齣だった。



川上澄生『新装の九段坂』昭和4年(1929)、震災復興による道路網の拡充により、現在の靖国通りが整備されて、それにともなって、九段坂の勾配が以前の三分の一程度に改修された。中川哲の育った中坂は、その名のとおり、九段坂と冬青木坂の間にあった。



小泉癸巳男『〈東京百景〉靖国神社秋祭』昭和6年(1931)10月、『版画東京百景』(講談社・昭和53年3月)より。

中川哲は子供時分から祖母や母に連れられて、小芝居へ行っていた。

 芝居好きの祖母たちのお供で、浅草や本所の小芝居へも通うようになった。すでに震災後のことだから、平土間といっても畳敷の枡席ではなく、追い込みの椅子席になっていた。大劇場と違って、子供連れのおかみさんたちが大勢押しかけており、乳房丸出しで赤ん坊に乳をやりながら、自分は稲荷鮨をほうばっていたりするのである。子供の多い時代であったし、芝居好きも少なくなかったのだろう。
 はしゃぎ盛りの餓鬼どもは、幕間が遊びどきである。客席の間を走りまわるのは当たり前として、引幕の裾から首を舞台のほうへ突んだして、大道具の作り替えに好奇心いっぱいの目をこらしていた。
 今の歌舞伎座やなにかのような定式幕ではなく、出演俳優へ贔屓から贈られた、彩り豊かな、さまざまなデザインの引幕がとっかえひっかえ引かれるのだから、それだけでも、この次はなにが始まるのかと心をときめかしたものである。
 一幕終わって、柝がはいり、幕が引かれると、待ち兼ねたように悪童どもがわっと、幕の内側へ首を突きだす。へたをすると、まだ花道で役者が六方の見得を切っているうちに幕の裾をもたげて、狂言方に叱られたりするそそっかしい奴もいた。
 トンカチを腰にはさんだ大道具のおじさんたちがさっと現れて、いま終わった中幕の踊り所作舞台を持ち上げて持ち去っていく。見事な手順と敏捷な動作に子供たちは目を凝らす。(中略)
 二丁がはいると、雲助や乞食の扮装で役者たちがぞろぞろと、おしゃべりしながら、それぞれの居どころに座りこんだり、立ったりして幕開けの居ずまいになる。さっきは白塗りの侍姿だったのがよくもまあこんなに汚い拵えに変われるものだと感心したりする。
 「首を引っ込めな」なんて頭分[かしらぶん]らしい役者に小声で注意されたり、ときには柝を打つ狂言方の兄ちゃんに怒鳴られたりして、やっと子供たちは幕から離れて親のところへ帰り、こんどは食い物をねだったりしたのである。
 チョンと柝がはいって、下座の「駅路」かなにかの囃子にかかる。引幕が軽く揺れながら上手へひかれてゆくときの興奮は歌舞伎ならではの、わくわくする瞬間ではあるまいか。子供ながらに、つぎのお芝居への期待に胸をときめかしたものであった。

というような小芝居風景。小谷青楓も岡鬼太郎も戸部銀作も言及していた引幕。別のページでも、中川哲は、《小芝居の楽しみのひとつに、幕ごとに変わる引幕のゆらぎと下座の浮き立つ調子と、客席のざわめきの一体となった雰囲気があった。》と小芝居情緒について、綴っている。戸部銀作「寿劇場の記録」で娘さんたちが幕間に舞台の方をのぞいていたのと同じような光景がここでも繰り広げられているのであった。

戸部銀作「寿劇場の記録」に、《上手が特等席、下手花道外が一等席で何も桟敷、中は土間で、今にも壊れさうな六人掛けの椅子がおいてある。》と記録されていたのだたったが、

 私が覚えている宮戸座や寿座でも、平土間の両側には座って見られる桟敷の席があり、値段も倍くらい(一円?)した。
 祖母たちはすこし奮発してそちらへ案内されたがったが、幕覗きをしたいばかりに、私は平土間が好きだといって駄々をこねた。記憶では公園のベンチみたいな長椅子が、固定されてはいたものの、ずらりと並んでいるだけ。それも下駄履きのままの出入りだから、ずいぶん埃っぽかったろう。 

 というふうに、中川哲の回想によって裏付けることができる。子供にとっては土間の席がたのしかったというのがたいへん微笑ましいのだった。


中学生になった頃から、小遣いで寿座へ通ったり、大芝居の三階や立見席に行くことを覚えた。中川哲は越中島にあった府立第三商業中学校に通っていた。《生徒も下町商家の子供たちが多かったし、自由な雰囲気を大事にする校風でもあったから、自分の好きなことで時間をつぶす余裕があったのかもしれない。》という。戸板康二と同じ大正4年(1915)生まれ、銀座八丁目のおでん屋「お多幸」主人を父に持つ殿山泰司も泰明小学校卒業後、三商に通学した《下町商家の子供》であった。

中川哲のお気に入りは、明治座の三階席と寿座(寿劇場)だった。

昭和九年から十四年にかけての思春期時代を私は寿座の小芝居と明治座などの三階席通いのかたわら、大橋図書館の薄暗い閲覧室と神保町の古本屋巡りにほとんどその情熱を傾けてしまったことになる。

 大橋図書館には、『演芸画報』の合本が揃っていた。学校の帰りに、神保町で三宅周太郎『演劇巡礼』(中央公論社・昭和10年5月)を少しずつ立ち読みして一カ月かけて読了したエピソードが面白い。《適当にインテリっぽい評論に一時はすっかりいかれてしまった》という(p87)。三宅に《一時はすっかりいかれてしまった》けれども、やがて、そうでもなくなったということなのだろうか。その気持ちはよくわかるような気がする。岡鬼太郎『鬼言冗語』(岡倉書房・昭和10年4月)に出会ったのは刊行の二年後くらい、古本屋で買って、夢中になって読みふけったという。



大橋図書館(清水組設計・大正15年竣工)、『建築の東京』(都市美協会・昭和10年8月)より。『宝塚文藝図書館月報』第24号(昭和13年6月10日発行)所載、戸澤信義「東京図書館見学記」に、《九段軍人会館と相対して厳然と聳えておる》大橋図書館の印象が綴られている。《四階には休憩室一寸した食堂と売店が設置されておる、多くの図書館にては此の種の設備は小暗い地下に申訳的に設けられているのに対して斯かる見晴らしの好い室を当てがつた経営者の理解ある態度は嬉しい、そこから屋上遊園に出られて、小石川後楽園の翠滴る森陰が打ちならぶ瓦の中に思ひも掛けず近々と眺められた。》。


寿座(寿劇場)で見た『与話情浮名横櫛』の通し上演についての回想。小宮麒一編『配役総覧』によると、昭和13年(1938)9月興行、この月は珍しく狂言の入れ替りがなく、一カ月同じ演目を上演している。『与話情』通しと『菊畑』である。五代目新之助の与三郎と中村歌扇のお富のコンビであった。

 その後も数えきれないほどの「源氏店」の舞台には接したけれども、このときほどの面白さを感じたことはない。名品といわれた十五代目市村羽左衛門のそれにしてからが、私の知るころはすでに梅幸、松助の亡きあとで、しかも年に一度や二度は幸四郎の『勧進帳』並みに上演されていたから、いささか食傷気味にもなっていた。歌舞伎座のだだっぴろい舞台で十二代目羽左衛門のお富に六代目菊五郎の蝙蝠安が定番だったが、なにか水っぽくて馴染めなかった。ことに今でもそうだが、現行台本の「源氏店」の幕切れなんてものは、なんともしまりが悪い。まるで歌舞伎の幕切れになっていないではないか。
 世話講談や人情噺のいかにも下世話な猥雑さが身上というこの芝居の面白さが伝わってこない。単なる江戸風俗絵巻の一齣でしかなくなってしまっている。
 寿座のときは木更津の見初めから赤間の濡れ場、責め場はもちろん、「源氏店」では、多左衛門が帰ったあと、忍びこんだ与三郎が藤八を縛りあげて葛籠に投げ込み、これも藤八が女中に頼んでおいた仕出しの刺身を肴にお富と一杯やりながら、和泉屋へゆすりにいく相談をする色っぽい件りがあった。
 つぎの幕のゆすり場がまた面白かった。与三郎の実母が奥女中姿の女武道で捌役の上に、母と名乗れない情を見せるいい役処で、中村鶴太郎という若手女形の見せ場になっていた。
 その次が夢の時代所作事でぐっと綺麗な、いわば中幕になる。佐渡の島抜けをした与三郎が乞食小屋で見た夢という趣向で、この小屋で出会った敵役の赤間源左衛門や海松杭を殺す波瀾万丈の陰惨な場面展開が行なわれることになる。
 大詰はいまでも時に上演される本石町の伊豆屋で、義理の親たちに一目逢おうと忍んでくる与三郎と忠僕の人情噺でお仕舞いになる。
 歌舞伎の古い台本ではさらに観音久次の活躍する幕があるけれど、初演(嘉永六年)のときも上演されたかどうかははっきりしない。寿座のときも伊豆屋までだったが、それでも濡れ場、殺し場、ゆすり場、愁嘆場、チャリ場といかにも江戸末期の頽廃美が横溢する、小芝居ならではの世話物通し狂言に堪能した。

最後の女役者・中村歌扇の最後の舞台は寿座(寿劇場)、小宮麒一『配役総覧』によると、昭和14年(1939)7月二の替りの『酒屋』のおそのだったようだ。1940年代の寿座(寿劇場)の舞台ではもう見ることができなくなっていた歌扇のことがたっぷり語られているのだった。それにしても、『与話情』の通し、いかにも寿座(寿劇場)らしい演目。八代目団十郎が初演した与三郎は、五代目新之助の十八番だった。



『芝居と映画写真大観』(『講談倶楽部』昭和7年1月号・別冊附録)の「中村歌扇」のページは玉手御前。昭和13年(1938)9月の『与話情』の次の10月興行一の替りで、歌扇は玉手御前に扮している。生涯最後の玉手だったのだろう。


昭和12年(1937)2月を最後に宮戸座が閉場したとき、中川哲は中学三年生だった。《浅草は足場が悪いこともあって、あまり通った覚えはない。》という。そして、

宮戸座がなくなって歌舞伎の常打小芝居が本所の寿座だけになった。この頃から寿座は東京じゅうの芝居好きや若い歌舞伎ファンを集めて繁盛し始めるという皮肉な現象をもたらしたのである。

 という、戸部銀作が記録していたような1940年代の寿座(寿劇場)の芝居風景が繰り広げられることとなる。


昭和14年(1939)4月に中川哲は三菱銀行に入行、就職して自由な時間がなくなったかというとそうでもなく、五時には仕事が終わり、芝居を見ようが本を買おうが勝手次第になったとのことで、寿座(寿劇場)の十日替りに通ったり、各劇場の三階席、寄席、新劇、お能が見放題になったと回想している。

 いろいろな芸を追いかけたといっても、やはり一番まめに通ったのは本所の寿座だったろう。あまり大劇場では上演されなくなっていた古い歌舞伎狂言が取っ替え引っかえ姿を見せていたのだから。

と、中川哲の寿座(寿劇場)通いは、1940年代にピークを迎えた。

この昭和十四年から十九年にかけての六年ほどが私にとっては一番芝居に淫した時期であり、寿座という小屋のあったことがどれほど嬉しいものであったか、はかりしれない。

昭和15年(1940)12月初旬の日曜日、寿座(寿劇場)の『関の扉』と桜間金太郎の『道成寺』のどちらに行くか、さんざん迷ったあげく、結局寿座(寿劇場)に決めたくらい、寿座(寿劇場)の贔屓だった。のちの興行で、戸板康二も見ている『関の扉』は高麗之助の十八番だった。戸板康二が「〈思い出の劇場〉寿劇場」に《古風なおどりに特殊な味があった。》と書いていた高麗之助の関兵衛について、戸部銀作は「寿劇場の記録」に《黄表紙趣味がよく出ていた。》と書いていたのだった。「天明ぶり」という言葉を実感できる『関の扉』だったのだろう。



昭和16年(1941)6月三の替りの寿座(寿劇場)筋書、中川哲『東京小芝居挽歌』に掲載の図版。小谷青楓「寿劇場の今昔」(『演芸画報』昭和16年4月号)で見た昭和16年3月に鶴蔵が加入し、新之助、高麗之助、鶴蔵、延松、竹若の「五頭目」体制が出来上がった直後。正午開演(第一、第三日曜日は午前11時開演)の昼夜二回の入れ替えなし、十日ごとに演目が変わり、休日は原則なし。昭和18年2月以降は月二回興行になった。《此度新らしい御規則にて(違反者は退去又は処罰)客席にての喫煙は堅く禁ぜられたので御座ひます故誠に恐れ入ますがおたばこは必ず喫煙室にて召上る様お願ひ申上ます》の注意書きが面白い。


同じく同書掲載の図版、昭和14年(1939)3月と昭和19年(1944)9月の絵本筋書。

手持ち最終の昭和十九年九月二日初日の筋書になると、ペラペラの仙花紙でいまにも破れそうだが、昼夜三回入替無とあって、『寺子屋』(高麗之助、延松、竹若)『田舎源氏』の「古寺」(新之助、福之助、鶴太郎)『自雷也』の「鹿六内」(鶴蔵)の三本立てになっている。おそらく私が寿座を観にいった最後の興行であろう。

日本演劇社に入社したばかりの渥美清太郎と一緒に出かけている興行の筋書だ。絵本筋書のことを《みんな口では番附と呼んでいた》という。小谷青楓が、往年の宮戸座とおなじように《番組[プロ]をくれず、筋書として売る》と書いており、岡鬼太郎は劇場案内人の娘さんからこの筋書を十銭で買っていた。大劇場のシステムは、《「女給が、プログラムをくれましたが、これには狂言の場面や、配役だけしか書いてありませんね」/「二十銭出して筋書をお買ひなさい。それには戯曲の簡単なストーリーが、絵画や配役と共に出て居ります」》という感じだった(渥美清太郎『歌舞伎大全』新大衆社・昭和18年4月)。


阿部優蔵『東京の小芝居』の「寿座」の項に、昭和6、7年頃の筋書の口上が紹介されている。

「当時の寿座の筋書は、表紙の裏を一頁使って「乍憚口上[はばかりながらこうじょう]」があり、「御市中[まちぢう]御贔屓皆様方ますます御清栄大慶の至りに存じますさて当座儀開場毎に多大の御好評を賜り有難く厚く御礼申述べます。尚引続き左[さき]の狂言を取仕組み各俳優嵌役に車輪の舞台大奮闘を以て御高覧に供しますれば不相変御尊来之程幾重にも御願ひ申上げ奉ります」

1940年代の筋書では、

昭和十五年正月の筋書を見ると、昭和六、七年には「乍憚口上」とあった所が、「奉祝・皇紀二千六百年新春」となり、以下本文が「瑞雲九重の空にたなびき、茲に皇紀二千六百年興亜の新春を迎へ……」と少し嫌味な文句になってゐるが、翌十六年になると「大東亜の黎明漸く、其の曙光瑞雲に燦としてたなびき、一億一心総力の下に此処に輝かしき聖戦下に第四の新春を迎へ……我国伝統の古典芸術のために全劇場員打って一丸となって臣道の実践、大政翼賛の大旗の下に益々演劇報国に此の熱と此の努力を以て邁進して居ります……」と戦時色が凄じい。

という状態だった。しかしながら、かようにも戦時色がただよいつつも、戸部銀作が「寿劇場の記録」に、《当時、歌舞伎座へは官憲の眼が届き、骨と皮ばかりの歌舞伎を見せられてゐたので、寿へ通ふ一つの目的は、稍眼こぼしで許されてゐた遊びと情緒の世界を楽しみに行くことであつた。》と書いていたように、寿座(寿劇場)は慰安の場所にもなりえていたのだった。

中川哲は1940年代の寿座(寿劇場)の盛況を、《軍需景気で息を吹き返した東京下町の人たちの回顧趣味が、生き残りの寿座に最後の華やかさをもたらしていた時代》としている。

 そのころ歌舞伎座にも毎月通っていたけれども、昭和十年代の後半ともなると、座組も演目もいささかマンネリ化していた。戦争景気の新興インフレ客層の拡がりで興行としては良かったのだろうが、『勧進帳』、〝源氏店〟〝鮨屋〟といったポピュラーな演しものを定評のある役者たちが繰り返し上演するだけで、あまり魅力がなかった。
 まして、川向うの東京劇場に立て籠っていた、新作中心で頑張っていた二代目左団次が昭和十五年(一九四〇)に歿してからは、私は一方で寿座に歌舞伎芝居の名残を求めながら、一方では、文楽、能狂言、落語あるいは築地小劇場の新劇といったところへ傾斜せざるを得なくなってしまったのである。

かくして、中川哲は、戸部銀作が「寿劇場の記録」で語っていたような、昭和17年と18年の寿座(寿劇場)の目撃者となった。すっかりおなじみとなった、新之助や延松、高麗之助、鶴蔵とその出演作品について、『東京小芝居挽歌』にたっぷり語られていていて、1940年代寿座(寿劇場)の文献として、戸部銀作「寿劇場の記録」と合わせて読むと、ますます興趣が増すのだった。



昭和18(1943)12月興行の歌舞伎座の『勧進帳』、富樫=十五代目羽左衛門、弁慶=七代目幸四郎、『歌舞伎座百年史 本文篇上巻』より。興行中の12月22日に映画に撮影された。義経は六代目菊五郎。1940年代の歌舞伎座を象徴するような顔ぶれといえるかもしれない(吉右衛門は出ていないが)。


中川哲は、ずっと通っていた寿座(寿劇場)を最後に訪れたのは、昭和19年(1944)9月だっただろうと書いている。《空襲警報のサイレンにおびやかされながら、私は銀行からの職場徴用というやつで多摩川の戦車工場に早朝からの通勤をしながら》も、昭和19年まで寿座(寿劇場)に通ったのだった。

本所の寿座も十日替りの興行をつづけ、茶筅酒から三人嫁まできちんと見せた「佐太村」、〝日向島の景清〟、それに珍しい〝双蝶々〟の「米屋」もこの年だったように思う。いま演っておかなければこの世の終わりが来るという思いか、若手の応召で急な代役を立てながら、食糧も資材もないない尽くしのなかで、よく頑張ったものだと改めて思い出す。満員の客席と、舞台の交流がもっとも通いあったのは、あるいはこの緊迫した雰囲気の昭和十九年だった気さえしてくる。

 菅原の『賀の祝』は歌舞伎座で昭和19年1月に羽左衛門の桜丸で上演され、これにかぶせて、寿座(寿劇場)では3月後半に上演された。三島由紀夫が初めて寿座(寿劇場)を訪れた興行であった。『日向島の景清』は4月下旬、『双蝶々』は「角力場」が2月に歌舞伎座にかぶせて上演されているが、「橋本」が昭和16年(1941)と翌17年に寿座(寿劇場)で上演されていてびっくりする。これ以降、東京では歌舞伎上演されていない。


終戦後、昭和21年(1946)、中川哲は高円寺で所帯をもった。

 たまたま駅に近い古本屋の都丸書店に寄ってから南口を歩いていたら、市川八百蔵一座という幟が数本立っているのに気がついて、その小さい芝居小屋に飛び込んだ。
 いまでは正確な時期も劇場の名前も忘れてしまった。場所もはっきりしないが、高円寺南側のだらだら坂を下ったあたりを右に曲がったところにあったと記憶している。八百蔵が『源平布引滝』の「実盛物語」を演っていたのである。二十二、三年のことであろう。 二十八年六月に八代目中車を襲名した八百蔵という役者は当時の猿之助(後の猿翁)の次弟で、私の好きな優であった。芸質からいって猿之助の得意とした新作ものなどよりは古い歌舞伎の味を持っていたように思う。頭と勘は良かったのであろう。戦時中からラジオでの朗読では徳川夢声のライバルみたいに、近代大衆文芸作品を読んで人気を博していた。(中略)
 一座にはおそらく、戦後活躍の場を失った小芝居の腕達者たちが脇を固めていたのではないかと思うが、記憶力が弱くなって覚えていないのが残念である。

昭和21年(1946)8月に巡業先の北海道で、八百蔵一座に参加した実川延松が客死したと伝えられているのであるが、もしこのときに延松が健在だったら、中川哲は高円寺の芝居小屋で延松に再会したかもしれないと思うと残念である。


かたばみ座の思い出としては、昭和25年(1950)3月に旗揚げした上野池之端の都民文化館については、

 ここへは二回くらい行った記憶があるが、もともと歌舞伎小屋に出来たものではないから仕方もないが、声が天井へ抜ける感じで、寿座に見られたような活気はなく、観客から舞台が浮いてしまう寒々しさが悲しかった。
 鶴蔵はさすがにしっかりした地芸で、『桂川力蔵』と『鶯塚』というどちらも大劇場では見ることのできなくなった演目を、丁寧に演っていた。すでに大歌舞伎に出演していた市川福之助が応援に出ており、この二人の舞台はしっかりしたものであった。
 ただ、なによりも空虚に感じたのは、戦後の庶民生活や感覚の変化がこうした歌舞伎から離れてしまっていることに、役者も制作サイドも気がつかないのか、つかないふりをしているのか、すれ違ったままのように思えたことである。あまりに戦前の小芝居の華やかな活気に酔いすぎた私だけの感慨かもしれない、と思いながらもしらける気分から離れることはできなかった。

というふうに、率直に綴っている。《ぼくは、この劇団の芝居は、三回見に行っただけである。》と、かたばみ座に対して冷淡な戸板康二もたぶん同じような気持ちだったのだろう。

阿部優蔵『東京の小芝居』には、

 かたばみ座が旗挙げした上野の都民文化館は、池の端七軒町の電車の停留所に近い、不忍池に面した地位にあって、所有者は葛原工業であった。昭和二十三年六月には、文学座の『女の一生』が掛ったりしてゐるが、毎月芝居をしてゐたのでもなささうだ。適当な広さの舞台と客席があれば、調法がられた時代のことで、随分殺風景な、汚れそして毀れかけた建物であった。天井は雨漏りの汚斑だらけで、ところどころ破れてゐて、或る時など閉幕中に天井から鼠が落ちて見物の若い娘が悲鳴をあげて飛上った、そんな荒れ小屋であった。
 それでも、かたばみ座の人々は生々と芝居をしてゐた。東京で芝居の出来ることが、しかも自分達の常打劇場の得られたことが、その活気を生んだのであろう。
 上野時代のかたばみ座は、依然として章子、鶴子の女役者が活躍し、時には素人(?)の手を借りる無人芝居ではあったが、その舞台には私を引附ける何物かがあった。
 それは、やはり、高麗之助、竹若、鶴蔵三頭目の、小芝居復興の希望に燃える気概であったろう。

 とあり、寿座(寿劇場)を知っていた人すべてが中川哲と同じような思いを抱いたわけではないだろうけれども、寿座(寿劇場)を知っている観客と知らない観客の間で、感覚の違いはあったのかもしれない。ただ、かたばみ座の存在が、阿部優蔵にとっては『東京の小芝居』の執筆を志す原動力になっていたことは確かだろう。



『コンサイス東京都35区区分地図帖戦災焼失区域表示』昭和21年9月刊行の復刻版(日地出版・昭和60年3月)より。阿部優蔵の回想に戦慄するしかない上野の都民文化館は、敗戦前の地図の「常設博覧会場」と書かれている場所にあった。戸板康二は「〈ロビーの対話〉小芝居回想」に、《上野の池の端に大正の平和博覧会の時から残っていた建物》と書いている。


《「上野 東京都五千分之一地図」(復興土地住宅協会編、1950年代、国立国会図書館蔵)》、『みる・よむ・あるく 東京の歴史5』(吉川弘文館・2018年11月)より。敗戦前の地図の「常設博覧会場」が「都民文化館」になっている。現在は上野動物園の西園。


昭和25年(1950)3月に旗揚げしたと思ったら、わずか十カ月後、昭和26年(1951)1月二の替りの興行中の17日未明に都民文化館は出火焼失、すぐさま向島劇場に移って興行を続け、翌2月に浅草松屋の6階にあるスミダ劇場に本拠を移した。阿部優蔵『東京の小芝居』に、

 当時の浅草松屋には本式の舞台であるスミダ劇場と、その裏に仮設舞台を作って隅田小劇場と称してゐて、大小二つの劇場があった。二月にかたばみ座が初お目見得をしたのは大劇場の方であったが、都内には舞台の少なかった当時、大劇場の方は踊の会その他ですでに先の予定がきまってゐたのであらう。かたばみ座の二回目からの出演は、小劇場の方になった。

とあり、

戦後スミダ劇場の脇に設けられた小劇場で、ストリップや軽演劇が数回かけられたが、いづれも失敗に終り、いわば腐つた小屋になつて、空いていた。ここにかたばみ座が乗込んだのだが、毎日客席は不思議な程いい入りだった。定員三百五十名の客席、舞台は僅かに四間、天井が低く、二重も組めず、歌舞伎には無理な舞台だったが……

という守美雄の回想「再起をはかるかたばみ座」(『演劇界』昭和30年12月号)が引用されている。さっそく4月から隅田小劇場の呼名をかたばみ座と仮称したと『東京の小芝居』にあり、大木豊も《浅草は松屋の六階にあるスミダ小劇場が今月から「かたばみ座」と呼称されることになつた。》とその劇評で書いている(『大川端』第3号・昭和26年5月)。その同月、昭和26年(1951)4月の歌舞伎座では六代目歌右衛門襲名披露興行が挙行されていた。



『演劇グラフ』昭和28年(1953)1月号、秋山安三郎文・渡部雄吉撮影「かたばみ座」を再掲。秋山曰く、《松屋小ホールの舞台が狭く、客席は侘しく(衣裳だけは上等に近い)、観ていて自分が落魄を感じるようなところである。》。


中川哲はこのスミダ劇場については、

一度久しぶりに松屋を覗いたときは高麗之助が〝鮨屋〟の権太を演っていた。いかにも狭っくるしい舞台で、私の好きな高麗之助も大きな身体をもて扱いかねる感じで気の毒としか言いようがない。まわりの役者たちもなにかお座なりの演技で、やりきれなくなった記憶がある。
 なんといってもお客のほうがカサカサになってしまったのだから仕方がない。役者たちはそれでもなんとか小芝居の命を保とうとしてくれていたことはわかる。余計に私は侘しかった記憶が強い。

というふうに回想している。高麗之助の権太は昭和27年(1952)6月前半に上演されている。阿部優蔵『東京の小芝居』によると、高麗之助はこの年の12月に倒れて、翌28年(1953)1月下旬に歿した。《長身細躯、いささか丈を持余し気味だったが、役者らしい役者で、晩年には古風な味が貴重であった。》という、そんな高麗之助の姿を通して、阿部優蔵は敗戦前まであった「東京の小芝居」に思いを馳せていたのだろう。

その後、昭和30年(1955)7月、かたばみ座はスミダ劇場を立ち退かざるを得ない状況となり、9月に王子百貨店小ホールに本拠を移した。が、昭和32年(1957)2月を最後に、かたばみ座はまたもや流浪の状態になってしまう。と、ちょうどそのとき、かたばみ座は千代田公会堂で、都民劇場の特別公演を二十日間催した。

中川哲は、《千代田公会堂で『蘭蝶』と、『安達原』の鶴殺しなどという珍しい芝居を見せてくれたのを見にいった。》と、この公演に言及、かたばみ座に冷淡な戸板康二も「〈ロビーの対話〉小芝居回想」に、

 昭和三十二年に九段下の千代田区公会堂で、都民劇場が、かたばみ座の『安達原』二・三段目と『蘭蝶』の鑑賞会を催し、鶴蔵が袖萩・貞任と此糸、竹若が八幡太郎と蘭蝶・お宮を演じた。これは見ている。
 この時のプラグラムは、おもしろい。

と、同じようなことを書いている。そして、この公演は、若き日の三代目猿之助に深い感銘を与えたのであった。

……そのほか学生時代に見た芝居の中で印象に残っている舞台は、かたばみ座の『奥州安達原』である。当時では唯一の小芝居であったかたばみ座は、『安達原』の「鶴殺し」から「袖萩祭文」までを三越劇場[ママ]で上演していたが、これがステキにおもしろかった。「環宮明御殿の場(袖萩祭文)」の幕切れに貞任・宗任が向かい六方をしたり、貞任が宗任の腰について三つ飛び下がる派手な演出が印象に残った。
 つまり、理屈なく観客を喜ばせる歌舞伎の派手な演出と、貞任や袖萩の内面を突き詰めた心理描写との、対極にある対比や調和が実に面白く「これぞ歌舞伎の原点だ」とも思った。
(『猿之助修羅舞台』大和台出版社・昭和59年5月)

この興行を最後の花道に、昭和32年(1957)4月7日に鶴蔵は脳出血で他界してしまう。高麗之助、鶴蔵が逝き、竹若が一人残されてしまった。


中川哲は「かたばみ座を守った坂東竹若――根っからの小芝居育ち」と題した小項目に、

 私の手許には『講談研究』の畏友田邊孝治氏から貰ったNHK中継の『女大盃』の録音があり、竹若の「姉さん、たいがいにおしよ」と替わるところなどは、いまの大歌舞伎では見られない良い呼吸[いき]で感心している。
 だが、寿座時代の坂東竹若という優を正直、私はあまり好きになれなかった。いかにも小芝居役者らしい前受け狙いの芸で、いつも閉口しながらつきあったものである。臭い芸とはこういうものかと思い続けていた。
 いまの中村富十郎の祖父にあたるのであろうか、明治末期に小芝居で活躍した坂東彦十郎という人に十六歳くらいで入門してから、ずっと小芝居の水で育ったようである。同門の鶴蔵の弟弟子にあたるが芸風はまるで違うように思えた。
 大正十年(一九二一)に二十六歳で竹若を襲名してから、四谷の大国座に出演し、車輪な芸風が若手として人気を得たらしい。立役でも女形でもなんでもござれの、いかにも小芝居育ちの器用な優であったことは、後半の舞台からも想像できる。
(中略)
 私がこの人を最後に見た記憶は昭和40年(一九六五)正月だったか、新築早々の日比谷の日生劇場に武智歌舞伎がかかり、『冥途の飛脚』で序幕に出る端役の宰領役にほんのちょっと顔を出していたときである。
 昭和四十四年に七十五歳で亡くなったと聞いているが、いまにして思えば、小芝居に育って、小芝居だけに生きつづけた貴重な人だった。

と、1940年代の寿座(寿劇場)時代の思い出を交えて、その印象について綴っている。

阿部優蔵『東京の小芝居』には、《一人残った竹若も、薪車引退興行をやった三十九年十月には、名古屋御園座の竹之丞、田之助襲名披露興行、四十年正月の日生劇場(竹乃丞、猿之助)と大芝居参加がふえて来た。そして四十二年には大芝居に復帰した形になった。》というふうに、そのあたりの消息が語られている。

阿部優蔵は、昭和39年(1964)10月30日、スミダ劇場での「坂東薪車引退披露興行」はかたばみ座にとって、《昭和三十二年東京での常打ちが出来なくなった時すでに亡んだとも言えるが、その後も尚かつ意味のある存在であったのだが、此処に来て事実上亡んだのである。》としている。

かたばみ座は昭和44年(1969)8月17日、鶴蔵の十三回忌追善を兼ねて最後の公演と称してスミダ劇場に出演した。「鶴草会」という踊りの会のなかの一幕として、『蘭蝶』を上演、鶴蔵の兄弟子だった竹若が蘭蝶とお宮に扮した。

と、昭和44年8月17日にかたばみ座はついえたのだったが、小宮麒一編『配役総覧』および『上演年表』によると、昭和45年(1975)12月22日、八王子市民会館でかたばみ座を名乗って『恋飛脚大和往来』が上演されている。坂東竹若はその前年、昭和44年(1969)11月13日に他界している。


戦後の回想その4:菊池明「昔ばなし・戦時下の観劇」+『日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイヴ』


歌舞伎学会誌『歌舞伎 研究と批評』の第24号(1999年12月)と第25号(2000年6月)の二号にわたって、特集《戦中戦後の歌舞伎》が組まれている。菊池明「昔ばなし・戦時下の観劇」が掲載されたのは第24号の前編で、第25号の後編には、菊池明・渡辺保・藤田洋という顔ぶれの鼎談「座談会 戦中戦後の歌舞伎」が掲載されている。

鼎談で「お二人はいい席で見ているけれど、私は全部三階です。」と語る菊池明、「だいたい私は戦前の歌舞伎座の、一階をよく知らないんですよ。三階席は入り口が別でしょう。だから一階に下りられないのね。」といった三階席談義が繰り広げられたりする。

渡辺保の「三階席で見ると天井の模様を覚えるんだよね、幕間には天井しか見るものがないんだから。歌舞伎座の戦前は格天井で、今と違うんですよね。東劇の天井もよく覚えているね。結局、天井を見ている時間が長いんだ。」という発言にうなずくことしきり。渡辺保さんといえば、今年1月19日、世田谷文学館の特別展《六世中村歌右衛門展》のオープニング特別講演「歌右衛門の玉手御前」にて、昭和22年(1947)7月東劇の梅玉が記憶に残る初めての玉手御前だった、東劇の立見で見た……という話題のときに、その立見席のことを「つばめの巣のようだった」と表現されていた。ちなみに、三島由紀夫は戸板康二宛の手紙に《後半の演技は盛り上りがなく、いかにも真女形の弱々しさで映えませんが、前半は実に無類でございますね。》と書いていたが(「三島由紀夫断簡」)、渡辺保さんは、刺されてからの述懐が最も印象に残ったと語っていたのもたいへん印象的だった。

さて、『歌舞伎 研究と批評』第24号に載った、菊池明「昔ばなし・戦時下の観劇」。その小見出しを列挙すると、

  • 懐かしの名優たち
  • 新橋演舞場と帝国劇場
  • 本所の小芝居、寿座
  • 築地小劇場と新劇
  • 空襲下の観劇

というふうに全10ページに渡ってたっぷり綴られた至福の一篇である。《これまで、母や祖母に連れられて、新国劇や本所の寿座などを見ていた私が、ひとりで芝居を見るようになったのは、昭和十六年、中学を卒業したころからである》という書き出し、新国劇と本所寿座の名前がまっさきに登場するところからして、もうたまらないのだった。

と、菊池明が歌舞伎座などの大歌舞伎を見るようになったのは昭和16年(1941)10月の五世中村歌右衛門一周年祭、中村芝翫・福助襲名興行が最初だったという。

その時の芝翫の初々しさ、美しさは未だに眼に残っているが、同時に、羽左衛門の容姿、さわやかな口跡にはすっかり魅了されてしまった。以来、私は羽左衛門の芝居は欠かさず見て回った。(中略)
いまの見物のように、役者が舞台に出てくると拍手するような客はいないが、三階席あたりからは、じわというのか、羽左衛門の美男ぶりにたいする溜息のようなものは起こっていた。私はその三階の最前列、梅席で息をつめて見入った。私はこの羽左衛門によって歌舞伎に酔い、その美、醍醐味を知った。思えばじつに贅沢な歌舞伎入門であった。

と、書き写しているだけでうっとり。



昭和16年10月歌舞伎座『絵本太功記』、嫁初菊=福助改め六代目中村芝翫・武智十次郎光義=十五代目市村羽左衛門、『歌舞伎座百年史 本文篇上巻』(松竹株式会社・株式会社歌舞伎座・1993年7月)を再掲。この写真を一目見ただけで、満24歳の歌右衛門の美貌のみならず、満67歳の羽左衛門の驚異的な美貌にびっくりしていたものだったが、実際に舞台を見ても、やはり驚異的な美貌だったのだなあ……と、菊池明の回想に接して、あらためて感嘆するばかりなのだった。


昭和16年(1941)、中学を卒業した頃に歌舞伎座などの大歌舞伎を見るようになった菊池明は、毎月の歌舞伎座通いに夢中になるのだったが、新橋演舞場では、曾我廼家五郎や新国劇もさることながら、昭和16年(1941)3月にはじまる前進座の『元禄忠臣蔵』が特に印象深かかったという。

私の席はいつも三階席、いくつかの段々を赤く丸い鉄棒で仕切ってあり、薄い座布団が敷いてある。ここへ靴を脱いですわる。前売など買った覚えはないのに、大抵、正面最前列で手摺りにつかまって身を乗り出すように見ていた。当時、勤労奉仕で遅くなり、どう急いでも開演に間に合わないことがあり、それが残念だった。

 と、ここでも三階席の思い出が綴られている。文楽では古靭太夫がもっとも好きで、明治座や東劇で見た新派、帝劇で見た新国劇、古川ロッパ一座の思い出にも興味津々なのだったが、さてさて、菊池明が寿座に行くようになったのは、大歌舞伎を見るようになった昭和16年(1941)よりずっと以前、子供時分にお祖母さんに連れて行ってもらったのが最初だったという。


菊池明のお祖母さんは神田生まれでとにかく芝居が大好き。

芝居は盛り沢山で、たっぷり泣かせてくれて、役者も衣裳も綺麗だと満足した。幕間など少々長くても平気で、ゆっくりくつろいで菓子などを食べながら待っていた。だから、芝居が早くにでも終わると、「何だかあっけないね」と損をしたような顔をした。

そんな昔気質のお祖母さんは椅子席の帝劇が気に入らず、二度と行こうとしなかった。

 だから昔の劇場の風情を留めている寿座(のち寿劇場と改称)がご贔屓だった。市電の緑町二丁目の停留所を降りて大通りを、左に曲がった右側にあった。粗末な小さな劇場である。それでも六百は入ったか。舞台は結構広く、回り舞台付き。平土間は長椅子だったが、左右の両側は桟敷になっていた。祖母も母もいつも二等席にあたる西の桟敷に陣取った。冬は小さな手焙りを借りて、その上にショールをかけ、それへ手を入れて見物した。
 小芝居ながら、役者は腕達者が揃っていた。九代目団十郎の娘婿の市川新之助が座頭格で、七代目松本幸四郎の弟子の松本高麗之助、実川延松、坂東竹若、坂東鶴蔵ら。お陰さまで、早くからずいぶんと変わった芝居を見ることができた。当時大歌舞伎ではやらない「老後の政岡」などは新之助の得意であった。白髪、足腰の弱った政岡が久しぶりで御殿に上がり、成人した鶴千代君に面会し、かつて若君を助けるため毒死した政岡の子千松の位牌の前で共に懐かしむというもの。感動的な場面だが、その政岡にピカリと金歯が光っていたのは小芝居らしいご愛敬であった。高麗之助は白塗りが似合う立役。しかし、「御座り奉る」などという、御殿勤めの妹の縁でそのお屋敷に招かれた職人が、さまざまな失敗を仕出かすという落語種の芝居など、結構軽やかで面白かった。
 この両優は小芝居とはいっても、出身は大歌舞伎、どこかその雰囲気を持っていたが、延松は上方の出で、つっこんだ芝居をする役者だった。たとえば「本蔵下屋敷」で、若狭之助が本蔵と別れを惜しむ幕切れなど、何度もなんども呼び止める、くどい芝居だが、一種の魅力があった。女役者、中村歌扇を見たのもこの劇場である。久しぶりの加入ということで、出し物は得意の「どんどろ」のお弓であった。小柄ではあるが、顔立ちも立派、全く女性を感じさせない、堂々たる歌舞伎の女形芸であった。
 この寿座の芝居は大歌舞伎と違った演出があって面白かったというが、当時の私にはまだ分からない。ただ妙な入れ事があったことは多少記憶にある。この「どんどろ」にしても、幕開きの二人の尼の滑稽なやりとりは、大歌舞伎にない、しつっこい芝居だったし、「新口村」で、はじめ捕手が入り込むところ、赤い衣裳を着た疱瘡神というのが現われて、滑稽な芝居をしていたことを思い出す。

小宮麒一編『配役総覧』を参照すると、『老後の政岡』も落語『妾馬』を種とする『御座り奉る』も小芝居の人気演目だったことが窺えて、いずれも寿座では明治38年(1905)以降、たびたび上演されている。昭和14年(1939)から19年(1944)にかけてはほぼ毎年(昭和18年以外)新之助の政岡が上演されていて、同様に、昭和15年(1940)から19年(1944)までほぼ毎年(昭和17年以外)高麗之助の八五郎が上演されている。いずれも1940年代の寿座(寿劇場)のおなじみの演目であった。

『本蔵下屋敷』も寿座(寿劇場)の人気演目、若狭之助は延松の十八番であった。『新口村』も延松が忠兵衛と孫右衛門の二役を替わって、昭和12年(1937)1月以降繰り返し上演されていて、こちらも延松の十八番、小宮麒一編『配役総覧 第3版』所収「寿劇場 興行記録」を参照すると、たしかに「疱瘡」の役名がある。女役者の中村歌扇の『どんどろ』は、寿座(寿劇場)では、昭和4年(1919)4月と7年(1932)6月、昭和11年(1936)4月、昭和13年(1938)4月、昭和14年(1939)3月に上演されている。



明治37年(1904)10月13日明治座「淀鯉出世の滝徳/悪源太/江戸気性」辻番付。早稲田大学演劇博物館デジタルアーカイブ(https://www.waseda.jp/enpaku/db/) > 近世芝居番付データベース(登録No.イ13-00292-0708)。落語の『妾馬』の歌舞伎化は、明治37年10月の明治座で、松居松葉が『江戸気性』として書いたのが最初だったようだ。木村錦花『明治座物語』(歌舞伎出版部・昭和3年3月)によると、莚升(二代目左団次)は、自宅に三代目小さんを招いて、セリフ回しを研究したという。翌明治38年(1905)3月の寿座を皮切りに昭和19年(1944)まで、落語の『妾馬』は『御座り奉る』という外題で、主に小芝居で上演されていた。


そして、築地小劇場へ初めて行ったのもお祖母さんと一緒だった。

 はじめて新劇なるものを見たのは、羽左衛門や菊五郎を知るより早かった。築地小劇場の「海援隊」という芝居で、調べてみると、昭和十四年五月で、中学の三年生の時だった。この観劇のきっかけがちょっと面白い。わが家は祖母も母ももっぱら歌舞伎、新派の路線だったが、伯父だけは新劇に興味をもっていた。「お母さん、歌舞伎もいいが、少しは新劇を見なさいよ、時代に遅れるよ」とか言われて、祖母は半分中腹で、孫の私を連れて、築地へ出かけた。

 という経緯で、築地小劇場へ行ったというのが傑作なのだった。俗に言う「意識の高い」息子に言われて、半ばヤケクソで、孫を連れて築地小劇場に出かけるお祖母さまが大変微笑ましい。そのフットワークの軽さを見習いたい。

 そのころわが家は世田谷の下北沢にあったので、当時帝都線といっていた井の頭線に乗って、渋谷へ出る。今のハチ公の銅像のあたりから市電の築地両国行きに乗り、築地で下車、築地小学校ひとつ先を右に曲がり、その左側にその劇場があった。

京王井の頭線の前身・帝都電鉄は昭和8年(1933)8月1日に渋谷・井の頭間で開業、宮脇俊三が《帝都電鉄も斬新だった。渋谷駅を出るやトンネルに入り、つぎの神泉駅は半地下で、またトンネルに入るのであった。トンネルが珍しい時代だった。帝都電鉄が自動ドアだったのも驚きで、「この扉[とびら]は自動的[ひとりで]に開閉[あけたて]しますので……」と、ふりがなつきで書かれたセロファンが貼りつけてあった。》と回想している(宮脇俊三『昭和八年 渋谷駅』(PHP研究所・1995年12月)。帝都電鉄はとびきりモダンだったのだ。



杵屋栄二撮影《ハチ公と市電/渋谷駅前》、杵屋栄二写真集『汽車電車 1934-1938』(プレス・アイゼンバーン・昭和52年10月)より。ここから、《市電の築地両国行き》に乗って、菊池明はお祖母さんと築地小劇場へ行った。寿座(寿劇場)へゆくときもここから遠路はるばる市電に乗った。写真に写る明治製菓売店に寄り道したことはあったのかが非常に気になる……。

《お陰さまで、早くからずいぶんと変わった芝居を見ることができた。》と寿座(寿劇場)の思い出を綴ったあとで、

 そのほか、昭和十九年三月ごろ、渋谷の道玄坂の上、玉川電車と交差するところにあった渋谷劇場で、市川門三郎一座が歌舞伎を上演していた。役者が位置を変わるのに袖が摺り合うような狭い舞台で、懸命に演じていた。

と市川門三郎一座のことについて書き添えている。三島由紀夫が『葛の葉』を見たいばっかりに、渋谷劇場へいったのは昭和19年(1944)8月だった。

渋谷といえば、菊池明は昭和20年(1945)4月、渋谷の東横映画劇場で文学座の『女の一生』の初演を目撃しているということにも感嘆するばかり。戦時中に見た最後の芝居だった。翌5月には、明舟町へ羽左衛門の葬儀に行ったという。

と、菊池明の「昔ばなし・戦時下の観劇」で回想されている、歌舞伎のみならず、新派、新国劇、新劇、そして小芝居の思い出を読み返すたびに堪能していたのだったが、近年、『日本近代演劇デジタル・オーラル・ヒストリー・アーカイヴ』(https://oraltheatrehistory.org/)に、2014年7月28日に行われた菊池明の聞き書き(https://oraltheatrehistory.org/archives/78)が公開されたことは、たいへんな僥倖であった。質量ともにたいへん素晴らしい。

その小見出しを列挙すると、

  • イントロダクション
  • 芝居への興味の始まり
  • 祖母と出かけた本所寿座と小芝居の世界
  • 築地小劇場で新劇と出会う
  • 苦楽座の沢村貞子、文化座の鈴木光枝
  • 初の歌舞伎座で見た十五世市村羽左衛門
  • せりふで泣かせる井上正夫、喜多村緑郎の新派劇
  • 新劇っぽい初代水谷八重子
  • 前進座・河原崎長十郎のせりふ回し
  • 笑わそうとしない喜劇役者、曾我廼家五郎
  • 演劇博物館の資料収集でロッパ、エノケン邸へ
  • 思い出の俳優ベストテン
  • 戦時下の『女の一生』初演
  • 新宿ムーラン・ルージュ、新演伎座、邦楽座(ピカデリー劇場)
  • 六代目菊五郎の思い出
  • かたばみ座、帝劇ミュージカルス
  • 戦後の新劇合同公演と俳優座第一回公演を見て
  • 六代目菊五郎、十五世羽左衛門との別れ
  • 文学座公演も行われた新橋・田村町飛行館
  • 新国劇と早稲田大学を結ぶもの

と、大正12年(1923)青山生まれの菊池明の芝居見物の多彩さにあらためて魅了されるばかりなのだったが、さらに感動的なのは、菊池明聞き書きからの流れで、2014年9月2日にかたばみ座の制作者であった守美雄(もり・よしお)の聞き書きが行われているということ(https://oraltheatrehistory.org/archives/45)。

阿部優蔵『東京の小芝居』のかたばみ座の章に、たびたびその回想が引用されていた守美雄、かたばみ座のまさに当事者の聞き書きである。守美雄は大正11年(1922)生まれ、早稲田大学を学徒動員のため半年繰り上げで卒業し、昭和18年(1943)10月に東京新聞社に入社している。翌19年(1944)に召集されて、シベリア抑留を経て、昭和24年(1949)に東京新聞に復帰、昭和30年以降にかたばみ座の運営に携わることとなった。「寿劇場の記録」を書いた戸部銀作は大正9年(1920)生まれ、守美雄の聞き書きのなかに「仲間の戸部」が登場している。

守美雄聞き書き(https://oraltheatrehistory.org/archives/45)の小見出しを列挙すると、

  • 戦前の芝居小屋
  • 国劇研究会
  • 寿座の思い出
  • 女役者
  • 安藤鶴夫
  • 小芝居の役者
  • かたばみ座に関係することになったきっかけ
  • かたばみ座の「曽根崎心中」
  • かたばみ座が起用した「学士俳優」
  • 新内と小芝居
  • かたばみ座の「女役者」
  • かたばみ座をとりまく人々
  • 片岡右衛門
  • 新派の思い出
  • かたばみ座の財産

と、かたばみ座のことがたっぷり語られているのはもちろんだけれども、寿座(寿劇場)の思い出をはじめ、新派や新国劇といった芝居談義もとても面白い。


菊池明聞き書き(https://oraltheatrehistory.org/archives/78)は、「昔ばなし・戦時下の観劇」では語られていなかった喜多村緑郎や曾我廼家五郎の話題も嬉しく、また含蓄深く、演劇博物館の用事で、東急池上線沿いの上池台の古川ロッパの自宅を訪れたときの印象、《偉そうではなかったけれど、知的な感じ。俳優という感じはしませんでした。》というちょっとした回想もロッパ好きにとっては値千金で、まさしく全編が読みどころという感じなのだけれども、寿座(寿劇場)の回想も、「昔ばなし・戦時下の演劇」と同じエピソードを語っていても、聞き書きならではの臨場感がすばらしくて、あらためて聞き書きを読むことで、文章ではそのまま通り過ぎてしまっていた箇所がしみじみ印象に残ったりする。

たとえば、「昔ばなし・戦時下の演劇」で、芝居に連れていってくれた神田生まれのお祖母さんについての《芝居は盛り沢山で、たっぷり泣かせてくれて、役者も衣裳も綺麗だと満足した。》というくだりが、菊池明聞き書き(https://oraltheatrehistory.org/archives/78)では、

「衣裳がいいというのと、泣かせてくれなくちゃいけないんです。泣かせないとご機嫌が悪い。それから、長くなくちゃいけないんです。早く終わると、これも「あっけない芝居!」(笑)。今は「早く終わって良かったね」なんて言っているでしょ。そんなことは言わないで、長いのが嬉しいんです。そしてうんと泣かせて、衣裳がきれいでなくてはいけない。それが三原則。今とは、ずいぶん違うんですね。」

 というふうな、聞き書きならではの臨場感。寿座(寿劇場)は昔から大道具は粗末だったようだが、戸部銀作「寿劇場の記録」によると、衣裳は松竹から借りていたので、衣裳だけはそれなりに豪華だったのだ。

お祖母さんと行った寿座(寿劇場)、下北沢に住んでいたので、渋谷から両国行きの市電に乗る。「昔ばなし・戦時下の演劇」に、

祖母も母もいつも二等席にあたる西の桟敷に陣取った。冬は小さな手焙りを借りて、その上にショールをかけ、それへ手を入れて見物した。

とあった。中川哲『東京小芝居挽歌』にも祖母たちは桟敷を好んだというくだりがあった。相川章太郎は、特等席の東の桟敷よりも役者の姿がより近くに見える一等席の西の桟敷の方が楽しいと書いていた。菊池明のお祖母さんとお母さんも同じ気持ちだったのは間違いない。西の方が花道の役者の衣裳をぐっと間近に見ることができる。

菊池明聞き書き(https://oraltheatrehistory.org/archives/78)でも、

「左右に一段高くなっている桟敷があって。高土間といっていいと思います。炬燵(こたつ)みたいなのがありましてね。下に火がいかっている。そこへ格子みたいなものが乗っていて、それにあたって芝居を見る。」

と語られている。劇場で借りる手焙りのくだりが、なんだか妙に心惹かれるものがあるのだった。

守美雄聞き書き(https://oraltheatrehistory.org/archives/45)でも、桟敷席の手焙りについて語られている。平土間の長椅子は寒いけれども、東西の桟敷席には座布団の上に坐るから長椅子よりはずっと楽チン、さらに「炬燵みたいな火鉢」を貸してくれる。

「当時の芝居や寄席では「炬燵」といって、火鉢の中に墨がひとつで炭団か何かが入っていて、煙草を吸うひとはキセルをこう使う。それが温まりにもなるんです、寒いときには。」

守美雄も菊池明とおなじように、寿座へはお祖母さんに連れて行ってもらった。昭和6年(1931)頃から行っていた。

「当時、早稲田から市電が出ていて、それがずっと万世橋まで行くんですよ。須田町のところね。そこで乗り換えて本所緑町まで。当時七銭。」

「片道七銭で、値上げになってから十銭ぐらいになりましたかな。それで行って、五十銭の入場料。結構一円持っていくと何とかいけたんですよ。」

 守美雄も両国橋を渡る市電に乗って、緑町二丁目へ行った。かたばみ座ではブロマイドの販売はしていなかったが、戦前の寿座では販売していたという証言も貴重であった。

寿座(寿劇場)の客席にいた「下町のおかみさん」についての、

「戦前の寿座のときもすごかったんですよね。亭主の半纏を引っかけて、はちまきをして、貧乏徳利って、こんな昔のかたちでお酒を一杯飲みながら、「よっ、成田屋」なんて掛け声をかけるおかみさんが、寿座なんかにもいましたよ。」

「寿座というのは本当に庶民的で、舞台と一緒になっていたような感じで、ちょっと「そそり」なんてやりますと、お客さんの舞台に役者が飛び込んでいったりね。」

 というようなくだりも、実に微笑ましいのであった。戸部銀作「寿座(寿劇場)の記録」では幕覗きをする娘さんたちのことが書かれていたが、亭主の半纏をひっかけるおかみさんだって、二、三十年ほど前は、戸部青年が眺めていた娘さんのようだったのだろう。明治31年(1898)5月にはじまる寿座(寿劇場)の半世紀、三世代にわたる観客もいたかもしれない。

菊池明、守美雄、戸部銀作のような芝居好きの山の手の青年が増えていたにせよ、近所の人が気軽に訪れるという小芝居ならではの雰囲気を最後まで保ち続けたのが寿座(寿劇場)だった。そして、その小芝居ならではの雰囲気が残っているからこそ、芝居好きの青年たちは寿座(寿劇場)に通い続けたのだと思う。

菊池明聞き書き(https://oraltheatrehistory.org/archives/78)の最後に、「ああ、ちょっと。いま、思い出したことがあります。」と、

戦時中渋谷道玄坂の近くに渋谷劇場という小劇場があったことを。『東京の小芝居』という本にただひとつだけで昭和十九年(一九四四)十一月から翌年三月までの記録が記されています。そのうちの市川門三郎一座の「熊谷陣屋」[昭和二十年〈一九四五〉一月]を私は見ています。ボール紙に墨を塗って作ったらしい鎧櫃が大きすぎて持ちあぐねている姿がいかにも滑稽だったのを覚えています。横合いからすみませんでした。

と、これはぜひ言っておきたいッというような感じで、渋谷劇場のことを語る菊池明の姿に感動してしまう。そして、坪内逍遥についての、

「坪内逍遥先生は小芝居が好きですから、もちろん歌舞伎座とか帝劇なども見るけれども、ご自分一人で熱海から出かけて、その大黒座に行くんですよ。坪内先生も、子どもの時は小芝居なんかで育っていた。」

という発言が非常に心に残る。そして、菊池明の姿が坪内逍遥その人に重なるように思えるのだった。


守美雄聞き書き(https://oraltheatrehistory.org/archives/45)における寿座(寿劇場)の回想、新之助が昭和19年(1944)の初春興行で初めて『鳴神』を手がけたのだったが、おそらくそのときのエピソード、

「たっぱが小さいのに『鳴神』を寿座でやるので、僕はそのときうまくいくかなと思ったんですが、それも結構うまくやりましてね。そうしたら、前進座は偉いですよ。新之助が言っていましたが、役もめをすることがなくて。昔から、あそこは会員制(劇団制)でしょう。それで教えてくれと言ったら、喜んで坊主役の役者までみんな来て細かく教えてくれたと。それで、寿座は感心していましたよ。」

「前進座・ちょっといい話」として心に刻みたいエピソードであった。戸部銀作「寿劇場の記録」では、芳しくないような感想だったけど、守美雄は《結構うまくやりましてね。》と親切。

中川哲『東京小芝居挽歌』では、昭和13年(1938)9月の五代目新之助と歌扇の『与話情』通しの思い出が語られていたが、守美雄は『女河内山』の歌扇の印象を、

「中村歌扇というのは、大した女優さんでしたよ。
後にかたばみ座に行きました高麗之助とか竹若とか、そういう人たちと早稲田座なんかでやって全然引けを取らないんですよ、女役者でね。しかも、出し物が『女河内山』。
『河内山』を女でやるんですよ。女の言葉でたんかを切って。それを子供のときに見て面白いと思った。江戸時代の台本でも、女形の人が、従来ある役を女に置き換えてやったのがあるわけですよね。歌扇はたいした役者でした。」

というふうに語っている。中川哲、菊池明に続いて、1920年代生まれの若い観客による歌扇の回想が嬉しい。この直前、

「鶴蔵の後に女房になった、あれは何ていう名前だったかな…とてもいい子が昭和十八年(一九四三)ごろいまして、鶴蔵の後見を務めていたんです。彼女は元は歌扇の弟子だったらしいのです、子供時分は。それが鶴蔵の弟子になりまして、一緒になった。」

と語られていて、その流れで歌扇の話題になっている。小宮麒一『配役総覧』を見ると、『女河内山』は明治30年(1897)4月に宮戸座で源之助が初演していて、昭和期は歌扇の専売特許だった。戦後は昭和29年(1954)6月にかたばみ座で鶴蔵が上演、昭和40年(1965)12月には五代目訥升(九代目宗十郎)が東横劇場で上演している。


明治42年(1909)に松崎天民にすでに指摘されていた大道具の粗末さは、1940年代にいたるまで寿座(寿劇場)の伝統だった。菊池明のお祖母さんは芝居見物のとき、きれいな衣裳を見て喜んだというが、寿座(寿劇場)では衣装は松竹から借りていて、それなりに豪華だった。守美雄聞き書き(https://oraltheatrehistory.org/archives/45)にも、かたばみ座の衣裳についての証言がある。

「かたばみ座のお客さんは御殿物といって、きらびやかな打ち掛けなんか着たもの、これは喜びますね。お金がかかっていますしね。世話物だけ出していたんじゃ、こっちは楽だけど喜ばれないんですよね。それこそ『壺坂』なんか二人だけでやれる。それで衣裳も簡単でしょう。こういうのは安く済むんですよ。ところがそれだけ出していたら、結局うけないから、だから大きなものをやらなきゃならならない。
だから、かたばみ座では衣裳はお金がないのに無理をして根岸衣裳というのを使ったんですね。根岸のおやじというのは、とても芝居をよく知っていて、たいがいどんな衣裳も心得ていたんです。」

『演劇グラフ』昭和28年(1953)1月号で、秋山安三郎が《客席は侘しく(衣装だけは上等に近い)》と書いていたが、衣装だけは絶対に豪華という寿座(寿劇場)の伝統が、かたばみ座にも継承されている。

昭和16年(1941)3月一の替りに坂東鶴蔵が改名披露をして、寿座(寿劇場)の五頭目(新之助・高麗之助・延松・鶴蔵・竹若)が勢ぞろいして、踊りの得意な鶴蔵が加入したことで、舞踊がより多く上演されるようになった、ということは、これまで見てきたとおりだが、守美雄聞き書き(https://oraltheatrehistory.org/archives/45)では、このことについて、

「鶴蔵は初めて小芝居に、踊りというものを持ち込んだんです。小芝居で昔は松羽目ものとか踊りは、ほとんどやらなかったんです。それはなぜかというと、お金が掛かる。」

と語られている。その直前の、鶴蔵と竹若の師匠である、二代目坂東彦十郎については、

「彦三郎の弟子の彦十郎という人は、腕のいい役者で非常に田舎をよく回っていたんです、関西なんかを中心に。同じ土地で芝居をするには、狂言を変えていかなきゃならない、行くたびにね。昔の小芝居は、二回芝居といって一日二回芝居をやるでしょう。二回やるとかなりの人が見る。だから、次には狂言を変えなければならないんです。寿座なんかも十五日くらいで変えていましたから。」

と、発言。二代目彦十郎は四代目富十郎のお父さん、すなわち、懐かしや五代目富十郎のお祖父さんはとてもうまい役者だったのだ。鶴蔵と竹若はともに彦十郎の弟子だった。

「仲よかったですね。あれは同じ彦十郎門下の兄弟弟子で十二~十三歳のときから知っているんですよ。竹馬の友。
彦十郎というのは、大変うまかった人らしいんですよね。その芸にあこがれて入門をした。鶴蔵は抜群に切符を売ることがうまかった。それで鶴蔵が死んじゃったら、かたばみ座は大痛手で。」

というような、現場を知っていた人ならではの「仲よかったですね」という証言にも感動してしまう。踊りのお師匠さんだったこともあって、鶴蔵は《抜群に切符を売ることがうまかった。》というのも目が鱗であった。


昭和28年(1953)8月に新橋演舞場「東京大阪合同大歌舞伎」夜の部で宇野信夫の脚色・演出により上演された『曽根崎心中』はセンセーショナルだったというのは、戦後昭和歌舞伎のおなじみのトピックであるが、その2年前に、昭和26年(1951)11月にかたばみ座が守美雄の台本により『曽根崎心中』を上演していたことにびっくりする。

「義太夫は原作に基づいて書いていって、太夫を呼んで、おまえ、ここに節を付けろと言ったら、これでよろしいですかとべんべんとくる。その節を鶴蔵に聞かせてれでやれるかと言ったら、いいでしょうと。それで、合わせていったんですよ。」

 というような当事者の証言に大興奮。『曽根崎心中』は、小宮麒一『配役総覧』を見ると、昭和12年(1937)1月の宮戸座(竹若の徳兵衛と鶴太郎のお初)まで、東京の小芝居では何度も上演されている(昭和8年2月には寿座で延松が徳兵衛に扮している。)。かたばみ座では鶴蔵が徳兵衛に扮していて、戦前昭和の小芝居で徳兵衛を三度演じている竹若はかたばみ座の『曽根崎心中』には出演していない。

阿部優蔵は、かたばみ座は《昭和三十二年東京での常打ちが出来なくなった時すでに亡んだとも言えるが、その後も尚かつ意味のある存在であった》としていた。いわば、最後の光芒のような、昭和32年1月27日から2月17日まで千代田公会堂で都民劇場の公演として上演された興行について、守美雄聞き書き(https://oraltheatrehistory.org/archives/45)の、

「都民劇場の鑑賞公演で『奥州安達原』の二段目を出したことがあります。そのあたりが、かたばみの最後の立派な公演だったんじゃないですか。」

「先年、国立劇場で戸部銀作が(演出をして)二段目をやった。それで、僕のところへ電話がかかってきて、君がやってくれたから、今回国立であれができると言うから、ぜひやってくれと言ったんですよ。あれは端場と言って、ちょっと三段目の前へ付くくらいの場面ですね。」

「あの中でちょっと難しいところがあって、義太夫の三味線に乗っていかなきゃならない台詞のところがあるんだよね。そういうのは、かたばみ座の役者は昔から田舎でやっているから覚えている。その段取りを戸部が問い合わせてきたから、役者を連れていって、そこのところはこうですと教えたんです。いまちょっと具体的な台詞は思い出せないけれども。」

 という証言にもまた、しみじみ感じ入るものがあった。そして、2001年1月国立劇場での吉右衛門と梅玉の『奥州安達原』のことを思い出す。同月の歌舞伎座では十代目三津五郎の襲名披露興行だったことと、宗十郎の訃報に非常にがっくりしてしまったことと合わせて、昨日のことのようによく覚えている。

その、かたばみ座の最後の光芒、昭和32年(1957)1月27日初日の千代田公会堂で都民劇場の公演として上演された、かたばみ座の『奥州安達原』は若き日の三代目猿之助に深い感銘を与えた公演だった。三代目猿之助は『猿之助修羅舞台』(大和山出版社・昭和59年5月)に、

……そのほか学生時代に見た芝居の中で印象に残っている舞台は、かたばみ座の『奥州安達原』である。当時では唯一の小芝居であったかたばみ座は、『安達原』の「鶴殺し」から「袖萩祭文」までを三越劇場[ママ]で上演していたが、これがステキにおもしろかった。「環宮明御殿の場(袖萩祭文)」の幕切れに貞任・宗任が向かい六方をしたり、貞任が宗任の腰について三つ飛び下がる派手な演出が印象に残った。
 つまり、理屈なく観客を喜ばせる歌舞伎の派手な演出と、貞任や袖萩の内面を突き詰めた心理描写との、対極にある対比や調和が実に面白く「これぞ歌舞伎の原点だ」とも思った。

と、昭和32年(1957)のかたばみ座の『奥州安達原』について回想しているのだったが守美雄聞き書き(https://oraltheatrehistory.org/archives/45)に、

「初代の猿翁は非常に関心を持って見に来ていました。それで息子の段四郎や孫になる今の猿翁を見に来させたりしていましたけどね。」

とある。十代後半の三代目猿之助はお祖父さんの二代目猿之助に勧められて見物に来たのだった。二代目猿之助といえば、昭和18年(1943)7月10日に寿座(寿劇場)で早稲田演劇協会の「寿劇場後援会」で舞台にたって挨拶をしている(『芸能』昭和18年8月号「芸能界彙報」)。戦後は、かたばみ座の舞台を《非常に関心を持って見に来て》いた二代目猿之助。

二代目猿之助というと、阿部優蔵『東京の小芝居』に、

 座頭の竹若も、猿之助(後の猿翁)に頼まれて、約二十五年振りに大芝居の一座に加って九州、中国の巡業に行った。この一座には竹若の師匠坂東彦十郎の三男中村富十郎もゐたので、竹若にとっては大喜びでの参加であった。ところがこの巡業中に富十郎が休止、竹若は悲しい代役を勤めなければならなかった。

とある。四代目富十郎は巡業先の福山で、昭和35年(1960)10月17日に他界した。守美雄聞き書き(https://oraltheatrehistory.org/archives/45)で、

「のちに、かたばみ座がもうほとんど興行をやらなくなってから、猿之助(二代目)が歌右衛門たちと一座を組んで中国、九州を廻る旅のときに、竹若を呼んだんです。出し物が『寺子屋』ほかで、彼は玄蕃を勤めました。
一座のなかに富十郎(四代目)がいて、彼は竹若の師匠筋(竹若は富十郎の父の彦十郎の弟子)に当たるのですよ。そういう関係で、富十郎が旅先で病気で倒れちゃったときに、竹若が『阿波の鳴門』なんかを代役したこともある。
猿之助の一座の旅でも、人が足りなくなると今度は「寺子屋」の千代に廻ったり。つまり玄蕃と千代と両方出来る。つぶしがきくんですね。のちに猿之助が「竹若さんを連れていったからよかった。大歌舞伎の役者ではこうはいかない」と言いました。」

具体的な証言を読むことができる。昭和39年(1964)10月30日に、スミダ劇場で「坂東薪車引退披露興行」の公演があり、阿部優蔵『東京の小芝居』では、《一人残った竹若も、薪車引退興行をやった三十九年十月には、名古屋御園座の竹之丞、田之助襲名披露興行、四十年正月の日生劇場(竹乃丞、猿之助)と大芝居参加がふえて来た。そして四十二年には大芝居に復帰した形になった。》と消息が語られていたのであった。。

昭和32年(1957)にかたばみ座の『奥州安達原』を見て大感激した三代目猿之助は、昭和51年(1976)3月の歌舞伎座で袖萩と貞任の二役を初役で勤めた。『猿之助修羅舞台』に、

 後年私が『安達三』を初演した時(昭和五十一年三月、歌舞伎座)には、十二代目の松島屋(片岡仁左衛門)の型とか言われるものの手順を、河原崎権十郎さんと片岡松燕さんに教わって上演した。かたばみ座の坂東竹若さんに手順を聞いておけばよかったと思ったが、その時はすでに竹若さんはこの世になかったのである。
 その初演からしばらくして、岐阜県瑞浪市の地芝居を見たが、その地芝居に、私が学生時代に見たかたばみ座の型と同じものが残っていた。「これだ!」と思って、地芝居の振付師である松本団升さんに型を教わり、昭和五十三年十一月のサンシャイン劇場で上演した時には、それをさらに洗い上げて上演したところ、大好評であった。かたばみ座や地芝居に残っていた歌舞伎のバカバカしいおもしろい面と、大歌舞伎の心理主義とを綯交ぜにしたのである。

『奥州安達原』の手順を竹若に聞いておけばよかったと書く三代目猿之助であるが、晩年の竹若と春秋会を始めようとしている頃の三代目猿之助との間に、なにかしらの対話はあったのかな、と思いを馳せるのであった。

 

おわりに――本所の津軽屋敷跡、渋江抽斎と芥川龍之介

 

 震災の年の大正12年(1923)5月17日、永井荷風は森鴎外『渋江抽斎』を読んでいた。大正5年(1916)年1月13日から5月17日まで、東京日日新聞と大阪毎日新聞に連載された『渋江抽斎』が初めて書籍化されたのは、鴎外没後の大正12年(1923)4月に刊行された『鴎外全集 第七巻』(鴎外全集刊行会)だったから、荷風はさっそく読んでいるということになる。

五月十七日。曇りて寒し。午後東光閣書房主人来談。夜森先生の澁江抽斎伝を読み覚えず深更に至る。先生の文この伝記に至り更に一新機軸を出せるものゝ如し。叙事細密、気魄雄勁なるのみに非らず、文到高達蒼古にして一字一句含蓄の味あり。言文一致の文体もこゝに至つて品致自ら具備し、始めて古文と頡頏することを得べし。
(『新版 断腸亭日乗 第一巻』岩波書店・2001年9月)

そして、三日後の5月20日、抽斎が仕官していた弘前藩主津軽越中守の上屋敷、津軽屋敷附近を散策すべく、本所を訪れた。

五月二十日。昨日の散策に興に催せしのみならず、鴎外先生の抽斎伝をよみ本所旧津軽藩邸附近の町を歩みたくなりしかば、此日風ありしかど午後より家を出づ。津軽藩邸の跡は今寿座といふ小芝居の在るあたりなり。総武鉄道高架線の下になりて汚き小屋の立つゞくのみなり。緑町四丁目羅漢寺の小さき石門を過ぎたれば、一時この寺に移されたる旧五ツ目羅漢寺の事を問はむとせしが、寺僧不在にて得るところなし。江戸名所の五百羅漢は五ツ目より明治二十年頃この緑町に移されしが、後にまた目黒に移されたり。是余の知るところ也。

 と、「汚き小屋の立つゞくのみなり」とはずいぶんな言いようだが、まあ、そのとおりだったのだろう。



『江戸切絵図 嘉永新鐫 本所絵図』。国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286679/1)より。荷風は、おそらく抽斎在りし日の嘉永の地図を片手に本所を歩いたのだろう。この地図のとおりに歩けば、津軽越中守の屋敷の場所はちょうど寿座のあるあたりだ。


渋江抽斎は文化2年(1805)11月8日、神田弁慶橋に生まれた。同年生まれの歌舞伎役者は三代目関三十郎である。抽斎の経学の師は市野迷庵、狩谷[エキ]斎、医学の師は伊沢蘭軒、池田京水であった(『渋江抽斎』「その十二」)。『渋江抽斎』(青空文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/card2058.html)に津軽屋敷が最初に登場するのは「その二十四」、

文化十一年十二月二十八日、抽斎は始て藩主津軽寧親に謁した。寧親は五十歳、抽斎の父允成は五十一歳、抽斎自己は十歳の時である。想うに謁見の場所は本所二つ目の上屋敷であっただろう。謁見即ち目見は抽斎が弘前の士人として受けた礼遇の始で、これから月並出仕を命ぜられるまでには七年立ち、番入を命ぜられ、家督相続をするまでには八年立っている。

「その四十」には、

朝餉の畢る比には、藩邸で巳の刻の大鼓が鳴る。名高い津軽屋敷の櫓大鼓である。かつて江戸町奉行がこれを撃つことを禁ぜようとしたが、津軽家が聴ずに、とうとう上屋敷を隅田川の東に徙されたのだと、巷説に言い伝えられている。津軽家の上屋敷が神田小川町から本所に徙されたのは、元禄元年で、信政の時代である。

というふうに、津軽屋敷が登場している。

渋江一家は、嘉永4年(1851)に本所台所町に移った。「その四十六」に登場する「緑汀会」は本所緑町を舞台にしている。

森枳園が明治十八年に書いた『経籍訪古志』の跋に、緑汀会の事を記して、三十年前だといってある。緑汀とは多紀[サイ]庭が本所緑町の別荘である。[サイ]庭は毎月一、二次、抽斎、枳園、柏軒、舟庵、海保漁村らを此に集えた。諸子は環坐して古本を披閲し、これが論定をなした。会の後のちには宴を開いた。さて二州橋上酔に乗じて月を踏み、詩を詠じて帰ったというのである。同じ書に、[サイ]庭がこの年安政二年より一年の後に書いた跋があって、諸子[ホウ]録惟れ勤め、各部頓に成るといってあるのを見れば、論定に継ぐに編述を以てしたのも、また当時の事であったと見える。

抽斎は安政5年(1858)8月29日に台所町の邸宅で没した。当時猛威を奮っていた疫病、コレラに罹患したのだった。

抽斎は安政2年(1855)10月2日の大地震の日には芝居見物に行っていた。「その六十四」に、嘉永2年(1849)に将軍と謁見したときに湯屋と芝居小屋に行くのを控えるように忠告を受けていて、安政2年(1855)の地震の日が、足かけ七年ぶりの芝居見物だったという。抽斎は、森枳園と同じく七代目団十郎の贔屓だった。「その四十七」に、

 十月二日は地震の日である。空は陰って雨が降ったり歇んだりしていた。抽斎はこの日観劇に往った。周茂叔連にも逐次に人の交迭があって、豊芥子や抽斎が今は最年長者として推されていたことであろう。抽斎は早く帰って、晩酌をして寝た。地震は亥の刻に起った。今の午後十時である。二つの強い衝突を以て始まって、震動が漸く勢いを増した。寝間にどてらを著きて臥していた抽斎は、撥ね起きて枕元の両刀を把った。そして表座敷へ出ようとした。
 寝間と表座敷との途中に講義室があって、壁に沿うて本箱が堆うずたかく積み上げてあった。抽斎がそこへ来掛かると、本箱が崩れ墜おちた。抽斎はその間に介はさまって動くことが出来なくなった。

と、《この日観劇に往った。》とあるがどこの劇場へ行っていたのだろう。猿若町の江戸三座だとしたら、両国橋から船に乗って行ったのだろう。嘉永4年(1851)から住んでいた台所町が抽斎の終の住処となった。


『渋江抽斎』の「その四十一」に《本所で渋江氏のいた台所町は今の小泉町で、屋敷は当時の切絵図に載せてある。》とあったが、上掲の『江戸切絵図 嘉永新鐫 本所絵図』をよく見ると、「シブ江」と「芥川」は同じ町内で同じ路地に面している!

明治25年生まれの芥川龍之介は、母の実家芥川家に養われた。本所区小泉町一五番地にあった芥川家は江戸城中の御坊主を代々つとめた旧家だった。芥川は明治43年(1910)に第一高等中学校に入学し、同年秋に一家が内藤新宿に移転するまで、本所小泉町に住んでいた(槌田満文編『東京文学地名辞典』、「小泉町」)。

昭和2年(1927)に東京日日新聞で文士と画家のコンビでシリーズ連載された、東京ルポルタージュ〈大東京繁昌記〉の「本所両国」を小穴隆一の挿絵で執筆、5月6日から22にかけて掲載された(青空文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card55721.html)。

 僕は生れてから二十歳頃までずっと本所に住んでいた者である。明治二、三十年代の本所は今日のような工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的多勢住んでいた町である。従って何処を歩いて見ても、日本橋や京橋のように大商店の並んだ往来などはなかった。若もしその中に少しでもにぎやかな通りを求めるとすれば、それは僅かに両国から亀沢町に至る元町通りか、或は二の橋から亀沢町に至る二つ目通り位なものだったであろう。勿論その外に石原通りや法恩寺橋通りにも低い瓦屋根の商店は軒を並べていたのに違いない。しかし広い「お竹倉」をはじめ、「伊達様」「津軽様」などという大名屋敷はまだ確かに本所の上へ封建時代の影を投げかけていた。……
 殊に僕の住んでいたのは「お竹倉」に近い小泉町である。「お竹倉」は僕の中学時代にもう両国停車場や陸軍被服廠に変ってしまった。しかし僕の小学時代にはまだ「大溝」にかこまれた、雑木林や竹藪の多い封建時代の「お竹倉」だった。

震災復興のまっただ中のこの時期は、明治大正の東京へのノスタルジーが人びとの胸に喚起された時代だった。東京日日新聞の〈大東京繁昌記〉もその反映だった。ノスタルジーの時代の象徴的な作品のひとつが、そしてもっとも美しい作品のひとつが、去年2019年11月に東京国立近代美術館で一般公開された鏑木清方の《築地明石町》(昭和2年)であろう。東京日日新聞の〈大東京繁昌記〉で、清方は泉鏡花「深川浅景」の挿絵を描いている。



昭和2年(1927)7月歌舞伎座の『梅ごよみ』の「隅田川川中の場」、芸者政次=四代目沢村源之助・同米八=七代目沢村宗十郎・唐琴屋丹次郎=十五代目市村羽左衛門。三井高遂写真集『歌舞伎名優時代』(二玄社・昭和63年5月)より。木村錦花脚色の初演で、舞台監督は永井荷風、舞台装置は鏑木清方という顔ぶれ。清方はこの年の秋の帝展に《築地明石町》を出展した。と、この7月に自ら命を絶つこととなる芥川であった。


取材のためひさしぶりにこの地を訪れた芥川は、記者とともに円タクに乗って、この地をめぐる。

 僕等をのせた円タクはこういう僕等の話の中に寿座の前を通り過ぎた。絵看板を掲げた寿座は余り昔と変らないらしかった。僕の父の話によれば、この辺――二つ目通りから先は「津軽様」の屋敷だった。「御維新」前の或年の正月、父は川向うへ年始に行き、帰りに両国橋を渡って来ると少しも見知らない若侍が一人偶然父と道づれになった。彼もちゃんと大小をさし、鷹の羽の紋のついた上下[かみしも]を着ている。父は彼と話しているうちにいつか僕の家を通り過ぎてしまった。のみならずふと気づいた時には「津軽様」の溝へ転げこんでいた。同時に又若侍はいつかどこかへ見えなくなっていた。父は泥まみれになったまま、僕の家へ帰って来た。何でも父の刀鞘走った拍子にさかさまに溝の中に立ったということである。それから若侍に化けた狐は(父は未だにこの若侍を狐だったと信じている。)刀の光に恐れた為にやっと逃げ出したのだということである。実際狐の化けたのかどうかは僕にはどちらでも差支えない。僕は唯父の口からこういう話を聞かされる度に昔の本所の如何に寂しかったかを想像している。

と、昭和2年(1927)の芥川の目には、寿座は《余り昔と変らないらしかった》。震災で全壊した寿座は翌大正13年(1924)7月に、森三之助一座により新築落成興行を挙行している。戸部銀作「寿劇場の記録」(『日本演劇』昭和22年11月)によると、《制限の二百坪を若干超えたバラック建ての建築で、バラックの期限が切れながら、戦争のため、直し/\使つて》、昭和20年(1945)3月10日に焼失したのだった。


寿座の前を通りかかるとき、芥川は《この辺、――二つ目通りから先は「津軽様」の屋敷だった。》と追憶しているが、明治31(1898)5月に開場した寿座は、《宮坂徳次郎が、俗に津軽ッ原と言はれる津軽侯屋敷跡で、当時、東京市に公園として寄附されていた鶏の一隅を借り受け》て、新たに建設された芝居小屋だった(戸部銀作「寿劇場の記録」)。二つ目通り、つまり亀沢町交差点以東はかつて「津軽様」の屋敷だった。

芥川龍之介は明治31年(1898)に寿座が出来た当時を、『文藝春秋』に大正15年4月から昭和2年2月まで連載された『追憶』(青空文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/card1141.html)で追憶している。

二十五 寿座

 本所の寿座ができたのもやはりそのころのことだった。僕はある日の暮れがた、ある小学校の先輩と元町通りを眺めていた。すると亜鉛の海鼠板を積んだ荷車が何台も通って行った。
 「あれはどこへ行く?」
 僕の先輩はこう言った。が、僕はどこへ行くか見当も何もつかなかった。
 「寿座! じゃあの荷車に積んであるのは?」 
 僕は今度は勢い好く言った。
 「ブリッキ!」 
 しかしそれはいたずらに先輩の冷笑を買うだけだった。
 「ブリッキ? あれはトタンというものだ」 
 僕はこういう問答のため、妙に悄気たことを覚えている。その先輩は中学を出たのち、たちまち肺を犯されて故人になったとかいうことだった。

 元町通りは両国から亀沢町に至る通りで、二の橋から亀沢町に至る二つ目通りとともに、芥川の少年時代からこの界隈では比較的繁華な場所だったと「本所両国」の冒頭にあった。



『新演芸』大正6年(1917)3月号附録《大正六年二月調査 東京演芸地図》。両国橋からの元町通りと竪川の二ツ目橋からの二つ目通りが亀沢町交差点で交わる。


亀沢町交差点の東側の相生町に広瀬亭という寄席があった。広瀬亭について、芥川は「本所両国」で、

僕は講談というものを寄席ではほとんど聞いたことはない。僕の知っている講釈師は先代の村井吉瓶だけである。(もっとも典山とか伯山とか或はまた伯龍とかいう新時代の芸術家は知らない訳ではない。)従って僕は講談を知るために大抵今村次郎の速記本によった。しかし落語は家族達と一緒に相生町の広瀬だの米沢町(日本橋区)の立花家だのへ聞きに行ったものである。殊に度々行ったのは相生町の広瀬だった。が、どういう落語を聞いたかは生憎はっきりと覚えていない。ただ吉田国五郎の人形芝居を見たことだけはいまだにありありと覚えている。しかも僕の見た人形芝居は大抵小幡小平次とか累とかいう怪談物だった。僕は近頃大阪へ行き、久振りに文楽を見物した。けれども今日の文楽は僕の昔みた人形芝居よりも軽業じみたけれんを使っていない。吉田国五郎の人形芝居は例えば清玄の庵室などでも、血だらけな清玄の幽霊は太夫の見台が二つにわれると、その中から姿を現したものである。

というふうに追憶されている。

明治31年(1898)5月に開場する寿座の建築工事のため、トタンを積んだ荷車が何台も両国から緑町へ向かって運ばれてゆくのを目撃した芥川少年は、明治37年(1904)4月に開業する総武鉄道の両国橋駅の工事現場も目撃している。

……僕は中学を卒業する前に英訳の「猟人日記」を拾い読みにしながら、何度も「お竹倉」の中の景色を――「とりかぶと」の花の咲いた藪の蔭や大きい昼の月のかかった雑木林の梢を思い出したりした。「お竹倉」は勿論その頃にはいかめしい陸軍被服廠や両国駅に変っていた。けれども震災後の今日を思えば、――「卻って并州を望めばこれ故郷」と支那人の歌ったものも偶然ではない。
 総武鉄道の工事のはじまったのはまだ僕の小学時代だったであろう。その以前の「お竹倉」は夜は「本所の七不思議」を思い出さずにはいられない程、もの寂しかったのに違いない。夜は?……いや、昼間さえ僕は「お竹倉」の中を歩きながら、「おいてき堀」や「片葉の蘆あし」はどこかこのあたりにあるものと信じない訳には行かなかった。現に夜学に通う途中「お竹倉」の向うにばかばやしを聞き、てっきりあれは「狸ばやし」に違いないと思ったことを覚えている。それはおそらく小学時代の僕一人の恐怖ではなかったのであろう。なんでも総武鉄道の工事中にそこへかよっていた線路工夫の一人は、宵闇の中に幽霊を見、気絶してしまったとかいうことだった。

明治25年(1892)生まれの芥川の小学時代、寿座や両国橋駅が建設されたのだった。

明治38年(1905)4月に、芥川龍之介は東京府立第三中学校に入学した。府立三中が本所区柳原の江東橋の隣りに移転したのは明治35年(1902)だった。芥川は、《僕の中学時代には鼠色のペンキを塗った二階建の木造だった。それから校舎のまわりにはポプラァが何本かそよいでいた。。(この界隈は土の痩やせているためにポプラァ以外の木は育ち悪かったのである。)》と回想している。

芥川より3つ年上、明治22年(1889)生まれの久保田万太郎は、明治36年(1903)に府立三中に入学した。

 明治三十六年、浅草馬道の浅草小学校の高等四年を卒業したぼくは、本所錦糸堀の府立三中(いまの両国高校)で、三年間、のちに慶應義塾の普通部にうつるまで、かよつた。 かよふのに、そのころ、何んにもまだ乗りものゝ便がなかつた。だから、浅草田原町のわが家から、ぼくは、あるひは吾妻橋を、あるひは厩橋をわたつて、隅田川を越し、北割下水だの、南割下水だのといふ溝ッ川に支配されてゐた古い町つゞきを、毎日、雨がふらうが、風が吹かうが、あるいてかよつた。いくらいそいでも、四十分から五十分かゝつた。
 木造の、濃い灰いろに塗られた校舎の、門のまへに堀があり、橋がかゝつてゐた。朝、早く行きすぎると、門がまだしまつてゐて、開くまでその橋のうへで待たされた。冬だと、その橋のらんかんにまッしろに霜が下りてゐた。
 やがて時間が来て、門衛が門をあける。……この門衛、詰エリの黒い服に鍾馗のやうなヒゲをはやし、かよつてくる学生たちの出入を監視するかたはら、始業。終業の時間を知らせるラッパをふく役ももつてゐたのだが、ぼくはつひにその名まへも知らず、一ト言の口さへきいたことがなかつたにかゝはらず、校長の八田三喜先生、国語の宿利豊平先生、図画の内野猛先生とゝもに、この老人が、三中在学当時のぼくのおもいでのなかに、いまなほ、なつかしく生きてゐるのはなぜだらう。
(「三中在学当時」、『久保田万太郎全集 第十二巻』)

と、久保田万太郎が回想しているとおりに、当時はまことに交通の不便の悪いところだった。両国と江東橋を結ぶ市電が開通したのが明治44年(1911)12月だった。



前川千帆『〈新東京百景〉工場地帯本所』昭和4年(1929)、『新東京百景』(平凡社・昭和53年4月)より。


大半が武家屋敷だった本所は徳川時代は人通りの少ない寂しい土地だった。その封建時代の影は、明治25年(1892)生まれの芥川の少年時代にも残っていた。斎藤緑雨は明治11年(1878)にから本所緑町に住み、江東みどり、緑雨醒客と緑町にちなんだ筆名を名乗るのだったが、それにしても、緑雨が住んでいた頃、この辺りはいかに寂しかったころだろう。

《明治二十、三十年代の本所は今日のような工業地ではない。》と芥川は書いていたが、東京最後の小芝居、寿座(寿劇場)が開場したのはそんな時代だった。しかし、明治40年代にはいると、本所は一大工場地帯となってゆく。工場地帯といっても、本所・深川は大工場のみならず、中小の工場が軒を連ねる地域として発展した。本所・深川は工場労働者の町であると同時に、工場経営者の多い町でもあった(今泉飛鳥「中小工場の町、本所・深川」、『みる・よむ・あるく 東京の歴史5』吉川弘文館・2018年11月)。

三宅三郎『〈歌舞伎資料選書・5〉小芝居の思い出』(国立劇場調査養成部芸能調査室・昭和56年1月)に、おそらく昭和期の寿座の思い出が語られている。

 また私は、本所の寿座の西のうずらの坐わる席で、「どうです一つ」と言って、男の人から、ビン詰の正宗のチョコを差し出されたのには、ほんとうに驚いた。その人は、家族三、四人で見物にきていたのだが、だいぶ御機嫌であって、芝居は大好きで、月に一度はこうやって来るのだと言っていた。話の様子では、寿座の近くの小さな工場の主人らしく、朗らかなよい人であった。居ねむりもせずに、酔っていてもちゃんと芝居を見ていた。芝居は新之助などで、「直侍」が出て、清元を女師匠が語っていたように記憶しているのである。

という、一見なんでもないようなエピソードがしみじみ床しいのだった。正宗を飲みつつ西の桟敷(二等席)で御機嫌に芝居見物をする、近所の町工場のご主人。月に一度のたのしみに芝居見物をするご主人。小芝居は働く人たちの慰安の場所だった。その一方で、別の日に東の桟敷で見物していたとき、三宅三郎は、隣りに座る《三十すぎたいちょう返えしの野暮ったい》女の人が役者の男衆らしいのと役者買いの相談をしているところに遭遇し、聞き耳を立てたりもしている。明朗なばかりではない、さまざまな情景が繰り広げられていたのであった。


小谷青楓は、

南本所に松坂町、松井町、千歳町、相生町、緑町、二葉町、と松に因む町名の並んだのは千代田城の繁栄を寿いだもの、座名の寿劇場も目出たし目出たしであります。

と、「寿劇場の今昔」(『演芸画報』昭和16年4月号)」を締めくくっていた。明治9年(1876)に開場した常盤座も、翌年寿座と改称したのも、松に因む命名であった。

三代目河竹新七の『塩原多助一代記』大詰「竪川通川岸の場」は、

多助「恰度[ちやうど]爰等[ここら]の町の名は、婚礼なぞには嵌つた町の名、」
杢右衛門「成程鶴の千歳町に、亀沢町はよい一対、」
金兵衛「島台飾る尾上町に、松坂町の色替へぬ。」
久八「結ぶ妹背の相生町に、緑町とは操の鑑、」
多助「是ぢやア私も炭焼きの、爺イ婆アの友白髪まで、添ひ遂げにやアなりましねえ。」お花「ホンニ嬉しい其のお詞、」
喜四郎「お目度う、」
皆々「御座ります。」

と、多助とお花の婚礼の祝いで芝居が締めくくられている(『日本戯曲全集 第三十二巻 河竹新七及竹柴其水集』春陽堂・昭和4年7月)。



両国界隈でキャッチボールに興じる相撲のお弟子さん、『アサヒグラフ』昭和7年(1932)2月3日号。

疫病により劇場が閉鎖されてから一ヶ月以上になった頃、2020年4月5日に本所緑町の寿座跡地を訪ねた。



墨田区緑二丁目16番地。京葉道路沿いの「ジョナサン」の正面に、墨田区教育委員会による《陸奥弘前藩津軽家上屋敷表門跡》の案内板が建っている。元禄4年(1691)4月3日に屋敷の移徙を完了、享保2年(1717)8月に幕府材木手代の組屋敷を取り込み、最終的な規模は南北約240メートル、東西約110メートル、総面積約2万6000平方メートルの広大な敷地となった。弘前藩の上屋敷は、明治4年(1871)12月に兵部省に接収されるまで、この地にあった。




と、その《陸奥弘前藩津軽家上屋敷表門跡》の案内板のある緑二丁目16番地の角に、《本所寿座(寿劇場)跡》の記念碑が建っていて、

本所相生町五丁目(現緑一丁目)にあった歌舞伎劇場寿座は、明治二五年廃絶したが、廃絶を惜しむ声に支えられ明治三一年、この地に座名を引き継ぎ歌舞伎小芝居劇場として開座した。幾多の名優の芸の修行場や庶民の楽しみの場となっていたが、惜しくも昭和二〇年二月閉座、同年三月一〇日戦災により焼失し、その幕を閉じた。

と書かれている。



《陸奥弘前藩津軽家上屋敷表門跡》と《本所寿座(寿劇場)跡》、二つの碑が建つ墨田区緑二丁目16番地。

寿座(寿劇場)をしのぶよすがはこの碑だけだけれども、向こうに見える高架線を電車が走る音が結構間近に聞こえてくる。

相川章太郎の回想で、昭和20年(1945)2月の寿座(寿劇場)の客席ですわ空襲かと皆が立ち上がったときに、実は汽車の音と判明して、皆ほっとするという一幕があったことを思い出す。明治31(1898)5月にこの地に開業し、それまで本所停車場(現・錦糸町)が終着駅だった総武本線が両国まで延びたのは明治37年(1904)4月だった。市電が近くを通るようになったのは、明治44年(1911)12月だった。寿座(寿劇場)を出ると、汽車電車の音が双方から結構間近に聞こえていたに違いない。高架を走る電車の音が聞こえてくるたびに、昔の寿座(寿劇場)の音が聞こえてくるような気分になった。