1930年代の東京歌舞伎と若き日の戸板康二


 「戸板康二の形成」のはじまりを昭和7年と位置付けて、慶應義塾文科の予科1年生となった昭和7年の戸板康二とその周辺について思いを馳せるシリーズ。

 2018年2月19日付の第1回目は「昭和7年3月の歌舞伎座。十六歳の戸板康二が見た六代目菊五郎と十五代目羽左衛門」(http://toita1915.hatenablog.jp/entry/2018/02/19/214723)と題して、戸板康二が慶應義塾の文科を受験した昭和7年3月の歌舞伎座に思いを馳せた。第2回目の今回は、昭和7年4月の三田入学後の戸板康二とその時代について、慶應歌舞伎研究会と1930年代の歌舞伎界のことを交えつつ、以下、だらだらと書き連ねていくのであった。



1930年代の東京歌舞伎と若き日の戸板康二。

 

 戸板康二が予科1年生となった昭和7年は、ちょうど慶應義塾創立75周年の記念行事の年にあたっていた。慶應義塾の歴史は、安政5年(1858)10月に福沢諭吉が鉄砲洲に開いた蘭学塾に始まる(「慶應義塾」の命名は改元5カ月前の慶応4年4月の新銭座移転の折。三田移転は明治4年3月。)。明治元年の十年前、安政5年に創立されてから75年の歳月が過ぎようとしている。黙阿弥と小団次の連携の真っただ中の安政から、明治大正を経て昭和7年、慶應義塾の歩みとその同時代の歌舞伎史に思いを馳せて……いたかどうかはわからないけれども、4月11日の入学式を経て晴れて三田の学生となった戸板康二は、おそらくすぐさま歌舞伎研究会に入会したのであろう。入学直後の4月23日が創立記念日にあたっており、5月8日、9日、10日の三日間、三田の山では大々的に75周年の祝賀行事が催行された。「山上各会連盟大展覧会」と銘打って、新学期早々に各団体がさまざまな企画を用意、歌舞伎研究会の企画は、1日目の5月8日に新館32番教室で吉田栄三が文楽人形の使い方を実演、10日は同じく32番教室にて学生たちが杵屋栄蔵社中の鳴物とともに『白浪五人男』『修禅寺物語』『髪結新三』を朗読するという催しと合わせて、会場に歌舞伎に関する書籍、絵画、模型舞台等を展示するという内容であった。最下級生として戸板康二もお手伝いに動員されていたと思われる。

 


『慶應義塾七十五年史』(慶應義塾、昭和7年5月9日)。75周年に際して刊行された記念冊子。奥付の5月9日は、大講堂で「義塾創立七十五年祭」が挙行された日。戸板康二入学当時の慶應義塾を知る好資料。附録に絵葉書セット。

 

慶應義塾75周年記念行事の一週間後の5月15日付「東京朝日新聞」朝刊より。昭和7年5月14日、チャップリンが神戸港に到着し、特急つばめ号で午後9時20分に東京駅に到着し、帝国ホテルに宿泊。翌15日日曜日の朝刊には森永と明治がそろって、チャップリンにちなんだ商品の広告を出した。この日の夕方、五・一五事件が勃発する。

 
5月15日付「東京朝日新聞」朝刊の「希望を裏切る暴風的歓迎に 喜劇王苦難の東京入り」なる見出しの記事によると、14日午後10時25分に帝国ホテルのロビーにあらわれたチャップリンは「日本で何か研究したいものがあるとお思ひですか」という記者の質問に、「唯カブキを見度い、それもゆつくり、だが僕に日本の古典芸術が分るかどうか不安です」と語っている。そして、『演芸画報』7月号にチャップリン名義(文責浅利鶴雄)で「日本の『カブキ』」が掲載される。

……五月十六日の夜松竹の大谷社長の招待で歌舞伎座へこつそり抜け出して見物に行つた時の私の欣びはたとへやうもありません。あの純日本風の建築、大きい、そして落着いた観客席、広い/\舞台コウシロと云ふ俳優とキクゴロと云ふ俳優がイバラキと云ふ舞踊劇を演じてゐました。サミセンオーケストラが急速なテンポで演奏してゐます。その形、その動き、その間、そしてあの素晴らしいメークアップ――長い間の修練による舞台的演技の行儀よさ、つゝしみ深さ、色彩の最も洗練された調和――これ等は私は次の幕「四十七人のサムライ」の中にも発見して、その伝統的芸術味に驚嘆しました。キチエモンのサダクロと云ふ無頼漢のカブキらしい芸風は最も私の好む処でした。キクゴロのカンペイと云う青年の役はリアリズムの演技として完璧のものと思ひますが風格の上に絵のやうなカブキ味の欠乏を否む事は出来ません。フクスケのオヤマの香気ある魅力、次の幕イチリキのテイハウスの二階からユラノスケに抱き下される処の絵のやうなシーンは私の眼の底に残つてゐます。…… 

初めて歌舞伎を見てすぐさま菊五郎の「リアリズム」と「絵のやうなカブキ味の欠乏」を指摘するチャップリンはさすがである……と言うべきかどうかはわからぬが、チャップリンの日本滞在については、千葉伸夫著『チャプリンが日本を走った』(青蛙房、1992年11月5日)に詳しい。チャップリンは5月16日、東京市美術館で葛飾北斎の生誕170年記念展覧会を見たあと、いったんホテルに戻り、午後7時過ぎに歌舞伎座へ。この月の歌舞伎座は『仮名手本忠臣蔵』の大序から七段目まで、中幕に『茨木』という狂言立てだった。午後3時開演、大序および三段目ならびに四段目のあと、菊五郎の茨木童子と幸四郎の渡辺綱で『茨木』、そのあとに、五段目から七段目までが上演されていた。チャップリンが歌舞伎座に入った午後7時過ぎは、『茨木』が上演中だったらしい。翌日17日の朝、チャップリンは自身の歓迎行事を取りしきっていた大谷竹次郎の麹町中六番町の私邸に招かれ、翌18日は東劇の文楽見物を途中退席し、明治座へ移動し猿之助の『父帰る』、左団次と松蔦の『箕輪の心中』、幸四郎と猿之助の『連獅子』を、20日には新橋演舞場で曾我廼家五郎劇を見物。神戸港に到着後、チャップリンが特急つばめ号に乗って東京に移動したことが鉄道省のタイアップだったのと同じように、チャップリンは松竹の宣伝にもひと役買っている格好だった。

 


上は菊五郎、下は吉右衛門の歌舞伎座の楽屋を訪れたチャップリン兄弟、『劇 The play』第10巻6号(昭和7年6月1日)より。前述のとおり、この月の歌舞伎座は『仮名手本忠臣蔵』大序および三代目から七段目で、四段目のあと中幕として『茨木』という狂言立て。楽屋で定九郎の扮装をしている吉右衛門、チャップリンは『茨木』のあとその楽屋を訪れたのであろう。

 
そして、五・一五事件とチャップリンの歌舞伎見物の数日後、5月21日に二長町市村座が失火により焼失、ひっそりとその歴史に幕を閉じることとなった。6月16日に十三代目守田勘弥が他界、8月15日には伊井蓉峰が他界。いつ誰が他界しても大なり小なり思うこととはいえ、「ひとつの時代が終わった」というような感慨でしみじみとなる一方で、7月には新歌舞伎座で青年歌舞伎の興行が開始、11月の歌舞伎座では「九代目市川団十郎三十年祭」が「追遠興行」として賑々しく挙行されることとなった。明治36年から三十年、思えば遠くきたものであった。また、阪急創業25周年のこの年、8月に東宝株式会社が創立され、松竹が掌握していた1930年代の東京歌舞伎にいくばくかの波乱を引き起こすこととなる。「松竹 vs 東宝」時代の幕開けである。

 

昭和7年5月22日付「都新聞」によると、5月21日午後2時25分、下谷二長町市村座の楽屋新部屋から出火。3月初日、23日までの予定で前進座が興行中(川村花菱『国定忠治』、阪中正夫『馬』、黙阿弥『十六夜清心』)であり、出火時刻には長十郎ら幹部俳優が構内食堂で研究生の脚本朗読批評会を開いている最中だったという。出火場所とみられる新部屋は、かつて菊五郎が楽屋が手狭のため特に増設した部屋だった。


都新聞の記者は、歌舞伎座の楽屋へと菊五郎と吉右衛門に取材にゆく。吉右衛門は若狭之助の衣裳のまま、「どうしてでも再建して市村座という座名を遺して置きたいものです」と神妙に語る。三段目の若狭之助のあと、吉右衛門は四段目の由良之助に出るというところ。一方、菊五郎は四段目のあとの中幕『茨木』からの出演だったので、入りが遅かったとみえる。「ナーニね東京に居ればあっしゃアまっさきに駈けつけるんですが丁度横浜へ競馬を見に行ったんで……今楽屋入りをして初めて知った次第です」と語ったあと、「あの座についちゃいろんな気持がごっちゃになって湧いてきますが、兎に角角野さんには気の毒です」と関係者を思い遣る菊五郎であった。

 

『劇 The play』昭和7年6月号より、定九郎の支度をする吉右衛門。この月、若狭之助、由良之助、定九郎の三役をこなしている吉右衛門。

 

二つ玉の出を揚幕で待つ菊五郎の勘平、同じく『劇 The play』昭和7年6月号より。

スプレーで喉を洗つたりし乍ら、猪と仲よく話をしてゐる。斯うして側で見る菊五郎は舞台の上よりも却つてきれいな顔をしてゐる。男でも惚れ惚れする。舞台では吉右衛門の定九郎が、『五十両』とニタリと笑つて、さて花道の方へ来様とすると何か来ると云ふこなしで再び舞台の中央に行き死骸を谷に蹴込んでかけ稲の影にかくれると、『元気よく飛ぶんだ』ト猪は花道へ飛んで行く、勘平は坐つたままだ、スドンと一発、別に勘平が撃つたものではない。やをら勘平、鉄砲を取りあげて突立つ、然しこの時は、もう菊五郎は完全に勘平になつてゐる。バタバタと花道へ。

本当に、きれいな顔。

 
と、六代目菊五郎と初代吉右衛門が歌舞伎座の『仮名手本忠臣蔵』に出演しているとき、若き日に彼らと二長町市村座で切磋琢磨していた十三代目守田勘弥は大阪帝大病院で死に瀕していたのだった。後年、十四代目守田勘弥は入院中の父のことを、

この阪大病院の裏手を河が流れていてたくさんの船が往来しているのですが、つい先日、船まつりというのがあって、それぞれ飾りをこらしたたくさんの船が通り、とてもきれいだったので、気晴らしに寝台を起して、それを見せたのです。そのうち、中座の宣伝の船がやってきましたら、ぷいと横を向いてしまって、その横顔がいかにも淋しそうだったんです。とんだ『残菊物語』になってしまいましたが、そのとき、父はもう舞台に二度と立てない自分を意識していたのではなかろうかと思いましたら、思わず熱いものがこみ上げてきて、困りました。

というふうに回想している(津田類「あの頃を語る〔連載・11〕昭和七年九月」、『演劇界』昭和43年12号)。かわいそうな勘弥……。訃報を伝える昭和7年6月17日付「都新聞」によると、中座に出演中の吉右衛門が弔問に駆けつけたという。病床の勘弥が見たという「中座の宣伝の船」は吉右衛門や羽左衛門、鴈治郎が出演している中座の宣伝の船だったのだろうか*1

 

十三代目守田勘弥と三代目坂東しうか、『芝居』第1巻第2号(昭和2年9月1日)口絵より。大正7年末をもって市村座を脱退した勘弥はこの写真当時は帝国劇場に所属していた。久保田万太郎は《もし、帝国劇場がその組織を最後まで解散しなかつたら、おそらくかれは、帝国劇場専属技芸員として満足して今度でもこの世を去つたことだろう。……帝国劇場に加入して、はじめてそこに、安固なかれの位置をかれはかちえたのである。》とする*2

久保田万太郎「いまは亡き守田勘弥」より


(前略)かれの明晰な、そしてその領野の広い技芸は、理由なく、だれからも喜ばれた。そして、かれは、一部の批評家たちによつて劇壇第一の新人とまでまつり上げられた。
 かれは、かれ自身、かへりみてひそかに寂しい笑ひを自分の上になげたであらう。そして同時に、自由にして闊達な帝国劇場の山本専務に、明敏にして度胸のいゝ有楽座の久米支配人に、心からの感謝をいたしたであらう。…なぜなら、かれが、一人の器用な歌舞伎役者以外の何ものでもないことを……最もよくその事実を知つてゐたのはじつにかれだつたから。……賢明なかれ自身だつたから……

 要は、かれは、強情だつた、気がさだつた、負けず嫌ひだつた。……であればこその勉強家だつた。……
 かれは如才がなかつた。かれはつねに人の気を兼ねた。そして決して人をそらさなかつた。……自分の感情を大切にするが故に、人の感情をかれは大切にした。
 ときにかれは、分つても分らないふりをした。ときにかれは、分らなくつても分つたかほをした。……
 かれの財産はその強い体力だつた。そしてかれはその財産をたのみすぎた。……無理のきくまゝにかれは無理をした。…そしてその無理がかれのいのちを短くした。

 …さうしたかれの一生だつた。立役によく、敵役によく、二枚目によく、三枚目によく、女形によく、老け役によかつたかれの、……一代の才人だつたかれの所詮は寂しい一生だつた。


(『日本国民』昭和7年8月号に「勘弥の死」として発表。『久保田万太郎全集 第十三巻』所収)

 久保田万太郎は昭和7年の夏、「今はなき守田勘弥」と「今はなき伊井蓉峰」と立て続けにきわめて味わい深い追悼文を書いたのであった。

 
明治18年生まれ、菊五郎と同い年の勘弥は、歌舞伎座開場と同月の明治22年11月に生まれた久保田万太郎とほぼ同時代の東京を生きていた。大正5年6月の文芸座旗揚げの折には、万太郎は顧問として名前を連ねてもいた*3。大正14年元日に死んだ有楽座支配人の久米秀治は荷風主宰の『三田文學』での万太郎の親しい文学仲間だった。市村座脱退後、大正8年3月の有楽座における文芸座公演の演目は、菊池寛作・林和脚色『忠直卿行状記』、アンドレーフ作・森鴎外訳『人の一生』、河竹繁俊脚色『女殺油地獄』、勘弥の新出発だった*4。勘弥は『忠直卿行状記」を東京では計4回上演しており、代表作のひとつといっていいだろう。その2回目の大正13年9月4日初日の浅草公園劇場上演時に小村雪岱が舞台装置の仕事を初めて手がけたという点でも記念すべき演目であった*5。しうかは大正8年3月には四代目坂東玉三郎として小姓久市を勤めていた。それから13年、勘弥の死を受けて始まった昭和7年7月の新歌舞伎座における青年歌舞伎の第1回興行は、しうか主演の『忠直卿行状記』で幕を開けた。しうかは昭和10年1月に十四代目守田勘弥となった。

 

在りし日の十三代目守田勘弥、『劇 The Play』昭和7年7月号より。


十三代目守田勘弥というと極私的に思い出すのは、五代目尾上松助こと尾上伊三郎が若き日に、福島甲羽名義で『ホトトギス』第11巻第11号(明治41年8月1日)に寄せた「将棋」という写生文のこと。二長町市村座の楽屋で勘弥は忠信利平の化粧のまま、将棋に夢中。あんまり暑いから窓を開けると、隣りの凸版印刷の工場では女工さんたちがこちらに背中を向けて一生懸命働いている。いつのまにか勘弥のもとには髪を桃割りに結った二人の雛妓が遊びに来ている、ふと気づくと、隣りの女工さんたちが俳優たちのいる楽屋を覗いている……という、のどかな昼下がりの光景を綴ったもので、確認してみると、勘弥が市村座で忠信利平に扮したのは、明治41年5月31日初日の興行でのこと。当時は尾上菊松だった伊三郎は狼の悪次郎に扮していた。弁天小僧は七代目三津五郎。それから、約四半世紀、思えば遠く来たものであった。昭和7年6月の守田勘弥の死を思うと、やはりどうしても「ひとつの時代が終わった」と言いたくなってしまうのであった。勘弥に限らず、すべての役者はそれぞれの時代を背負っている。役者の死はいつだって「ひとつの時代」の終焉なのかもしれない。

 

11月の歌舞伎座「九代目市川団十郎三十年祭」に合わせて、11月号の『演芸画報』は「九代目団十郎の再考察」という特集が組んでいる。


その団十郎追善興行については早くも、同年6月1日付「都新聞」に「十一月の歌舞伎座で団十郎追善興行」という記事が出ている。

先頃来松竹と堀越宗家との間に種々打合はせが行われてゐたが今秋十一月興行の歌舞伎座に於いて之を行ふことに決定した、出し物等は未定だが、大体に於いて、九代目門下代表として幸四郎、薫陶を受けた者の代表として菊五郎、それに故人の娘翠扇を配したものを追善舞踊として出す計画が進められてゐる。

この記事の出た6月の歌舞伎座は初めての二部制興行、その夜の部で、九代目に「薫陶を受けた者の代表」であるところの菊五郎が『鏡獅子』を勤めていた。大正3年1月市村座での初演以来、何度も勤めている屈指の当たり芸のひとつであった。11月の歌舞伎座に先立って、九代目の命日の9月13日には都新聞社の主催により日比谷公会堂で記念大演芸会が開催、日本橋三越では同日より二十日間にわたって、団十郎記念展覧会が開催された(『演芸画報』昭和7年10月号、安部豊・利倉幸一「団十郎展覧会見物」)。戸板康二の所属する慶應歌舞伎研究会もこれと連動させるようにして、9月24日に慶應義塾構内の三田大ホールにて九代目団十郎追悼講演会を開催している(登壇者と演題は、戸川秋骨「私の見た団十郎」・池田大伍「団十郎の活歴」・松居松翁「何が団十郎をつくったか」・市川三升「父の思い出」)。この年の4月に大学予科生となったばかりの戸板康二にとって、九代目団十郎をいやが上にも意識させ、歌舞伎を観照するにあたっての規範のようにして屹立するようになっていたのは想像に難くない。

 

昭和7年9月11日付「東京日日新聞」に《歌舞伎劇はどうなる?》なる特集記事。「時代から置去りにされ而も彼らの眠りは深い」などと言いたい放題の浜尾四郎。

 
こんな記事が出てしまうほどに、1930年代のはじまりととともに東京の歌舞伎を手中におさめたばかりの松竹は、事変下の情勢のともで経営不振にあえいでいた。木村錦花『近世劇壇史 歌舞伎座篇』(中央口論社・昭和11年11月15日)の「昭和六年」の冒頭に、

昔は世の中が不景気になると却つて芝居は大入だと伝へられて居ましたが、今時そんな筈は決してないので、此の頃のやうに不景気が深刻になつて来ると、芝居は何よりも先に成績の良否が解る筈のもので、去年の忠臣蔵のやうに一度や二度当る事があつたにしても、こんな事は例外で、興行毎に欠損だと見なければならない、此の先いつまで此の不景気が打続くのか、多くの劇場を持ち、沢山な俳優を抱へて居る松竹として、勢ひ経費を節約しなければならなかつたのです。そこで観劇料の値下げを行ひ、給料の二割減を断行致しましたが、未だ未だそんな事位で立行くとは思へない、大谷社長は経営を誰かに代つて貰ひ、自分は暫く休養したいとさへ言い出しました。

とあり、『芸術殿』昭和6年11月号の大村弘毅「芸界時評」では、

松竹が現在の難局に立つに至つたのは、一つには世界共通の深刻な不況にあること無論だが、最も主な原因は全劇場を一手に掌握せんとして行つた積極政策が、目的達成と共に無競争による利益増加以上に内政的に負担過重に落入り、其累積が今日の苦境を生んだのである。

と分析されている。昭和5年1月から帝劇が松竹の経営下に入り、東京の7つの大劇場(歌舞伎座・帝劇・東劇・新橋演舞場・明治座・新富座・新宿第一劇場)を独占した松竹は、翌昭和6年、《四月十日、松竹興行、歌舞伎座、明治座、新富座、関西松竹土地興行の五社合併、資本金三千百七十万円の松竹興行株式会社設立決定、二十七日五社合併臨時総会をそれぞれ開催、七月七日より事務開始》する。昭和6年という年は、前進座が設立された年でもあった。

 
昭和7年6月に歌舞伎座において初めて二部制が導入されたのも、不況対策の一環だった*6。そして、11月の九代目団十郎追善興行「九代目団十郎三十年追追興行」も不況の打開策の一環だった。そして、それは大成功をおさめた。戸板康二は後年、『思い出の劇場』の「歌舞伎座」の項に、

昭和七年十一月の九代目団十郎三十年祭の追遠興行が大当りをして、以後大幹部の数を多くした豪華版企画に力を入れるのだが、その前の歌舞伎座は、一般の劇場と同じような、味のある立て方がよくあった。そういう時の芝居が、濃く記憶されるのである。

と回想している。また、坪内逍遥は「九代目追遠興行の成功」と題する文章の冒頭で、

歌舞伎の存廃が時の問題でしかないやうにいはれる現下に、十八番づくしの上演が当つて、年を越してまでの延べ興行は、聊か皮肉過ぎるとも思はれるが、必ずしも不思議ではない。芝居は水物だ。人気が立つたりといふと、妙にそれが伝播して、初めケナしてゐた者までが、群衆意識にかぶれて、見たがる。それが観衆心理なのである。それに、昔と違ひ、市の人口其物が幾十倍にも殖えてゐるだらう上に、各地方からの交通が自在になつて市への距離が近くなつた。同時に、「勧進帳」をさへ一度も観た事のない中産階級さへ幾らもある。多分、二度とは見られない顔揃ひだといふので、ワンサと押寄せた連中も少くなかつたらう。勿論、諸新聞が書き立てた九代目の三十年紀念といふ宣伝も利いてゐたに相違ない。で、追遠興行は立派に成功した。

と語っている(『芸術殿』昭和8年2月号「柿の蔕」)。昭和7年10月1日、東京市はそれまでの15区に周辺5郡82町村を編入し新たに20区を設置し、東京市は35区となった。いわゆる「大東京」の成立である。ジャーナリズムはさかんに「大東京」を喧伝した。偶然か必然か、九代目団十郎の追遠興行は「大東京」成立の翌月のこと。松竹による東京の歌舞伎興行の大成功は「大東京」の成立と時を同じくすることとなった。

 
昭和7年11月の九代目団十郎三十年追遠興行、翌年1月の延長興行、昭和10年3月および4月の五代目菊五郎三十三回忌追善興行を経て、昭和11年4月に「団菊祭」と銘打った興行を開始し、「大幹部の数を多くした豪華版企画」が繰り返されることとなる1930年代の歌舞伎座の歳月。そして、それは、21世紀の現在も脈々と受け継がれている松竹的な興行スタイルが確立した時期であった。昭和5年1月から東京の歌舞伎を掌握して、多くの役者を抱えての大規模経営による歌舞伎興行をしばらく模索していた松竹が、昭和7年11月の九代目団十郎の追遠興行でようやく軌道に乗った格好だった。そして、その興行スタイルの確立は、団菊への顕彰に便乗してなされたのだった。

 

東京宝塚劇場の開場とともに開けた昭和9年、4月の歌舞伎座では「歌舞伎座復興十周年記念興行」を挙行。その際に頒布されたとおぼしき『歌舞伎座十周年の栞』。大正14年(1925)1月から昭和9年(1934)4月までの上演演目表が掲載されており、観客はこれを眺めて、十年間の舞台の追憶にひたったことであろう。満18歳の戸板康二もしみじみと十年間の追憶にひたったことであろう。

 

大正14年1月の二長町市村座の絵本筋書。第3期歌舞伎座が新築開場した大正14年1月、市村座は歌舞伎座の向こうをはって、大正10年3月に吉右衛門が松竹入りして以来、4年ぶりに菊五郎と吉右衛門の合同公演を実現させた。その参謀はこの年の5月6日に他界する岡村柿紅だったという(渥美清太郎『六代目菊五郎評伝』冨山房・昭和25年12月15日)。戸板康二はのちに、『思い出の劇場』の「市村座」に

 大正十四年一月、市村座で、四年前に袂を分かった菊五郎と吉右衛門が、顔合せの興行をした。歌舞伎座の初開場の月にぶつけて、この芝居を企画したのは、思えば見事だと、いわなければならない。
 一番目が『一谷』の陣門から陣屋、中幕が『三社祭』、二番目が『四千両』、いい出し物である。春なので筋書の表紙が双六になっていて、『三社』の絵のわきに「上るり」とあり、るの字が小さいから。それが「上り」を利かしている。後年、古本屋でこの絵本を改めて買ったのは、ぼくが見たこの月の舞台の記憶を、記念したかったのである。

 と書いた。そして、『六代目菊五郎』に《芝居を見はじめた頃は見るたびにいろいろなものが一時に殺到する感じで、それが多感な時代だけに、印象もつよく、記憶はいつまでも新鮮なものだ。》と書いた。戸板康二にとっての「芝居を見はじめた頃」は具体的には、第3期歌舞伎座が開場して、市村座で菊吉合同公演が実現した大正14年1月頃と言っていいと思う。その後の十年の舞台の記憶は、戸板康二にとって「印象もつよく」「いつまでも新鮮」なものとなった。その後の六十年の劇評家人生の観照の原点となった舞台の記憶となった。

 

『歌舞伎座十周年の栞』に「現在の歌舞伎座」として掲載の第3期歌舞伎座の写真。今日も空にはアドバルン。

 
歌舞伎座十周年記念興行の昭和9年4月、戸板康二は予科3年に進学した。前月に、実家の仮寓先である阪神間の地で、父の紹介により、後年「学恩の大先輩」と回想することとなる藤木秀吉との知遇を得たばかり。そして1年後、昭和10年5月号の『三田文學』十周年記念号にて、二十になるやならずで、戸板康二は劇評家として世に出る。戸板康二は九代目団十郎三十年祭の年に大学予科生となり、五代目菊五郎三十三回忌の追善興行の劇評で『三田文學』に劇評家としてデビュウ、と同時に本科生となり国文科に進学、折口信夫の教えを受けることとなった。そして、昭和13年6月、『三田文學』の若き劇評家として、久保田万太郎主宰の「三田劇談会」に参加したのを機に、久保田万太郎に親炙するようになる。以上が、「戸板康二の形成」の歳月の前半である。



昭和7年、三田に入学後、おそらくすぐさま歌舞伎研究会に入会したであろう戸板康二であるが、重要なのは、当時の歌舞伎研究会は現在のように学生が歌舞伎を実演する団体ではなく、文字通りに歌舞伎を研究する団体であったこと。具体的には、理想配役投票と脚本の朗読、専門家を招いての勉強会が活動のメインだった*7。『慶應義塾大学歌舞伎研究会八十年史』(歌舞伎研究会三田会・2006年5月1日。以下、『八十年史』。)によると、今や九十年を越える慶應義塾大学の歌舞伎研究会の歴史は、大正14年に発足した「三田歌舞伎研究会」に始まり、そのあとしばし休会状態となったが、昭和4年に「慶應歌舞伎劇研究会」と改称し、評論家と役者の講座が設けられ、同6年に「歌舞伎研究会」と改称し、諸講座と合わせて脚本朗読が始まったところで、戸板康二の入学する昭和7年を迎えていた。戸板康二はちょうど歌舞伎研究会の活動が活発化していたタイミングで三田に入学したといえる。

 
慶應歌舞伎研究会の思い出について、戸板康二は『回想の戦中戦後』の「かよった学校」では、

歌舞伎研究会にもはいっていて、池田大伍さんの「助六」の話、渥美清太郎さんの演劇史、随時に招いた松居松翁、岡鬼太郎、三宅周太郎、三宅三郎、小谷青楓、伊坂梅雪、中村芝鶴、片岡我当(のちの仁左衛門)の諸氏の話を聞く機会があった。

というふうに、先輩の劇評家および俳優の話を聞いた思い出をメインに回想している。

 

昭和8年9月17日、松居松翁追悼講演会・慶應義塾大ホール控室にて(前列左より二代目市川猿之助、森律子、河合武雄、松翁未亡人かつ子、岡鬼太郎、松翁子息桃多太郎、岡本綺堂、池田大伍、平田弘一、『回想の戦中戦後』口絵より。戸板康二はかつ子夫人の後ろに立っている。昭和7年3月の歌舞伎座で元気に田中良と喧嘩をしていた松翁は昭和8年7月14日に他界。同年10月6日付「三田新聞」によると、松居松翁追悼講演会は9月17日に開催。「塾内大ホールにておいて多年日本歌舞伎界に貢献した脚本家故松居松翁氏の追悼講演会を開催し従来故松翁氏と関係浅からぬ岡本綺堂、岡鬼太郎、市川猿之助、河合武雄、森律子等々知名の士を招いて興味深い追悼談に可成盛会だつた」とある。

 松居松翁さんの追悼講演会が昭和九年に開かれ、大ホールで、岡鬼太郎、岡本綺堂、河合武雄という人々の話も聞いた。
 同じ年の大学祭の展示場で、飾りつけがおわったところに、研究会のOBで、松竹にはいったばかりの内田得三氏が来て、「きょう(六代目)梅幸が歌舞伎座で倒れた」といった。そして、三日のちに死んだ。倒れたとき演じていたのは、「勘当場」の母延寿であった。

と、『思い出す顔』にあるが、松翁追悼講演会は昭和9年ではなくて、昭和8年の開催だった。このとき、岡鬼太郎と岡本綺堂が並んでいる姿を間近に目撃したことが、戸板康二の歌舞伎研究会におけるもっとも印象的な思い出のひとつであったことは確実。九代目団十郎追悼講演会のちょうど1年のちのことだった。このときのことを、『演芸画報・人物誌』の「岡鬼太郎」の項では、

 昭和八年七月松翁が歿したのち、慶応の歌舞伎研究会が、追悼講演会を山の上の大ホールで開いた時、講師の控え室で、綺堂と鬼太郎の二人が親しそうに話し合っている姿が、今でも目に残っている。窓に秋の斜陽がさしていた。
 その二人のところへ、案内されて、静かに入ってきたのが河合武雄で、河合を見て、二人が「やア」といったのも、おぼえている。

 と綴られている。

 

昭和8年9月、岡鬼太郎を囲んで(前列右より戸板康二・内田得三・渡辺耕一・岡鬼太郎・上沼道之助、後列右より西園寺進・福田元次郎・武井秀夫・田坂仁郎・平松嘉兵衛・内山精一・城所一郎・村林栄一)、『八十年史』より。志野葉太郎こと田坂仁郎も写っている。

 

昭和6年入学の志野葉太郎は、慶應歌舞伎研究会について、

もともと歌舞伎が好きだったからこそ、少しでも芝居がわかるようになりたいと願ったからこその入会だったのだから、今までは遠くから仰ぎ見るにとどまった一流の先生方の話を直接聞き、あわよくば質問もできるというチャンスに恵まれた喜びがいかに大きなものだったかは御想像にまかせよう。天にも昇る心地だったというのが正直なところだったのである。

というふうに回想しており(『八十年史』に引用されている『塾友』昭和58年5・6月合併号に掲載の文章を孫引き)、1年後輩の戸板康二もまったく同じ感慨を抱いたことだったろうと思う。

 
『回想の戦中戦後』の5年後に同じく書き下ろしとして刊行されたメモワール、『思い出す顔』(講談社、昭和59年11月20日)の「先輩の劇評」によると、戸板康二が劇評の真似事をしたのは、中学にあがってからのこと。

中学にあがってから、芝居を見たあと、感想を洋罫紙に書いて、中井という友人に見せ、中井もまた自分の見た芝居について、何か書いて見せた。これがつまり、はじめて書いた「劇評」ともいえる。

戸板康二が暁星中学に進学した昭和3年は、「その年のくれに急逝する小山内薫」が朝日新聞に書いていた年であった。しかし、先輩の劇評家の劇評を「むさぼるような読み方」で読んだのは、大学進学以降だったという。

 慶応にはいった年、予科一年の夏に、父親が大阪に転勤して、しばらく祖父の家に寄宿し、やがて独りでくらしたくなって、芝公園の山内に下宿した。 そのころは、祖父の洗足の家に休みの日に行って、東日、読売、都などの劇評をスクラップブックに貼りこんだ。
 当時の読売は相馬剱爾という記者が劇評を書くほかに、遠藤為春の芝居ばなしがのった。東日はずっと三宅周太郎、都は伊原青々園が書いていた。このほか、報知に本山荻舟、時事に三宅三郎の劇評がのっていた。

すなわち、戸板康二が「むさぼるような読み方」で「先輩の劇評家の劇評」を読むようになった日々のなかで、歌舞伎研究会で直接「先輩の劇評家」の話を聞く機会を持ったのだった。「一流の先生方」の話を直接聴くことで、さらに鼓舞されて「先輩の劇評」をむさぼるように読むようになる、と同時に、演劇書を次々に読み込んでゆき*8、歌舞伎に対する知識と思考をどんどん深めてゆく、ますます歌舞伎にのめり込みつつも、同時にうがった見方もするようになってゆく。

 
昭和7年4月の三田入学、すなわち大学生活のはじまりは、戸板康二にとっては劇評勉強の日々のはじまりでもあった。先に引用した志野葉太郎は、

……(超一流の先生を招くことが)年会費五円(当時歌舞伎座の一等料金七円五十銭)でよくも可能だったと思われるに違いない。打ちあけていうと菓子折一つのお礼ですましていたので、専ら先生方の御好意にすがっていたわけなのである。それどころか、岡鬼太郎先生からは『親御さんからお小遣いを貰っているあなた方がこんなことをしてはいけない。今度は頂いときますが、これからは御無用にして下さい』というお言葉さえ頂戴した。今では考えも及ばない。世知辛くない誠にいい時代だったということができる。

というふうに回想している。その「菓子折一つ」とは具体的には菊廼家の桐の箱に入った吹寄(2円50銭)だったという。一方、戸板康二は前出の『思い出す顔』の「先輩の劇評」で、

 岡さんが歌舞伎研究会に来られて薄謝をさし上げると、学生数人をつれて、白十字にゆき、その金で若い者を御馳走してくれたらしいが、予科生のぼくは、その場には、いたことがない。
 この俗に略していう「歌舞研」は、経済学部の学生が圧倒的に多く、文学部では、四期上の加賀山直三氏と、同期の内山精一君ぐらいだった。だから本科に行ってからは、ぼくも退会してしまった。

というふうに回想しており、いずれにしても、三田の後輩の回想する岡鬼太郎の人となりのなんと魅力的なこと。昭和7年、歌舞伎研究会の活動が活発化したタイミングで三田に入学した戸板康二であったけれども、「本科に行ってから」、すなわち昭和10年以降は退会してしまったと記すことで*9、歌舞伎研究会の回想を打ち切っており、なんとなく、戸板康二の歌舞伎研究会に対する距離のようなものが感じられなくもないのであった。

 


昭和5年11月22日付「三田新聞」の広告。三田の喫茶店、「白十字」と田町駅前の「森永キャンデーストア」。岡鬼太郎が歌舞伎研究会の学生を連れていってくれたと戸板康二が回想している「白十字」は、銀座の喫茶店「モナミ」の姉妹店だった。

 

戸板康二が入学した年、昭和7年5月20日付『三田新聞』に「喫茶カプリス」と「三田明治製菓売店」の広告が隣り合わせに掲載されている。合わせて「又出来た塾生の喫茶店「カプリス」」という見出しの記事も掲載されており、「喫茶カプリス」主人である経済学部本科生の大野大の談話は「姉に手伝つて貰って素人に手軽く出来ると思つてこんなものを始めました。落ついた気分を味つて戴きたいです レコードには以前から趣味を持つてゐました」。カプリスは戸板康二がのちに懐かしく回想している喫茶店であるが*10、奇しくもその開業は戸板康二の入学直後だった。

 

明治製菓広報誌『スヰート』第4巻第4号(昭和4年10月5日発行)より、《三田 明治製菓売店階上 九月開店》。

 当時は三田通りに明治製菓の売店があった。その三階の小さな部屋に、毎月いろいろな演劇人を招いて、話を聞いた。
 三宅周太郎さんが来たのは、昭和八年の十月と、月までわかっている。なぜなら、その月歌舞伎座で上演された「天下茶屋」の十五代目羽左衛門の伊織をほめられたのに対し、学生が、先年の七代目宗十郎のほうがよかったと反論したからだ。
 そのころ学生は勇敢だったとも思うが、のちに天才的な演出家となって一時期歌舞伎界をおどろかせた川口子太郎(本名は喜之)のような少壮論客もいたのである。
 結局三宅さんは苦笑して、「主観の相違ですね」と口を閉じてしまったが、ぼくはまだ予科二年で、小さくなっていた。

この『思い出す顔』をはじめ、三宅周太郎を語る際に戸板康二が必ず紹介するエピソードの舞台は明治製菓三田売店であった。『三十五年史 明治商事株式会社』(昭和32年5月2日)所収の年表によると、三田売店の開店は昭和4年9月16日で、昭和10年7月20日に閉店しているから、ほんの数年の営業だった。野口冨士男著『感触的昭和文壇史』(文藝春秋、昭和61年7月15日)に、

慶應義塾の戦前の正門――幻の門から赤羽橋の方向へ向かうと、軒並みにして三、四軒先の左側――あの赤煉瓦の図書館の真下といった位置に、現在でも春日神社がある。あの参道と言っては大袈裟になるから小さな空間ということにしておくが、右側に階下が菓子の売場で、階上が喫茶室になっていた明治製菓の売店があった。その二階で三田文学会主催の談話会である「紅茶会」などもおこなわれていたことがあって、「三田文学」とは別の同人雑誌を出していた私も呼びかけに応じて出席したことがあるが、立地条件が悪かったため平常は閑散としていた。(p.89)

というくだりがある。戸板康二と三宅周太郎の初対面の場所として強調しておきたい。

 
慶應文科予科1年生、満16歳の戸板康二にとって「劇評勉強」の始まりの年となった昭和7年、偶然か必然か、この年から「東京朝日新聞」において、前年までの岡鬼太郎と打って変わって、戸板康二言うところの「専門家以外の随筆体」の劇評が始まった年でもあった*11。『演劇界増刊 昭和歌舞伎50年』(第32巻13号・昭和49年11月20日)でも、「素人劇評の時代」として立項されていて、1930年代歌舞伎を象徴する事象のひとつであったといえる。

 


『福地信世 遺稿』(私家版・刊記なし、昭和18年3月序)より「昭和八年三月東京朝日新聞に劇評を連載せる時の同社宛の手柬」、戸板康二は『演芸画報・人物誌』の「福地信世」の項で、

昭和八年三月には、当時毎月文学者、画家、随筆家に劇評を交替で依頼していた朝日新聞のために、東都五座の劇評を書いている。その月の歌舞伎座は初日を見たが、吉右衛門病気のため、開演が四十五分おくれ、二番目の『髪結新三』の新三内で、家主がかつおを半分持って引っこむと、大喜利一幕を残して、「まづ今日はこれぎり」になった。「冗談いひなさるな。今日ぢゃアねェ、もう二日の午前零時十五分だぜ。初鰹と芝居のよい越しァみっともねェ」と書いている。

と書いている。「素人劇評」のムードが伝わってくる。昭和8年3月の歌舞伎座では、戸板康二が生涯忘れなかったであろう菊五郎の髪結新三が上演されていたのだった。吉右衛門は弥太五郎源七で、勝奴は伊三郎だった。そして、五代目福助の最後の舞台でもあった(同年8月11日没)。後年、戸板康二が回想して曰く、《最後の役は、「髪結新三」のお熊で、じつに美しく、駕籠に乗って行ってしまった》(『女形のすべて』)。福地信世もこの翌年、昭和9年5月22日に急死する。

 
中村吉蔵は、『演劇』昭和7年8月号の「巻頭言」で、

「朝日」の荒畑寒村、次で里見弴[とん]の劇評、全体の当否はともかく、率直で、時弊に当るところが多い。劇評家の劇評も、ちとこうした刺を利かせて欲しい、確かに劇界の刺戟になる。

と当初は好意的あるいは傍観的であったが、昭和11年には「劇評の問題」と題して、

 「劇評」乃至「劇評家」が、いろんな意味で問題となりつゝある。これは、多少とも劇壇全体が動きかけて来た場合に、当然、吟味されるべきものであらう。
 已に某々大新聞の如きは、特定の劇評家を常置せず、所謂フリー・ランサーを駆り出して、毎回顔ぶれを替へて劇評に当らしめてゐる。かゝる傾向は次第に流行せんとしつゝあるかに見えるが、これは決して推奨すべき事だと思はれない。勿論、駆り出された臨時劇評家が、演劇に対する造詣も深く、観劇眼に高く又演劇文化の高揚に熱意を持ちつゞけてゐるやうな人々である場合は、「お座成り」の劇評とは自らその面目を異にし、真に権威ある言説に接する機会が[か]ち得られぬでもないから当然歓迎さるべきであるが、そんなのは、むしろ例外であつて、所謂社会的名士になるが故に、新聞社から頼まれて匆匆一夕の観劇を試み、ヅブの素人評を臆面もなく公表するという如き実例が決して少なくない。(中略)総合芸術たる演劇の世界史に、臨時素人批評家が通用するというのは演劇に対する軽侮であり、陵辱であり、更に無智であるとも極言できる。

と激するにいたっている(『現代演劇論』豊國社・昭和17年11月20日)。『三田文學』に劇評を寄稿するようになって2年目の戸板青年は、当時この文章を目にしていたとしたら「そうだ、そうだ」と机の上をドン! と叩いていたと思う。

 
「素人劇評の時代」は、大正末期に始まる随筆流行時代の反映もあろうし、専門的な劇評が求められなくなりつつあった時代の反映でもあったろうし、歌舞伎の世界に限ったことではなく、1930年代の「大東京」の世の中全体の潮流でもあったのだろう。戸板康二は後年昭和25年、日本演劇社を退社する頃に書き下ろした『演劇五十年』にて、「素人劇評の時代」について、

当時の現象として、新聞紙上に、専門家以外の随筆体劇評があらわれるようになつたことも、注意しなければならぬ。
 これは小山内薫死後、岡鬼太郎が執筆した朝日の劇評欄を、昭和七年に池田大伍が受け持ち、三月まで書いて筆を投じた時期に始まつたことである。
 国文学者、洋画家、社会運動の闘士、大衆作家等が登場し、最後には英文学者の福原麟太郎が、一時朝日新聞の批評を担当をするまでに至つた。むろんその間、画人でも鏑木清方のごとき『歌舞伎』以来の劇通や、菊池寛、正宗白鳥等の作家が書いたものには教えられる点が少くなかつたが、この風潮は、大正十三年以来三宅周太郎が殆ど書きつづけていた東日(のちに毎日)にさえ及んだ。
 これはいわば、対象とする歌舞伎自体の変貌を敏感にジャーナリズムが知つたことと見てしまえば簡単であるが、何としても、「チョボの長唄」などという批評があらわれるような有様は、劇評史の上で陥没時代というよりほかない。

そして、「対象とする歌舞伎時代の変貌」については、

 昭和六年六月東西松竹併合統一記念と銘打つて歌舞伎座があき、鴈治郎、歌右衛門、菊五郎が出演した。従来大阪と東京に分れていた松竹が、独立会社であつた歌舞伎座、明治座、新富座、関西松竹土地興行等を合併、三千百七十万円の会社になつたので、この月梅幸、羽左衛門、幸四郎が大阪中座に、左団次が京都南座に、吉右衛門が明治座に、勘弥が東京劇場に出演、独占資本が日本の歌舞伎俳優を一手に掌握したという示威をおこなつたのであつたが、以後白井会長、大谷社長の下にあつて、松竹は、自由に俳優の交流を行うことが出来るようになつた。しかし、興行の実情から、平均して各劇場にそれらを配するよりも、一カ所に大一座を入れて最高級の顔ぶれで見せ、他の劇場は一段下つた中級にする方が賢明だつたので、その後は専ら、そうした策が行われたのである。いう迄もなく、重点的に、大歌舞伎の舞台となつたのは、幅二十四間、奥行十二間の舞台を有する歌舞伎座であつた。
 昭和七年十一月、この劇場で九代目団十郎三十年追善興行が行われ、二十七日間売切れという好成績に気をよくし、翌年一月その「延長興行」をした頃から、松竹の広告には、春陽堂や第一書房が出版物の装幀にうたつた「豪華版」の宣伝文字が使用されるようになつた。十一月には東京の名題俳優四十五名、一月には実に四十六名という明治、大正にはかつてなかつた程の座組が立てられたのである。それ以来、一月、四月、十一月という、芝居道での当り月には、大一座による興行が必ず行われ、大幹部それぞれが出し物をもつ不文律から、演目の数は非常に殖えた。
 そして宣伝は「最善、最美、無比、全名優出演」等の垢ぬけのしない文句をうたいはじめた。昭和六年九月満州事変が始まり、軍需工業を中心とする一種の景気によつて、新興観客層があらわれたことも、その原因の一つかもしれない。
歌舞伎を百貨店のランチのように限られた皿に盛り合せはじめた松竹は、だが、この時代に最も全盛をほこつた。(中略)歌舞伎自身を、頭から難解と思う見物は、映画、レヴューに走り、もう近づこうとしなかつた。しかし、団体客が適当に座席を埋めて、興行師は鼓腹撃壌しているのであつた。

というふうに回想している。

 

歌舞伎の歴史は、古きよき時代(と見えるもの)が新しい時代の波にのまれていくことを繰り返してきたわけで、いつの時代も「昔はよかった」と言いがちだ。同時に、昔の客は見巧者だったと言いがちだ。ということを考慮しても、震災以降、特に1930年代以降の東京では、明らかに観客の質的な変化はあったのだろう*12

 
大正ベルエポックの隆盛と終焉を体現する玄文社の『新演藝』(大正5年3月創刊、大正14年4月終刊)が、昭和8年に能村武文らにより一瞬再刊したのだったが、その再刊第1号(第12巻第1号・昭和8年9月1日発行)に寄せた祝辞に大谷竹次郎は、《最近は世を挙げてデパート時代で、デパートの威力の前には小商店は皆影を薄めて居るやうです。》と書いている。帝劇を手中に収めて、昭和5年に東京の歌舞伎を掌握した松竹こそまさに「デパートの威力」と化しており、歌舞伎座・帝劇・市村座が鼎立し、それぞれの興行師が腕をふるった東京の歌舞伎は過去のものとなっていた。

 
先に記したとおり、昭和7年11月の九代目団十郎三十年追遠興行の成功以降の松竹は「大幹部の数を多くした豪華版企画」が繰り返してゆくようになった。昭和11年4月に現在おなじみの「団菊祭」なる興行を始めたとき、二十歳の戸板康二は、

 団菊祭とは何ぞやと云ふと、当りさへすれば馬鹿の一つ覚えに、陳腐に堕するまでつゞけて行ふのが恒例の松竹が、去年の追善興行の筆法を又用ひた、おろかしい企である。
 勿論斯ういふ場合には、役者は当り芸を演ずるので、その点難は少ない筈でありながら、定食のやうに小さな皿に申訳許りの肴を盛るのだから、物足りない事夥しい。

と悪態をついた(『三田文學』昭和11年5月号「四月の劇界」)。1930年代前半、21世紀の現在まで脈々と続いている、松竹の興行スタイルが確立してゆくまっただなかの時期、大学予科生となり「劇評家」勉強を始めた戸板青年は『三田文學』昭和10年5月号で、弱冠二十歳の「若い人」として劇評家デビュウを果たした。以後、六十年にわたる劇評家人生の出発だった。

 

『三田文學』昭和10年5月号。表紙画:鈴木信太郎。戸板康二が劇評家としてのデビュウを飾った「追善興行の歌舞伎座」掲載号。

 

二十になるやならずの戸板康二が『三田文學』誌上に劇評家として世に出たのは、昭和10年3月の五代目菊五郎三十三回忌追善興行の劇評だった。水上瀧太郎の尽力により大正15年4月に『三田文學』が復刊し、和木清三郎が大いに腕を振るった第3次の『三田文學』は昭和戦前文学の一翼を担う存在であった。昭和10年5月号はその復刊十周年の記念号であった。昭和7年9月号から鈴木信太郎が表紙画を手がけるようになっていた。

 

岡本綺堂『明治劇談 ランプの下にて』(岡倉書房・昭和10年3月20日)。

昭和十年三月に岡倉書房から出た最初の本を、そのまま持っているが、はじめて読んだ時から、おいしいものを食べているような、居心地のいい部屋で涼しい風に吹かれているような、何ともいえない楽しさを感じた。(『夜ふけのカルタ』所収「芝居・一冊の本」)

戸板康二が劇評家として世に出る直前、五代目菊五郎三十三回忌追善興行の真っ最中に、岡本綺堂の『明治劇談 ランプの下にて』が刊行されたということは、つくづく象徴的なことだと思う。図式的に過ぎるかもしれないけれども、そう思わずにはいられない。綺堂は、明治30年2月歌舞伎座の団菊の『関の扉』を回想しつつ、《ここらが明治以後における歌舞伎劇の最高潮に達した時代で、その後は強弩の末である。》と書く。その「強弩の末」を過剰なまでに意識することで、戸板康二の劇評家人生は始まった。「強弩の末」とは役者だけでなく、興行界、東京、観客の意識等々、歌舞伎の周囲のことをも指しているのだろう。

 
若き戸板康二が劇評を書き始めた1930年代はトーキーが完全普及して、レヴュウ、軽演劇、新劇もそれぞれに洗練化されて、歌舞伎は音楽、映画、新劇、少女歌劇など、多くの娯楽のなかの一つに埋没していった(いきつつあった)時期だった。また、能楽界では1930年代に盛んに学生鑑賞会をすようになっており、青年への能楽普及を図っていた。戸板康二はその恩恵を大いに受けた世代だった。

 
興行会社が団体客を頼りにし、劇場がさらに観光地化する一方で、歌舞伎は一部の人たちが「わざわざ選んで」見物するものになりつつあったのかもしれない。「わざわざ選んで」歌舞伎を愛好する人びとであるから、その自意識はかつてのように「自然に」「ごくふつうに」歌舞伎を見ていた時代とは違ったものになっていただろう。昭和7年に三田に入学し慶應歌舞伎研究会に入会して、ますます歌舞伎にのめり込んでいたはずの戸板康二が

大学生になってからは、努力して新劇を見るように一方ではしていた。第一、歌舞伎をつづけて三日も見ると、あとは、反動的に、音楽をききにゆくとか、フランス映画を見にゆくとかせずにはいられなかった。何か平衡を求める感覚があって、そうして偏った天秤の別の側に重りをのせると、初めて生活が正常に復したような気がする。こういう心持ちは現在もつづいているのである。

と、後年書いている(『劇場の青春』所収「歌舞伎と私」)。昭和7年は築地座が結成されて、前年創設のテアトル・コメディが公演を重ねていた時期でもある。新劇の洗練化を受けて、少なくとも戸板康二の周囲の「インテリ」を自認する青年たちの間では、芝居に行くということが歌舞伎を見るということと同義でなくなる時代が訪れつつあった。演劇好きを自認する人びが「歌舞伎だけ」でなく「歌舞伎も」見る人たちとなっていった時代。昭和7年に三田の学生となり、歌舞伎研究会の同輩・先輩たちの「マニア」ぶりを目の当たりにして、誰よりも「マニア」だったには違いない戸板康二は歌舞伎に深く入り込むと同時に、歌舞伎との距離の取り方をも模索するようになったのであろう。「戸板康二の形成」とは、歌舞伎との距離の取り方を模索する歳月であったと言ってもいいかもしれない。

 
1930年代は興行側・観客側の双方での「歌舞伎の現在」のはじまりだったのだと思う。何かの終わりは何かの始まりでもある。戸板康二は歌舞伎を「わざわざ選んで」見物する時代の申し子として、戦後歌舞伎の劇評家の代表的な存在となったのだった。

 

《五世尾上菊五郎三十三回忌追善延長狂言 歌舞伎座四月 第六《島鵆月白浪》市村羽左衛門の明石島蔵 中村吉右衛門の松島千太》、『演芸画報』昭和10年4月号口絵写真。

 

昭和10年4月歌舞伎座の『島鵆月白浪』を写した絵葉書。この絵葉書は上方屋ではなく東京市発行の絵葉書で「満洲國皇帝陛下東京市奉迎式餘興繪葉書」と印字されている。


五代目菊五郎追善延長興行の昭和10年4月の歌舞伎座で、黙阿弥の『島鵆月白浪』の招魂社の場が上演された。この月は、満洲国皇帝溥儀の初の日本公式訪問が実現し、祝賀ムードに包まれていた。『島鵆』が上演されたのも、五代目菊五郎に因むのはもちろんだけれど、溥儀が参拝した靖国神社そのものを観客に見せる芝居として企画されたのであろう。当の溥儀は、4月10日に歌舞伎座を訪問。この日の歌舞伎座は貸切で、満洲国皇帝のために特別プログラムが組み、『勧進帳』と『紅葉狩』を上演したのだった。

 

一方、その同月の東京劇場では、大一座の歌舞伎座を向こうにまわして、左團次一座が二部制興行。この月、真山青果の『元禄忠臣蔵』の「最後の大評定」が初演された。
・昭和9年3月歌舞伎座「大石最後の一日」
・昭和10年1月東京劇場「江戸城の刃傷」「第二の死者」
・昭和10年4月東京劇場「最後の大評定」
・昭和13年4月明治座「吉良屋敷裏門・仙台座敷上の巻」
・昭和13年11月歌舞伎座「南部坂雪の別れ」
・昭和14年2月東京劇場「仙台座敷の巻」
・昭和14年4月歌舞伎座「伏見橦木町」
・昭和15年1月東京劇場「御浜御殿」
というふうに、シリーズ上演された『元禄忠臣蔵』の3回目の上演だった。『演芸画報』昭和10年5月号で、

 今後の座組ですが、なるべく一座一党主義で進みたいと思ひます。俗にいふ豪華版の大一座も結構で、面白い芝居を御覧に入れる事も出来る替り、また一面には種々な関係上、無理な狂言を並べるため却つて無理な役を勤めると云ふ弊害も生じますので、偶にはいゝ試みとなりますが、度々繰返すのはどうかと思ひます。
 で私は、なるべく自分の一座で、一座にじつくり向くやうな脚本を選び、一致協力して有意義な芝居を御覧に入れようと思ひます。

所感を述べる左団次であった。松竹は、大一座の「豪華版」興行とともに、真山青果をさかんに上演するということを一方ではしていたのである。戸板康二は1930年代のモダン都市文化を謳歌しつつも、着実に軍国主義の足音が背後で聞こえている時代を生きる青年として青果劇をリアルタイムで見ていた世代だった。


歌舞伎座の二部制興行の2ヶ月目、昭和7年7月歌舞伎座の夜の部では、左団次一座は、真山青果の『国定忠次』を上演していた。その続篇は、歌舞伎座で華々しく九代目団十郎追遠興行で賑わっているときに、昭和7年11月の東京劇場の夜の部で上演された。のちに、戸板康二は「私見・真山青果」(『歌舞伎』昭和46年7月→『歌舞伎この百年』)に、《余談であるが、岩波文庫が昭和二十七年の秋に、青果の戯曲集を刊行する計画をたて、ぼくが編集と解説を依頼された。ぼくは『国定忠次』をぜひ入れたいと主張し、できたら「国定忠次」という題の文庫にしたいといった。(中略)「国定忠次」という岩波文庫が発行されたら、どんなに愉快であったろうと、今でも思う。》というエピソードを披露している。加賀山直三が『新歌舞伎の筋道』(木耳社、昭和42年9月20日)で吐露している、昭和7年7月初演時の二代目左団次による『国定忠次』を見たあとのナイーブな一青年としての昂揚は、予科一年の戸板康二自身の姿でもあったのだろう。



「戸板康二の形成」のはじまりを昭和7年と位置付けて、三田入学と同時に入会した慶應歌舞伎研究会のことを中心に、昭和7年の戸板康二とその周辺について思いを馳せるシリーズ。次回は、戸板康二のおそらく初の劇評が載る慶應歌舞伎研究会の機関誌『浅黄幕』第1号(昭和7年11月15日)のことと、その劇評の対象となった新歌舞伎座の青年歌舞伎について。

 

 

*1:山上貞一「大阪で死んだ守田勘弥」(『道頓堀』第7年第70集・昭和7年7月1日)には、《六月六日東劇を打上げたしうかが来阪した。三津五郎代理として簑助が来た。実兄深野氏が日曜を利用して来阪し即日帰京するのを、故人は名残り惜しげに寂しく見送つたことなどは、後にして思へば死の予感が既にあつたのであらう。/十五日に堂島川を水都祭で芸術牌を貰つた石河薫の装飾船が上つて行くのを、ベツドを釣上げさせて病室の窓から見下し、「山上さんも乗つてるのかい」と私の姿を求めてくれたといふ。》という一節がある。

*2:加賀山直三は十四代目勘弥について綴った「守田勘弥小論」(『かぶきの風景 増補新版』新読書社・昭和53年2月10日、初出は『演劇界』昭和43年2月号)にて、《父勘弥は帝劇へは中途からの加入者だったから、梅幸、幸四郎、宗十郎等の先輩より待遇の劣るのは無理もないとして、同輩の宗之助が創立時代からの人だけに、兎もすれば割を喰うことが多かった》としている。

*3:文芸座の第1回公演は大正5年6月28日から30日までの3日間、帝国劇場で林和作『悪魔の曲』と武者小路実篤作『わしも知らない』を上演。これに先立って、6月2日付「都新聞」に「文芸座起つ」の記事が出ており、《飽くまで真面目に演劇を研究しやうと林和氏が舞台監督となり市川猿之助、中村東蔵、守田勘弥が俳優代表者となり松山省三、小糸源太郎、平岡権八郎が背景係となり大谷竹次郎と田村成義を相談役とし森鴎外、島村抱月其他十数氏を顧問にして文芸座といふものが成立した[。]そして其第一回公演を六月下旬帝劇で開き林和の「悪魔の曲」と武者小路実篤の「わしも知らない」の二種を試みるが進んでは二番目ものゝ鼠小僧のやうなのでも研究的に上場する考へださうで事務所は青山原宿一六七に置いてある[。]斯うして今迄起つた此種のものに比べては最も真摯なもので他に生活を任せてゐる人達が此座の為に心配なく努力するといふ意気込は得難い[。]此座の資本であらねばならぬ》がその全文。「他十数氏」の顧問とは、同月17日付「読売新聞」の記事「新劇団文芸座生る」によると、鴎外、抱月、万太郎のほかには、吉井勇、永井荷風、長田秀雄、武者小路実篤、小山内薫、楠山正雄、木下杢太郎、森田草平。『三田文學』の古劇研究会のメンバーが集っているところが興味深いのであった。

*4:三宅周太郎『新版 演劇五十年史』(鱒書房、昭和22年7月20日)より、勘弥の新劇運動「文芸座」についての記述を抜き書きすることで、その大まかな流れを概観すると、《「文芸座」は元来勘弥と猿之助の共同で始められたもので、大正四年七月[ママ]帝劇で、林和氏作「悪魔の曲」と武者小路氏作「わしも知らない」を上演したのがその最初である。だが、猿之助はこれ一回で直ぐ文芸座と別れてしまつた。/それから三年後の大正七年十一月、勘弥、友右衛門等に舞台協会の加藤、森、横川、それに帝劇の初瀬浪子、藤間房子の加入した一座で、文芸座は久しぶりに公演をした。出し物はシエイクスピア作、林和氏改修の「ロメオとジユリエツト」、武者小路氏作「或る日の一休」などで、この内、特に「或る日の一休」は勘弥畢世の当り芸とも云はれべきものであつた。/所が、同年十二月、突然勘弥は今迄の市村座を脱退し、翌八年三月有楽座で今度は単独に文芸座の公演をした。出し物は菊池寛氏原作の「忠直卿行状記」、アンドレーエフの「人の一生」、近松原作の「女殺油地獄」であつた。/翌四月、勘弥は帝劇へ入つた。そして文芸座公演としてはその後十一月に「ハムレツト」、翌大正九年三月に吉井勇氏作「狂芸人」、武者小路氏作「二十八歳の耶蘇」、菊池寛氏作「恩讐の彼方に」、同年十月には山本有三氏作「津村教授」、中村吉蔵氏作「淀屋辰五郎」を帝劇で上演した。/右の「津村教授」に於て、勘弥はその長所で幣でもある器用に終らずに、相当に真剣な人間を現はした。が、勘弥以外の俳優は殆んど失敗で、中でも俊吾に扮した大村、辻に扮した三吉の如き全く見るに堪へないものがあつた。/さて、その後の文芸座の上演演目を挙げると、大正十年三月が帝劇で鴎外氏作「静」、武者小路氏作「或る日の事」、鴎外氏訳「ねんねえ旅籠」、同十月が帝劇で菊池寛氏作「ある兄弟」と近藤経一氏作「玄宗と楊貴妃」だつた。そして、右の内、友右衛門と勘弥により演ぜられた「ある兄弟」は完全な失敗であつた。/次に大正十一年には十月帝劇で坪内、市川氏共訳の「武器と人」と池田大伍氏作「根岸の一夜」が上演せられた。だが、この「根岸の一夜」は、同年一般大劇場で旧派の役者により演ぜられた新作物すべてで約六十の内、谷崎潤一郎氏の「お国と五平」、岡鬼太郎氏の「玄冶店後日譚」に次ぐ傑作であつた。而も、偶然とは云へ、以上三種の新しい傑作が尽く勘弥の手により演ぜられたのである。この年のみは勘弥が大当りだつた。/文芸座はその後大正十四年三月帝劇で中村吉蔵氏作「銭屋五兵衛父子」と武者小路氏作「人間万歳」上演を最後に活動を停止してしまつた。》。大正4年から14年までの約十年の活動について、中村哲郎著『歌舞伎の近代』(岩波書店、2006年6月29日)の「林和『心中両国橋』一九二四年」の項にある、《近代の歌舞伎俳優たちの新劇運動における、その提携者の役割について調べると、まず挙げられるのは二代目市川左団次・小山内薫の自由劇場だが、この勘弥と和とによる文芸座も、次位に記録されて然るべきウェートを有していよう。六代目尾上菊五郎や二代目市川猿之助など、そのほかの俳優の活動については、劇作家という協力者は登場しても、終始一貫した“同伴者”は見当たらない。従って、和が勘弥に対して、幼馴染みという関係だけでは把握できない、なにがしかの貫目を持っていたことが分かる。勘弥にしても、お定まりの歌舞伎役者のエゴイズムの次元からは飛躍した、新しい芸や未知の境界を、切実に求める時代の児だった。》、《文芸座十年間の作品年表を一瞥すると、演目における知的な選択、ひとつの公演方向のポリシーが、実にハッキリと筋が通っている見事さに驚く。菊池寛・山本有三・吉井勇・池田大伍・中村吉蔵の名作群と、シェイクスピアやショウやアンドレーエフの粒選りの翻訳劇。》、《盟友の勘弥も、芸域の広さと、芸質の柔軟性とで定評があり、勘弥が旧劇方面からの、和が新劇方面からの、それぞれが果敢な実践活動であったところに、文芸座を通しての、両者の分野を超えた宿命的結合が認められる。》のくだりがしみじみと胸にしみいり、十三代目勘弥というと、いつもまっさきに思い出すのは、この文章。

*5:真田幸治編『小村雪岱随筆集』(幻戯書房・2018年2月15日)が刊行され、雪岱自身による文章が一望できるようになり、舞台装置についての文章は演劇文献としてもたいへん貴重。「冷汗を流した長屋の立廻り(初出:「都新聞」昭和4年4月8日)で雪岱自身が、舞台装置の仕事に携わるきっかけが田村金次郎の誘いであったことを明言している。勘弥の支配人・田島金次郎(号は「断」。筆名神田謹三)は『演芸画報・人物誌』にも立項されている。三代にわたって守田勘弥に仕えた田島金次郎の一周忌に、十四代目勘弥は追悼文集『断 田島金次郎』(昭和41年3月10日)を私家版として刊行している。久保田万太郎は『オール読物』昭和15年12月号に寄せた追悼文「小村さん」に、《大正十三年……震災のあくる年である……小村さんは先代守田勘弥のために……といふよりも、おなじ根岸の住人の、岡野知十翁への義理で、はじめて舞台装置を試みた。……知十翁の息子さんの、おさん茂兵衛に取材した脚本が勘弥一座によつて公園劇場の脚光を浴びることになつたからである。》と書いている(『久保田万太郎全集 第十一巻』中央公論社・昭和43年3月25日)。万太郎の言う「知十翁の息子さんの、おさん茂兵衛に取材した脚本」は、木川恵二郎作『おさん茂兵衛 破れ暦』のことで、上演の同月に単行本化されている(帝劇再演時の昭和3年8月の再版を国立国会図書館デジタルライブラリーで閲覧可能:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094861/1。帝劇では勘弥と伊井蓉峰が共演している!)。大正13年9月公園劇場、同月17日初日の二の替わりで上演された。

*6:『演劇界増刊 昭和歌舞伎50年』(第32巻13号・昭和49年11月20日)の昭和7年の項に「昼夜二部制すすむ」。《昼夜二部制ーーこのはじまりは古い。昼夜二部制と二回芝居(三回という例もないわけではない)、この二部制の元祖は明治十八年正月の大阪朝日座で、昼が『春景色曽我舗革』夜が『花茨胡蝶廼色彩』そして翌年正月の戎座での中村鴈治郎一座……と、このシステムはやはり関西から発生しているようだ。/東京では大正十二年五月の帝国劇場がはじめてだったが、一般的には一回興行がほとんど。それが二部制が定着するきっかけとなったのは昭和七年六月の歌舞伎座からといえるようだ。第一部三時開演で『ひらかな盛衰記』『刺青奇偶』他。第二部七時十分開演で『桐一葉』『鏡獅子』他。通し切符は割引きになっていた。》とあり、その頃は3時と7時の2回興行だったが、《終戦後ははっきり十一時と四時半という、どちらも食堂の御厄介にならなければならないような時間帯として定着していった。》。

*7:慶應歌舞伎研究会で実演への機運がいよいよ高まったのは、戸板康二入学の約四半世紀のちのこと、慶應義塾百年祭の年の昭和33年。この年の代表、椎野公雄氏が《その頃の歌舞研は先輩方が営々と築いてこられた極めてアカデミックな会でしたが、私達が三年になる頃、一部から自分達でやってみたい、他校もやっている事だし先輩に許可を貰って是非やろうではないかと衆議一決したのです。》と当時を回想、会長の池田弥三郎の許可をとりつけるという最後の難題をやっとのことでクリアして、翌昭和34年の三田祭で初めての公演を実現する。と、以上は『慶應義塾大学歌舞伎研究会八十年史』(歌舞伎研究会三田会、2006年5月1日)による。《当時、団子君(猿之助)が、歌舞研ではないけれど二年在学中だったので、特別出演して貰ってはと交渉したところ、「出来ない」とのことで、…》と、現猿翁に断られたという記述があるが、いくらなんでもこれは当然であろう。ちなみに、昭和31年に代表を務めていた渡辺保氏の時代は脚本朗読すら行っておらず、《専ら研究熱心で、総見・合評会は毎月続けていた。》という、とにかく「極めてアカデミックな会」だった。慶應の歌舞研で実演の機運が熟したのは、学生歌舞伎が各大学で盛んになっていたことからの当然の流れだったようである。しかし、その一方で、『早稲田大学歌舞伎研究会六十年誌』(早稲田大学歌舞伎研究会六十年誌編集委員会、2007年2月24日)を閲すると、「早稲田大学歌舞伎を研究会OB会会長」の児玉隆昭氏(昭和27年卒業)は《私は昭和二十二年に早稲田へ入学したと同時に歌舞研へ入会しました。当時、日大や慶応で学生歌舞伎をやっていたので私達も当然と準備していたが、河竹繁俊先生の一喝により中止を余儀なくされ、その反動で長唄部、清元部、朗読部等をつくり……》(前述のとおり、正確には慶應の歌舞伎研究会が歌舞伎の実演を始めたのは「河竹繁俊先生の一喝」の十年以上の昭和34年のこと。)と証言、「歌舞伎研究会前会長」の古井戸秀夫氏は《安易に歌舞伎に慣れ親しむのではなく、大学で学ぶ学徒としての使命を持つ。早稲田の歌舞伎研究会には、他の大学の歌舞伎研究会とは違う、そのような矜持があったのではないでしょうか》と綴っておられるのであった。

*8:戸板康二自身は「演劇書のこと」(『学鐙』昭和46年5月号→『午後六時十五分』)で、演劇書との出会いについて、《予科一年のころ、「(五代目)尾上菊五郎自伝」と「梅の下風」を、たしかに持っていたと思う。愛読措かなかった二冊である。》、《青展と俗にいわれた青山会館の古書展や、銀座の露店の奥村、三田の清水、麻布の元禄堂、日暮里の山中、神楽坂の小川というのが、近年でいう神田の古賀(のちに豊田)や新宿の西田に見合うような演劇書の漁場で、「舞台観察手引草」「近松之研究」「明治座物語」「義太夫秘訣」「演劇美論」「旧劇と新劇」などは、そういう会場もしくは店で見つけ、こおどりして買った思い出が、一冊一冊についてある。》、《新しく本が出て、それを三田の丸善か、銀座の近藤で買ったというものでは、昭和八年の「明治演劇史」、十年の「歌右衛門自伝」「ランプの下にて」、十一年の「名優芸談」、十二年の「花影流水」「団菊以後」「三角の雪」「灰皿の煙」などがある》というふうに回想している。予科一年のときにすでに持っていたという『尾上菊五郎自伝』については、『演芸画報・人物誌』の「伊坂梅雪」の項で、《菊五郎の二十七回忌に当る昭和四年二月に、先進社から、大正期の「帝劇」という雑誌に同じ梅雪が二十三回にわたって連載した「梅の薫り」を併せて再版された。当時中学生のぼくが、この本を読みふけった日の喜びを今でも思い出す。》と記しているのが非常に印象的。

*9:「本科に行ってから」歌舞伎研究会を退会したと回想している戸板康二であるが、歌舞伎研究会の機関誌『三田歌舞伎研究』第4号(昭和11年の1月10日発行)に編集後記を執筆しているので、少なくとも昭和11年1月の時点では在籍していたらしい。退会したと明言しつつも、卒業後はOBとして歌舞伎研究会とは少なからぬ関わりを持っていたことは『八十年史』にしばしば記録されている。たとえば、昭和21年、歌舞伎研究会の会長が高橋誠一郎から折口信夫に交代した年、毎日ホールで「稲瀬川勢揃い」の朗読をした際、戸板康二が毎日稽古におとずれ、川尻清潭のところにも教わりに行った旨記録されている。後年、「学生が歌舞伎を公演するのは以前から反対だ」と言って原稿を拒否したというエピソードを昭和41年の代表が語っている一方で、昭和53年の公演プログラムに戸板康二は寄稿しており、平成5年(1993)の「OB通信」にその戸板康二の自筆原稿が掲載。さらに、歌舞伎研究会は1993年7月22日に、文春と共催で「偲ぶ会」を交詢社で開催、《ビデオで故人の映像を偲び、永山松竹会長、河竹登志夫、小沢昭一、岡本文弥、金子信雄ら十六名が次々に壇上で語った。参会八十九名の内、歌舞研は会員全員三百八十五名に案内を出したが、出席は二十七名、学生は四名だった。》とある。「歌舞研」関係者の戸板康二への無関心ぶりが窺えるような気がするのは、たぶん気のせい……。

*10:『思い出す顔』所収「同学の先人今人」では、《三田通りを東にはいったところにあるカプリスといって、クラシックをいつも電蓄で聞かせている喫茶店で、一時間以上も、とりとめもないおしゃべりをするくらいの小づかいが、なかったわけではない。/このカプリスがのちに、数寄屋橋のいまソニービルのある四つ角の二階に分店を作ったのにも、よく行った。店主夫妻とその妹が働いている店だった。》というふうに回想されている。

*11:執筆者を列挙してゆくと、昭和7年1月から3月まで池田大伍、次いで4月は小宮豊隆、菊池寛(5月)、荒畑寒村(6月)、里見弴[とん](7月)、本間久雄(8月)、水木京太(9月)、関口次郎(10月)、鏑木清方(11月)、有馬生馬(12月)。昭和8年は、正宗白鳥(1月)、岡本一平(2月)、福地信世(3月)、辰野隆(4月)、石割松太郎(5月)、谷川徹三(6月)、高橋誠一郎(7月)、柳沢健(8月)、徳田秋声(9月)、高浜虚子(10月)、下村海南(11月)、三宅正太郎(12月)。昭和9年は、森田草平(1月)、倉田百三(2月)、前田多門(3月)、長谷川時雨(4月)、鏑木清方(5月)、村山知義(6月)、大田黒元雄(7月)、中戸川吉二(8月)、正宗白鳥(10月)、木村荘八(11月)、登張竹風(12月)。昭和10年は、鶴見祐輔(1月)、松根東洋城(2月)、小島政二郎(3月)、小宮豊隆(4月)、山田耕筰(5月)、吉井勇(6月)、岩田豊雄(7月)、番匠谷英一(8月)、安部能成(9月)、辻二郎(10月)、石割松太郎(11月と12月)。昭和11年は、大佛次郎(1月)、岡本一平(2月)、鏑木清方(3月)、水木京太(4月)、藤田嗣治(5月)、島津久基(6月)、楠山正雄(7月)、伊庭孝(8月)、関口次郎(9月)、小島政二郎(10月)、鏑木清方(11月)、佐々木孝丸(12月)。昭和12年は、里見弴[とん](1月)、三好十郎(3月)、小宮豊隆(4月)、水木京太(6月)、木村荘八(7月)、水木京太(9月)、関口次郎(10月)、楠山正雄(11月)、佐々木孝丸(12月)。昭和13年は、鏑木清方(1月)、飯塚友一郎(2月)、関口次郎(3月)、岩田豊雄(4月)、楠山正雄(5月)、水木京太(6月)、番匠谷英一(7月)、佐々木孝丸(8月)、関口次郎(9月)、楠山正雄(10月以降)。

*12:当時の証言の例として二例。昭和7年、六代目菊五郎は「現代の観客をどうお考へですか?」という問いに対して、《昔と比べて大変に騒々しくなつてきたと思ひますね。第一昔のお客がやんやん云つた所は定まつていゝ所でした。所がかう申しちや何ですが、今の観客はいゝ所、悪い所のけじめなく、やたらにやんやん怒鳴るので役者とちや大変に迷惑ですよ。それに昔の見物は例へば音羽屋をトワヤと聞えるやうに短かく急所をついて言ひましたが今の見物はいやに長く大の字をつけて、大播磨とか大成駒とかどなります。大の字をつけるたがるのは大阪流といひませうか、それが劇場表にまで出て三座合同大歌舞伎とか何とか大仰にやりだしましたよ。団十郎や親父の時分にはそんな事は決してありませんでしたよ。》というふうに応えている(北村律夫「尾上菊五郎氏にきく」、『演劇』昭和7年5月号)。昭和9年には、三村竹清が日記に、《歌ふき座之田中氏之話に 此節之人は旧劇之台詞か 何を言つてゐるのかわからによし 坪内博士之桐一葉之名文句といはるゝ我名に因む庭前の 梧桐一葉云々なといひても 見物はポカンとしてゐるよし 金色夜叉 不如帰之やうなものても 服装風俗とも皆今風にせぬは承知せす 詞もアナタ許して頂戴ョなとゝいふと見物ドツト吹き出してしまふといふ》と書き残している(「不秋草堂日歴(二十六)」昭和9年10月26日、『演劇研究』第41号・2018年3月16日)。