正午、古書展で『テアトル・コメディ』を買う。長岡輝子を読んで「1930年代東京」と龍岡晋をおもう。


2年前から毎年12月23日は「正午 古書会館」、というわけで、今年で三回目の開催となる古書展に馳せ参じるべく、正午神保町。このところ人生何度目かの三宅周太郎ブームの渦中にいるので、無理やり三宅関連文献ということで、未所持の中戸川吉二の本が売っていたらまたもやうっかり買ってしまいそうだ、しかし中戸川吉二となると1万や2万では済まない、ハテどうしたらよかろうなアと、とりあえず札束を握りしめて、会場に足を踏み入れたのだったけれども、幸いなことに中戸川を発見することはなく、中戸川吉二の分のお金が浮いたおかげで気持ちに余裕ができて、心穏やかに棚を眺めてはポンポンと機嫌よく本を手に取ってゆき、お会計は1万や2万で済んで、めでたしめでたし、だった。

 

と、嬉しい本を何冊も買ったうち、特に嬉しかったのは、

『テアトル・コメディ』9号(第2巻第3号・昭和9年6月発行)。と、このところ、なんとはなしにテアトル・コメディを強化していて、つい先日も、演博の図書室で機関誌を閲覧していたばかりだったから、初めて本誌を入手して、大よろこびだった。目次は、渡辺一夫「巴里で観た『ランデイヂアン』」、金杉淳郎「ツウサンを演るに際して」、山本修二「『ウヰイク・エンドの見方』」、中川龍一「ノエル・カワアド断想」、菅原卓「濠気」、原奎一郎「カワアド劇の人物」、山辺道夫「仏蘭西に於る『ウヰイク・エンド』其他」、番匠谷英一「思ったままを」、徳田戯二「『愉しき人生』を喝采する」、深井史郎「私信」、太田咲太郎「最近の仏蘭西劇壇より」、G.-J.Geller 「サラ・ベルナアル伝(八)」。渡辺一夫が誌面に登場しているのは、編集担当の山辺道夫が東大仏文科の教え子だった縁によるものだと思われる(串田孫一の「冬夏」における渡辺一夫とまったくおなじパターン)。彼はのちに戦死したとのこと(『対談日本新劇史』)。



というわけで、ついでに、過日にテアトル・コメディ文献として手にとった、長岡輝子著『ふたりの夫からの贈りもの』(草思社、1988年4月15日)メモを。

●昭和6年2月10日、金杉惇郎、長岡輝子らによってテアトル・コメディ結成、その第1回公演は仁寿講堂にて上演。《この講堂に目をつけたのは金杉惇郎で、慶応の野球部のピッチャーをしていた吉沢英弥さんの父君が仁寿生命の専務だった関係で便宜をはかってくださった。(p14)》
●金杉惇郎と長岡輝子の結婚式は昭和7年5月21日、東京會舘にて。金杉家からの仲人が今村信吉夫妻だと知り「おっ」だった。串田孫一の叔父さんで戸板さんも目をかけてもらっていて、串田孫一主宰の同人誌「冬夏」の出資者でもあった今村信吉は東宝の重役。江東楽天地の社長をしていた。
●テアトル・コメディ2年目の昭和7年秋から冬にかけての挿話、《そのころコロムビアの文芸部に勤めていた高見順が訪ねて来たことがあった。高見順のそのとき交際していた彼女も新劇女優だったが、彼は芝居のなかに広告を入れて広告料をとる広告演劇を思いつき、やる気があれば一緒にやろうと言って来たのだ。もちろんその話はそれきりに終わったが、高見順も当時はいろいろと迷っていたのだと思う。(p52)》というくだりは、戦前広告文献ないしは「1930年東京」文献として極私的に要注目だった。
●広告文献ないしは「1930年代東京」文献といえば、《当時のテアトル・コメディのプログラムを見ると、「ヤング軒」という床屋さんの広告がある。この店は数寄屋橋の角に大きな店をかまえていて、公演のたびに大きな広告を出してくれ、男優も女優も役柄に合った髪型にカットしてくれるのだった。(中略)この「ヤング軒」のほかに、フランス菓子を売っていた「コロンバン」の初代のご夫妻もテアトル・コメディのよき応援者だった。まだ今日ほどフランス熱のなかった東京では、お菓子屋さんにとってもフランスのコメディばかりとりあげている私たちは手を握りたい仲間だったのかもしれない。初日や千秋楽にはいつも大きなお菓子を届けてくれた。テアトル・コメディの仲間がよく行く店は「コロンバン」のほかに草野心平の弟さんがやっていた「ラテン・クォーター」とか、紀伊国屋の二階にあった「文化学院クラブ」などがあり、新宿では「中村屋」の居心地がよかった。(p62)》のくだりも胸が躍りまくり!
●さらに「1930年東京」メモとして。《テアトル・コメディの稽古場を昭和六十二年まで銀座の並木通りにあった三喜ビルの二階に定着させたのはこのビルができて間もない昭和八年だったと思う。(p67)》。稽古場は文化学院の地下室、赤坂の石黒邸、麻布の加藤子爵邸、有島武郎邸を転々。最終的には、金杉の慶應仏文の同級生の前川篤二郎(「銀座プレイガイド」の次男坊)が見つけてきた三喜ビルに落ち着いた。このビル(戸板康二『対談日本新劇史』の長岡輝子の巻には「三ツ喜ビル」と表記)の所有者の喜多氏は仲田定之助の友人。1階には世に出たばかりの川上澄生の版画が飾られていて、2階の稽古場の隣りは伊藤熹朔の「六人会」の事務所、3階は林和の演劇研究所と浜田増浩の商業美術学校(アトリヱ社の「商業美術全集」)があり、のちにこの学校を引き継いで川喜田煉七郎が造形教育学校を始めた。
●金杉惇郎は昭和12年10月25日没(享年28歳)。遺稿集の『四季の劇場』(沙羅書店、昭和12年12月)はテアトル・コメディの結成から解散まで一貫して文芸部に在籍していた太田咲太郎が編集。装幀は、長岡輝子が巴里に行く船中で知り合った益田義信によるもの。
●長岡輝子は文化学院卒業後の、昭和3年5月にパリに留学。帰国後、神田の三省堂で中学時代からの友人金杉惇郎にバッタリ会ったことが、テアトル・コメディ誕生のきっかけとなった。昭和11年の解散まで、全28回公演。解散後、金杉惇郎はムーラン・ルージュに転ずるも、翌年他界。友田恭助戦死も昭和12年なのだった。


『建築の東京』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より「仁寿生命ビル」(関根要太郎・清水組、竹中工務店・昭4)。戸板さんは、『対談日本新劇史』の長岡輝子の巻で、《仁寿講堂は廊下の柱の周りに腰掛があって、あれがいかにもテアトル・コメディって感じがした。サロンの感じがあってね。》というふうに回想している。館内の写真を鋭意探索したい! と思ったとたんに、慶應マンドリンクラブのサイト(http://fweb.midi.co.jp/~kmc/history/index.html)にて見事な資料を発見、インターネットってすばらしい! → http://fweb.midi.co.jp/~kmc/history/feature/hall_jinjukodo.html

 


今回入手の「テアトル・コメディ」にはヤング軒の広告はなかったので、その代わりに、『演劇新派』昭和13年5月号に掲載の「理髪ヤング軒」の広告(銀座スキヤ橋際タイカクビル一階)。1930年代の数寄屋橋というと、同時代の十返肇らが行きつけにしていて、三田に支店のあった喫茶店「カプリス」をいつもまっさきに思い出す。

 

長岡輝子著『ふたりの夫からの贈りもの』は、そのタイトルにひるんでしまって手にとることなく月日が流れていたのだったけど、いざ読んでみたら、テアトル・コメディ文献である以上に、戦前広告文献ないしは絶好の「1930年代東京」文献であった。野口冨士男もファンだったテアトル・コメディ、慶應文科と文化学院が連合したテアトル・コメディはいかにも「野口冨士男」だ。と、それはさておき、かねてより執心しているムーラン・ルージュ、P.C.L. 映画をとりまくあれこれ、初期文学座といったものが体現するところの「1930年代東京」をさらにメラメラと追究したくなってくる、嬉しい本だった。



とびきりの「1930年代東京」文献としてランランとページを繰った長岡輝子著『ふたりの夫からの贈り物』は終盤になると、とびきりの「龍岡晋」文献となるのだから、もうたまらないのだった。ああ、なぜもっと早く読んでいなかったのだろう! 以下、龍岡晋メモ。

●昭和38年1月の文学座の座員大量脱退に際して、文学座は株式組織になっていたので、半数以上の持株が脱退側に持ち去られる。龍岡晋が600万円を工面して買い戻す。《彼はそれを表情ひとつ変えずに実行し、その大変な苦労を一言ももらさない古武士のような人だった。(p271)》
●昭和55年9月銀座みゆき館劇場にて、長岡輝子の会として「久保田万太郎――言葉の美学」が上演。朗読三本と一幕劇。「わかれ」長岡輝子、「おみち」を登場人物を分けて読む。「あしかび」「猫の目」を龍岡が朗読。一幕劇「月夜」を龍岡が厳しい稽古をつける。《今は亡き龍岡さんを偲ぶとき、もう一度でいいから、ああいう厳しさに耐えてみたいというのが、そのときの出演者の感慨……(p319)》
●《昭和六十二年八月、文学座は創立五十周年記念公演に久保田先生の作品を、戌井市郎さんの演出で「弥太五郎源七」を、加藤武さんの演出で「ふりだした雪」を上演したが、久保田先生と龍岡さんのめぐりあいは、文学座に残された大きな財産ではなかったかと思う。そして私にとっては三人の幹事の先生方よりも大事な人となった。もし龍岡さんの演出と朗読に接しなかったら、私は生涯、久保田万太郎の真価を知らずに終っただろう。(p320)》

かようにも長岡輝子は、龍岡晋ファン大喜びのことを書いてくれているのだった。と、読んでいてジーンと涙が出るほど嬉しかった。


龍岡晋『切山椒 附 久保田万太郎作品用語解』(慶應義塾三田文学ライブラリー発行非売品、昭和61年7月15日)。後記を戸板康二が執筆。毎年3月恒例の「みつわ会」による久保田万太郎作品の上演、次回の第20回公演では、『水のおもて』(初出:「三田文学」大正2年3月)と『燈下』(初演:「中央公論」昭和2年4月)を上演する由。この上演にそなえて、毎年2月はいつも久保田万太郎にどっぷりとのめりこんでいる。もうすぐ万太郎の日々がやってくると思うと、お正月が終わるのもまた愉し、なのだった。