昼下がり、埼玉県立近代美術館の小村雪岱展へゆく。


 午後1時、もう十分買い物をしたというのに、後ろ髪を引かれる思いで古書展会場を出て、休日の午後の青い空の下、いい気分でちょいと散歩をする。小川町から淡路町に向って歩いて左折、万世橋付近で遅い昼食のあと、秋葉原から京浜東北線で北浦和へ。買ったばかりの竹内勝太郎『定本詩集 明日』を繰っているうちに、北浦和に到着。埼玉県立近代美術館にて開催の、《小村雪岱とその時代》を見物する。

 埼玉県立近代美術館に初めて訪れたのは2003年の春先、常設展示の一角で開催の「小村雪岱の世界」コーナーが目当てだった。以来、春先に開催の常設の雪岱特集を訪れるのが毎年の恒例になった。埼玉県立近代美術館における今回の雪岱展は、これまで数年にわたって催されていた常設での雪岱展示の集大成というおもむきで、この日が来るのをまちかねていたのだーと、大興奮して展示室へ……と言いたいところであったが、ここ数年来、自分のなかでかなりつきつめて雪岱を見てきたので、もうあらましわかったかな、という気にもなっていた。ただ単純に雪岱の作品、日本画、版画、装幀、図案における眼の歓びを満喫できればそれでいいかなという気もしないではないけれども、しかし、やはりそれだけでは物足りない、不遜にも「わたしを驚かせてみたまえ」的な心境になって、展示室へ。

 で、展示会場を練り歩いてみると、もちろん悪かろうはずはない、雪岱そのものはたいへんすばらしいのだけれども、展覧会そのものはどうも「既知との遭遇」の域を出ず、ちょっとばかし残念。先月に宇都宮美術館で見た杉浦非水展がすばらしすぎて、つい比較してしまって展覧会的にちょっとかすんでしまったのかも。もちろん、なにしろ雪岱なのだから、眼の歓びを満喫という点で申し分ないのだけれども、展覧会の設計という点ではやや物足りない感があった。

 なにかあっと驚く稀覯本の展示でもあれば嬉しかった。たとえば明治製菓宣伝部勤務の戸板康二が編集にあたったという、昭和15年に復刊の「春泥」(昭和15年6月に復刊)の最終号となった第4号の雪岱追悼号を見たかった! 昭和5年3月に創刊の「春泥」は昭和12年に大場白水郎の「春蘭」に合併されたことでその名前が一度は消えている。今回の雪岱展では、その第一次とも言うべき、雪岱の表紙による「春泥」、ならびに「スヰート」の展示コーナーが極私的よろこびの頂点だったかも(しかし、「春泥」の展示に添えられた「いとう句会の機関誌」という解説は厳密には正確でない)。

 手持ちの「春泥」より、第4号(昭和5年6月発行)。岡田八千代「フランスへ」(日記ぬき書き)に、竣工直後の甲子園ホテルに投宿するくだりがある。

 毎号のように広告のある、人形町の「愛信堂」。いかにも雪岱のカットで、余白が絶妙な活字の配置。

 全体的には物足りない気もしつつも、ピンポイント的にはいくつか「おっ」ということがあって、特に、雪岱の団扇がわかもと製薬によって頒布された、というくだりは戦前広告ばなしとして「おっ」だった。かねてより「わかもと」の広告には注目していたのだけれども、今後も鋭意注目せねばと思った。「婦人之友」の表紙原画もすばらしかった。いつか野間記念館で見た「キング」昭和6年新年号附録の『明治大正昭和大絵巻』の原画ももう一度見たい! と急に過去の展覧会の追憶にひたるのだった。

 そして、最後のあたりの舞台装置のコーナーで、急にジーンとなる。たとえば戸板康二が愛着たっぷりに回想している真山青果の『国定忠次』(昭和7年7月)も舞台装置は雪岱だったんだなあというようなことを思っているうちに、若き戸板康二が見ていた芝居のことで頭がいっぱいになって、そうだ、そもそもわたしが雪岱の名を知ったのは、奥村書店で買った「演芸画報」がきっかけだったと、そんな雪岱を初めて知った頃の原点に帰りたいという気になって、それまでの不遜な気持ちから一変。テレビ画面には、十二代目仁左衛門襲名興行の歌舞伎座の外観やら東京劇場の外観やらの映像がリピートされていて、ますます気持ちが盛り上がり、何度も同じ映像を見ながら、雪岱の展示を見直したりして、ずいぶん長居。映像では、楽屋で与三郎のこしらえをしている羽左衛門が姿があり、煙草の煙をプーッと吹き出すところが、なんとまあ男前であることよ(詠嘆)、であった。『桐一葉』(だったかな)の花道の羽左衛門の映像もあり、あ、このフィルム、演劇博物館で五代目歌右衛門展が開催されたときに観た映像かもと思い出した(記憶違いかもしれない)。

 と、戦前昭和までの演劇のことで頭がいっぱいになったところで、「プレイガイド」が何種類か展示されてあるのに遭遇して、ますます気持ちが盛り上がった。正午の古書展で「テアトル・コメディ」の機関誌を買ったばかりというタイミングで目にしたこともあって、思いがけない嬉しい展示だった。モダン都市東京の演劇界ないしはホールといった近代建築を一望するかのような「プレイガイド」が大好きなのだった。わたしが「プレイガイド」のことを初めて知ったのは、戸板康二の『思い出の劇場』の「市村座」の項の、《当時、座席券は、銀座のプレイガイドに買いに行った。その月の興行案内が正方形の紙に印刷され、鼓の形で放射状にレイアウトされていたのが、なつかしい。》のくだりがきっかけだったかと思う。

 手持ちの「プレイガイド」より、昭和4年11月号。手元のスキャナでは全面はスキャンできないので、一部だけ。タイムマシンがあったら行きたいのは、わたしは帝劇の合邦かな。