初芝居は歌舞伎座夜の部。『車引』に大興奮する。


 正午前、外出。近所のお寺で手抜きの初詣、例年どおりに家内安全無病息災商売繁盛を祈願したあと、銀座線に乗り換えて田原町で下車。階段途中の焼きそばの匂いはお正月も健在だ。ドトールで昼食後、人混みを避けて裏道を歩いて、花川戸の松屋に向かう。本日の古本市は特にどうということはなかったけれども、特にどうということもない安い本をポンポンと適当に買う、というのも結構たのしいものなのだった。と、ふたたび田原町に向かって歩いて、気分がのって、稲荷町を歩いて、下谷神社を横目にやがて上野広小路に出る。ここで銀座線に乗って、思いついて京橋で下車。歌舞伎座夜の部の開演までまだまだ時間はたっぷり、買ったばかりの本をのんびり繰って、ひと休み。八木義徳の解説目当てで買った和田芳恵『暗い流れ』(集英社文庫)をペラペラと読み返したりしているうちに午後4時過ぎとなり、京橋から東銀座に向かって競歩して、無事に時間前に劇場の椅子にたどりついた。入場早々に雀右衛門の休演を知る。正直ちょっと安心する。

 と、2年ぶりに初日の歌舞伎座に居合わせて、それだけでハイ。そして、『車引』がはじまったとたん、大興奮。ああもう、奮発して1階席を買って本当によかった! と嬉しくってたまらなかった。芝翫の桜丸に吉右衛門の梅王丸、松王丸は幸四郎、時平が富十郎というあっと驚く顔ぶれで、上演を知ったときから大喜びだったけれども、その大喜びが実際に舞台が始まってみると、さらなる大喜びに。芝翫の桜丸もたまらなかったけれども、なんといっても梅王丸の「荒事」のひとつひとつがクーッと眼の歓びだった。「見得」というものがこんなに面白いなんて、花道の六方というものがこんなにすばらしいなんて、歌舞伎の歓びの根幹に五感で堪能というかなんというか、なんだかもう、とにかくも吉右衛門の梅王丸をここまで無心に堪能できて、嬉しかった。……と、『車引』に興奮しすぎたせいか、『車引』と同じくらいたのしみだった勘三郎の『娘道成寺』はわりと淡々と眺めるのに終始してしまい、残念であった。勘三郎襲名のときの『娘道成寺』では、びっくりするくらいクイクイと舞台にひきつけられて、吸い込まれそうな感じだった。あのときの興奮よ再び、という感じで、奮発して1階席を買ったのだけれども、うーむ、どうも見物にムラがありすぎるのがあいかわらずの悩みどころ。

 最後は、染五郎と福助で『源氏店』。『源氏店』は以前は仁左衛門と玉三郎といった舞台をそれなりにたのしんでいたものだったけれども、このところはどうもダレるというかなんというか、どうもあまりノレないものがあるのだった。しかしセリフを聞いているうちに、歌右衛門のお富の音源を聴きたくなり、帰宅後、昭和38年1月歌舞伎座の音源、与三郎が十一代目団十郎、お富が歌右衛門で蝙蝠安が勘三郎のディスクを何年ぶりかで聞いた。歌右衛門のどこか妖怪じみたセリフまわしがたまらない。

 それから、歌舞伎座でぼんやりと源氏店を見ているうちに、サーワ白粉のことを思い出して、戦前の小間物業界に凝っている身にとっては、それだけでもちょっと嬉しいのだった。

 松竹は戦争前まで某化粧品店と関係が深く、この白粉の所で、俳優の口から、宣伝させていた。梅幸は、ああいう人だから、唐突に現代の製品の名をいうことは、あまり気が進まなかったのだろう。「ご新造、その白粉は何で御座いますか?」「これはあの、サワですよ」と、きわめて、わかりにくく、彼は発音していた。

と、これは『歌舞伎ダイジェスト』の「切られ与三」の一節。このくだりがなんだか好きだ。

 そんなことをしているうちに、唐突に、五代目菊五郎の明治24年の「風船乗」において風船から時事新報の広告が撒かれたことを思い出して、註釈を確認すべく岩波の新大系の『河竹黙阿弥集』をこれまたひさしぶりに取り出す。神山彰さんの脚注が絶品なのだった。と、ひさしぶりに拾い読みしてみたら、時事新報とともに平尾賛平商店の広告も登場するではありませんか!

日本橋馬喰町の平尾賛平商店の商品。同社は明治期に「小町水」「レート白粉」「東京役者似顔はみがき」などで著名。黙阿弥とも親しく、引札を書いた他、作中での広告を依頼した書簡が残る。初演の年ダイアモンド歯磨を売り出した(『平尾賛平商店五十年史』昭和四年)。

と脚注にあったので、とりあえずメモ。今年も明治大正戦前昭和の小間物業界からはますます目が離せないのであった。


 たとえ芝居見物は散漫に終わろうとも、劇場から帰ればいつだってあれこれ本を繰って宵っ張りになる。

『父三津五郎』口絵の、劉生絵日記。大正11年6月22日新富座。