『銀座解剖図』を繰って、波多海蔵と池田金太郎に思いを馳せる。


 今年の冬休みは一週間にも満たないとは殺生な……と先月ブツクサ言っていたものの、いざ明けてみると、いつもの日常生活がはじまるのが嬉しい、というわけで、機嫌よくイソイソと外出。いつもの喫茶店に早々にたどりついてみると、いつもよりもだいぶ閑散としている。

 図書館への返却期限が迫っている『日本近代庶民生活誌』第2巻「盛り場・裏町」(三一書房、1984年11月)を拾い読みする。ここに翻刻の石角春之助『銀座解剖図 第一篇 変遷史』(丸之内出版社、昭和9年刊)をなんとはなしに読みふけっていたら、第2章の「明治三十年頃の銀座」の、「明治三十年頃の銀座裏」の項に、《南佐柄木町には、ライオンと花王散で盛んに宣伝をやっていた波多海蔵商店があり……》という一節に「おっ」となったので、メモ。

 三田の折口信夫門下の池田弥三郎や戸板康二の先輩だった波多郁太郎の父君、波多海蔵は日本舞踊協会の会長で松竹およびミツワ石鹸の重役であったが、明治30年頃は「波多海蔵商店」の主だったのだ。そのあとのページには、明治末から大正にかけての肉食の普及時代はすなわち天ぷらの流行時代だった、《殊に天金が、服部時計店と、絶えず喧嘩をしていた頃は、その中でも最も華やかなる時で……》というふうに、池田弥三郎の実家の天金が登場している。


 「ひと」第12号(天鈞居発行、昭和11年3月20日)。池田弥三郎が出していた個人誌「ひと」は昭和9年2月に第1号発行、昭和12年4月発行の第17号まで発刊。実家の天金の PR 誌という体裁で、主人の「天鈞居」すなわち池田金太郎が発行人としてクレジットされているけれども、内容についてはのちに池田が「三田国文科の手習い草紙」と称しているとおり、かなり学究的。戸板康二も何度か寄稿している。

 この号の口絵には、淡島椿岳の《雛》が紹介されている。「天鈞居主人」すなわち池田金太郎による『口絵雑談』に、

雛の図は、淡島椿岳翁の筆であります。古今雛、吉野雛、奈良雛、薩摩の糸巻雛、享保雛、菜の花雛、其他の二十余種の雛が、漫然と画いてあります。しかしこれは、椿岳一流の着彩が面白いのですが、写真版では只面影を伝えるだけにとどまりますが、三月に因んで載せました。

と書かれてある。池田金太郎は淡島椿岳の大コレクターで、その蒐集ぶりに関しては、内田魯庵の「淡島椿岳」(大正14年)にて詳述されているのだった(岩波文庫の『新編 思い出す人々』所収)。


 三田の折口門下の秀才の父君、波多海蔵と池田金太郎に関しては、昭和21年11月28日、折口信夫が『苦楽』に依頼された羽左衛門論のため、故人をよく知る遠藤為春、波多海蔵、池田金太郎より話を聞こうと言い、新富町の池田家に集った記録がある。戸板、池田弥三郎、小野英一、伊馬春部も同席し、このときの筆記はのち『芸能』昭和39年4・5月号に掲載。翌22年3月13日は交詢社にて、遠藤為春、波多海蔵、池田金太郎、小野春吉を招いて、明治の名優の話を聴く会が催され、戸板さんが司会をつとめ、この会の速記は、のち『芸能』昭和39年10・11月号に掲載されている。と、ついでにメモ。

 折口信夫「市村羽左衛門論」掲載の『苦楽』は昭和22年3月発行。表紙は清方《弥生》。前号の2月号に「市村羽左衛門論序説」が掲載され、二編を合わせて一本の『市村羽左衛門論』として、『かぶき讃』(創元社、昭和28年2月20日)に収録された。敗戦早々の昭和20年11月発行の『日本演劇』に初めて折口の原稿をのせて得意満面だった日本演劇社の戸板さん、折口の原稿を『苦楽』にとられて悔しがったという挿話がなんだか好きだ。

 折口の『市村羽左衛門論』の結びの一節、

参考に出した挿絵は彼の二度目の舞台、千本桜椎の実の場の「権太倅善太」の姿である。(安部豊氏作)其手にしたのは、賽をいれて伏せるあの所謂壺皿にあたる笊である。少々品はわるくなるが、彼一生、此からいずれに向かおうとするのか。愈賽は投げられようとしているところである。

が示す挿絵は、初刊の『かぶき讃』では省かれているけれども、全集には掲載されている。