神奈川近代文学館で長谷川時雨展を見物する。大阪ブラジレイロの『前線』をおもう。


 日曜日のあとにもう一日休日が続くのが嬉しいなアと、しごく素朴な歓びにひたりながら、イソイソと身支度してソソクサと外出。秋葉原で京浜東北線に乗り換えて横浜方面へと向かう。この電車ではいつも車窓の京浜工業地帯(らしきもの)を眺めるのがそこはかとなくたのしいのだけれども、今日は電車が多摩川を渡る前にいつのまにか寝入ってしまっていて、もったいないことをしてしまった。鶴見の森永製菓の工場のエンゼルマークを見逃してしまい、無念なり。目を覚ますと電車は関内に停車中、おっと危ないところであったと次の石川町で下車してほっと胸をなでおろす。

 元町商店街をズンズンと歩いて、急な坂道をゼエゼエとのぼって、海の見える丘公園へ。その途上、千恵蔵主演の『アマゾン無宿 世紀の大魔王』のことを思い出して、ひとりでニヤニヤ(南米帰りの千恵蔵が上陸していたのが外人墓地のあたりだったので)。以前はここを通るたびに思い出していたのは清水宏の『港の日本娘』であったが、このごろは『アマゾン無宿』の方を思い出してしまうのだった(どうでもいいが)。

 さてさて、最終日にあわてて駆けつけることになってしまったけれども、なにはともあれ無事に、神奈川県立近代文学館の長谷川時雨展に見ることができて、本当によかった。「かなぶん」は去年夏の茂田井武展もすばらしかったけれども、今回の長谷川時雨展もたいそうすばらしかった。長谷川時雨の生涯とともに明治大正戦前昭和をたどるという展覧会、そこに彩られるコクたっぷりの豊富な資料が眼福だった。漠然とした情緒とか感覚といったもので雰囲気を出すのではなくて、きちんと資料に裏づけされていることのすばらしさ! ということを、ヒシヒシと感じて、心が洗われた思いだった。

 明治12(1879)年生まれの長谷川時雨は荷風や正宗白鳥と同年で、小山内薫より2歳上。私的な趣味としては、まずは戸板康二『演芸画報・人物誌』的なことに注目。明治44年2月の『さくら吹雪』、田村成義が菊五郎の実力を評価し出したのこはこの頃だったという戸板康二の『六代目菊五郎』の記述を思い出して、大正劇壇への思いがますます燃えてくるのだった。しかし、長谷川時雨での一番の眼目は「女人芸術」かなアと、高見順の『昭和文学盛衰史』における「全女性進出行進曲」的なことをもっと追究したい気にもなってくる。それから、あまり語られない岡田八千代のことを自分のなかでちょっと本気で追ってみたい気になった。……などと、書ききれないくらいなにかと刺激的な展覧会だった。図録がないのが唯一残念。

 三上於菟吉がいかに書いて書いて書きまくって稼ぎまくったかといことを示す資料として、『文藝春秋』大正14年7月号に掲載の「文壇名物多少大小番附」なる記事が紹介されていた。ここの「大関」の「大の部」に「三上於菟吉の稼ぐ枚数」の記載があることが紹介されていたのだけれども、わたしの眼は、「小の部」の「前頭」の「三宅周太郎のすきな妓」に注目であった。大正の三宅周太郎のゴシップ記事を本気で蒐集したい気になってきた。なんて、蒐集してどうするという気もするのだけれども。

 それから、若林つや宛て窪川稲子書簡(昭和10年8月2日)に《お端書の、大阪前線へコントを書く件、承知いたしました。長谷川様によろしくお伝へくださいまし》というくだりに「おっ」となった。ので、メモ。日本前線社の『前線』という雑誌は大阪が本店の喫茶店チェーン「ブラジレイロ」が出していたハウスオーガン的な雑誌で、あっと驚く「モダン都市文化」な誌面で、日本近代文学館で閲覧室で実物を目の当たりにしたときの歓喜といったらなかった。詩人をはじめとする文学者との絡み具合がなにかと見どころたっぷりで、ずっと気になっている。

 

『前線』昭和9年5月号(第42号)の表紙(近代文学館にてカラーコピー)。《長谷川時雨プラン女人文藝》となっている。他の号でも時雨女史ならびに「女人芸術」的顔ぶれがしばしば登場していたと記憶する。長谷川時雨と前線との深い関わりに注目であった。そして、モダン都市のハウスオーガンをこれから鋭意追いたい! とますます決意をあらたにした次第だった。

 早起きしたので時間はたっぷり、時雨展のあとは閲覧室にて、今日は調べものではなしに、のんびり本を繰る。戦前の浅見淵の本をここで閲覧すると「尾崎一雄文庫」の本を読むことができて、なんとも格別。水色っぽいインクの万年筆での署名が「浅見渕」となっていて、その字が実にいいのだった。

 文学館のあとは、しばし元町を散歩して、喜久家にてお土産のラムボール(大好物)を買いにゆく。そのあと、みなとみらい線直通の東横線、日吉発の南北線直通の目黒線に乗りついで、帰宅。その間、三度ほど途中下車。帰宅するととっぷりと夜が更けていた。