浅草歌舞伎で『御浜御殿』。『歌舞伎ちょっといい話』を繰って、菊五郎、猿翁、左團次をおもう。


ガバッと起きて弁当をこしらえてイソイソと外出。今日は NHKラジオ「音楽の泉」が始まる前に外出。銀座線に乗り換えて田原町で下車、地上へ向かう階段の途中、さすがに朝は焼きそばの匂いはただよってこない。ドトールでコーヒーを飲んで、ほっと一息ついたあとで、持参のテキストブックとノートブックをおもむろに取り出して、カリカリととあるお勉強にいそしむ。

午前10時半が過ぎた頃、テクテクと浅草公会堂へ。昼の部公演、勘太郎と亀治郎の『根元草摺』と愛之助の綱豊卿に亀治郎の助右衛門の『御浜御殿』を観劇(最後の『将門』は早退)。『御浜御殿』が大好きで「御浜御殿」と聞いただけで無視できず、そして昨夜は、綱豊と助右衛門のセリフを何度も読み返して「クーッ、たまらんッ」と興奮のあまり宵っ張りになってしまったのだけれども、肝心の観劇は、うーむ、どうもノレないものがあって、がっくりであった。澤瀉屋の亀治郎が助右衛門をやるというのがなんだか嬉しかったので、ついチケットを申し込んでしまったのだけれども、うーむ……。

心の隙間を埋めるべく、帰宅後、『歌舞伎 ちょっといい話』を繰ってみると、『正札附根元草摺』の項に、

六代目菊五郎が死ぬ前の年に、「草摺引」の五郎を演じた時の朝比奈が、のちの猿翁だった。菊五郎が「喜熨斗うまいねえ、一緒にやっていて心持ちがいい」とほめた。猿翁もうれしくなったが、「それは兄さんがうまいから私もつい引っ張り出されるのです」と答えたという。いい話だと思う。

とあり、うんうん、いい話だーとジーンとなる。と、ジーンとなっているうちに、ふと、一度も共演することのなかった菊五郎と左團次、といったことを思うのだった。

つい先日、『演劇五十年』を読み返していたら、「第十三章 昭和期の商業演劇」の、

左団次は菊五郎とは、一生ついに一座することながなかったが、うわさされているような隔意があったわけではなく、大正初年に『歌舞伎』に出ている「卓上藝談」という記事に於て、菊五郎が「舞台の居所を知っているのは、浜町の栄ちゃん(左団次の本名)だけさ」といっているのを見ても、自分とは全くちがうゆき方をしている左団次に対し、ひそかに畏敬の念さえもっていたのではないかと想像されるのである。

という一節に「おっ」となった。『六代目菊五郎』でもこのことが紹介されていたのだった。と、『六代目菊五郎』を参照すると、もっと詳しく書いてある。

 大正三年四月の「歌舞伎」に、大道具の長谷川次郎と菊五郎の「卓上芸談」というのが出ている。その中に、こういう一節がある。
 菊五郎。それから次郎、大道具をこはがらない役者は誰だい。
 次郎。それは五代目と九代目と先代の高島屋に今の歌右衛門位なものでさあ。
 菊五郎。おいらはどうだい。
 次郎。お前さんのこはがらない方でさ。
 菊五郎。次郎、今の役者に定式の居所を知つてるものはあるかい。
 次郎。さうだすな、名題だなんて云つたつて、あんまり知りやしますまい。でも、お前さんは知つてるでせう。
 菊五郎。浜町も栄ちやんも知つているよ。(略)
「浜町の栄ちゃん」とは、明治座に出ている高橋栄次郎即ち二代目左團次のことなのである。前に「演劇五十年」を書くために「歌舞伎」を見ていて、この問答を読み、ここに至った時、僕は目の中が熱くなったのをおぼえている。

とあって、『演劇五十年』を書いているときに、戸板さんの書斎の卓上にあった「歌舞伎」の合本をおもって、ジーンとなる。

が、この話には後日談があり、『歌舞伎この百年』所収の「六代目菊五郎・再論」(初出『歌舞伎』昭和46年4月)に、

……「六代目菊五郎」で、ぼくは菊五郎と左団次について書き、大道具の長谷川次郎との対談で、「浜町の栄ちゃんも知ってるよ」といった言葉を、左団次をみとめているのだと思って書いたが、これは弟の彦三郎(本名栄造)のことだと、三津五郎、羽左衛門ほか数氏から指摘された。ひとりで勝手に持ち出して涙ぐんだりしていたのだが、ついでに訂正しておく。

とあるのだった。しかし、そんな早とちりをしてしまった戸板さんに、わたしは目の中が熱くなる。東京劇場の左團次一座と、築地川を隔てた歌舞伎座に君臨する菊五郎、その両者の芝居に胸を熱くしていた1930年代の戸板康二をおもって、ジーン! なのだった。

 

古書展で200円か300円だとつい買ってしまうのが戦前のグラフ誌。この写真は、「アサヒグラフ」昭和9年3月7日号より、東京歌舞伎座三月狂言『弁天小僧』。羽左衛門の弁天小僧と左團次の南郷力丸。三宅周太郎の『演劇五十年史』の大正期の左團次の人気が絶頂だったときのくだりが大好き。「「大統領!」と左團次にばかり掛け声がかかって羽左衛門が拗ねたという挿話とともに、左團次の長所(セリフが聴き取りやすい、舞台を投げない等々)を語る三宅の熱い筆致が実感こもっていて、読んでいるこちらもジーンとなる。……などと、演劇書を繰るとなにかとジーンとしっぱなしなのだったが、わたしは劇場の椅子でもジーンとしたい。