「阪神間の戸板康二」資料としての宇野浩二『大阪人間』。大阪歌舞伎座の戸板康二。


ブログ「日用帳」に年末の関西遊覧日記の第1日目、阪神間遊覧日記を書きました。

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昭和7年から12年までの父の転勤により実家が阪神間の住吉に仮住まいをすることになって、三田在学時の戸板康二がこの5年間、年に三度「帰省」することになったという挿話が極私的に心に残って幾年月、今回もしょうこりもなくその挿話に触れているので、こちらでもご紹介。

 要約すると、戸板康二が阪神間に「帰省」することになる昭和7年以前に阪神電車の高架線が出来上がっていたけれども、三宮地下駅の完成は昭和8年を待たねばならなかった。昭和9年夏、「演芸画報」の当選論文(『歌舞伎を滅す勿れ』昭和9年8月号に掲載)の稿料(3円)で、谷崎潤一郎の『春琴抄』の朱漆塗り本(2円80銭)を買った神戸そごうの開店は三宮地下駅の完成とほぼ連動していて、地下鉄の開通の三ヶ月後のこと。つまり、戸板康二の帰省していた5年間は、阪神と阪急の攻防のまっただなか、「阪神間モダニズム」を象徴する阪神と阪急の攻防に夢中! というようなことを書き連ねているのだけれども、いかんせん無駄に長くて、書いている本人もうんざり……。

とにかくも、昭和7年から12年まで阪神間に「帰省」していたという「阪神間の戸板康二」に関しては、これからも鋭意追究していきたいのだった、とメラメラと思ったところで、ふと思い立って、昭和10年前後の神戸の地図が欲しいなと思って、ちょいなと物色してみたら、戸板康二の「実家」のあった「神戸市外住吉村畔倉」は、哀しき「神戸市外」の「住吉村」! ということで、当時の神戸の地図はいずれも隣りの御影までしか載っていなくて、がっくり。ま、いずれまた物色したい。

 

 

住吉の隣りの御影には、昭和9年の春休みに初対面した、父の同業の友人の古河の重役、藤木秀吉の邸宅があったということで、戸板康二の「実家」のあった住吉と同じくらい、愛着たっぷり。阪神電車で通過するたびに大喜びなのだった。

などと思って幾年月、なんとはなしに手にとった全集(第9巻)で、宇野浩二の『大阪人間』という小説を読んでいたら、まさしく戸板康二の父が転勤した昭和7年の阪神沿線の御影と住吉が登場するので、狂喜乱舞であった。『大阪人間』の初出は、「文藝春秋」昭和26年2月。水上勉の解題によるとこの小説は《天王寺中学時代の友人で、直江津にあってステンレス工場を経営する竹木林次郎を中心に、海軍中将の志村や、大阪出身で、いわば、もう六十歳前後になった旧友たちのことを述べつつ、大阪的人間の面白さや、道楽、友情、事業欲といったものを描いている》というもの、しかし、竹木林次郎のモデルとなった友人が激怒、告訴に及んだため未完となり、単行本未収録。当時、水上が宇野の代理で告訴取り下げの交渉のため、銀座の交詢社ビルに何度も足を運んで、続篇は書かぬということで決着がついたとのこと。

と、その宇野浩二の『大阪人間』に登場の「竹木林次郎」の邸宅が阪神電車の御影なのだ。しかも隣りの住吉も登場している! というわけで、極上の「阪神間の戸板康二」資料発見に狂喜乱舞であった。

 

 

宇野浩二『大阪人間』より。時は、昭和7年10月の中頃。主人公深見は東京駅を午前8時に出る「ツバメ」に乗って大阪へ。午後4時到着。「戎橋の北詰の『あしべ屋』という宿屋」に行き、夕食後道頓堀筋を歩いていると、「深見イ」と叫んだ者があって、振り向いていみると、天王寺中学の同窓の竹木だった。竹木は京町堀の京町ビルの2階に一室借りて「建設社」を経営、建築の材料の仲買をしている。

 

「京町堀ビルディング」(竣工:大正15年12月)、『近代建築画譜』より。『大大阪モダン建築』(青幻舎、2007年11月)の「京町ビル」の項には、《当時は4階に清和倶楽部という社交場があり、5階には欧風レストラン「京ビル食堂」があった。オフィスビルに倶楽部的要素が入っているのは、同時代の大江ビルやダイビルにも共通している。外観は全体的に落ち着いた印象だが、最上部と窓の間にテラコッタが嵌め込まれ、ビルに華やかさを添えている。》とある。現在の京町ビルについては、ブログ「レトロな建物を訪ねて(http://gipsypapa.exblog.jp/)」にあっと驚く美しい写真! → http://gipsypapa.exblog.jp/8421982/


などと、これだけで頭のなかは一気に、大阪モダン! で大喜びなのだけれども、重要なのは竹木の御影の邸宅のことであった。

竹木の家は、御影の町のなかの山手の、一ばん高いところにあつた。しかも、それは、和洋折衷の、七間もある、豪華な、家であつた。さうして、それは、竹木の話によると、竹木が設計したのを、「建築では日本で一二といはとをる建築家」が立てたものである。

というふうに、竹木は阪神の御影から大阪の京町ビルに「出勤」しているのだった。大阪市中の経営者の私邸が阪神間の瀟洒な邸宅、の典型。


そして、竹木は御堂筋まで深見をひっぱって、タクシーで北の新地の茶屋『しじみ屋』へ連れてゆき、夜が更けて、阪神国道で御影の竹木邸へ。と、その翌朝。

 深見が、大阪に帰るために、建設社に出る竹木と一しよに、竹木の家を出たのは、午前九時頃であつた。家を出てしばらく行つたところで、竹木は、「途中で茶アでも飲んでいこか、」といつた。……
 さて、駅まで行くうちに、喫茶店らしきものは一軒もないばかりでなく、あれから後、竹木が『茶』のことを一と言もいはないので、深見はますます妙な気がした。
 やがて、駅につくと、竹木は、やはり、だまつて、(自分はパスを持つてゐるので、)深見のために、大阪までの切符を買つた。
 電車に乗つてからも、竹木は、まだ、だまつてゐたが、電車が次の駅につくと、「おい、ここで、ちよつと、おりよ、」と、竹木が、いつたので、深見は、ますます、不思議な気がしたが、竹木につづいて、電車をおりた。住吉といふ札が出ていた。
 その住吉の駅からまつすぐつづいてゐる道を、深見は、竹木とならんで、あるきながら、竹木がさきにいつた『茶ア』をのむ所(喫茶店)はこの町にあるのかしら、と思つた。 まつすぐな、長い、広い、一本道であつた。両側は、生け垣つづきで、みな同じ形をしてゐるやうに見える家が並んでゐる。
 さて、その長い道を、無言であるいてゐる間に、竹木が、いきなり、
「……御影を、社長重役級の住んでる町にすると、(おれも社長や、)ここは、中流のサラリイマンの住んでる町や、」といつた。
 それきり、二人は、無言で、長い広い町を、あるきつづけた。さうして、町ははづれらしいところまで来た時、突然、また、
「ここ、左、」と、竹木は、いひながら、横町にまがつた。
 その横町は、今まであるいて来た単調なほど規則ただしく家のならんだ町の裏にはひると、こんな所に草のはえたあき地があつて、そのあき地に、はなればなれに、むさくるしい家のたつてゐる場所があるのか、と思はれるやうな所であつた。あき地が広いわりに、家は四五軒たつてゐるだけで、その中で二階のあるのは一軒だけである。……

というわけで、つい長々と抜き書きしてしまったけれども、御影の邸宅に住む竹木は隣りの住吉に妾宅を構えていて(相手は自社の元事務員)、住吉について、「御影を、社長重役級の住んでる町にすると、(おれも社長や、)ここは、中流のサラリイマンの住んでる町や、」と語る。と、これがいかにも、藤木秀吉の住んでいた御影と戸板さんの実家の住吉とを対照させるような感じで、おもしろいなと思った。「神戸市外」の「住吉村」! 戸板さんの実家も、「まつすぐな、長い、広い、一本道であつた。両側は、生け垣つづきで、みな同じ形をしてゐるやうに見える家」のうちの一軒だったのかな。

宇野浩二の『大阪人間』における竹木は、昭和7年には御影在住だったけれども、その3年後、御影から池田に引っ越したとのこと。

 

 

関西モダンの戸板康二、ということで思い出すのが、大阪歌舞伎座のこと。

「大阪歌舞伎座」(竣工:昭和7年9月)、『近代建築画譜』より。

 

上から、全舞台、客席、客席と舞台の一部。

 

『思い出の劇場』の「大阪歌舞伎座」の項の冒頭に、

 秘蔵しているスクラップ・ブックに昭和八年三月二十二日の毎日新聞の夕刊が貼ってある。その日の午後一時、大阪の歌舞伎座で、九代目団十郎追善興行の『勧進帳』の富樫を演じている最中、十五代目羽左衛門が胃痙攣で倒れたという記事である。
 「これは関にて候」と云った直後、「痛え痛え」と云ってすわりこみ、幕を引いたというのだ。この月、この役者は、ほかに『助六』『土屋主税』の源吾、『道行』の勘平を演じている。

と、この興行、戸板さんは住吉に「帰省」中だったので見ているという。次の日の夜から羽左衛門復帰、22日に急病の羽左衛門にかわって七代目幸四郎が道行の勘平を踊ったとのことで、戸板さん「これは珍品だったろう」。

大阪歌舞伎座の劇場に関しては、

 大阪の歌舞伎座は千日前にあって、道頓堀からぶらぶらと南に歩いて行く道中が何となく楽しかったが、劇場がハイカラな建築の大伽藍で、外見は温泉の大浴場を何倍にも拡大したような、歌舞伎にはあまり似つかわしくない小屋だった。
 だから、新派だの、五郎劇だの、休暇で関西に行くたびに何か見には行ったが、中座や浪花座のようには、落ち着かなかった。はじめて出演した時、六代目菊五郎が所作板の側面に金具が貼ってあるのを見て、「蒲鉾じゃないぜ」と云ったという笑い話を思い出す。

とある。『近代建築画譜』の写真を見ながら読み返すと、味わい深い。