文藝春秋社『手帖』の三宅周太郎。


週末の古書展で入手した本や雑誌をゴソゴソと整理する日曜日の夜。なぜか急に《ドン・ジョヴァンニ》が聴きたくなり、ワルターのメトロポリタン歌劇場のライヴ録音(1942年)を何年ぶりかで再生してみたら急にハマってしまったので、iPod に入れて明日からしばらくこれとともに歩行をしようと思う。

今回の古書展では、しばしの念願だった文藝春秋社の「手帖」の創刊号を入手してホクホクだった。

『手帖』創刊号(昭和2年3月1日発行、文藝春秋社)。『手帖』のことを知ったのは、去年3月に同じく趣味展で野田書房の『三十日』の創刊号(昭和13年1月)に買ったとたんに惚れてしまったときのこと。その『三十日』が踏襲しているのが文藝春秋社から昭和2年に9冊だけ出ていた『手帖』だった、という次第。

 

文藝春秋社から『手帖』が発行されていた時期(昭和2年3月創刊、同年11月終刊、計9冊)は三宅周太郎が第二次『演劇新潮』の編集に携わり(前年の大正15年4月号が初刊)、経営悪化で休刊となる時期(昭和2年7月号で休刊)とほぼ同時期。三宅周太郎も『手帖』の同人のひとりだったわけで、長年の関心事、『演劇新潮』と三宅周太郎をおもううえでも、なんとも魅惑的なリトル・マガジンなのだった。揃いは無理でも1冊だけでも手元に置いておきたいなあと思っていたから、今回創刊号を入手することができて、こんなに嬉しいことはない。

 

文藝春秋の『手帖』については、保昌正夫の文章が絶品。保昌正夫著『横光利一 菊池寛・川端康成の周辺』(笠間書院、1999年12月)所収の「『手帖』と横光利一」の初出は『サンパン』(1996年8月、12月)なのだけれど、去年3月の趣味展で野田書房の『三十日』を知ったあとでこの一文を読んだときの感激といったらなかった。このあともいろいろと尽きないものがあった。

保昌正夫が「四十幾年前」に阿佐ヶ谷の古本屋で買った『手帖』の合本には新聞の切り抜きがはさんであって、その昭和29年4月4日の毎日新聞夕刊の「茶の間」欄に掲載の三宅周太郎の文章をチラリと保昌さんが紹介してくれていて、それを見たとたん、こうしてはいられないと次の週末に図書館へコピーに走ったのも懐かしい。いい機会なので、以下、全文抜き書き。

三宅周太郎「手帖」(毎日新聞夕刊「茶の間」昭和29年4月4日掲載)

 前年川端康成氏が、芸術院会員に決定した時、私もまことに適切だと思った。氏は若い時代から、横光利一君とともに、芸術のほかに余念はなくて、あれでこそ芸術家といえる人がらであったからである。
 昭和二年ごろ、私は毎日新聞を嘱託にしてもらって、文芸春秋社で第二次「演劇新潮」の編集をしていた。その時川端、横光氏の発案で「手帖」なるハイカラな小雑誌を出した。うすいが上質の紙を使い、表紙は金を用いて一見芸術的な雑誌とわかるところの、どこか独創的で新機軸を出した小冊子であった。
 執筆者は同人のみで約八人くらい。右の同君に池谷、片岡、佐々木、岸田、関口、それに私などだった。川端氏は私に好意を持ってその時「伊豆の踊子」の初版をくれた。横光君は私に原稿を書けといった。一人で一ページずつの三枚程度の原稿を書くのだが、私も四、五回は書いたと思う。横光君に原稿を渡すと、原稿料は出せない、しかしこの雑誌がうまくゆけば、一年目に同人全部に、お礼としてモーニングを新調します。その時は同人がそろいのモーニングをきて、銀座街頭を散歩しますから、あんた(彼はあなたとはいわなかった)も、はにかまずモーニングをきて下さいといった。川端氏もそうそうとにこやかに笑っていた。
 だが、二人の芸術の仙人の企画だけに、これは七、八冊で廃刊になってしまった。が、気のきいた前例のないいわゆる新感覚派の感覚のある文芸雑誌であった。横光君は早世し、他の三、四人の方もこの世にいない。それだけにこの発案者の一人の川端氏の健在を祝すわけである。同時にあの時うまくいって、八人の同人が同じモーニングで歩きまわっていたらと思う。「チャプリン八人現われる」の新聞記事になったかもしれぬが、由来独創とはそういうものである。

  保昌正夫も書いているとおりに記憶によって書いたための誤認もあるけれども、「文士」としての三宅周太郎を追いたいなあとぼんやりと長年思っている身にとっては、文藝春秋社の『手帖』の存在は嬉しいことなのだった。そして、今回ひさびさに「手帖」を手にして、あらためて十一谷義三郎の一文に目眩が……。