昭和15年の『春泥』第4号、小村雪岱号を入手する。


夕刻、神保町へ。とある古書肆におもむいて、古雑誌を購う。入手する日が来るなんて夢にも思っていなかった。肩から羽が生えて、地上30センチをバタバタと飛んでいるような心境になって、ふたたび靖国通りに出て、そのまま直進。九段坂上の喫茶店にたどりつき、そぉーっと梱包を開いて、『春泥』小村雪岱号のページをソロソロと繰ってゆく。

昭和15年に刊行の『春泥』全4冊のうちの最初の3冊は、以前「地下室の古書展」にて入手済みで以来大切に架蔵している。今回の雪岱号で昭和15年の『春泥』、すなわち戸板康二が編集の任にあたった『春泥』は手元にそろった次第。

 


『春泥』第4号(春泥社・昭和15年12月30日月発行)、小村雪岱号。同年10月17日の雪岱急逝直後に編まれた『春泥』はそれまでの A5 サイズではなくて B5 サイズ。印刷所もそれまでの愛宕印刷ではなくて、光村印刷。

 


目次の次のページは《色紙を画く雪岱氏(写真)》と久保田万太郎の追悼句、《蘆 も 枯 れ 芒 も 枯 れ て し ま ひ し よ 》。『久保田万太郎全句集』を参照すると、この句には「十二月四日、雪岱画伯七七日、千歳烏山妙高寺にて」という前書きが付されてあるので、『春泥』発刊直前の句。

 

表紙と裏表紙はいずれも、雪岱が美術考証にあたった東宝映画『白鷺』(島津保次郎・昭和16年5月封切)の装置考案図で、表紙は「辰巳屋玄関」で、この裏表紙は「風月堂お篠衣裳」。映画の封切に先立っての掲載。

 


『春泥』の小村雪岱号は、雪岱最後の仕事なった『白鷺』の原画をアート紙に原色版で載せることで、雪岱を追悼している恰好。帳場の図版は見開きで印刷されている。

 


こちらは同じく『白鷺』の「和歌吉衣裳」。横向きに印刷。誌面のサイズを特別に大きくしたのは、雪岱の図版が映えるための配慮ということが身をもって実感できる美しい仕上がり。


『春泥』の小村雪岱号は雪岱の急逝に際して、舞台装置の図版を掲げることで「哀悼」としている。全部で9つの仕事を紹介していて、図版とともに『日本橋檜物町』に収録されることになる一文「羽子のかぶろの暖簾」が掲載されている。

 

編集後記を全文抜き書き。

「春泥」は小村雪岱先生には、昔から一方ならぬ御厄介をおかけして参りました。それに對して何の御恩報じも出來ない中に突如先生は長逝されました。私共は深い悲しみの中にこの記念號を特輯することに依て、哀悼の意を表し、併せて先生への御禮を果したいと思ひます。

本號収録の道具帳は、「お祭」「道成寺」「落人」「幻椀久」「那須野」「鷺」の六枚が松竹本社、「藤娘」「淺妻」の二枚が大道具の長谷川源次郎氏、「白鷺」が東寳から拝借したもので、掲載をお許し下さつた御好意を紙上を以てありがたく御禮申上げます。

戸板康二の「小村さんの舞台装置」(『画集 小村雪岱』(形象社・昭和51年10月)所収)に、

小村さんは、映画のセットにも、案を立てた。やはり鏡花物だが、東宝映画の「白鷺」が最後の仕事で、調理場のプランなど、これも細綴をきわめた傑作であった。

という一節があるのだけれど、一見さらっとしたこんなくだりが、『春泥』の雪岱号を手にしたあとに目の当たりにすると、万感胸に迫るものがある。この一文を書いたとき、戸板さんの手元には絶対に『春泥』の雪岱号があったはず。そして、内田誠の命で、雪岱がらみの仕事をいろいろとこなしていたときのことを思い出していたのは確実。

 

 

『春泥』の創刊は昭和5年3月、昭和12年12月終刊(全89号)。春泥社発行、籾山書店発売。『春泥』の終刊は大場白水郎の俳誌『春蘭』との合併によるもので、その『春蘭』が休刊した昭和15年に『春泥』は一度復活して、全部で4冊出た、それが上記の昭和15年版『春泥』。こちらの『春泥』は、明治製菓宣伝部の内田誠の部下、戸板康二が編集の任にあたった。明治製菓の広報誌『スヰート』の編集が公的の業務である一方、内田誠の私的な趣味的な仕事である『春泥』の編集を社内で堂々と編集していたのは、若き戸板康二が内田誠の私設秘書的な位置付けにいたから。昭和15年の『春泥』は裏『スヰート』ともいえるものだった。

復刊した昭和15年の『春泥』全4冊は第1号が昭和15年6月15日発行で、続いて第2号(昭和15年8月30日発行)、第3号(昭和15年10月30日発行)というふうに刊行されてゆく。雪岱の急逝は第3号刊行と同月で昭和15年10月17月だった。そして、次号の第4号は「小村雪岱号」とあいなった。その雪岱号をもって『春泥』は最後になった。

『春泥』の小村雪岱号に関しては、戸板康二は『句会で会った人』の「いとう句会」の項には、

休刊のままでいた「春泥」を最後に一冊出したのは、昭和十五年十月に急逝した小村さんの追悼号として作ったもので、すでに用紙事情の悪い時に厚手のアート紙に原色版で故人の絵を刷ったもので、これは当時明治製菓にいた私が編集した。

という一節があり、さらに「風景」昭和46年2月号掲載の巌谷大四との対談『リトル・マガジンについて』では、

 ぼくも後年多少関係したことがあるのですが、よく知っているのは「春泥」という雑誌ですよ。これは久保田万太郎とその周囲のいとう句会を作るメンバーが主体となってやったのです。明治製菓の宣伝部長だった内田水中亭がパトロンでね、表紙が鳥の子に小村雪岱さんの画を毎号新しく出して、口絵に木村荘八だの、山本鼎なんかの絵を入れて、毎号いい座談会を百尺とかああいうところでやってね、金に糸目をつけない雑誌だった。

 昭和14年から、ぼくは内田水中亭のところで、それこそリトル・マガジンの「スヰート」という雑誌を編集していたことがありましてね、「スヰート」は明治製菓の宣伝誌だったから、ぼくが月給をもらうためのオフィシャルなものだけど、それと並行して、「春泥」の編集も堂々と手伝ったことがある。

 これはいま古本屋でたいへん高くなっているのは、小村雪岱さんがなくなったときに、「春泥」で小村雪岱追悼号というのを出した。昭和15年になくなって、16年に出しているのですが、もう世の中非常に悪くなっているときに、光村原色版印刷にある、とっておきのアートを無理に引っぱり出して、全アートの追悼号を出したのです。それに小村さんのいろんな絵を原色版で入れて、当時よく怒られなかったものだと思いますね。

 というふうに回想している。

 

若干の記憶違いもあるけれども、戸板さんの言うとおりに『春泥』の小村雪岱号はみごとなものだった。ちなみに、「芸術新潮」最新号(2月号)の雪岱特集の年譜の頁に掲載の、昭和16年9月の資生堂ギャラリーにおける「小村雪岱追悼展覧會」の会場写真に若き戸板康二の姿がある。