東宝の『忠臣蔵』を見て、ぼんやりと「昭和歌舞伎」をおもう。


ゼエゼエと息も絶え絶えになんとか間に合ってよかったよかったと、午後6時過ぎ、無事に神保町にたどりつく。息も絶え絶えになってまで見に来るほどの映画でもないのだけれども、昭和37年の東宝の稲垣浩監督で幸四郎主演の『忠臣蔵』は長年の懸案であった。

 

藤本真澄のお声かがりで昭和31年10月から、十返肇、筈見恒夫とともに東宝のプロデューサー会議に加わっていた戸板康二。その「東宝の戸板康二」資料として、戸板康二が企画の際に助言したと『思い出す顔』に明記している東宝30周年記念『忠臣蔵』は、絶対に見なければならぬのだった。と言いつつ、ここ数年来、何度か見る機会があったはずなのに、そのたびに「うーん、なんだか明らかにつまらなそう……」と当日になって億劫になって、上映のたびに見逃していたのだった。しかーし、つまらなそうとかなんとか言っている場合ではなーい、「戸板康二資料を視聴」することはわたくしの義務である、というわけで、今度こそはと、息も絶え絶えにゼエゼエと神保町シアターに駆け込んで、午後6時半、稲垣浩『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(昭和37年11月3日封切)がはじまった。三時間半の大作、先は長い……。

 

映画そのものはまったく期待せず、「戸板康二資料を視聴」の義務を遂行という気分で見ていたので、かえってそんな淡々とした見物がたのしかった。東宝の時代劇という、あちらこちらのミスマッチが味わい深く、森繁はこう登場するのかとか、柳沢出羽守の山茶花究、いいぞいいぞとか、クレジットでバーンとトメていた三船敏郎が登場したなとか、イチイチ挙げているとキリがないけれども、随所で淡々とした見物を満喫。中車の吉良はあまり好みではなかったけれども(長谷川一夫の『雪之丞変化』の中車は大好きだ)、又五郎の綱吉と中村芝鶴の大野九郎兵衛は「いいものを見たなあ」と素朴に嬉しかった。幸四郎の大石に関してはこれといった感想がわいてこないのだけれど、初めて登場するシーン、黒紋付の家紋がアップになったあとで(たしか)、暗闇から巨大な顔面がスクリーンに登場する瞬間はなかなかよかった。「立花左近」はどういうふうに処理されるのかなと気になっていたところで、いざそのシーンに直面したときは脱力であった。


無駄に長い討ち入りシーンと無駄に長い泉岳寺への歩行シーンで3時間半の大作映画は終了してぐったりと外に出て、ブラッセルズでグビグビとビールを飲む。映画のあとのビールはいつもとてもおいしい。グリゼットブロンシュを飲みながら、ぼんやりと映画の追憶をする。随所で突っ込みどころがたっぷりではあるけれども、わたしとしては、柳沢出羽守の山茶花究と、又五郎の綱吉と中村芝鶴の大野九郎兵衛がとても嬉しく、見た価値は大いにあった映画だった。それに、昭和歌舞伎の資料として、歌舞伎役者をスクリーンで見るという点ではたいへん興味深いものがあり、特に、東宝で創立30周年にあたって『忠臣蔵』の映画が企画された背景には、幸四郎劇団の東宝移籍(前年の36年4月)があるわけで、うーむとなにかと含蓄するところ大だなあなどと、二杯目のモンサンベールを飲みながら、ぼんやりと「昭和歌舞伎」をおもうのだった。



明治製菓株式会社「スイート」第9巻第2号(昭和34年6月10日発行)。表紙:大橋正。この号に、藤本真澄「思い出」掲載。藤本真澄は昭和11年に P.C.L. に入るまでの2年間、明治製菓宣伝部の内田誠のもとで働いていたので、昭和14年に明治製菓に入社する戸板康二の先輩ということになる。

現代のように明菓の宣伝部も大組織ではなかったから、ずいぶんいろいろなことをやらされた。新聞・雑誌広告のレイアウト、機関誌「スイート」の編集、校正、宣材の製作、タイアップの交渉、移動宣伝映写から経済雑誌通信、いわゆる今でいう総会屋の撃退等々、なんでもかんでも手伝った。この内田さんのもとで働いていた二ヵ年間に、実に私はいろいろなことを覚えた。学校を出て一番影響を受けやすい年代を内田さんのような人に薫陶をうけたことが、後年私が映画製作者となって、何かと役にたっていることを思うと、心から感謝しないではいられない。

 という藤本真澄の感慨は、戸板さんもまったく同感だったのではないだろうか。



帰宅後の夜ふけ、『思い出す顔』の「砧撮影所」を読み返そうとしたら、その冒頭、

 あれは昭和二十五、六年ごろだったか、有楽町のそばやにはいってゆくと、当時藤本プロというプロダクションを持っていた、藤本真澄氏がいた。分厚い一冊の本を示して、「これ、映画にならないかな」といった。

 それは、戦争中に出た木村錦花の「守田勘弥」である。明治の文明開化の時期に九代目団十郎と演劇改良をおこし、新富座を経営した十二代目の伝記小説である。

というくだりに「おっ」となった。木村錦花の『守田勘弥』は、『演芸画報・人物誌』の「木村錦花・富子」の項に戸板さんが《ことに「守田勘弥」は、講談のようにおもしろい。戦争中、これを耽読して、ぼくは一時戦争を忘れた。》と書いているのを見て以来、長年気になっているのだった。厚さにひるんで、古書展で見かけるたびに毎回見送ってしまっているのだけれども、いつか必ず読まねばと決意を新たにする。