『俳諧雑誌』復刊創刊号を入手して、丸の内籾山書店をおもう。久保田万太郎の「『水のおもて』に就て」。


午前中はさる筋のご厚意で「いとう句会」関係の稀覯本に謁見つかまつり、ただただ眩暈であった。昼下がり、天上界から下界に降りてきたという心持ちで、駿河台交差点に降り立ち、東京古書会館へ。「つわものどもが夢のあと」という趣きの地下室の趣味展会場をぼんやりとめぐる。

 

稀覯本に眩暈していてもラチがあかぬ、まずは手に入るものから手に入れるのだ、というわけで、本日のお買いもののうちの1点が『俳諧雑誌』復刊創刊号(大正15年4月1日発行)。扶桑書房の目録で注文していたもの。入手できて、たいへん嬉しい。趣味展ではいつもいいことづくめなのだった。

 


『俳諧雑誌』第1巻第1号(俳諧雑誌社、大正15年4月1日発行)。編集兼発行者:大場惣太郎。表紙絵:小田嶋十黄。


籾山書店発行の第一次『俳諧雑誌』は籾山仁三郎を主宰者として大正6年1月創刊。本日入手の『俳諧雑誌』は、大正12年6月(第7巻第6号)を最後に発行が途絶えていた第一次の復活号として発刊したもので、大場白水郎こと大場惣太郎の主宰。この第二次『俳諧雑誌』は昭和4年2月をもって休刊し、翌年3月創刊の『春泥』へと引き継がれることになる。『春泥』は「いとう句会」の母体となっているので、「いとう句会」のルーツは『俳諧雑誌』にあるのだった。

 


裏表紙の広告は「宮田の自転車」。大場白水郎は宮田自転車の重役だった。戦後大場白水郎が中心になって編纂されたその社史、『宮田製作所七十年史』(昭和34年4月発行)はなかなかおもしろくて、いつか書棚に収めたいものだなあと思う。自転車伝来の歴史は他の産業同様に、モダン都市文化の側面史。などと、ここ数年来、社史マニアになりつつある気が……。

 


昭和5年に銀座出雲橋に小料理屋「はせ川」を開業した長谷川春草はもとは丸の内の籾山書店の主任で、内田誠や大場白水郎も、丸の内の籾山書店で知り合ったのだった。明治製菓が丸の内にあった頃、内田誠は昼休みに毎日のように籾山書店を訪れていた。このあたりの都市生活者の交錯を思うと、それこそ眩暈が……。というわけで、これから内田誠(ひいては戸板康二)につながる点と線を鋭意探究していくのだ。今回の『俳諧雑誌』復刊創刊号購入はその絶好の機会。ちなみに、内田誠の『俳諧雑誌』への登場は翌昭和2年を待たねばならない。

 

籾山梓月(籾山仁三郎)について、加藤郁乎著『俳の山なみ』(角川学芸出版、平成21年7月21日)所収「第一部 俳人ノォト」の「籾山梓月」の項には、

梓月、名は仁三郎、代々飛脚屋で両替屋を兼ねた日本橋浪花町の吉村家に明治十一年一月十日に出生、九代目の父親に代わり運送業をはじめる。現在の日本通運の前身である。慶應義塾の理財科を出て二十五歳のころ日本橋小舟町の塩魚鰹節問屋の老舗籾山家に入籍、妻女は梓雪と号して俳句をよくした。その養家先の庭に庵をむすんだところから庭後、のちに梓月と改める。俳書堂あるいは籾山書店の経営者として俳書にとどまらず胡蝶本の名で愛書家に珍重される鴎外、漱石、潤一郎ほかの文芸書を次々と出版、一歳下の荷風とはこうしたかかわりようから「文明」誌の版元となったのだろう。特筆すべきは大正六年創刊の「俳諧雑誌」である。梓月主宰と銘打ってはいるが現在の俳句綜合誌の先駆的存在で鳴雪、月舟、普羅、蛇笏ほかが執筆、荷風の旧友井上啞々が編集に当り、長谷川春草は東京丸の内の三菱二十一号館内の俳書堂に籍を置いていた。……

とある。このあたりのことも自分なりに深めていけたらと思う。それにしても、加藤郁乎の『俳の山なみ』にはシビれまくり。「俳人ノォト」には内田誠も戸板康二も、沼波瓊音の名前もあるのだから、たまらない。



さらに、今回入手の『俳諧雑誌』復刊創刊号(大正15年4月発行)には、久保田万太郎の『「水のおもて」に就て』と題する談話筆記が掲載されていて、今月は「みつわ会」の久保田万太郎上演で『水のおもて』を観劇したばかりだから、感激はひとしおだった。この記事は、大正15年3月1日の夜、東京放送局にて放送されたラジオ劇に際しての万太郎の放送談話。筆記者の阪倉得旨(=いとう句会の会場の「いとう旅館」の経営者の槇金一)は、《当夜は私の外白水郎氏も放送室内にいて福島、藤井、梅田、其他新派の諸名優の放送振りを見物致しました。》と書き添えている。当時不振をかこっていた新派の役者たちによる『水のおもて』! 空想しただけで胸がキューンなのだった。

 

と、この全集未収録の文献、久保田万太郎『「水のおもて」に就て』を以下、全文抜書き(雑誌では「久保田傘雨」名義で掲載)。

「この芝居はいまから十二年まえ舞台のために書いた芝居であります。これを書きました動機はその時分の東京の下町の何代かつづいた商家、土蔵づくりの、色の褪せた暖簾をかけた、白い色の剥げた箱看板を店のまえへ出した、昔ながらの老舗が時代の波にだんだん取残されて行く寂しさを、常にわたくしの身辺に見出し、その時分のわたくしの心もちでそれを戯曲の形であらわしたいと思ったのから来ております。
 いえば世間の不景気の影響をうけて、いままでしっかりしていたうちの礎が眼にみえない間にだんだんむしばまれ、どうもならない運命に落ちて来ます。弱り目にたたり目で、いろんな不幸が起って来る、しかもそれを知っているのは当人と番頭だけで、お内儀さんも娘も外の大ぜいのものもそれをまだ知っておりません、そうした浮世のすがたを二たまくに書きました。
 今晩これからラヂオプレイとして放送いたしますのは、その二たまく中のあとの一と幕、すなわち十一月晦日の夜――いろいろの出来事のあった日の夜の場面であります。
 舞台は藤田という鼈甲小間物の店で、時間は九時すぎ、門口にはもう大戸が下りていて、くぐりだけ一枚障子になっている。箱看板は土間の隅にとり込んでいる。夢のようにしずかにあたりを照らしている灯火のなか、うち寄せた波の退いたあとのような心もちがいろいろ影をなして口をつぐんでいます。店のものは、芝居の番附をみたり自分用の手紙を書いたりしています。勿論、舞台のために書いた芝居ですから、眼の感覚に訴える部分が多い、それを耳の感覚にだけたよろうとするのですから、いろいろの無理があると思います。わたくしはただ今度の場合そうした古い商家の冬の夜のしずかな心もちの幾分でもお感じさせ申すことが出来れば幸いであります。
 そこでお断りして置くことは時代を大正のはじめにとっております。すべてのことがその時代に則っております。電話でも何でも旧式であります。どうぞそのつもりで――では是からはじめます。」