「いとう旅館」のあった旧大和田町界隈。葉桜の目黒川沿いを歩いて、池尻で日没。


日没後は池尻でワインだ、わーいわーいと、夕刻、渋谷駅前の雑踏に降り立つ。集合まであと小一時間、時間調整がてら、池尻までゆっくり歩いてゆくことにする。池尻でワインを飲む日は、渋谷から246沿いを歩くのがいつものおたのしみ。渋谷から池尻を大通り沿いにまっすぐに歩くときの地面の起伏具合とか、大橋ジャンクションの様子とか、季節ごとの日照時間による都市風景の変化とか、なにがどうというわけではないのだけれど、ただ歩くだけでそこはかとなくたのしい。


しかし、今日はちょっと別の計画があった。先月末に趣味展で『俳諧雑誌』の復刊創刊号(大正15年4月)を入手したのが嬉しいあまりに、2月に入手した六十数冊の『春泥』(昭和5年3月創刊)の精読にのめりこんで、頭のなかは「俳の山なみ」一色となり、この二週間というもの、すっかり浮世離れしている。と、そんななか、思いたったのが、「いとう句会」の会場となった渋谷の「いとう旅館」のあった辺りを歩いてみたいなということだった。今までずっと機会を逸していた。



先月末の趣味展で『俳諧雑誌』と一緒に買った数冊の買い物のなかに、東京日日新聞発行の昭和5年の東京市街地図があった。『俳諧雑誌』を入手したのが嬉しいあまりに、買ったことをしばらく忘れていたのだったけれども、数日放置されていたこの古い地図をいざ書斎(と称する小部屋)の床に広げてみたところ、これがもうたのしいこと、たのしいこと。いい買い物をしたなア! と、とたんに上機嫌。


東京日日新聞発行《復興完成記念東京市街地図》(昭和5年3月)より、渋谷区大和田町附近を拡大。そして、『春泥』創刊と同年同月の東京市街地図を眺めているうちに、「いとう旅館」の会場となった「いとう旅館」のあった渋谷区大和田町あたりを今まで歩いたことがなかったことに気づいて、こうしてはいられないと思った。

 

『春泥』第42号(昭和9年1月発行)に掲載の「いとう旅館」の広告。東京市渋谷区大和田町九十三。槇金一が後添えの旧姓の「いとう」の名を冠して、旅館を開業したのが昭和8年末のこと。上掲の前号の『春泥』昭和8年12月号に、坂倉得旨の「旅館開業」という一文がある。前妻が狂死、という修羅場を経たあとの新出発を応援するために、句会の会場とすることで、広く「いとう旅館」を「宣伝」しようというのが内田誠のアイディアで(さすが宣伝部長)、「いとう句会」発足となり、第1回開催が昭和9年4月2日。いとう旅館に最初に逗留したのは長谷川海太郎だったということは、今回の『春泥』精読で初めて知って、いとう句会以外にもなにかと無尽蔵。



『俳諧雑誌』が昭和4年2月に休刊になったとき、久保田万太郎は内田誠と坂倉得旨(筆名:槇金一)の二人に託して、彼らが中心になって『春泥』が翌5年3月に創刊された。今まで、内田誠にばかり目が行っていたけれども、いざ『春泥』を精読してみると、槇金一の文章とそこから伺える人となりがとってもいい感じで、すっかりファンになってしまった。戸板康二著『句会で会った人』によると、《歌舞伎役者のような輪郭の、いささか古風ではあったが、じつにいい男であった。p34》とのこと! と、そんな槇金一は、大場白水郎の株屋時代の旧友で、白水郎を介して久保田万太郎と知り合った。水上瀧太郎『友情』(初出:「新小説」大正9年1月)で、大正7年の初の大阪行きに際しての久保田万太郎の悪友として、潔癖な水上の眼を通して悪しざまに描かれている。そんな槇金一が好きだ。それから、森銑三は《著者は専門の文筆家ではない。それだのにこの書の中の文章には、何れも磨きがかかつてゐる。かやうな美しい文章を書く人は、文を書いて生活してゐる人には却つて尠いであらう。》と書いている(「玉屋雑記」-『森銑三著作集 続篇 第八巻』p341)。そんな槇金一が好きだ。

 


『春泥』第66号(昭和11年1月発行)。上掲の2年後の広告。いとう旅館の経営はだいぶ軌道に乗っていることが『春泥』誌面からうかがえる。内田誠が明治製菓で、大場白水郎が宮田自転車に勤めていたのとおなじように、槇金一は銀座3丁目の玉屋商店の番頭だった。よって、『俳諧雑誌』から『春泥』に至るまで、毎号のように誌面で玉屋商店の広告を見ることができる。モダン東京の紳士の社交としての「いとう句会」。



さて、夕刻の渋谷。十年前くらいまでしょっちゅうユーロスペースで映画を見ていたものだったなあと懐旧の情にひたりながら、前にユーロスペースがあった坂道をゼエゼエとのぼって、しばらく直進して、今度は坂道を下ったところで、かつての大和田町界隈に出る。戸板康二が『句会で会った人』に《この町は、今でも車で走りぬけるが、すっかり街並が変わっていて、どのへんにあったのかは、見当がつかない。p33》に書いているとおりに、戦災で焼失したいとう旅館のあった頃の町並みは想像もできないけれども、それでも地形は変わっていないはず、このあたりにあったのだなあと思いを馳せるだけで、ジーンと嬉しかった。



いとう旅館のあった場所のちょっと先に鉢山交番前交差点がある。この大きな木はいとう旅館のあった頃からあったのかなという気がして、しばらく見上げた。



いとう旅館のあったあたりを振り返ると、後ろに「マークシティ」がそびえたっていた。



いとう旅館のあった大和田町あたりには、ちょっといい感じの小体なお店が点在していて、近いうちにどこぞやでワインを飲んで、「いとう旅館」に思いを馳せたいなと思った。しかし、今日は池尻でワインを飲むのだ。と、旧大和田町を背後にズンズン直進して、目黒川沿いをテクテクと歩く。頭上には葉桜。お花見の人びとがたくさん歩いていて、ちょっとお祭り気分だった。