日没後、東京宝塚劇場で雪組公演を見物する。昭和9年1月、東京宝塚劇場開場。


今月は毎週水曜日の日没後はどこかに寄り道して、気晴らしすることにしているのだった。先週は鈴本演芸場で、今週は東京宝塚劇場だー、というわけで、午後6時過ぎ、丸の内仲通りをズンズンと日比谷界隈に向かって、直進。


ここ2、3年というもの、宝塚というと、決まって休日に母と二人で観劇していたから、平日の夜に一人で観劇というのはずいぶんひさしぶり。平日日中は毎日、東京宝塚劇場から直線距離にして数百メートルの位置にいるので、時間と気持に余裕をもって劇場に行けるし、ただ何も考えずに劇場の椅子にぼんやり坐って、ぼんやりと舞台の進行を見届けるだけで、なんだか妙にリラックスしてしまって、無心になって宝塚の舞台を眺めるだけで日中のクサクサが一気に解消して、いつも絶好の気晴らしだ。宝塚は平日の午後6時半開演の公演を見るのが一番好きだ! と言いつつ、チケット入手をサボって、このところとんとご無沙汰していた。今月は毎週水曜日は寄り道に出かけようと決めたところで、ふと宝塚のことを思い出してちょいと物色してみたら、水曜日の午後6時半開演の公演があったので、張り切ってチケットを入手。ひさしぶりに平日夜の宝塚観劇とあいなった。


というわけで、午後6時過ぎ、日比谷界隈に向かって歩を進めていったのだったが、チケットを入手した時点では心の底からたのしみにしていた公演が、いざ当日になってみるとなんとなく出かけるのが億劫になっているのはしょっしゅう。今日もごたぶんにもれず、いざ当日になってみると、なんとなく面倒になっていて、自分でチケットを買ったくせに全身義務感で劇場に向かって歩いて、やっとのことで劇場の椅子にたどりついたので、あった。


去年2009年、東京宝塚劇場の全10公演のうち出かけた2つの公演、いずれも雪組だった。水夏希が主演になってから、就任公演の『エリザベート』は見逃したものの、その後は雪組は欠かさず見ているということになる。と言っても、雪組の特別のファンというのでは全然なくて、たまたま手に入ったチケットがいずれも雪組だったというだけで、いざ出かけてみると、チケットが楽に手に入ったのがもっともだと深く納得するようなゆるい演目に毎回脱力していたものだった。あ、でも前回の『ロシアン・ブルー』は結構好きだった。それから、芝居の方で脱力していても、ショーはいつも満喫していたなア、特に『ミロワール』の素晴らしかったこと! 思えば、平日夜の宝塚見物は2年前の『ミロワール』以来だ……とかなんとか、劇場の椅子で開演を待ちながら、この2年間あまり比較的慣れ親しんでいた水夏希主演の雪組の追憶にひたっているうちに、このたびの彩吹真央さんと未来優希さんの退団公演を無事に見に来ることができてよかったではないかと、急にジーンとなる。


と、急にジーンとなったところで、開幕。まずはじまったのは、「赤十字思想誕生150周年」と冠してある、植田紳爾作・演出『ソルフェリーノの夜明け』。冬休みに出かけた六甲山ホテルでこの公演のポスターに遭遇して、ポスターの紙面にただよう「つまらなそう~」オーラに微苦笑していたものだった。で、いざはじまってみると、以前に月組で見た同じく植田紳爾演出の『パリの空よりも高く』を鮮やかに思い出すような仕上がりで、立体紙芝居という感じの深みのなさと奥行きのなさに唖然、しかし唖然としているうちにそんな緩さがなんだかおもしろくもあって、期待どおりの突っ込みどころ満載な緩さがいいぞ、いいぞと、見ているうちに不思議とちょっとハイになっていた。これだけの人材をそろえていながら、この脚本……。主演男役がちっとも英雄に見えないのがご愛敬であった。


ベルばら作者のこだわりなのか、とってつけたようなロココ風前奏が入ったあとで始まる本編は、「このまま手をこまねいているわけにはいかない!」と主演男役が赤十字設立に立ちあがるというだけのストーリー。しかし、こんな感じの学芸会的な脚本が、いかにも初期の宝塚を髣髴させて、それはそれで結構たのしいのだった。隣の席の上品なご婦人が、彩吹真央が登場するたびに熱くなっている様子が空気の振動で伝わってくる。「彩吹真央センサー」と化していて、ちょっとおもしろかった。最後にとってつけたように緑の正装で登場するシーンでわたしも便乗して、熱くなって拍手する。


「ソルフェリ~ノ~♪」に脱力し、30分間の幕間のあとのショー、稲葉太地作・演出『Carnevale 睡夢』は、はじまりからしてまばゆいばかりに素晴らしくて、全身で満喫だった。詳細をまったく覚えていないくらいにずっと舞台に見とれて無心に満喫だった。隣の彩吹さんファンのご婦人に便乗して、わたしもそのセンサーに反応するように彩吹さんを凝視。さらに、同じく今回で退団の未来優希さんの歌が素晴らしくて素晴らしくて、最後のエトワールのところでは感激のあまりちょっとウルウルだった。宝塚歌劇の周辺や裏側には清くも正しくも美しくもないドロドロとしたものが蔓延していそうだけれども、上演中は舞台をとりまく人びと全員はどこまでもいつまでも隅々まで光り輝いている。なんて素晴らしいのだろう! とジーン。今回は1階の比較的前の方に座っていたので、最後のパレードでは舞台の上の人々が手にもつ羽根かざりのついた扇子(のようなもの)とか背中にしょった羽根が動くたびにこちら側に風が吹いてくる。それが頬に心地よくて、レビューの興奮がスーっと浄化していくかのようで、この感覚ひさしぶりだなと思った。


などと、劇場に向かうときは全身義務感だったけれども、いざ劇場の椅子に座ったら、とても充実した時間。突っ込みどころ満載の芝居もたのしいし、ショーは文句なしにすばらしい。次回の花組とその次の月組は母がチケットを手配しているので、ひさしぶりに5組一周まわることができて嬉しい。その次の宙組、また平日夜に見物に出かけようかなと思う。その次は、うーん、どうだろう。



せっかくの宝塚見物。このまま手をこまねいているわけにはいかない。モダン都市文化としての宝塚歌劇について、追究しないといけない。1914年生まれの宝塚歌劇の歴史とその周辺を見るということは、1915年生まれの戸板康二の歳月を見るということでもあるのだ。


『午後六時十五分』所収「東京宝塚劇場開場」(初出:「東宝」昭和48年12月)の書き出しは、

昭和九年一月に、東京宝塚劇場が開場した時、ぼくは、慶応の予科二年であった。歌舞伎を見に劇場に通う一方で、宝塚のファンでもあった。昭和五年から十二年くらいまでが、いちばん宝塚をよく見た時期で、そのピークが、東宝劇場こけらおとしの「花詩集」ということになる。

というふうになっている。そんなオールド宝塚をちょいと追究したいなと思いつつも、特に何もしないまま今日に至っている。《宝塚の観覧券も、松竹系とはちがった、手をかけた印刷だったし、プログラムにも、特色があった。》という一節が示すような、紙ものをちょっと蒐集してみたい気も。

 


『春泥』第43号(昭和9年2月5日発行)。いとう句会の発足する昭和9年の『春泥』の表紙は鴨下兆湖によるもの。創刊当初より俳句のみならず随筆の雑誌をも目指していた『春泥』は座談会記事を強化していて、この号には「春泥新春座談会」として、昭和9年1月23日夜に「いとう旅館」における同人のおしゃべりを掲載、同月に開場の東京宝塚劇場を同人で見学した所感がこの回のテーマ。秦豊吉を前にみんな結構率直なことを言っていておもしろい。大道具に関して多くを語らない雪岱。同人の山田蕙子が入場券のことに言及して、《家に持って帰って、あの別に添えてあった黄色と紫のリボンをつけてみたら、なるほど栞になりますが、なんだか少女臭くって……》と言っていた。

 


昭和9年1月開場の東京宝塚劇場。藤森照信・初田亨・藤岡洋保編著『写真集 幻影の東京 大正・昭和の街と住い』(柏書房、1998年6月)より。この本は『写真集 失われた帝都東京』(1991年1月)の普及版として刊行されたもの。