内山美樹子著『文楽 二十世紀後期の輝き―劇評と文楽考』に酔いしれる。


歌舞伎座で『熊谷陣屋』を見て、午後はずっと、ふと気がついてみると、今日見たばかりの舞台のことばかり思っている、午後ずっと。と、『熊谷陣屋』の追憶にひたっているうちに、内山美樹子著『文楽 二十世紀後期の輝き―劇評と文楽考』のことをなんとはなしに思い出した。刊行を知って以来気になりつつも今日まで未入手だった。と、思い出したとたん、いてもたってもいられずムズムズ、なにがなんでも今日中に欲しいと思った。で、二、三の寄り道を経て、午後6時前、日本橋。あとはもう家に帰るだけというところで、丸善の前を通りかかり、吸い込まれるように店内に足を踏み入れた。目当ての内山美樹子さんの本、無事に棚にあった。


レジでカヴァーをかけてもらって、このズッシリとした重みときっちり詰まった活字が嬉しいなと、本を手にしたまま地下道を歩いて、帰りの電車のなかで、さっそくページを繰って、さっそく夢中。そして、そのあと、あとはもう寝るだけというときに、部屋で繰って、ますます夢中。明日は月曜日だというのにすっかり宵っ張りになってしまった。



内山美樹子著『文楽 二十世紀後期の輝き―劇評と文楽考』(早稲田大学出版部、2010年2月7日)。



昭和40年からの文楽の劇評が時系列に二段組みでびっしりと収録されている。登場する演者の名前はほとんど不案内、ここに収録されている劇評以後の時期、1999年から数年間ほど文楽を熱心に見ていただけで、文楽そのものに対してもきわめて浅薄な知識しか持ち合わせていない、でもまあ、かろうじて演目の名前はどれもおなじみ……という身で読んでいる次第であったが、それでも、ひとたびページを繰ったら、ページを繰る指がとまらない。


当時の文楽の布陣についてまったく知識がないなかで読み進めているので、とりあえずは、劇評の随所随所に織り込まれている作品論的なところを軸に、昭和40年からの筆者の文楽評を時系列にたどってゆくことになる。二十世紀後半の文楽上演に添うようにして、おなじみの大好きな演目を内山美樹子さんの文章で通観してゆくだけで、ページを繰る指がとまらない。


たとえば、

「盛綱陣屋」は近松半二特有の甘美なヒューマニズムを主題とする竹本座末期の傑作である。我々は歌舞伎の盛綱の花やかさの中に、この感じ易い心を持つ武将の近代人的な悲劇をみるが、文楽の「金八」は、むしろ盛綱・高綱という佐々木兄弟をめぐる劇的叙事詩の一環として聴くべきものであろう。(p31)

とある『盛綱陣屋』については、

近松半二が造形した古典悲劇の典型的な二つの性格[キャラクター]――戦略に生き、時政(家康)を討つために、妻子、兄弟、戦友、多くの影武者達の命を次々と犠牲にして悔いない佐々木高綱(真田幸村)と、戦略的目的意識に徹し切れず、より深い人間的苦悩を体験し、挫折していく、盛綱(真田信幸)、時姫(千姫)――の対照(p258)

 

文楽では首実検を歌舞伎式の派手な見せ場とせず、時政(徳川家康)の勝ち誇った笑い、盛綱の、主君を欺いた苦悩の演技で、重苦しい緊迫感を漂わす。盛綱は優れた武人でありながら、戦略の道具に殺される少年の最後の願いを、どうしても踏みにじることができなかったために、利敵行為をあえてし、裏切り者となって死ぬ。作者近松半二はそこに人間悲劇をみた。盛綱を二股武士と嫌った九代目団十郎の背後には、明治軍国主義の靴音が聞こえる。(p332)

1章のはじまりの、『盛況の「義経千本桜」』(昭和45年5月・国立劇場)の冒頭、

「義経千本桜」は、語りものである人形浄瑠璃が、演劇的要素を豊富にとり入れて、一つの完成の域に達した延享四(一七四七)年に、並木宗輔、竹田出雲、三好松洛という最高の作者陣によって書きおろされたエポックメーキングである。語りものの思想としての無常観のきびしさが、このくらい花やかな、庶民的な形で舞台化された例は、浄瑠璃多しといえども、外にないように思われる。(p38)

『逆櫓』の劇評(昭和51年3月・国立劇場)、

「逆櫓」にとって一番重要なのは、豪快さでも、時代世話の語り分けの巧みさでもない。権四郎の嘆きで泣かせることでもない。亡君義仲の敵義経を討つことに執念を燃やす無二の忠臣でありながら、義仲方から裏切り者と誤解されて、無念をのんでいた主人公樋口が、大切な義理の子を義仲の若君の身替わりに死なせた時、はじめて「二心なき忠臣の存念」を証しすることができたという悲痛な喜びを、観客に伝えることである。(p120)

『絵本太功記』の『尼ヶ崎』(「一九七七年の文楽」)、

光秀といえば、文楽でも歌舞伎でも荒々しく豪快な人物の代表のように考えられているが、原作に則していえば、彼はもの静かな、深く考え悩む性格の持主である。越路大夫の光秀は、まさしくそのような悩みつつ決断し行為する人物として造形され、ひきしまった語り口で、光秀の鬱積した情念のほとばしりが表現された。光秀と久吉の最後の出会いなども、故山城少掾のこの場面より暗く、二人の武将の非情な対決が浮き彫りされていた。(p149)

菅原の『桜丸切腹』(昭和53年2月・国立劇場)、

越路大夫の「佐太村・桜丸切腹」が素晴らしい。作者並木宗輔(千柳)が提示した人間と運命との息づまるような緊張関係、死と救いへの希求、といったテーマをさめた視点で、しかの豊かな情感をこめて表現し、念仏のあたりちり一つ動かぬ静けさである。歌舞伎の「桜丸切腹」のような甘さがなく、戯曲の深みへぐいぐい切りこんでいく。(p155)

忠臣蔵の六段目(昭和56年12月・国立劇場)、

浄瑠璃の六段目は、歌舞伎のように勘平を美化して、観客の同情をひくことはしない。むしろ誠実な青年が、敵討ちという至上命令の前に、武士の体面に執着するあまり、利己的な、冷酷な行動におし流されてしまう姿を、突き放して描き、弱小な人間が、運命の巨大な力にもてあそばれる「はかなさ」を見据えようとする。(p200)

『堀川波の鼓』(昭和58年2月・国立劇場)、

夫彦九郎は、支配階級の面目にかけて、世間に恥をさらした不義の妻を生かしておくことはできない。妻おたねは、死ぬ前に、江戸詰めの夫を恋い慕うあまりに犯した過ちであったと弁明することも、卑怯未練として、許されない。夫は武家の作法通り、無表情で妻を刺し殺す。その冷徹な瞬間に、しかし、彦九郎が妻の真情を決して疑わず、おたねも夫の愛を受けとめて死んでいったことは、文字大夫の骨太な語り口を通じて、切々と伝わってくる。状況のきびしさと抑圧された激情のほとばしりを、簡潔に表現する浄瑠璃の力である。(p245)

そして、『一谷嫩軍記』(昭和60年12月・国立劇場)、

熊谷父子が、親が子を殺すという極限状態にあって、終始歴史上の<熊谷と敦盛>になりすましていることを、どう解釈するか。文楽も歌舞伎も、トリックとかどんでん返しとか、お定まりの解説を筋書きに載せるが、それより武智鉄二氏の推理劇としての分析の方が説得力を持つ。ただ武智説は、文楽の叙事詩性に関する視野が乏しい。一方に近代的合理主義につながる完全犯罪の青写真、他方に平家物語以来の悠久なる時の流れ、両者がこん然と東風の優美な曲調に彩られる時、日本戯曲史上の最高傑作が完成するのだ。(p293)

 

 

……などと、いいかげんにしろという感じに、思わず何か所も抜き書きしてしまったけれども、これはほんの一例で、ハッとなるくだりが目白押し。と、同時に歯に衣着せぬ論調が男前! 「演劇界」1982年5月号掲載の、『文楽劇場開場を前に』という文章にある、

文楽の一種重苦しい雰囲気に抵抗を感じながら、なおかつ筆者にとって離れ難いものがあったとすれば、それは人形浄瑠璃の根幹にある人間希求――武智鉄二氏が『かりの翅』などで言われるところと多少意味合いが異るにせよ極度に閉鎖的で人間性が蹂躙されていたといわれる近世封建社会にあって、あえて語り物、人形劇という制約の多い方法を用いつつ、より高いもの、より人間らしい生き方を模索し続けた真摯な姿勢――であったように思われる。(p223)

という一節や、『一九八六年の文楽』(「演劇年報」一九八七年版所載)文中の、

文楽の現代における存在意義は、歌舞伎ではもはや見失われつつある日本の近世、とりわけ十八世紀が、ここに生きていることにあり、文楽自体、十八世紀末からすでに古典化の道を選びとってきた事実を踏まえて、現時点における古典としてのあり方をより一層確立すべきである。(p315)

という一節が指し示すような、四十年来にわたって一貫した真摯な態度で書かれた劇評を、こうして一冊の本として、活字が詰まったずっしり重たい一冊の本として手にすることができた幸福をおもう。



それから、本書によって、昭和40年に二十五歳の内山美樹子さんの劇評を掲載したという、利倉幸一の『演劇界』という存在に、あらためて目を見開かされたことも大収穫だった。内山美樹子さんのずっしりと活字の詰まった重たい一冊の本を手にして、昭和10年二十歳の頃から始まる戸板康二による劇評の蒐集への思いが胸にふつふつ。と同時に、歌舞伎座新開場の直前、昭和25年10月25日に始まる利倉幸一の『演劇界』への思いがふつふつ。と、今までずっとさぼっていたことに真剣に取り組まねばというところ。


と、そんなふうにして、昭和26年開場の歌舞伎座に足を踏み入れた最後の日の夜が更けた。今日の『熊谷陣屋』に導かれるようにして、内山美樹子さんの著書を手に取ったのは偶然ではない、と思う。