建て替え前の歌舞伎座の最後の芝居見物は、すばらしき『熊谷陣屋』。


朝、弁当を作りながら、ラジオのスイッチを入れる。本日の「音楽の泉」はベートーヴェンの《ワルトシュタイン》。何度聴いてもいつ聴いても大好きな曲、なんという風格……などと聴き惚れているうちに手抜きの弁当が出来上がって、イソイソと身支度。次の曲は《月光》、フィナーレにノリノリになっているうちに支度がととのって、外出。東銀座界隈でコーヒーを飲んでひと休みしたあとで、午前11時開演の歌舞伎座へ。建て替え前の歌舞伎座に最後に足を踏み入れる瞬間。


今月は、初日に『助六』見物に出かける予定でいたのだけれど、所用で断念(でも、わたしよりもずっと行きたがっていた知人にチケットをプレゼントできたので、かえってよかった)。で、先月に引き続いて、今日もわたしの椅子は3階B席。いざ劇場の椅子にたどりついてみたら最後列(の通路際)。椅子に座った瞬間、思いがけなく、その見晴らしに陶然となる。歌舞伎座の最後の一日にふさわしい、わたしにとっては最上の席だなあと思った。


そして、今日のメインは『熊谷陣屋』。浄瑠璃の本文を読むといつもクーッとその劇構造にシビれて、もっとも好きな演目と言ってもいいかもしれない。それをこの配役で見られるなんて、こんなに嬉しいことはない、「さよなら歌舞伎座」の喧噪にひるむことなく、ぜひとも見に行かねばならぬと、上演を知った瞬間、がぜん張り切った。無事に見物できて、こんなに嬉しいことはない。などと、舞台を見る前から大喜びしていた『熊谷陣屋』だったけれども、実際の舞台がはじまってみたら、一瞬たりとも他に気持ちがゆくことなくずっと舞台を凝視して、舞台に精神集中して、自分にとっても最上の態度で見物できた。もうなにもかもが最高だった。


歌舞伎見物における、長年(たかだか十年ではあるが)のわたしの夢のひとつに、『熊谷陣屋』の最上の舞台を見たい、というのがあった。演目自体は大好きだけれども、芝居見物ではどうも途中でダレてしまうことが多かった。一分の隙もなく、舞台を凝視したいという、そんな十年来の夢が今日叶ったのだ。ずっと前に文楽で吉田玉男の弥陀六を見たとき、初めて『熊谷陣屋』のドラマツルギーにうなり、本文を読んでクーッとなり、その後武智鉄二の文章を読んで、さらにクーッとなり、以来ずっと、歌舞伎のなかでもっとも好きな演目となったのだけれども、こちらの観劇態度にムラがあり過ぎるということもあって、実際の舞台で満足したことはあまりなく、舞台の流れを把握する(「型」の勉強のようなものを試みる)という以上の時間にはならなかった。それが、今日は心の底から『熊谷陣屋』を満喫。昭和26年に開場の歌舞伎座、戸板康二の劇評家生活とともにあった歌舞伎座の建物に足を踏み入れる最後の日に、わたしの長年の夢、『熊谷陣屋』上演を心の底から堪能したい、という夢がかなったのだった。


『熊谷陣屋』のあとの幕間、3階下手側のロビーのソファ、「想い出の歌舞伎俳優」の写真を見上げながら、弁当を食べる。わたしの好きな十一代目仁左衛門の写真を見ながら、弁当を食べたあとで、立ちあがって見目麗しい六代目梅幸の写真を見つめたあとで、オリエンタルカレーの人形の前を通過して階段を下って劇場の外に出る。外は一面の青い空。勘三郎の『連獅子』もたのしみにしていたし、もちろん悪かろうはずはないのだけれども、『熊谷陣屋』を今の歌舞伎座の建物で最後に見る舞台にしたい、という誘惑にはどうしても勝てなかった。



こけら落としの喧噪が去ったあとの、新しい歌舞伎座で平常の芝居見物ができるのは、いつごろになるのだろう、今は、そんな日々がやって来るのがひたすらたのしみだ。5年後くらいかな。5年後の2015年は、戸板康二生誕百年の年。

 


濱谷浩《東京 歌舞伎座客席 1938年》、図録『モダン東京狂詩曲』(東京都写真美術館、1993年)より。大正14年1月に開場して戦災で焼失した先代の歌舞伎座、明治製菓の「スヰート」と同時代、「モダン都市東京」としての歌舞伎座とその時代の方に愛着があるのだったが、次の新しい歌舞伎座が出来上がるまでに、昭和26年開場の戸板康二の劇評家生活とともにあった時代の歌舞伎について、ちょっと勉強したい気がしている。

 

小泉癸巳男《版画東京百景 第46景 歌舞伎座夜景》(昭和9年2月作)。『版画東京百景』(講談社、昭和58年3月25日)より。巻末の飯沢匡による解説に、《コンクリートで木造建築とみられる増築をしたと評判になった。実に良く夜の風景がでている。しかも今は、芝居絵の絵看板や賑やかな広告が前面にあって、この頃の、さっぱりした風情は驚くばかりだ。もっとも顔見世興行の時は、座布団の山など、贔屓からの贈り物が山積みになって、華やかなものであった。》とある。