1930年代の「東京朝日新聞」の劇評。中戸川吉二の文楽評と三宅周太郎。


国会図書館にて。ちょっと時間が余ったので、朝日新聞のデータベースを検索。図書館に返してしまったので文章は引けないけれども、つい先日、中央公論社の『森銑三著作集 続』に収録の『読書日記』をホクホクと読んでいたら、昭和十年前後の朝日新聞に掲載された小島政二郎の劇評をくさしているくだりがあって、「おっ」となった。

 

年明けに、数年ぶりに戸板康二の『演劇五十年』を精読した折、特に印象に残ったのが、1930年代の歌舞伎興行とそれに付随する劇評について、昭和25年時点の戸板康二がかなり痛烈に書いていたこと。昭和7年11月の団十郎三十年追善興行の頃から松竹の広告に「豪華版」と類する文字が躍るようになった時期について、

そして宣伝は「最善、最美、無比、全名優出演」等の垢ぬけのしない文句をうたいはじめた。昭和六年九月満州事変が始まり、軍需工業を中心とする一種の景気によつて、新興観客層があらわれたことも、その原因のひとつかもしれない。(p200)

とし、この時期の岡鬼太郎の劇評を紹介したあとで、

 もう一つ、当時の現象として、新聞紙上に、専門家以外の随筆体劇評があらわれるようになつたことも、注意しなければならぬ。
 これは小山内薫以後、岡鬼太郎が執筆した朝日の劇評欄を、昭和七年に池田大伍が受け持ち、三月まで書いて筆を投じた時に始まつたことである。
 国文学者、洋画家、社会運動の闘士、大衆作家等が登場し、最後には英文学者の福原麟太郎が、一時朝日新聞の劇評を担当するまでに至つた。むろんその間、画人でも鏑木清方のごとき『歌舞伎』以来の劇通や、菊池寛、正宗白鳥等の作家の書いたものには教えられる点が少なくなかつたが、この風潮は、大正十三年来三宅周太郎が殆ど書きつづけていた東日(のちに毎日)にさえ及んだ。(p201)

と記し、《これは、対象とする歌舞伎自体の変貌を敏感にジャーナリズムが知つたことと見てしまえば簡単であるが、》と断ったあとで、1930年代以降の時期を、戸板康二は《劇評史の上で陥没時代》と総括している。


そんな新聞の劇評を、震災後から昭和初期にかけての「随筆」全盛時代の一側面として捉えることができるかもと、わたしとしてはその点でまずは非常に興味深かったのであったが、弱冠二十歳の戸板康二が『三田文学』に劇評を寄稿する昭和10年以降の時期の、歌舞伎とジャーナリズムについて、ひいては昭和8年以降の新劇全盛時代を含めた1930年代の演劇のありようについて、昭和25年に刊行の『演劇五十年』の戸板康二の筆致に、青年期の実感がこもっているのが、よかった。この本を書いているとき、十代のころから熱心にこしらえていた劇評のスクラップブックが、日本演劇社を退社間際の戸板康二の卓上に鎮座していたのだなあと思っているうちに、戸板康二の「劇評家」生活とともにあった「演劇」とそ周囲、昭和10年からの「演劇六十年」について自分のなかで深めてゆくことが、今年の抱負だなと思った。年明け、『演劇五十年』を精読したことは得難い体験だった。



その時期の歌舞伎座の外観の一例として。明治製菓株式会社・株式会社明治商店発行《昭和八年五月 新館落成記念》の絵葉書のうち、「東京観劇特売招待会記念」と題した絵葉書。劇場正面にある幟には、『演劇五十年』の戸板康二の記述そのまんまに、「全名優出演花見月の大歌舞伎」の文字がある。『演劇五十年』には、《歌舞伎自身を、頭から難解と思う見物は、映画、レヴューに走り、もう近づこうとしなかつた。しかし、団体客が適当に座席を埋めて、興行師は鼓腹撃壌しているのであつた。》というくだりも。この明治製菓の招待会は、そんな「団体客」の典型だった。


 

そんなこんなで、『演劇五十年』を数年ぶりに精読して、1930年代の戸板康二とその時代についての資料、ということで、当時の新聞劇評を目にしたいと思ったのだったが、いつものように思っただけで、それっきりになっていた。このたび、森銑三の『読書日記』のおかげで、ひさしぶりに思い出して、国会図書館の待ち時間の合間に、ちょいなとデータベースで検索。


今日はほかにやらねばならぬことがあるし、今日のところは軽く概観するとするかなと、昭和5年の東京朝日新聞紙上を見てゆくと、戸板さんが書いているとおりに、昭和6年12月までは毎月、岡鬼太郎が劇評を書いていたが、

  • 明けて、昭和7年。1月から3月まで池田大伍、次いで4月は小宮豊隆(「15年ぶりに」芝居見物とある)、菊池寛(5月)、荒畑寒村(6月)、里見とん(7月)、本間久雄(8月)、水木京太(9月)、関口次郎(10月)、鏑木清方(11月)、有馬生馬(12月)。
  • 昭和8年は、正宗白鳥(1月)、岡本一平(2月)、福地信世(3月)、辰野隆(4月)、石割松太郎(5月)、谷川徹三(6月)、高橋誠一郎(7月)、柳沢健(8月)、徳田秋声(9月)、高浜虚子(10月)、下村海南(11月)、三宅正太郎(12月)。
  • 昭和9年は、森田草平(1月)、倉田百三(2月)、前田多門(3月)、長谷川時雨(4月)、鏑木清方(5月)、村山知義(6月)、大田黒元雄(7月)、中戸川吉二(8月)、正宗白鳥(10月)、木村荘八(11月)、登張竹風(12月)。
  • 昭和10年は、鶴見祐輔(1月)、松根東洋城(2月)、小島政二郎(3月)、小宮豊隆(4月)、山田耕筰(5月)、吉井勇(6月)、岩田豊雄(7月)、番匠谷英一(8月)、安部能成(9月)、辻二郎(10月)、石割松太郎(11月と12月)。
  • 昭和11年は、大佛次郎(1月)、岡本一平(2月)、鏑木清方(3月)、水木京太(4月)、藤田嗣治(5月)、島津久基(6月)、楠山正雄(7月)、伊庭孝(8月)、関口次郎(9月)、小島政二郎(10月)、鏑木清方(11月)、佐々木孝丸(12月)。
  • 昭和12年は、里見とん(1月)、三好十郎(3月)、小宮豊隆(4月)、水木京太(6月)、木村荘八(7月)、水木京太(9月)、関口次郎(10月)、楠山正雄(11月)、佐々木孝丸(12月)。
  • 昭和13年は、鏑木清方(1月)、飯塚友一郎(2月)、関口次郎(3月)、岩田豊雄(4月)、楠山正雄(5月)、水木京太(6月)、番匠谷英一(7月)、佐々木孝丸(8月)、関口次郎(9月)、楠山正雄(10月以降)。


というふうな顔ぶれになっていた。うーむ、と、そんななか、最大の注目はなんといっても、昭和11年7月の楠山正雄であった。楠山正雄が十数年ぶりに劇評の筆をとったことに対し、久保田万太郎は当時「東京日日新聞」に連載していた『さんうてい夜話』にて、「久闊! 楠山正雄」という一文を草し、熱いエールを送った。実際の東京朝日新聞の紙面(パソコンのモニター越しではあるが)で楠山劇評を目の当たりにして、ジーンと当時の久保田万太郎が憑依して、思わずわたしまで熱くなってしまった。



と、楠山正雄に注目する一方で、極私的に嬉しかったのは、昭和9年になんと中戸川吉二が劇評を書いていること! 「東京日日新聞」に劇評を書いていた三宅周太郎はさぞかしニヤニヤしていたことだろうと思うと、頬が緩む。3本書いているうちの、昭和9年7月26日に掲載の中戸川吉二『風前灯藝術 歌舞伎座の文楽座』の書き出しは、

 文楽の引越興行は昭和三年七月演舞場以来の僕はフアンである。つまり、当時、三宅周太郎が熱情をこめて描いた「文楽物語」に感化されたフアンのひとりといつていい。固よりその以前から文楽を知らぬでない。明治末期から大正初期へかけ、娘義太夫の魅力も知らぬでない書生さんであつたなれど、「タアナアが描いてからロンドンの霧は深くなつた」やうに、三宅の表現に驚き、人形浄瑠璃を、文楽を、全く新らしい目で見るやうになつたのだ。
 これは僕ひとりの経験であらうか。この古風な、時代の嗜好と逆行的な、風前灯藝術を愛惜せんものと、半年ぶりに又も大伽羅、大歌舞伎座を累々と埋めてゐる観客を眺めるにその幾割かが三宅の名著に感化された善男善女であらうも知れぬ。文楽の太夫、人形遣ひ、当事者の諸君よ、卿等は断じて周太郎に足を向けて寝る可からず、――とこの機会にいつて置く。

というふうになっていて、中戸川の三宅への深い友情にまずはジーン、そして、ひさしぶりに『文楽の研究』を思って、さらにジーン。と、そんな中戸川吉二は、昭和9年8月の東劇と歌舞伎座の劇評を書いていて、歌舞伎座の劇評(昭和9年8月9日掲載)、『退屈な牧の方 歌舞伎座の納涼興行』の

 筋書を買つてみると、開巻に、牧の方の説明として、北條氏の血統表がついてゐる。血統表は競馬のブツクでお馴染だから、ゴヂヤゴヂヤ出場する狩衣や鎧武者のひとりひとりの関係や、読めば解らなくないが解つたとしても、一向面白くもなつて来ない芝居である。大体役者が、脚本をのみこんで演つてゐるとは信用出来ない。自分の役目の科白を夢中で饒舌り、仕草をしてゐるだけだらう。大先生の書いた脚本だから悪いはずがない、とだけ信じ切つて。――筋書のケツに、役者の楽屋話がのつてゐる、石鹸の広告になつたらあわててやめることにして、みると、博士博士と誰もが坪内先生をあがめ奉つている。博士といふ言葉が、逍遥氏の代名詞にすらなつてゐる。……

というふうくだりにちょっと笑ってしまった。この年の夏、松蔦が牧の方を演じることになったことについて、戸板康二も言及していたなと思いだした。そして、これからもドシドシ、古書展でミツワ石鹸が裏表紙の当時の筋書を蒐集してゆきたいと思いを新たにする。



帰宅後、昭和9年7月下旬の文楽引越興行について、三宅周太郎はどんなことを書いているのかなと、『演劇巡礼』(中央公論社、昭和10年5月)を繰ったら、「歌舞伎座の文楽」というタイトルで(p527)、

 歌舞伎座へ文楽の人形浄るりが来た。下旬から僅に十日間は、羽左衛門休演のたゝり、だがこの涼しさだ。幸運である。
 幸運といへば、近年文楽の東京のフアンは、実にインテリが多い。いゝ観客層が多い。たまに来る珍しさとはいへ、これも文楽の新しい幸運である。

というふうな書き出しになっていた。生え抜きの劇評家・三宅周太郎と、ひと月だけの劇評家・中戸川吉二はともに招待日に歌舞伎座で並んで観劇していたのかなと想像して、にんまり。三宅周太郎の、中戸川吉二と水木京太とのそれぞれに対する友情のありように、日ごろから興味津々なのだった。