戸板康二と池田大伍。『三田歌舞伎研究』と『ひと』と『スヰート』。


今月の新橋演舞場で見た『名月八幡祭』のおさらいのようなものをするべく、とりあえず加賀山直三著『新歌舞伎の筋道』(木耳社、昭和42年9月)を繰ってみたら、これがまた、しみじみ面白いのであった。(この本は、戸板康二も愛着たっぷりに回想している、昭和7年7月歌舞伎座初演の真山青果『国定忠治』の章が大好きで、折に触れ読み返している。)

 私事をいえば、私は池田さん崇拝で、若年の頃、およそ有名人を訪れることを億劫がる私にしては、かなりたびたび進んで築地のお宅にうかがったものである。築地四丁目六番地、東劇の隣の郵便局裏の細道にある仕舞屋風の家で、いかにも市井の学者の隠宅といった風情の造りだったが、その玄関傍の一段上がった部屋で、池田さんは大きい声で、一点の気取りもなく高らかに笑いつつ語られた声と言葉はいまだに耳底にありありと残っている。神経がピンと徹っているのに、いっさいのこだわりのない、自由で大らかで、抱擁性に富んだ人柄が、若年の神経質からとかくコチコチになりがちだった当時の私でさえ心から安んじて対応できたのだった。
 師事していた岡先生に対するとき、若い者にも一人前の大人同様に慇懃丁寧に対されても、内心は怖くてコチコチしていた私も、池田さんには自分の欠点も無学無識も平気でさらけ出して対することができた。あの心持ちのひろびろとした暖か味はその後接したいろいろな先輩大家の誰との間にも経験したことがなかっただけ、今これを書いている間でも、懐しさも懐しいという思いである。

という、著者が池田大伍を回想したくだりも実にいいなあと放心。今月の芝居見物、築地から新橋演舞場へ向かって歩く途中の、東劇の隣の京橋郵便局の裏あたりに池田大伍の家があったのかと思うと、ちょっと嬉しい。


戸板康二は、慶應国文科の折口信夫教室の一学年上の先輩、池田弥三郎とは、予科3年に在学中だった昭和9年に初めて出会ったという。友人の叔父さんということもあって、上掲の加賀山直三とまったくおんなじように、戸板康二も池田大伍に親炙していて、『演芸画報・人物誌』にある、

ぼくは、劇評というのは元来ほめるべきものなのだよという言葉を聞いた。中国の例を引いての話だったが、これが大変身にしみている。ぼくが「三田文学」の見開き二頁の劇評を書きだした頃に、聞いたのである。その後も親炙したが、つねに大人[だいじん]の悠々たる風格があった。

というくだりが、わたしにとっても前々から身にしみている

 

『三田歌舞伎研究』第1号(慶應歌舞伎研究会・昭和9年2月5日刊行)。岡本綺堂、池田大伍、石割松太郎、上沼道之助の論考を掲載。戸板康二が三田在学時に在籍していた「歌舞伎研究会」発行の雑誌。同年7月に第2号、翌昭和10年3月に第3号、昭和11年1月10日発行の第4号まで所在を確認している。第1号から「編輯同人」の一人に戸板康二の名前があり、第4号では編集後記を執筆している。池田大伍は、『三田歌舞伎研究』第2号以外の3冊に寄稿をしていて、自身が寄稿している3冊の池田大伍旧蔵『三田歌舞伎研究』は現在、早稲田大学演劇博物館に所蔵されている。

 

『ひと』第17号(天鈞居・昭和12年4月10日)。上記の『三田歌舞伎研究』第1号と同月、昭和9年2月、池田弥三郎の実家「天金」内の「天鈞居」を発行元に、池田弥三郎の編輯によるリトルマガジン『ひと』の第1号が刊行され、その最終号がこの第17号。池田自身が「三田国文科の手習い草紙」と称していた通り、結果的には池田の大学院卒業とともに終刊となった。叔父さん池田大伍は「三田国文科」の面々に交じって、たびたび寄稿していて、この最終号には「道といふこと」という一文が掲載されている。編集後記に池田弥三郎は、

此原稿の内容を私が叔父の口から聞いたのは、まう随分前の事です。確、私がまだ中学を出なかつた頃ですから、まる七年もの昔です。其間、叔父の許に遊びに行くと、いつも最後は此話の内容と一致する処に落ちて、『学ぶにしかざるなり』と言う事を繰り返して教へられました。叔父にとつても、其が半生の指導精神だつたらうと思ひます。

というふうに書いている。いざ本文を読むと、「三田文学」に劇評を書きだした頃に戸板康二が池田大伍から聞いた話の内容もまさにこれであったということを確信できる(ような気がする)。

 

『三田歌舞伎研究』が発刊された昭和9年に戸板康二は池田弥三郎と知り合った。若き日の戸板康二、すなわち「三田文学」誌上の弱冠二十歳の劇評家として世に出た頃に、友人の叔父さんということもあって、劇界の大人、早稲田の池田大伍の謦咳にも接していたのだった。『三田歌舞伎研究』や『ひと』といったリトルマガジンを通した、池田大伍との交流にも前々から注目している。昭和14年4月、戸板康二は明治製菓の宣伝部に入社し、宣伝部長内田誠のもとで、宣伝冊子『スヰート』の編輯に従事する。昭和14年7月発行の『スヰート』には池田大伍の「西洋菓子は何時から」というエッセイが掲載されている。入社間もない戸板康二による依頼だったのかなと想像している。この昭和14年7月発行の『スヰート』は、早稲田大学演劇博物館に所蔵されているただ1冊の『スヰート』。これも池田大伍の寄贈だったと思う。