明治製菓の神津牧場の絵葉書。


戦前の明治製菓にまつわる紙ものを集めるのが、ここ数年来のおたのしみ。最近買って嬉しかったのが、明治製菓経営の神津牧場の絵葉書。



絵葉書《ジャージー種牛 明治製菓神津牧場》(明治製菓株式会社発行)。添えられてある米川稔の短歌、「しばらくは天つ日そそぐ高原に 牛が草食む音を聴きけり」を胸のなかで反芻しているうちに、日頃のクサクサが一気に解消なのだった。のどかだなア。

 

『旅の衣は』(毎日新聞社、昭和59年7月)の「神津牧場」の項によると、明治製菓が戦前に神津牧場に牧場を持っていた関係で、明治商店宣伝部員戸板康二は神津牧場へは何度も出張したという。

出張した仕事のひとつに、山道の表示板の点検ということがある。明治では、隅にバターやチーズの商品名を書いた板の札を、牧場へのコースの要所要所に設置していたのが、心ない旅行者がいたずらをして、右折すべき道の角の表示板の矢の形の先が左を指していたりすることがある。定期的にそれを見てまわって、事故を予防するのも、宣伝部の業務だった。

とのことで、宣伝部長内田誠の片腕として華麗なる文化人交流をしている一方で、戸板青年は、宣伝部の若手社員としての地味な仕事も真面目にこなしているのであった。


『旅の衣は』の「神津牧場」の最後には、以下のエピソードが紹介されている。

 夕方神津牧場にたどり着く予定で、上州一の宮に寄って、道草を食っているうちに、下仁田へゆくと、とっぷりと日が暮れている。筒型の懐中電灯を持って、山道をひとりで歩いて行った。足もとが一応見える程度の光はあった。
 ところが、いよいよ道が急坂になったと思うあたりで、電池が切れてしまった。まっくらで、歩行は困難だ。何とも、こわかった。
 しかし、目が馴れてくると、何となく見えて来たのは、星あかりなのであろう。引き返すわけにもゆかないので、心細い思いをしながら、ゆっくり歩いてゆくと、道の右手に農家のあるのが見えた。地獄に仏と喜んで戸をたたき、電池をゆずってくださいませんかといったら、あいにく持ち合わせていないが、「これならどうです」と出されたのが、火縄である。
 「忠臣蔵」の五段目の早野勘平が、くるくる回して足もとを照らす火縄をもらい、火をつけて、どう考えても勘平という柄ではないが、歌舞伎で見たのと同じように、回しながら登って行った。
 この夜、神津牧場の灯が見えた時は、リンドバーグではないが、そのあかりを指さして、涙を流しかねなかった。
 たしかこの時、牧場の宿泊者名簿を見たら、前夜旧知の青木清治という青年が友人と一泊していたので、「ひと晩ちがいで、会いそこなった」と残念に思った。青木君は当時の大谷広太郎、いまの中村雀右衛門である。

これはいつ頃のことなのだろう? 特定ができたら、すぐさま「私製・戸板康二年譜」に追加したい項目なのだった。