日生劇場で音羽屋の『摂州合邦辻』を見る。


上演を知ったときから心待ちにしていた「日生劇場十二月大歌舞伎」。村野藤吾の建築が目にたのしい日生劇場はたまにしか観劇の機会がめぐってこないので、建築見物という点だけでも貴重だし、それになによりも、合邦の通しを見ることができるというのが嬉しくってたまらない。

 

午後4時前。都営三田線を下車してイソイソと地上にあがり、劇場の建物を眺める。これから観劇の時間が控えていると、いつも見慣れている外観がいつもよりもずっと輝いて見える。


日比谷公園を背後に、日生劇場の外観をのぞむ。向こうには東京宝塚劇場。

 


道路を横断して、日生劇場の建物に接近。柱の片隅に「定礎 1962」の文字。

 

ひととおり外観を見物したところで、いよいよ劇場の内部へ足を踏み入れる。


日生劇場はひさしぶり。前回来たのはいつだったかな、宙乗りしている亀治郎の武田信玄を見て以来かな、ウムいったいあれはなんだったのだろう……というようなことを思いながら、ロビーを練り歩く。

 

日生劇場でいつもたのしいのが赤カーペットの螺旋階段。つい必要以上に上り下りしてしまう。


ひととおりロビー散歩を満喫したところで、2階バルコニー席の席へと向かう。天井がたのしく、随所でアホみたいに見上げてしまうのだったが、劇場の椅子に坐るとさらに気持ちが高揚。しばし場内を見上げ、なんとはなしに増村保造の『盲獣』を思い出してしまった。きちんと花道が設置され、舞台には歌舞伎上演用に特別に誂えた枠のようなものがほどこされていて、なかなかいい感じ。のんびり4時半の開演を待つ。頭のなかで、越路吹雪の日生劇場リサイタルの実況録音を再生して、すっかりいい気分になる。



玉手御前というと、2001年5月の歌舞伎座の菊五郎に陶然となり、その美しさは今でも忘れられないものがある(当時の舞台写真を実は今でも大切に架蔵している)。菊五郎の玉手御前というと、戸板康二が感動的に書いていた梅幸の玉手御前に思いを馳せずにはいられぬ。それから、合邦の通しというと、2007年11月の国立劇場における藤十郎の玉手御前がたいそうすばらしく、心が洗われたものだった。藤十郎の玉手御前というとおのずと武智鉄二云々に思いが及び、それだけでうーむとなる。……と、合邦は見るたびに(といっても2回だけど)、重層的な感銘を受けていたのであった。舞台そのものに埋没すると同時に、背後にある役者の系譜というというか、演劇史的なことを思いを馳せずにはいられない。そんな重層感が「歌舞伎」の典型という気がする。

 

とは言うものの、具体的な中身はすぐに忘れてしまう刹那的なわが芝居見物であるので、あたかも初めて見るかのように見ることになった、このたびの合邦の通し上演。菊之助の玉手御前ということで、わたしも気分一新、新しい気持ちで合邦に向き合った時間だった。劇場の空間と相まって、たいへん満喫したとてもよい舞台だった。2010年の芝居見物をいい気分で締めくくることができた。来年はどんな芝居を見るのか、見ないのか。

 

幕開けの住吉大社は紅葉で、雪景色の高安館……というような、通し上演ならではの季節の推移が嬉しい。住吉大社で南海電車沿線のことを思い出したり、俊徳道や合邦庵室の天王寺などなど、風土感も嬉しい。岩波の旧大系『文楽浄瑠璃集』の註釈にあった『摂津名所図会』のことを鮮やかに思い出して、関西遊覧への思いがフツフツと煮えたぎる。……などと、いつもながらに芝居見物をしながらも、いつのまにかほかのことを考えてしまっていたりもするのだけれど、今回の上演は総じて、はじまりから無心に舞台に引きこまれて、とても幸福な時間だった。事前に読んでいたのは「合邦内の段」の本文だけだったので、そこで語られていた出来事の前段階はこんなふうで、その真相はああなのだったフムフム、というような、素朴な気持ちで舞台を眺めるのがたのしかった。羽曳野の時蔵がグッと舞台を引き締めていて、菊之助と時蔵の二人が舞台にいる時間が実によかった。

 

とホクホクと楽しんでいたところで、幕間になって、しょうこりもなく劇場散歩を満喫したあとで、いよいよ待ってましたの菊五郎が登場。愛嬌たっぷり。そして、このあたりはぜひとも文楽で再見したいものだなあと、このごろとんとご無沙汰の文楽が急に懐かしくなるのだった。そして! いよいよ迎えた「合邦庵室の場」は玉手御前が花道に登場するだけで胸が詰まってくるくらい、全歌舞伎のなかでもとびっきりお気に入りの場面なので、それだけで胸がいっぱい。そして、最大の見どころとも言うべき、クドキのあまりの美しさにはただただ陶然であった。

 

玉手御前はその才気と責任感でお家を守るところは千代萩の政岡のようである。偽の恋だからこそいっそう芝居がかり、女の恋が極度に強調されることで「恋する女」のグロテスクさのようなものが際立つのが玉手御前である。苧環を持って男を追いかけてくるお三輪は最後に恋する男のためによろこんで死んでゆく。思い込み激しく恋する八重垣姫の、最後の奇跡にいたるまでの数々の美しい型。などといった他の丸本物に登場する恋する女の系譜を思っているうちに、玉手御前は歌舞伎の女形の姿を重層的に表現する役なのだなあと思った。「女形」そのものを体現するという点で娘道成寺のようだなあと思う。信念を胸に懸命に生きている美しく賢い女性と、恋する女のグロテスクさとの共存が玉手御前なのだ。そうだ、玉手御前を見るということは「歌舞伎の女形」を見るということなのだと、菊之助の玉手御前の美しいクドキにひたって、ただただ陶然であった。歌舞伎を見る歓びに陶然であった。歌右衛門は、梅幸は、それから三代目梅玉は、六代目梅幸は、どんな玉手御前だったのだろう! と思いを馳せるだけでも、歌舞伎の歓びで胸がいっぱいだった。

 

 

後日に、渡辺保さんの劇評を読んで、菊之助が玉手御前のクドキを、父菊五郎や祖父梅幸のように二つに分けずに前半だけにしたということを知って、「おっ」だった。六代目菊五郎は生涯に三度演じた玉手御前のうち、最後の三回目だけ本文どおりにしたという。3年前の坂田藤十郎の玉手御前も本文どおりだったという。ウムなるほど。

 

それから、合邦庵室の場の上手に池があるなあと思っていたら、この池は、皮膚病が治った俊徳丸が己の顔面を確認するために使用されることに「おっ」だった。このくだりに関しては、国立劇場の上演資料集に掲載の、昭和4年11月帝国劇場の梅幸の、三宅三郎による劇評にある、《我童の俊徳丸は、例のせりふ廻しの欠点などで技芸としてはよくないが、病気平癒の所で、平馬の刀を奪って平馬を切り肩膝立ててそれに顔を映す演り方は、珍しく派手で面白い。ここの着付の変化も変わっていてちょっといい。》という一節が非常に興味深かった。こんな型もあったのか!

 

上演資料集巻末に掲載の安永2年2月初演時の絵尽には、合邦庵室の場にも壺井平馬が憎々しげに愛嬌たっぷりに登場している。昭和16年6月東京劇場の菊五郎所演時の、内田三千三の劇評の《吉之丞の壺井平馬は嬉しい。写実の敵役にならずに……茶気とニュアンスが豊郁にあっていかにも歌舞伎劇の敵役らしい。理屈や技倆だけでは出せないトボケた味とそれでいて院本劇の中に溶け込んでいる色感に富んでいて一種の雰囲気を出している珍重すべき名脇役だ。》というくだりが嬉しい。とかなんとか、現在は庵室の場に登場しない壺井平馬がちょっとツボであった。……などと、だからなんだという感じではあるけれども、歌舞伎はなにかとおもしろいなあといつも思うことを今回も思う。

 

午後8時。「平城遷都1300記念」の『達陀』はサボることにして、イソイソと外に出る。出待ちの人びとで賑わう東京宝塚劇場の前を通り、晴海通りを横断して、丸の内仲通りへ。

 


平日に毎日歩いている通りは、週末の夜はひっそりとしている。たまに昼食を食べるあのお店でワインを飲んでみたいなと急に思いついて、イソイソといつものビルの地下へと向かうのだった。芝居見物のあとのワインは格別だなあと、いつまでも上機嫌。


今日が2010年最後の芝居見物。今のところまったく予定がないのだったが、次に歌舞伎を見るのはいつになるのかな。案外すぐに見に行くのか、あるいは、このまま遠ざかってしまうのか、それはわたしにもわからない。