5年ぶりに戸板康二のお墓参り。鶴見線に乗ったあと、総持寺へ。


正午過ぎ、秋葉原で乗り換えて、京浜東北線に揺られてトロトロと、鶴見へ向かう。

 


電車が蒲田駅を出て多摩川を渡り終えたところに、かつて明治製菓の川崎工場があった。現在は「ソリッド・スクエア」という名のビルになっている。去年の明治節の休日、11月に川崎の工場街を散歩したとき、初めて明治製菓工場の跡地に出かけてみた。いざ出かけてみると、線路と多摩川を辺にした多角形という立地に、驚くほど鮮やかに工場のあった頃をイキイキと実感することができて、感無量だった。ビル1階のドトールでコーヒーを飲んで、明治製菓川崎工場に思いを馳せて、格別だったなアと、あの日を懐かしく思い出し、電車が蒲田を出たところで、思わずガバッと立ち上がって、車窓から工場の跡地をのぞむのだった。

 

戸板康二は昭和14年4月に明治製菓の販売営業部門である明治商店に入社、菓子部宣伝係に配属される。内田誠宣伝部長(正確な肩書は明治商店、のち明治商事の「係長」か)のもとで明治製菓の広告宣伝に従事するも、昭和18年2月1日をもって明治商事株式会社本店が宣伝部を廃止したあと、 

 軍がすでに管理していた川崎の工場の倉庫の納品係に転属させられたが、ソロバンができないので、いちばん肝腎な在庫品報告の数字がいつも狂う。
 京橋の本社で、レイアウトや校正をしていた時代を思い出して、泣きたかった。それで折口先生を訪ねて訴えると、女学校の口があり、行ってみないかといわれた。のちに先生の養子になった藤井春洋さんの見ている前で、墨で履歴書を書き、先生に目を通してもらい、添書を持って、山水女学校にゆくことにある。(『回想の戦中戦後』p33)

という次第で、ほんの一時期、川崎工場に通っていたものの、川崎工場は戸板康二を明治製菓から去らせることとなった。

 


川崎の次は鶴見。鶴見川を渡り、もうすぐ電車が鶴見駅に到着しようという頃に、車窓からは今度は森永製菓の工場のエンゼルマークが見える。川崎に明治製菓の工場はもうなくなってしまったけれども(1989年に廃止)、鶴見の森永製菓の工場は今も健在だ。閉鎖も検討されていると何カ月前の新聞で知ったのだけれど、どうなるのかな。戦前の製菓会社探究者の身としては、ずっとこの地にとどまっていて欲しい!



鶴見といえば森永の工場なんだなあと上機嫌になったところで京浜東北線は鶴見駅に到着。イソイソと下車すると、まん前に「森永チョコボール」の広告があって、さらに気分が盛り上がる。「クエ、クエ、クエ、チョコボ~ル~♪」と鼻唄交じりで、ひとまず改札の外に出る。



鶴見駅に来るのはちょうど5年ぶり。2006年1月に初めて、戸板康二のお墓のある総持寺に出かけたあと、宮脇俊三の『時刻表二万キロ』を胸に鶴見線に乗った。総持寺から国道駅に歩いて、国道から鶴見線に乗って、浅野で分岐して海芝浦へゆき、鶴見に戻って今度は扇町行きに乗り、帰りは浜川崎から南武線に出たのだった。懐かしいなア!



5年前はまったく気にもとめていなかったのだけれど、鶴見駅の東海道線のホームと並行に設置されている鶴見線のホームが典型的な近代建築で、ワオ! と感嘆だった。駅前の歩道橋から建物を観察。その曲線の向こうに停車中の鶴見線が見える。



愛用の『日本鉄道旅行地図帳 関東2』(新潮社刊)を参照すると、鶴見線はもとは大正15年3月開業の「鶴見臨港鉄道」という名の私鉄路線で、昭和18年7月に国策で国有化され、現在に至っているという。「鶴見臨港鉄道」の鶴見駅は昭和5年10月に仮駅として開業し、昭和9年12月に新築移転して、現在に至っている。だいぶ補修がほどこされているけれども、モダン建築の名残が濃厚に残っているのが嬉しい。



こうしてはいられないと、鶴見線のホームへ。鶴見線だけ別改札なのは、戦前に私鉄だった名残りなのかなと、改札を通り抜けて、ホームに立ちすくむ。天井の鉄骨がとてもいい感じ。この奥が、先ほど外の歩道橋からのぞんだ曲線部分。



海芝浦行きの鶴見線の発車までまだまだ時間がたっぷり。先ほど外からのぞんだ曲線部分の内部は階段。今はほとんど使われていない階段はちょっとした廃墟気分。



5年前と同じように今回も日曜日の午後に鶴見線に乗ったのだったが、5年前の海芝浦行きの3両編成の車内の乗客は3人くらい、1両に一人ずつという感じだったのが、5年後の今回は30人くらい乗客がおり、1両に十人ずつ。ざっと十倍、この5年間でずいぶん人が増えたものだなアと感心したところで、電車が出発。


緩やかに鶴見駅を出発した鶴見線は、しばらく東海道線と並行に高架を走ったあとで、東海道線と京浜急行の線路の上に架かる鉄橋を通過したところで、次は国道駅。この間に本山(ほんざん)という名の廃駅跡(昭和5年10月開業、昭和17年12月に廃止)が車窓から見える。国道駅を過ぎて、鶴見川を渡るとき、なんとはなしに、千葉泰樹の『煉瓦女工』(昭和15年・南旺映画)のロケシーンを思い出した。



この工場は何の工場だったかな、弁天橋のあたりから見える旭硝子の工場かな。国道駅の次の鶴見小野駅を過ぎると、にわかに車窓が工場一色になるのが目に愉しい。弁天橋の次の浅野駅で、海芝浦行きの電車は本線と分岐して、旭運河という名の運河に沿って、東芝の工場へ向かう。



浅野の次は新芝浦、そして次が終点の海芝浦。浅野・海芝浦間は昭和7年6月に開業、昭和15年11月に海芝浦まで伸びた。



「川崎市制拾周年記念」の金子常光画の鳥瞰図《工場は川崎へ》(川崎市役所発行、昭和9年7月1日)には、鶴見線沿線風景も描かれている。総持寺近くの鶴見駅は当時はまだ仮設の駅だった。現在の新芝浦駅と海芝浦駅のあるあたりを参照すると、昭和7年6月に開業したばかりの浅野からの支線がしっかりと書きこまれている。当時は浅野と新芝浦の間に「末廣」という駅があった(昭和10年3月に廃止)。



《株式会社芝浦製作所鶴見工場護岸壁》、『昭和六年度 大林組 工事画報』(昭和7年4月1日発行)より、浅野からの支線の開業する直前の写真。新芝浦駅(昭和7年6月)と海芝浦駅(昭和15年11月)の開業以前の、現在の海芝浦附近。今とまったくおなじ印象の沿線風景。



と、戦前の建築写真に思いを馳せつつ、電車は早くも終点の海芝浦駅に到着。30人もの乗客がわーいわーいと、護岸壁の様相を呈する駅のホームに降り立ち、海を眺めている。



かつての閑散とした日曜日の午後の海芝浦駅を懐かしがりつつも、せっかくここまで来たので、工場の上の青空と海面とその向こうに見える工場や橋を眺めて、しばし異次元の世界にひたる。



海芝浦行きの電車はそのまま今度は鶴見行きとなる。ふたたび鶴見川を渡り、国道駅で下車する。



鶴見駅とおんなじように、国道駅のホームも近代建築の目の歓びにあふれている(昭和5年10月開業)。アーチ形の鉄骨のなんと美しいこと!



国道駅は「駅」でありながら駅舎らしきものはなく、高架下がそのまま出口になっている。ひんやりと暗い。銃撃戦が起こりそうな雰囲気。



国道駅からテクテクと東海道線の線路へと向かい、歩道橋の上から線路に交差する鶴見線の鉄橋をのぞむ。終点のひとつ手前の国道駅で下車したのは、東海道線の線路を横切る鉄橋の近くを歩きたかったから。本日の目的地、戸板さんのお墓のある総持寺の入口はこの鉄橋のすぐ先。



今日は戸板康二の命日。5年ぶりにお墓参りをすることにしたのだったが、鶴見線の方にヒートアップしてしまって、総持寺にたどり着く頃にはすっかりくたびれているのだった。ああ、なんということだろう……。

 


東海道線の線路を渡り、鶴見線の高架下を通り、戸板さんの眠る総持寺へと歩を進める。巨大な境内、墓地までの長い道のりはゆるやかな上り坂。先ほどまで馬鹿みたいに写真を撮りまくっていたというのに、お寺の敷地に足を踏み入れたとたん、げんなりと疲れてしまい、カメラを構える気持ちの余裕はなかった。ゼエゼエとようやく、墓地にたどりついたものの、墓地の敷地がまただだっ広くて、5年前の記憶をたどれば大丈夫とタカをくくっていたのだったが、戸板さんのお墓の場所を思い出せず、しばし墓地をさまよう。何か美味しい果物でも置いてあるのか、尋常ではない数のカラスが集結していて、恐怖におののきながら、石原裕次郎のお墓への目印「裕ちゃんの墓」標識に沿って歩いてゆけば、戸板家のお墓も見つかるかもと、力なく歩を進めて、

 


やっとのことでお墓を見つけて、ほっと胸をなでおろす。ああ、なんだか後光が射している! 命日なのでどなたかがお墓参りをしているかもと思っていたが、あたりは閑散として、人っ子ひとりいない。国道駅から歩いてきたので花屋などがあるはずもなく、何もお供えできず、今回は無念であった。いつになるかわからないけれども、次回は鶴見線のことは考えずに、戸板康二のお墓のことだけに気持ちを向けねばならぬ、と決意を新たにする。

 


向かって左面の墓石に彫られた戸板康二の名前。平成五年一月二十三日没。向かって右面には、戸板さんの母方の祖母にあたる戸板関子(昭和4年1月14日没)、その夫で戸板家に入籍した母方の祖父の戸板芳三郎(大正11年5月26日没)。戸板関子の父、戸板さんの曾祖父の戸板善内は明治2年10月10日没(享年29)。曽祖母の戸板喜代は大正7年7月23日没。……というように、墓石には戸板家三代の歴史が刻まれている。

 ぼくは大正四年十二月十四日に生まれた。赤穂義士の討ち入りの日である。後年、「忠臣蔵」という本を書いたのも、因縁というものであろう。
 父親は山口三郎といって、その年、藤倉電線会社の営業部に入社して間もない平社員であった。母親が、戸板裁縫女学校を創立した戸板関子の娘で、父と結婚する時に、最初に生まれた子供を戸板家の養子にする約束があったらしく、ぼくは七歳の時に、改姓して、祖母の戸籍に入っている。
 戸板関子の夫は武田芳三郎という沼津の人だったが、ユニテリアン教会の牧師をやめて、妻の女学校の後見人みたいな立場になった時、戸板芳三郎となる。いわゆる入夫をしたわけだ。この母方の祖父の記憶は、ごくわずかである。「河内山」の芝居で、宗俊が上州屋に十徳を着て来る。それを祖父の死んだ直後に見た時、その祖父の思い出したところを見ると、日常そんな格好をしていたらしい。
 ぼくの小学一年の時までしかいなかった祖父は、食卓で白湯に塩を入れて、いつも飲んでいた。それだけしか記憶にない。

と、これは『回想の戦中戦後』のしょっぱなで綴られている戸板家の概略。


戸板康二の祖母である戸板関子は明治2年生まれで、父は仙台藩士の天文学者・戸板善内で、同年他界している。戸板関子の明治35年に戸板裁縫女学校を設立するまでの歩みなど、なかなか興味深く、そしてさらに、戸板さんの記憶にわずかしか残らなかった母方の祖父・武田芳三郎は、山口昌男の『敗者の精神史』に名前が一度だけ登場している。と言っても、結城禮一郎が父を綴った『旧幕新撰組の結城無二三』(中公文庫)の引用文として登場するだけなのだけれど、戸板さんからつながる日本の近代! ということで、ひところ夢中になっていたものだった。鳥居坂教会のこととか、一度簡単にまとめておきたいと思っている。なお、『回想の戦中戦後』にはこのあと、《戸板関子の義母で、終戦の年に九十四歳で死んだ曾祖母》が登場している。



総持寺には、内田誠の厳父、元台湾総督の内田嘉吉の墓もある。「内田家之墓」とあるから、内田誠もここに眠っているのかな。追々調査したい……と、5年前にここに来たときと同じことを思うのだった。向かって右手に鎮座している鉢のような備品の石に、内田嘉吉の「国威発揚」なる時代を感じる文字が刻まれている。

 

総持寺には明治製菓の創設者、相馬半治のお墓もあるはずなのだけれど内田嘉吉のお墓を再見したところで、今回は疲れてしまった。無念なれど、今日のところはここで立ち去ることに。次回は鶴見線に目を向けずに、総持寺の墓地に全神経を集中せねば! と何度も自分に言い聞かせるのだった。



まあ、一時はどうなるかと思ったが、戸板康二の命日に無事にお墓参り(の真似ごと)をすることができてよかったと、ほっと胸をなでおろしながら、鶴見駅前に戻る。駅前のドトールでコーヒーを飲んで休憩後、京浜東北線に乗って、新橋で下車。旧新橋停車場・鉄道歴史展示室(http://www.ejrcf.or.jp/shinbashi/index.html)にて開催の《警視庁カメラマンが撮った昭和モダンの情景 石川光陽写真展》を再見。

 


石川光陽《目黒蒲田電鉄洗足駅》(昭和11年5月)。当時の洗足駅は《住宅開発中で土地分譲の広告看板が目立》っていたという。渋沢栄一らによって大正7年に設立された「田園都市株式会社」の沿線の都市開発のことには前々から興味津々。

 

戸板康二は洗足に住むようになったのは、いつごろか。昭和15年に結婚する以前に、昭和12年時点の実家の住所が「目黒区洗足一三一二」となっている(慶應義塾文学部会会報「文林」第4号・昭和12年7月1日発行)。