品川から京浜急行で旧東海道。第14回みつわ会公演「久保田万太郎作品 その二十一」を見る。


夕刻、大急ぎで外に出て、JRの有楽町駅へ突進。品川駅で京浜急行の各駅停車に乗り換えて、二駅目の新馬場で下車。毎年3月の恒例行事、みつわ会の「久保田万太郎作品」公演の、今日は初日なのだった。品川駅から乗る京浜急行の各駅停車のひなびた風情が大好きなのだけれど、毎年3月の「みつわ会」観劇の折くらいしか乗る機会がめぐってこない……という次第で、この瞬間を心ゆくまで満喫せねばと、京浜急行各駅停車(古い車両でなかったのが残念)に乗りこむと同時に車窓にはりつく。ちょいと高台からのぞむJRの何本もの線路と京浜急行の古い鉄橋の眺めに見とれて、それにしても特筆に値する絶景だなア! と感嘆しているうちに、あっという間に新馬場に到着。

 


西尾克三郎『ライカ鉄道写真全集2』(プレス・アイゼンバーン、1992年11月)より、《L-297 湘南電気鉄道 8 浦賀行急行 京浜電気鉄道 品川―北品川 昭和11/1936》。《軍港横須賀と東京を結ぶ路線らしく、運転台の脇には海軍士官の一団の白い軍服姿が見える》という解説に、うーむ、なるほど! と唸る。



同じく、西尾克三郎氏撮影の写真、《L-298 湘南電気鉄道 品川行急行 京浜電気鉄道 北品川―品川 昭和11/1936》。八ツ山橋の鉄橋を渡ったあと、北品川の手前ではほんの少しだけ路面電車のようになる京浜急行! 《写真の併用軌道区間は東京市電が北品川まで乗り入れていたころの名残りで、改軌後も北品川駅から八ツ山橋の間に残っていた。》という解説に、うーむ、なるほど! と唸る。



『芝居名所一幕見 舞台のなかの東京』(白水社、昭和28年12月25日)所収「八つ山下」に掲載の、《現在の八つ山下》の写真。京浜急行と平行しているアーチ型の道路の鉄橋がなんとも見事。大阪の中津の高架線を思い出すような都市風景。


さて、昭和28年当時の戸板康二はここに、『め組の喧嘩』の舞台の八ツ山下の「現在」について、

 一九五三年の八つ山下は、国道の幹線道路と東海道とが交叉する。アーチ型の陸橋には、コバルトの枠に赤い文字でウェルカムと書いた、これが東京の入り口であるという標識。鉄道の大動脈である線路の輻輳にかてて加へて、上を通る国道を往き通ふ自動車は、立つて見てゐると、実に目まぐるしい程の数である。多分この交通量は、日歿後も同じ事情であらう。到底「だんまり」の行はれるやうな場所ではない。
 しかし、陸橋を渡つて、袖ヶ崎の旧岩崎邸の塀に沿つて五反田の方へ迂回する第二京浜国道の方は、歩道が、夜ともなれば比較的暗い散歩みちになる。

というふうに書いている。戸板さんがここでぽろっと、八ツ山橋から「袖ヶ崎の旧岩崎邸の塀に沿つて五反田の方へ迂回」して第二京浜国道へと到る道路のことに言及しているのがなんだかとっても微笑ましい。八ツ山橋から中原街道のあたりは戦時下の戸板康二にとって、とりわけ馴染みの深い道路だった。昭和19年夏の日本演劇社入社後、空襲で電車が不通になると、しばしば戸板康二は洗足から自転車で築地まで通勤していた。

 

 『回想の戦中戦後』の「終戦の日の前夜」に、以下のくだりがある。

 空襲で省線(のち国電)が不通になると、ぼくは自転車で出勤した。
 目蒲線の洗足から目黒に出て、山手線で有楽町まで来て、それから歩くという、いつものコースのかわりに、自転車では中原街道から五反田に出、御殿山から品川、そしてまっすぐ国道一号線を新橋、昭和通りにまがって、三原橋で右折するのである。
 そういう出勤を十回ぐらいしたので、東京の坂ののぼりくだりを、ぼくは痛切に体験している。利倉さんも自転車に乗っていた。(p48-49)

また、このころは、大井出石町の折口信夫宅へつとめて訪問するようになった時期でもあって、ここでも自転車が大活躍した。出石町へは洗足から自転車で20分ほどだったという。『六段の子守歌』所収「品川区と私」(初出:「東京人」1992年11月号)では、往時を以下のように回想している。

 ふつう当時の東急大井線で、東洗足から大井町、あと省線で大森というコースで行っていたのを、自転車ぐせがついてからは、それで先生の顔を見に行くようになった。
 空襲のあとの見舞ばかりでなく、急に思いついて訪問する日も、たびたびあった。茶の間で先生と話したことを後年一冊の本にしたが、弟子のほとんどが出征していたので、もっぱら私が先生のお相手をしたともいえる。
 その自転車行のおかげで、初めて知った町もある。伊藤博文公の墓のある伊藤町というのが、かつてはあった。
 品川区のことといえば、やっぱり、折口信夫先生の閑寂な部屋の思い出が、まず湧いて来る。

と、最晩年の文章で語られる戸板さんの戦時下、自転車乗りの日々。『芝居名所一幕見』の記事が書かれた昭和28年当時、戦争の記憶が徐々に薄れようとしている頃にあって、戸板さんにとって戦時下の自転車乗りの日々には格別な思いがあったことだろう、そして、まだまだ鮮明な記憶だったことだろうと思う。それは最晩年まで回想されている挿話。「戸板康二と東京」を語る上ではずせない挿話なのだった。



『コンサイス 東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示』(日本地図株式会社、昭和21年9月15日発行)の復刻版(日地出版株式会社、1985年3月10日発行)の「荏原―品川」より。左上あたりが戸板康二の住んでいた荏原区小山町で、折口の住んでいた大井出石町が右下の部分(綴じ部にかかってしまって画像不鮮明なのが残念)。「大井伊藤町」というのが本当にある! 出石町一帯は総じて戦災の被害にあっていない。戸板さんのいた小山町は、まだらに被害にあっている。



新馬場駅の改札を出たら、ちょうど日が没したところだった。薄暮の町並みがなかなかの風情。開演の7時までまだちょいと時間があるので、会場の新馬場ホールまでぐるっと迂回しつつ、しばらく界隈を歩いてみるとするかなと思った。毎年「みつわ会」の観劇のために年に一度だけ下車する機会のある京急の新馬場であったが、毎年、とりあえず無事にたどりついたことに安心するあまりに、開演前までのひとときはいつもドトールでぼんやりしてばかりだった。


と、何年ぶりかで新馬場の駅前商店街を直進して、旧街道のところで右折。薄暮のなかを歩くのがとっても心地よくて、ああ、東海道品川宿! と歩いているうちにすっかりハイになってしまった。



ふたたび、『芝居名所一幕見 舞台のなかの東京』より「品川」のページに掲載の、《品川の遊廓 島崎楼の跡》。

 品川の遊廓は、京浜国道と八つ山下の陸橋の所で分れた旧道(東海道)に面し、二度の災禍にもあはず、のこつてはゐるが、古風な建物が温存されてゐたので有名な「土蔵相模」も、今は見付きをすつかり様式に改め、ネオンの横文字も「サガミホテル」と読まれる。
 いわゆる特飲街として「復興」はしたが、戦時中は旧妓楼の大半が徴用されて会社の寮になり、古くからあつた家は老朽甚しく、殆どが雨風に打たれ自然崩壊してしまつたといふ。
 昔の品川に並んでゐた浅井楼、高橋楼、大井楼も、みな三楽、第一サロン、パリと改名。この「め組」の島崎楼は、大正の終りにすでに空き店となり、某銀行の担保物件になつてゐたが、戦争の頃軍需会社が買ひ取つて、建物を撤去、工員宿舎を設けた。
 土地の古老をしらみつぶしに訊ねてまはつても、その島崎のあとがどこかという段になると、説がまちまちで、やつと判定されたのが写真の目下新築中の附近といふ。手前の柵の中は空地になつてゐるが、以前三徳といふ料理屋があつた所で、庭石が残つてゐる。
 昭和二十年五月二十四日の空襲にも、この品川は、角から二丁程焼けただけで、少しゆくと、昔ながらの町並と変る。

『芝居名所一幕見』の記事が書かれた昭和28年当時は、売春防止法施行以前で「特殊飲食店」の時代だった。ここでも、戦争の記憶がなまなましいのだった。こうしてあらためて戸板さんの昭和28年当時の探訪記事を読むと、今度は昼間にじっくり歩いてみたいなと思う。



ふたたび、『コンサイス 東京都35区区分地図帖 戦災焼失区域表示』より、『芝居名所一幕見 舞台の上の東京』の連載時(「産業経済新聞」都内版に昭和28年6月より8月まで)、戸板さんが歩いていた旧東海道あたり。きれいに戦災の被害にあっていない。

 

旧街道沿いの洋菓子店でお土産の焼き菓子をみつくろって(とてもおいしかった)、もと来た道を少し戻って、大通りで左折して、京急の高架線に向かって直進すると、ほどなくして左手に「みつわ会」公演会場の新馬場ホールが見えてきた。この道筋から来るのは初めて。



午後7時より、第14回みつわ会公演「久保田万太郎作品 その二十一」を見る。今年の演目は『ふりだした雪』と『舵』。

 

『ふりだした雪』の初出は「文藝春秋」昭和11年4月号で、翌年の昭和12年2月の《新派創立五十年祭記念興行》の際に改訂のうえに初演された。おすみ(喜多村緑郎)、叔父伝蔵(小堀誠)、伝蔵女房お兼(英太郎)、おすみのもとの亭主柳太郎(柳永二郎)、製本屋主人治平(大矢市次郎)という配役。その初演時の記事が載っている『演芸画報』昭和12年3月号に掲載のグラビアを初めて見たときは大興奮だった。



薄幸のヒロイン・おすみは深川で小間物を商っている叔父宅に身を寄せている、と、その小間物屋の吉田謙吉による舞台装置に「明治製菓」の商品がたくさん配置されているさまが見てとれて、おお、この舞台は明治製菓タイアップであったのかと、戦前の製菓会社タイアップあれこれを日頃追っている身にとっては、「やってる、やってる」とにんまりだった。明治製菓のみならず、煙草の「光」のポスターやクラブ化粧品の看板なども見てとれて、そのあからさまなタイアップは同時代の映画のスクリーンとまったく同じパターン。



昭和12年2月の《新派創立五十年祭記念興行》の歌舞伎座のある日は、「いとう句会観劇会」の巨大な看板が! 『春泥』第80号(昭和12年3月1日発行)掲載(撮影:水中亭)。明治製菓の宣伝部長・水中亭内田誠が私財を投じた俳句・随筆雑誌『春泥』は昭和5年3月に創刊されて、のち昭和9年4月に始まる久保田万太郎を宗匠とする「いとう句会」の母胎となった。この興業時はその「いとう句会」が大いに盛り上がりを見せていた時期。この号の『春泥』の六号記事に、喜多村にすすめられるがままに、槇金一が久保田万太郎と二人きりで舞台稽古を見物して、《當人いつぱしの助監督のやうな気持》だったのはいいが、帰りが午前3時になってしまって、翌日起きられず……というようなくだりがある。当時の喜多村緑郎の日記を読むのが待ち遠しい!

 

歌舞伎座の《新派創立五十年祭記念興行》は昭和12年2月1日初日、3時開演。

  • 「口上」
  • 久保田万太郎作演出『ふりだした雪』(装置:吉田謙吉)
  • 真山青果作・川尻清潭演出『浅草寺境内』(装置:伊藤熹朔)
  • 山本有三作・村山知義脚色並びに演出『真実一路』(装置:伊藤熹朔)
  • 泉鏡花作『婦系図』より「湯島の境内」
  • 渡辺霞亭作・川口松太郎新脚色並びに演出『渦巻』(装置:繁岡鑒一(ケンイチ))

という盛り沢山の狂言だて。『演芸画報』昭和12年3月号に掲載の、竹山晋一郎の劇評では

 前記五本立の狂言は新派劇の過去、現在、未来を一目に見渡すことの出来るやうな並べ方でその意味で興味がある。勿論「未来」に就ては此の五本の狂言を一覧した上で、「将来の新派の行く道はこんな所にあるのだらう」との暗示を得ることになるのであるが、未来を暗示する材料は第一の「ふりだした雪」と第三の「真実一路」と第五の「渦巻」である。
 「ふりだした雪」は小劇場向きな一種の新劇であり、「真実一路」は或る意味で現在の新派劇であり「渦巻」は過去の新派劇の見本で、この三者の中から将来へ残すべきものを探し出せばよいのではないかと考へられる。
 第四の「湯島の境内」は歌舞伎劇の伝統と趣味を忘れかねた歌舞伎劇的新派であり第二の「浅草寺境内」は新劇勃興期に刺激された新劇的新派劇――しかも歌舞伎劇の世話物風な味と演技を多分に含んでゐる所のものである。

というふうに総括されていて、うーむとたいへん興味深い。早稲田大学演劇博物館で2009年秋に開催されていた新派展がとてもおもしろかったのを思い出して(かえすがえすも図録の刊行がなかったのが残念でならぬ)、あらためて「新派」について考えてみなければという気になってくるのだった。久保田万太郎と新派関係者の交友といい、なにかと無尽蔵。

 

『ふりだした雪』に関しては、

《荒筋にしてしまふと見ない者に取つては味もソツケもないものに感ぜられるだらうが、喜多村は心の動揺を決して外へ現さぬ、シンの締つてゐるしつかり者で、その性格の故に、かへつて不幸な運命を招くといつた風な女。あゝ気の毒だなと思ひ、しつかりした所に何か興味を感ずるが、あまりにしつかり者過ぎて色気とスキが無く、気の弱い男は一寸惚れてみようとしても手が出ない、と言つた性格の女――に成り切つてゐる。》

《五場とも出来栄えに甲乙はないが、見ごたへのあつたのは第二の蕎麦屋である。煙草入れを忘れて取りに戻つた治平が、おすみと柳太郎の姿を認めた瞬間の三人三様の心がそれぞれに対立して緊張した無言の舞台は三人のイキが合つて実に迫力があり、見物も息を殺していた。》

 というふうに評されていて、別れた女に未練を残す酒癖も諦めも悪い男・柳永二郎、善良な市井人の叔父・小堀誠、その妻で悪い人ではないのだけど下町女のイヤなところが典型的に出ている叔母・英太郎、薄幸なヒロインに恋慕する本所の製本会社社長・大矢市次郎……というふうに、登場人物はそれぞれに久保田万太郎の文学世界を彩る典型的な下町の人びとで、独善的だったり利己的だったり弱かったりはするけれども、みんな特に悪人ではないごくふつうの平凡な市井人。『ふりだした雪』の戯曲そのものは、明治期から一貫している久保田万太郎の独自の世界がひとつの箱庭のように、結晶のようにして詰まっていて、周囲の派手な社交をよそに久保田万太郎の堅固な世界は確固としたまま。初演は、《新派創立五十年祭記念興行》の歌舞伎座という派手な場所であるけれども、そんなことにはおかまいなしに「久保田万太郎の世界」は独自の世界を保っている。

 


『演芸画報』昭和12年3月号のグラビアより、大矢市次郎の治平・柳永二郎の柳太郎。


「みつわ会」の上演に際して、あらためて久保田万太郎を読んで、その時期の万太郎のありようや初演時の役者たちに思いを馳せる。舞台そのものを見るというよりも、「みつわ会」の上演をきっかけに久保田万太郎を再読する機会を得るということがメインになっていて、まったく久保田万太郎を読んでおらず、なんの予備知識もなく舞台を見たとしたら、いったいどんな感想を抱くのだろうということは想像もつかないのだけれども、それでも毎年3月に「みつわ会」の「久保田万太郎作品」を見ると、そのたびに戯曲を読んだだけではわからなかったことを体感できたような気になって、端正な舞台装置もいつも眼福なのだった。


「演芸画報」のグラビアで見たゴテゴテしたタイアップ小道具の装置とは違って、シンプルで精緻に設計された装置がすばらしく、会話の合間に繕いものをするときの動作や着物をたたんだり、日用品を片付けたりといったちょっとした描写、衣裳の様子や寒いときの家の感じ(三和土が実に寒そうだ)や、ちょいと裕福な紳士は凝った煙草入れを持って悦に入っていたりとか、銭湯の帰りに蕎麦屋で一杯ひっかける……とかなんとか、いちいち文字にするとキリがないような、戦前昭和の深川の市井の描写の数々が嬉しい。そして、こうして舞台化されることで、あらためて久保田万太郎作品を彩る人物たち、すべてに諦めている薄幸な女性(自ら幸福を遠ざけているようなところがあるけれども、そんな点を含めて男性を多分にチャームしているような)、根は善人なのにボタンをかけちがって人生を踏み外す青年、それまでの人生いろいろなことがあったんだろうなあというような重みを醸し出す寡黙な老人……といったような、久保田万太郎の作品を彩る典型的な人物たちのアンサンブルにどっぷりと埋没する時間がいつもとってもいとおしいのだった。


昭和12年2月、この頃の戸板康二は、慶應義塾本科の国文科2年。1級上級の池田弥三郎たちが卒業して、さあ来年は3年生だという時期。翌年の昭和13年6月に久保田万太郎に出会い、終世にわたって親炙することになるのだったが、その前年、戸板青年は『ふりだした雪』をどんな気持ちで見ていたのだろう。昭和12年といえば文学座結成の年(昭和12年9月6日に創立。友田恭助の出征・戦死を経て、翌13年3月25日に第1回試演)で、昭和9年に飛行館で築地座で田村秋子を見て以来、一貫して「大へんな田村党」(明治製菓の同僚牛島肇の日記より)だった戸板康二にとっては、文学座の動きにもたいへん注目していたことだろうと思う。……というふうに、思いは尽きないのだったが、その50年後の昭和62年8月、文学座は創立五十周年記念公演に久保田先生の作品を上演している。戌井市郎演出で『弥太五郎源七』、加藤武演出で『ふりだした雪』。新派五十年から文学座五十年へ。そこに通底する日本近代演劇史とその同時代に生きていた戸板康二を思うと本当に尽きないのだった。


『舵』は、昭和29年5月、NHK の依頼によりラジオドラマ台本として書下されたもので、『新潮』昭和29年8月に掲載時に『一家』と改題されて、『雪の音』(好学社、昭和30年12月)に収録の際に原題の『舵』に戻された。昭和20年代後半から30年代にかけてのラジオドラマの系譜がかねてよりたいへん興味津々で、それだけで胸躍るのだったが、そのラジオドラマが舞台に乗っているのを今回初めて目の当たりにしてみると、演劇としてもとても面白かった! 浅草生まれで花柳界を経て麹町マダムにおさまっている「心の舵のとれない人」であるところの浅利香津代の演技にホクホク、脚本を離れて役者の芸をたのしんだひととき。まさに「一家」というホームドラマなのだけれど、ここでも万太郎による、家族の肖像のそれぞれの人物描写が見事で、兄とその妻・下町の働き者の主婦、弟と麹町マダムの長女、そしてもう一人の「心の舵のとれなかった人」であるところのかつて兄と縁談のあった薄幸な女性と、彼らが合わさることで現出する、戦前から敗戦後の東京浅草の町。


舞台は三社祭まっただ中の浅草の路地裏。お買い物の途中で銀座線でここまでやってきた着物の麹町マダム。室内で家事にいそしむ主婦と将棋に余念のない弟は洋服のふだん着。麹町マダムは「銀座にこのごろできた評判の店」の「サンドヰッチ」を手土産に持参。でも、奥さんが「お強とお煮しめ」をこしらえていて、マダムは戦争前に食べたっきりだった、口果報にひたりつつ、かつての下町生活を思い出すひととき。同時代の小津安二郎の映画をなんとはなしに思い出すような日常描写がいとおしいと同時に、通底する「東京の今むかし」にひたる。もう一人の「心の舵のとれなかった人」であるところの昔兄と縁談のあった薄幸な女性は舞台には登場しないという手法で、彼女の歳月が戯曲全体の通奏低音のようになっている。とにかくも、典型的な久保田万太郎の描写の数々がいつまでもいとおしい。



終演後、新馬場駅のホームで品川行きの各駅停車を待つも、ビュンビュンと何本もの電車が無情に通過してゆき、春の冷たい風で身体の芯まで冷えて、心が凍ってゆくのだった。



ついでに、《新派創立五十年祭記念興行》の劇評が載っている『演藝画報』昭和12年3月号より、《市川左團次の幡随院長兵衛 市村羽左衛門の白井権八 東京劇場二月狂言 第二『鈴ヶ森』》。ク―ッ、かっこいい!

 


『芝居名所一幕見 舞台の上の東京』の「鈴が森」より、「現在の写真」。昭和28年、京浜急行にのって「芝居名所」取材をする戸板康二は、ここに《京浜急行の駅には、北馬場、南馬場、青物横町、鮫洲、立会川など、なつかしい名前がのこつてゐるが、「鈴ヶ森」がなくなつたのは残念。現在は、大森海岸、あるひは立会川から歩いて五分程の地点に、昔ながらの石塔が立つてゐる。》と記している。昭和51年10月に、北馬場と南馬場が統合して「新馬場」となり、現在に至っている。