戸板康二が幼年時代を過ごした渋谷メモ。代々木山谷と渋谷永住町。


宮脇俊三著『昭和八年 澁谷驛』(PHP研究所、1995年12月)を繰っていたら、「昭和初期の時代」と題された自伝的文章の以下のくだりに、さっそく「おっ」だった。

 昭和七年の四月から幼稚園に行くことになった。
 その幼稚園は、私の家から五分ほど歩いた坂の上にあり、「さわらび幼稚園」と言った。「早蕨」と書いたかもしれない。園長は児童文学者であり、「公演童話」の開拓者として知られた久留島武彦であった。そういえば、チョビ鬚を生やした面長のおじさんが、壇上で話をしていたような気がする。
 しかし、私は幼稚園に行くのがいやでたまらなかった。当時、幼稚園に通う子は少なく、東京の山手でも五人に一人あるかなしかであった。私の家の近所には同い歳の遊び友だちが三人いたが、誰も幼稚園には行かなかった。私は人見知りの強い子だったので、それを矯正しようという母の配慮であったらしい……

昭和7年に宮脇俊三がいやいやながらも通っていた「早蕨幼稚園」は、戸板康二も通っていた幼稚園ではないか! 戸板さんは、『回想の戦中戦後』の「うまれた町」に、

 生まれたのは三田だが、ぼくとしては、その次に移った代々木山谷の家を、かすかにおぼえている程度である。
 あとで知るのだが、代々木にいる時、近くで明治神宮が造営されていたらしい。その家も小さかったが、門とめぐらした垣根があり、似たような家の並ぶ横町に面していた。家を出て左折してしばらくゆくと、川べりに父のつとめていた会社の電線工場があった。
 ぼくは、久留島武彦という童話家を園長とする早蕨幼稚園の分園に通っていたそうだ。犬張子のついたエプロンをつけていたそうだ。

というふうに(p9-10)、さらっと書いているに過ぎないのだけれども、戸板康二よりも十数年あとの宮脇俊三の子供時分でも、《幼稚園に通う子は少なく、東京の山手でも五人に一人あるかなしか》とのことだから、戸板さんのご両親がいかに教育熱心だったかがよくわかる。


大正4年12月に三田四国町に生まれた戸板康二は典型的な「山の手の子」として、東京の文人としてその生涯を送った。戸板さんの記憶にかすかに残っている代々木山谷に移ったのは、『「ちょっといい話」で綴る戸板康二伝』所収の犬丸治氏作成の年譜では、大正7年頃とされている。大正10年に父の転勤により一家は上海に渡るまでこの地に住んでいたので、大正9年の明治神宮の造営の際には近所に住んでいたということになる。大正9年の明治神宮造営に際しての祝祭感については、青蛙房の「シリーズ大正っ子」の藤田佳世著『大正・渋谷道玄坂』(昭和53年1月刊)にうっとりするような筆致で綴られている。戸板女子短期大学の図書館の「戸板康二文庫」にも所蔵されているので、このくだりを戸板さんも読んでいたかも。



恩地孝四郎《明治神宮》(昭和5年頃)、『版画集 新東京百景色』より。


代々木山谷の家については大正7年頃から大正10年に住んでいたに過ぎないけれども、《家を出て左折してしばらくゆくと、川べりに父のつとめていた会社の電線工場があった。》という、一見何気ないくだりがたいへん嬉しい。「川べり」と「電線工場」の文字が嬉しいなあと、取り急ぎ検索してみたら、「株式会社フジクラ千駄ヶ谷工場発祥の地(http://hamadayori.com/hass-col/company/Fujikura.htm)」というページを見つけて、歓喜! 近いうちにこのあたりを歩いて、かつての渋谷川にも思いを馳せてみたい。

 

ついでに、戸板さんが幼少時のほんの一時期住んでいた代々木山谷町は、五代目歌右衛門の邸宅のあった千駄ヶ谷町に接している。早稲田大学演劇博物館の図録『五代目中村歌右衛門展』(平成12年9月発行)によると、歌右衛門の邸宅は大正4年に完成、当時の住所は「東京府下豊多摩郡千駄ヶ谷町字新町裏通891番地」で、現住所では渋谷区代々木2丁目25番地とのこと。図録に掲載の地図によると、歌右衛門邸は小田急線の現在の南新宿駅にあったかつての小田急の本社同じ通り沿いに位置していたことが見てとれる。小田急の本社ビルは昭和2年竣工の渡辺仁設計のモダン建築、だいぶ改修されているけれども現存している。その千駄ヶ谷御殿に歌右衛門は、大正4年7月から昭和14年4月に芝区車町に引っ越すまで住んでいた。……と、だからなんなんだという感じであるが、そんな昔の東京地図がたのしいのだった。



上海から帰国した大正12年は震災のあった年。大正4年生まれの戸板康二は、『回想の戦中戦後』に《震災は、大きなショックで、それ以前の回想をプツンと断ち切ってあいまいなものにする、厚い壁のように、ぼくには感じられる》というふうに書いている(p20)。震災は戸板さんのお母さんの生命をも奪うことになったので、なおさらだろう。震災後、暁星小学校に転校し、3年B組に入り、串田孫一と同級生になる。母を亡くした戸板少年はますますおばあちゃん子になり、学校の帰りにちょくちょく三田四国町へ寄っていたことが『回想の戦中戦後』に綴られている。

 

小学校4年から小学校6年まで、通っていた暁星のごく近所の富士見町に転校するまで、すなわち大正14年から昭和2年にかけて住んでいたのが、渋谷永住町。この町名は昭和3年の町成立以降のもので、『「ちょっといい話」で綴る戸板康二伝』所収の犬丸治氏作成の年譜によると、戸板少年在住時の住所は「豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字居村」。この渋谷永住町については、「美人の顔」(初出:『民主公論』昭和42年8月/『夜ふけのカルタ』所収)という文章の、

川上貞奴は、子供のころ、ぼくのいた下渋谷永住の福沢桃介邸に老後をすごしていたはずで、その邸は家の前であったが、ついに見ることなくして終った女性であった。

のくだりが、要注目。追って、追究したい。



『スタンダード東京都区分地図』(日本地図株式会社、昭和31年6月発行)の「渋谷区」のページより。旧町名や都電が残っていて、ハンディに参照できるいつも重宝している区分地図。『新東京百景』(平凡社、昭和53年4月)で、戸板康二は天現寺線のことを《ついでにいうと、玉川電車がいまの東急パンテオンの前のバス発着所のあたりから天現寺橋まで、べつの路線を持っていた。》というふうにさらっと言及している。永住町在住時代に天現寺線に乗っていたことをちらりと思い出して、「ついでに」言及したのかもと思うと嬉しくなってくる。渋谷駅前から天現寺橋を渋谷川に沿って走る「天現寺橋線」の開通は大正11年6月。