小林正樹『燃える秋』を見て、三越の岡田茂と戸板康二の三田時代をおもう。


先月、銀座シネパトスの小林正樹特集で『燃える秋』(昭和53年12月封切)を見た。二本立て上映で、翫右衛門主演の『いのち・ぼうにふろう』(昭和46年9月封切)の方が目当てだったのだけど、なんの予備知識もなく見ることになった『燃える秋』は戸板康二を語る上で多くの示唆を含んでいる映画だったことにあとになって気づいて、見逃さないでよかったとしみじみ思った。『燃える秋』は三越の全面協力でお金に糸目をつけずにつくられた映画。タイトルのすぐあとには、デーンと「企画 岡田茂」の文字がクレジットに登場する。三越としてはあまり触れられたくはない負の歴史、できれば闇に葬ってしまいたい岡田茂の名前……ということであろう、これまでソフト化はされていない『燃える秋』を銀座三越のすぐ近くの映画館で見ることになったのはなかなか愉快なことだった。


なにかと悪名高い三越の岡田茂と戸板康二は学生時代からの友人だった。のみならず、戸板さんは昭和35年から「三越名人会」の企画委員になっていたり(『「ちょっといい話」で綴る戸板康二伝』所収の犬丸治氏編の年譜を参照)、岡田が社長に就任した昭和47年には、三越の300周年にちなんだ『元禄小袖からミニスカートまで』をあらわしていたりと、仕事のうえでも係わりは浅からぬものがあった。知れば知るほど「むちゃくちゃでござりまするがな」という行状を繰り広げていた岡田茂の暴走はいつからどのように始まったのかは、わたしは詳らかではないのだけれども、慶應国文科の同級生だった二人は、卒業後、明治製菓と三越のそれぞれ宣伝部に就職していて、製菓会社とデパートの戦前の宣伝合戦は「1930年代東京」を思ううえでたいへん魅惑的で、その点でちょっと気になる存在で、きちんと検証したいものだと前々から思っている。



《燃える秋》(1978年)、『写真集 佐分利信』(私家版、昭和58年9月10日発行)より。

 

と、『燃える秋』を見てひさびさに三越の岡田茂に思いを馳せたところで、岡田茂の小説『泡沫』のことを思い出して、本棚からひさびさにとり出した。岡田茂が慶應予科在学時に『豫科會誌』に当選した小説作品を臆面もなく書籍化したもの。岡田自身のあとがきによると、大学時代の友人から「君のところにもないだろうと思って届けてあげる」と親切なことにコピーが届けられ、46年ぶりに若き日の小説を読み返すことになり、懐かしいあまりに調子にのって書籍化に踏み切ったという流れなのだそうだ。岡田茂の『泡沫』は、慶應義塾予科会が発行していた『豫科會誌』の第15号(昭和9年11月20日発行)、「福沢先生生誕百年 日吉開設記念号」と銘打った号に掲載された作品である。『豫科會誌』は予科の在学生から幅広いジャンルの投稿を募っていて、同じ号には柴田錬三郎の作品(『倦怠期の世界』)が掲載されている。前年の13号(昭和8年6月28日発行)と14号(昭和8年12月15日号)には、戸板の同級生で戦死した塩川政一のモダンなコント作品が掲載されていて、特に『丸ノ内断片』という丸ビルに勤める事務員がヒロインのモダンなコント作品はなかなかよかった。もちろん戸板康二の登場を期待していたのだけれど、投稿しておらず残念。しかしながら、戸板康二の在学時の慶應予科の雰囲気を味わうには一級の資料ではある。



岡田茂『小説 泡沫』(東京アド・バンク、昭和55年1月発行)。装釘:成瀬数富。全120ページ。40ページまでは総勢10人の序文。その顔触れは掲載順に、戸板康二、五木寛之、内村直也、中村汀女、池田弥三郎、杉村春子、高島正純、新井静一郎、ペギー葉山、吹田靖治。

 

小宮山書店の3冊500円のガレージセールでひょいと見かけて、もしやと手にとったら、あの岡田茂の本で、さらに目論見どおりに戸板康二の序文が掲載されていて、狂喜乱舞したものだった。小林正樹の『燃える秋』を見たあとで、ひさびさに本棚から取りだしたら、原作者の五木寛之も序文をよせていて「おっ」だった。

 ところで、岡田さんに私がはじめてお会いした時、その席には、故藤本真澄さんがおられた。東宝映画の大プロデューサーだった藤本さんは、愛嬌と酔狂の両面を見事に合わせ持った希有な人物だったと思う。
 縁があって藤本さんと岡田さんは、手をたずさえて一つの映画製作の仕事にかかわられることとなった。ひと口に映画づくりと言うが、実際に取り組んでみると大変な仕事である。演出家や会社側とも間にも、様々な意見の対立があり、激論がたたかわれることもあった。そんな中で、岡田さんの時折りもらす単刀直入な発言を、いちばん率直に評価したのは、藤本真澄さんだったと思う。
「岡田さんの言っていることはね、五木さん、ありゃ素人の発言のようだが、実はスタッフの一番痛いところをずばりと突いてるんだよ。見てるねえ、岡田さんは」
 と、苦笑しながら私にもらした今は亡き藤本さんの言葉を、ふと思い出すことがある。
 藤本さんは、岡田さんが青年時代に小説を書いていた事など、全くご存知なかったにちがいない。この本を見せたら、一体どんな顔をしたことだろう。

と、タイトルは明記されていないけれども、まさしく『燃える秋』のことが書いてあって嬉しかった。それにしても、『燃える秋』の現場には岡田茂と藤本真澄が同座していたわけで、なんとアクの強い現場であったことだろう。完成披露試写会の折には戸板康二も招待されていたことは想像にかたくない。しかしながら、このとき藤本真澄は喉頭がんを患っていて、翌年の昭和54年5月2日に他界している。『燃える秋』製作の現場では相当な苦しみに堪えていたという(尾崎秀樹編『プロデューサー人生 藤本真澄映画に賭ける』)。藤本真澄が他界したのは奇しくも、戸板さんが喉頭がんの手術のため入院しようとしている時期なのだった。

 

中村汀女は戦後に俳句雑誌を出すに当たって、三越に広告を乞いに宣伝部を訪れたときが岡田との初対面だった、杉村春子は三越劇場の再開の折に岡田と知り合った、ペギー葉山は三越主催の歌を織り交ぜたファッションショーを岡田が企画したときから付き合いがはじまった……というふうに、序文の背後に見られる、戦後の三越と「文化」との関わり具合が面白いのであるが、わたしがもっとも興味津々なのは新井静一郎や吹田靖治(サンケイ新聞)の序文に見られる、戦前の広告ばなしのこと。昭和9年の予科時代に『泡沫』を書いて自分に小説の才がないことを賢明にも悟った岡田茂はその後の学生生活を広告研究会の活動に邁進したという。吹田靖治の序文には、《その頃、広研で銀座の喫茶店を紹介するパンフレットを作った時、岡田さんは自分が担当した店を「当店は“美女”が給仕します」と紹介して、大当りをしたことがある。》というくだりがある。その広研のパンフレットがとっても欲しい! ところで、銀座の喫茶店といえば、戸板康二の『あの人この人』所収「東山千栄子の挨拶」の書き出しは、

 私は昭和七年から十三年まで、慶応義塾の学生だったが、同級生にも制服を着ず、背広で講義を聴いている者がかなりいた。
 今思うと、当時としてはずい分型破りの若者だったわけだが、私のいた文科には、友だちと一軒家を借りて共同生活をしたりする男もいた。そういう仲間は、銀座にたむろして、いっぱしの大人みたいな口を利いている。
 或る日、私は銀座七丁目の裏通りにあった「きゅうぺる」という茶房にはいったのだが、奥のほうに、そういう学生たちが一人の女性を囲んで談笑しているのに気がついた。
 それはサロンとでもいった風景であった。そして、その真ん中にしずかに微笑んでいるのが東山千栄子という女優だったのである。
 私は小山内薫のいた時代の築地小劇場の舞台に立つ東山さんは見ていないが、この「きゅうぺる」という荷風の愛した店で垣間見たその女優、アール・ヌーボウのスタンドのあまり明るくない照明が蔭翳を作っている空間にいたその女優には、たぐいない華かさがあり、まさに「サロンの女王」と呼ぶのにふさわしい趣があったといえる。
 東山さんは年譜で見ると、明治二十三年生まれだから、そのころ四十四、五だったはずだが、私には人生を完熟した女性、それも貴婦人と称したいような姿に見えたのだ。
 いいかえれば、私には遠い所にいる存在だったのである。級友のОという男が、そのサロンの中にいて私に気がつき、近づいて「われらのマダムを紹介するから来いよ」とささやいたのだが、私は行かなかった。
 気おくれというよりも、むしろ反撥があったようだ。こっちの態度も、いかにも青臭かったと思う。

 というふうになっている。思わず長々と抜き書きしてしまったが、戸板さんが東山千栄子のことを語るときにいつも引き合いに出すこの挿話に登場する「級友のОという男」はもしかしたら岡田茂のことかもと想像しているのだけれど、まだ確認していない。



さてさて、岡田茂の『泡沫』の序文の先頭をかざる戸板康二の文章は、ほかでは書かれていないちょっとした三田時代の回想がとっても貴重で、なんでもないようなさりげないくだりに結構しみじみとなる。昭和9年11月発行の『豫科會誌』に岡田茂の小説が掲載されたときのことを以下のように回想している。

 そういう岡田君が小説を書いたというので、みんなが目を見はった。予科でフランス語を習った後藤末雄先生が、おもしろがって予科会誌にのった「泡沫」という作品について講義の合い間の雑談でふれたのも、級友たちには、一種のざわめきを与えたように記憶している。
 後藤先生はチャキチャキの江戸っ子で、谷崎潤一郎さんと親しく、第二次「新思潮」を一緒にこしらえた作家でもある。フランス語の講義を中断して、「戸板君、明治のはじめの女形の田之助のほめことばは何だったっけね」などと言い出す教授であった。

と、たとえば、こんなくだりはたぶんほかでは読めない挿話だと思う。フランス語教師の後藤末雄に知られていたところをみると、戸板康二の歌舞伎への探究のことは三田で周知の事実だったということなのだろうか。戸板康二が『三田文学』に毎号劇評を寄稿するようになるのは翌年の昭和10年。



『演藝画報』昭和9年8月1日発行。表紙:小村雪岱《すがた》。菊五郎論の公募に戸板康二が見事当選して、『歌舞伎を滅す勿れ』というタイトルの文章がこの号に掲載されている。後藤末雄も当然、この『演藝画報』を見ていたのだろうなあと思うと、ますますたのしい。岡田茂の『泡沫』とおんなじように、「講義の合い間の雑談」でおもしろがって触れたりはしなかったのだろうか。岡田茂の小説が載った『豫科會誌』の発行はこの号の『演藝画報』より3か月遅い11月の発行。この月は「福沢先生生誕百年」と「日吉開設」を記念した行事で三田は賑わっていた。と、ここで六代目梅幸が他界したのは同年同月だったことを思い出す。戸板さんは11月4日、三田でお祭りの飾りつけを手伝っていたら、『ひらかな盛衰記』上演中に(梅幸は延寿)、歌舞伎座の舞台で倒れたというニュースを歌舞伎研究会の先輩の内田得三から聞いてびっくりしたことを回想している。脳溢血で倒れた梅幸は7日に重体となり、11月8日午前7時50分に他界した(早稲田大学演劇博物館の六代目尾上梅幸展(会期:2008年5月17日から6月15日まで)の出展目録を参照)。



戸板康二『慶応ボーイ』(河出書房新社、1989年4月25日)。装釘:松本哉。標題の『慶応ボーイ』の初出は「文藝春秋」昭和44年7月号。作品的にはまったく面白くはないのだけれど、戸板康二の三田時代のある種の空気を想像するうえで大変貴重な作品。



『慶応ボーイ』の裏表紙には、作中に「カプリーチェ」という名前で登場する喫茶店にちなんだ挿絵がほどこされている。三田の喫茶店「カプリス」がモデルで、野口冨士男の文章にもしばしば登場している。別の機会に詳述したい。



小林正樹の『燃える秋』は、ちょっとしか登場しない芦田伸介が実によかった。重厚なバーの椅子に向かい会う佐分利信と芦田伸介。このツーショットがたまらない。背後に流れる、武満徹のタンゴ風の音楽がとてもよかった。



というわけで、しつこく芦田伸介の「クリープを入れない人生なんて……」。『民藝の仲間』第123号(1970年)掲載の広告。



『民藝の仲間』のこの号には、飯沢匡作・演出『もう一人のヒト』(1970年2月から5月にかけて巡回)の記事が掲載されていて、翫右衛門が客演している! 写真の左から滝沢修・中村翫右衛門・宇野重吉。翫右衛門は退役陸軍中将の役どころ。思えば、小林正樹の『燃える秋』を見てこのたび戸板康二の三田時代に思いを馳せるきっかけは、『いのち・ぼうにふろう』のついでに『燃える秋』を見ることができたのがそもそものはじまりだった。つまり、翫右衛門がそもそものはじまりだったのだ。翫右衛門!