戸板康二と三島由紀夫:昭和45年の「ゴーゴー」と昭和22年7月東京劇場の梅玉の玉手御前


昭和40年4月から昭和46年12月にかけて全350話放送されていた TBS の『ザ・ガードマン』というテレビドラマがあんまりバカバカしく、ここまでバカバカしいとかえって感動的ですらあると、ついたまに CS の放送を録画して見てしまい、そのたびに脱力することしきり、ああ、またもやアホな時間を過ごしてしまったと毎回悔やんでいるのだったが、たまに、本当にたまにだけど、今回は見てよかった、決して無駄な時間ではなかったという回がある。2、3ヵ月前にたまたま見た、ミヤコ蝶々がゲストの第289話「蝶々の惚れた男で苦労する」(脚本:増村保造)がまさにそれだった。


はじめは、『ザ・ガードマン』に登場するデパートはいつも「緑屋」だなあとか、今回の悪役は南原宏治ではなくて長谷川哲夫なのだなとかなんとか思いつつ、いつものとおりのくだらない展開を淡々と眺めていたのだったが、眺めているうちに、いつもながらのくだらない展開でもミヤコ蝶々が一人いるだけ結構もってしまうところがすごいなあと、だんだん感動してくるのだった。蝶々ナイス! と気持ちが盛り上がってきたところで、ミヤコ蝶々がダンスホールのようなところで「ゴーゴー」を踊っている場面になった。この頃はちょうど「ゴーゴー」が大流行していた時期なのだなと当時の世相に思いを馳せたところで、ハタと思い出したのが、『あの人この人』所収「三島由紀夫の哄笑」に登場する、戸板康二が生前の三島と最後に会ったときのエピソード。

 三島君と最後に会ったのは、死ぬ一カ月ほど前の夜、帝国ホテルの方から来て、ガードの下でバッタリ顔を合わせたのであった。
「これからゴーゴーをおどりにゆくんです」といった。私は何となく、憂国の志士ではなく、呑気なことをいっていたので、ホッとしたのである。

というふうに、「ゴーゴー」とともに、戸板さんは三島を最後に見た日のことを書いているのであった。そんなこんなで、『ザ・ガードマン』でミヤコ蝶々が「ゴーゴー」を踊るサマを見ているうちに、戸板さんと三島由紀夫が最後に顔を合わせた日のことで頭がいっぱいになってしまって急にソワソワ、第289話の放映日が気になって、取り急ぎウェブ検索をしたところ、昭和45年10月16日ということがわかって、ちょっと感動だった。戸板さんが在りし三島の姿を見たのは「死ぬ一カ月ほど前の夜」とのことだから、まさにブラウン管のなかでミヤコ蝶々が「ゴーゴー」を踊っていたのと同時期。1970年10月前後の東京では、ミヤコ蝶々がブラウン管の向こうで「ゴーゴー」を踊り、帝国ホテルの方から出てきた三島由紀夫がどこぞやで「ゴーゴー」を踊る。ああ、1970年代! と、70年代の世相とともに、戸板康二と三島由紀夫の姿がまざまざと脳裏に浮かんだ瞬間はちょっと感動だった。『ザ・ガードマン』を見て、まさか戸板康二と三島由紀夫のことを思い出すとは思わなんだ。


と、まあ、戸板さんの回想を文字通りに受けとっておくことにして、戸板康二と三島由紀夫の最後の対面の正確な日付を特定したいところだけれども、『決定版 三島由紀夫全集 42 年譜・書誌』(新潮社、2005年8月)に所収の精緻を極めた「年譜」(佐藤秀明・井上隆史編)を参照するも、さすがに「ゴーゴー」の文字はなかった(「帝国ホテル」の固有名詞は11月17日に登場はしている。「《中央公論》創刊1000号記念と谷崎潤一郎・吉野作造両賞贈呈祝賀会に出席」)。



三島由紀夫とはちょうど十歳違いの戸板康二。昭和19年の夏に久保田万太郎の推薦で日本演劇社に入社後、昭和25年の日本演劇社解散まで、同社が刊行する演劇雑誌『日本演劇』と『演劇界』の編集に携わることで、戸板康二の演劇ジャーナリストとしての活動がはじまった。戸板さんと三島の初対面は昭和21年9月14日、東京劇場の観劇の折に、旗一兵が二人を引き合わせた。三島由紀夫の回想をする際に戸板康二が毎回必ず書くのが、初対面の際に三島はいきなり「戸板さんは七代目宗十郎をどう思いますか」と聞いて、「いいんじゃないですか」と答えると「私は大好きなんですよ」と言ったというエピソード。シブいことを言って、年上の戸板さんを驚かす三島青年。


戸板康二の昭和20年代の劇評家としての仕事にはたいへん愛着があるので、三島由紀夫と戸板康二の「歌舞伎」を媒介にした交流を垣間見ることがいつもとてもたのしい。ぼんやりたのしんでばかりいないで、いずれきちんと整理したいものだと思う。三島由紀夫の『芝居日記』が公刊された折には解説を寄せていたりと(中央公論社、1991年7月)、三島との交流を回想をするとおのずと敗戦後の歌舞伎のことを思い出すこととなり、戸板さん自身もそれをとても楽しんでいるふしがある。『三島由紀夫断簡』(初出:「悲劇喜劇」昭和51年11月/『五月のリサイタル』所収)という文章では、

 昭和二十二年から二十三年にかけて、ぼくの勤めていた日本演劇社付でもらった手紙や葉書が保存されている。封筒が開封され、検閲官が横文字のはいったセロファン・テープで封じ直した手紙もある。日本列島が占領されていた時代である。

という導入のあと、三島由紀夫の手紙を何通か紹介している。《昭和二十二年の七月の東京劇場で、三代目梅玉の「合邦」の玉手御前を見た直後の手紙がある》として、三島由紀夫書簡の文面をここに、

 「合邦」の梅玉の素晴らしさには文句なしに兜を脱ぎました。後半の演技は盛り上りがなく、いかにも真女形の弱々しさで映えませんが、前半は実に無類でございますね。
 一番感心したのはあの名匠の木工を見るような高貴な手でした。あそこから芝居のエッセンスがほとばしり出るような、魔術師のやうな、ふしぎな手でした。「けんもほろろに」で、膝に両手をキッパリ置くあの手の動きの見事さ、「さればいなァ」で左手をあげ俊徳を制する端正で複雑な手つき、――手といふものは、「技術」の象徴ですが、歌舞伎の美が、彼の七十余歳の手のなかに鐘の音のやうにひびいてゐるのでした。
 動きが端正な点で、梅玉の芸風は三津五郎に似てをりますね。「かちはだし」から「あしのうらうら」あたりの一糸乱れぬ人形風の動きの、古典的な完璧さ。たとへが変ですが、ラシーヌの悲劇の形式の完璧さを思ひ出させます。
 はじめの口説きが大へん結構で、「寝た間も」の色気などこぼれるばかりで、ハッとしましたし、頭巾を使っての仕草に、母性愛めいた異様な年増女の愛慾が出てゐて、面はゆいほど甘美な感じでした。
 後半も、「玉手はすっくと」で天地四方をキッと見まはすところ、写実を全く超越した、この劇の真髄ともいふべきものがつかまれてゐましたし、本復した俊徳を見て「オー」と叫ぶいまはの絶叫など、感動的でした。
 吉右衛門の合邦は、どこか仁にあはぬ処があり、合邦といふ役はもっと壮大なものだと思ひますが、それをぬきにすると、はじめの「世間へ憚ることもないかエ」の「ないかエ」で、老人の思案の挙句らしい調子を巧まずして出した一句に、ほとほと感心した他は、さして光るところがありませんでした。
 一幕中一番よくないのは時蔵(注、三代目)の俊徳です。癩病平癒でパッと鉢巻をとった時、憂ひ顔をしてゐるのは間違ひです。この人は古典劇の無表情の美――それは抽象美であり非情の美ですが――を久しく忘れてゐるのではないかと思はれます。羽左衛門(注、十五代目)はあの近代的風貌にも不拘、この無表情の美を完全に生かした人でした。
 芝翫(注、現歌右衛門)の姫はやはり美しく、俊徳の手を引いて出て、一言一言いふセリフの高雅、あんな品位の高い美しいお嬢さんがゐたらどんなにようでせう。

というふうに長々と抜き書きしている。文字数をかせいでいるわけではなくて、三島由紀夫の手紙を書き写しているうちに、梅玉の玉手御前を思い出して、戸板さんも胸が熱くなってしまったのだろうと思う。わたしも今、書き写して胸が熱くなってしまった。それにしても、なんて素晴らしい手紙! 『芝居日記』に収録されている観劇メモと照らし合わせて読むと、味わい深い。『決定版 三島由紀夫全集 42』所収の年譜を参照すると、三島の観劇は7月28日月曜日だから、この直後の手紙のようだ。


ちなみに、昭和24年2月に俳優座が『火宅』を初演したときに、

この間久保田先生に、「あなたは芝居といふものを馬鹿にしてゐる」と叱られ、しょげてしまひました。「芝居は僕のはけ口です」と申上げたので、ますます叱られました。僕は高村光太郎が彫刻家として、「詩は僕の安全弁」と言ってゐる、あの言ひ方のつもりで言ったのです。

というふうな、久保田万太郎に叱られたことを記した葉書が文面が好きだなあ。これに限らず、三島の手紙はいつも愛嬌たっぷり。

 


藤原せいけん「名家探訪画帖 その二 中村梅玉」、『文楽』昭和23年5月1日発行《中村梅玉追悼号》より。三代目中村梅玉は翌年、昭和23年3月18日没。

 寝るのに肩から背までカイロを入れて手袋をしても寒いと云ふ、さむがりの梅玉さんが、いざ舞台のお化粧にかゝると、少々の風邪気味でもモロ肌ぬぎになる、背筋には寒竹のような節やお灸のあとが、いたいたしい。
 “寒いでしょ”
 “寒いです”
 正直な返事ではあるが、皮膚の色には寒そうな変化は少しも見られない。なれた手つきで白粉刷毛の動くのを見てゐると、何にかこの人に強いものを感じる、絹糸の強さのような。(追記)―ゆくりなくも、この梅玉訪問がこの名優と私との最初にして最後の対面になった。

雑誌『文楽』では「梅玉芸談」が連載されていて、他界の前月に刊行されている。