昭和54年夏の季刊『四季の味』を入手して、戸板康二の食味エッセイに思いを馳せる。


先週は一週間夏休みだった。そんな灼熱の日々の折も折、戸板康二のエッセイが掲載されている『四季の味』第26号(昭和54年7月7日発行)を入手して、大喜びだった。32年前の夏の『四季の味』の表紙はまっかなお皿に乗ったスイカ!

 


季刊『四季の味』第26号・昭和54年7月7日発行(鎌倉書房)。「随筆集 日日これ好日」と題された随筆のページに、戸板康二の「食物との出会い」が掲載されている。のち、『目の前の彼女』(三月書房・昭和57年1月発行)に収録された。

 

食べものや料理、食器の美しい写真と読み応えたっぷりの記事が満載のこの季刊雑誌は、文人たちの活躍の場としてもいかにも似つかわしい雰囲気を漂わせている。たとえば、この号の巻頭随筆は永井龍男の「井戸の水」というエッセイだったり(そこにあらわれる「東京の夏」にうっとり)、「随筆集 日日これ好日」と題された随筆のページに、戸板康二とともに、藤枝静男や小沼丹といった人たちが名を連ねていたりする。角田房子の「パリのカフェ」というエッセイで、前号の春号に串田孫一の「ホームの椅子」というエッセイが掲載されていたことを知り、串田孫一→戸板康二というつながりが嬉しく、『四季の味』のほかの号も顔ぶれがますます気になってくる! 戸板康二は『風景』昭和46年2月号掲載の「リトル・マガジンについて」というテーマの巌谷大四との対談で、《エッセイということばが、日本ではかなり乱用、あるいは誤用されていう傾向があるけれども、エッセイの本質はリトル・マガジンに載るものだという気がするな。》というふうに言っている。すぐれたエッセイストとは、『四季の味』の誌面にふさわしい文人のことである、と定義づけてもよいのではないかしらと思う。

 


季刊『四季の味』第65号・平成23年7月17日発行(ニューサイエンス社)。最新号の『四季の味』。戸板さんのエッセイの掲載されている32年前の『四季の味』とまったく雰囲気がおなじ! この変わらなさ具合が涙が出るほど嬉しい。古風かつ瀟洒で清潔感あふれる誌面を眺めていると、ウエストや東京會舘のカフェテラスでくつろいでいるときような気分になる。NDL の OPAC で取り急ぎ検索したところによると、『四季の味』の創刊は昭和48年の春号、平成6年秋の秋号でいったん休刊となり、翌年、ニューサイエンス社が版元となり、ふたたび第1号から再スタートした模様。ここ数年来、もっとも発売をたのしみにしている雑誌。

 


矢野誠一『昭和食道楽』(白水社、2011年7月20日)。装幀+イラストレーション:唐仁原教久。ここ4年ほど、『四季の味』の最新号を手にしてまっさきに開くのは、いつも矢野誠一さんの連載「昭和の味散策」だった。2007年夏号から2011年春号までの4年間の連載が「しょうわくいどうらく」と名を変えて、こうして一冊のの本となった歓喜といったら! 唐仁原教久さんの挿絵が単行本でも収録されていて、よろこび2倍だった。表紙絵の「昭和食堂」の看板に「アイスキャンデー」から「ビール」までの全16タイトルの文字があしらってあって、にっこり。「昭和の味散策」は今年3月発売の春号で終ってしまったけれども、上掲の最新号の夏号から、「酒呑みのいる風景」と題した新連載がはじまっており、引き続き、矢野誠一さんの文章と唐仁原教久さんの挿絵を見ることができる。



『四季の味』昭和54年夏号に掲載された「食物との出会い」は、文字どおりに、戸板さんの食物との出会いをリズミカルに振り返ったもので、ラストの一節は《食物との出会いも、人と知り合う場合と同じく、縁でこそあれというべきであろう。》。子供の頃、父親に連れられて行った有楽町の電気倶楽部のクリスマスの会からはじまり、神戸、堺、柴又といった場所と連れて行ってくれた人の思い出とともに、その食べ物に出会う縁が綴られている。ちなみに、同じタイトルの「食べ物との出会い」というエッセイが『忘れじの美女』(三月書房・昭和63年5月発行)に収録されているが、こちらは『明るい仲間』(昭和62年3月)が初出のまったく別の文章で、いつもながらの「とりとめもない回想」だからこその極上の一篇となっている。


戸板康二は食味随筆の名手でもあった。一冊まるごと食味随筆というと、晩年の『食卓の微笑』(日本経済新聞社・平成元年4月)がある。「日本経済新聞」に昭和62年12月より翌年12月まで計52回の連載が一冊にまとまったもので、この本に関しては、種村季弘がとびきり素敵な書評を書いている。

 食事ではない。「食卓の微笑」だから、あくまでも「食卓」。つまり社交としての食事。うまいものをそれだけ単独に話題にするグルメ話ではない。都会砂漠の修行僧のような独身者、学生向きのアンチ・グルメ話でもない。円い食卓があって、まわりに人が集まる。おしゃべりをする。食べるマナーを見せあう。せりふとしぐさがあって、とどのつまりはそこがお芝居の舞台になる。そんな情景を劇評家・推理小説家の著者が書いた。
 都市が教会や王侯の城を中心に成立した時代はとうに過ぎた。その後は劇場が中心である。いや、あるべきだろう。そこに町人の典型を演じる役者がいて、その好悪をいう趣味の判定者、劇評家がいる。都市の趣味を決定するのは劇評家なのである。そういう人が食卓を話題にしたら、これは聞きずてならない。モリエールも黙阿弥も知らないマダムがフランス料理をグルメっちゃうのといささかレベルがちがう。
 食卓のまわりには多彩な人物が集まる。菊五郎や三津五郎がいた。新劇俳優とタカラジェンヌがいた。もっと身近な家族友人もいて、ご先祖さまも一枚くわわった。そのそれぞれの食癖が寸劇風に「演出」される。どれにも落語風のオチがつく。ことば遊びで食べ物のなまぐささを見立ての別次元に移しかえる。当然、食べ物そのものではなくて、それを囲む舞台装置、俳優の組み合わせといった演出的配慮のほうに力点がある。それがなんともおいしい。

と、これは『遊読記』(河出書房新社、1992年8月)に「円居のある食卓」というタイトルで、戸板康二の『食卓の微笑』と『慶応ボーイ』の2冊を評した文章の前半部分。長年にわたって、戸板さんの本の書評でもっとも好きな文章のひとつ。

 


『あまカラ』第81号・昭和33年5月5日発行(甘辛社)。戸板康二の「舞台で酔う話」の掲載号の『あまカラ』。『芝居国・風土記』(青蛙房・昭和38年3月)に収録されている。同書に収録の歌舞伎のなかの食べものを扱ったエッセイの初出誌としての『あまカラ』。三月書房の初期のエッセイ集、『ハンカチの鼠』(昭和37年11月)や『女優のいる食卓』(昭和41年6月)にも『あまカラ』初出のエッセイが何篇かある。わたしが『あまカラ』のことを知ったのは、これらの文章の初出誌として知ったのが最初だったなあと懐かしい。戸板康二がエッセイストとしてグングン腕を磨いていった場としての随筆雑誌として、『あまカラ』はもちろん、昭和20年代の『春燈』にもかねがね注目している。たとえば、『ハンカチの鼠』に入っている「氷水」の初出は『春燈』昭和28年5月号。明治製菓での同僚だった早世した牛島肇が登場する1篇。

 


『スヰート』第17巻第2号・昭和17年4月15日発行。表紙は尾上柴舟筆の色紙。この号の『スヰート』には、柳田國男の「小豆の話(上)」が掲載されている。

 「小豆の話」という論文をいただいた御礼に、宣伝部長の内田誠さんと先生を訪ねた日、食物誌を書こうとしていた内田さんが、玉子売りについて質問した時、「それは七部集にあるますよ。大川では舟で売りに来るんです」といいながら、本棚の或る所から、スーッと一冊活字本を引き出す呼吸の、名人の至芸に似たみごとさを見ている。
 (中略)
 内田さんが「日本の食物について調べております」といった時、先生は莞爾として、「それこそ、あなたのような人に、してもらわなければならないことだ。本朝食鑑をまず、読むといい」といった。内田さんは感激して、帰りに車を神田に走らせ、一誠堂で日本古典全集を早速購入していた。

と、『わが交遊記』所収の「わが先人」の柳田國男の項で、この頃のことが回想されている。このくだりを読んで以来、内田誠が買ったのと同じ『本朝食鑑』が欲しいなあと思いつつも、まだ果たされていない。と、それはさておき、昭和14年4月に明治製菓に入社し内田誠宣伝部長のもとで、当代一流の文人墨客によるお菓子エッセイを毎号載せていた、広報誌『スヰート』の編集に携わっていたことは、のちの戸板康二にとって、食味エッセイの名手となるよい下地になったことは間違いあるまい。


明治製菓の宣伝誌『スヰート』は、昭和18年3月10日発行の号をもって終刊となり、時局を鑑みて次号より「栄養之友」と改題して内容を一新することとなった。その『栄養之友』第1号は同年6月に発刊されている。しかし、その目次には、小堀杏奴の「お菓子の思出」や小島政二郎「一行四人」といった文字があり、随筆誌としての側面は残っていた。この時期、戸板康二は京橋の本社の宣伝部から、川崎工場の倉庫係に転任していたというから、戸板康二は『栄養之友』の編集には携わっていないのであるが、同年8月、川崎工場を早々に「円満退社」し、折口信夫の紹介で山水高等女学校の教師となったあと、同年12月15日発行の『栄養之友』第3号には、戸板の「のっぺいと鴨」という随筆が掲載されている。この文章が、たぶん戸板康二のもっとも古い「食味随筆」だと思う(日本近代文学館に所蔵されている)。

 

その「のっぺいと鴨」は昭和13年12月15日から18日にかけて開催の奈良の春日若宮の御祭の見物へ出かけた折のことを書いたもので、このとき戸板康二は翌年の明治製菓入社を控えて、同年9月に大学院をやめていて、父の勤める藤倉電線でアルバイトとして勤め、社長の伝記の編纂作業に従事していた(『松本留吉』松本留吉翁伝記編纂委員会編・昭和14年3月刊)。アルバイトを休ませてもらって、折口信夫のすすめで戸板さんは奈良へ出かけたのだった。「のっぺいと鴨」を書いたのはそのちょうど5年後、明治製菓を退社した直後のこと。明治製菓入社前と退社後の5年間の歳月を思って、戸板さんはさぞ感慨深かったことだろうと思う。「5年はひと昔、夢だ、夢だ」というような心境だったかも。