戸板康二の三田文科の友人・安田晃と昭和11年の「尾上菊五郎」にまつわるメモ。


『四季の味』第26号(昭和54年7月発行)の「随筆集 日日これ好日」のページに掲載の、戸板康二の「食物との出会い」(『目の前の彼女』所収)に以下の一節がある。

 慶応の予科の時、のちに朝日に入社してビルマで戦死した安田晃という独文志望の学生と親しくなった。家が堺の天神様の真ん前にあったのを、一度訪ねたので、よく覚えている。
 その時、鯉の洗いを酢味噌で食べるという経験をした。鯉こくは、国文科の遠足で、柴又に行った時、川甚の二階で、はじめてその味を知った。

同じテーマの別の文章、「食べ物との出会い」(初出:『明るい仲間』昭和62年3月→『忘れじの美女』所収)では、

 慶応の予科で親しくした友人の堺の家で、鯉の洗いを酢味噌で食べた。珍味だと思った。

と、おなじエピソードがこちらではこんな感じにサラリと盛り込まれてある。戸板康二が慶應予科に入学した昭和7年の夏に、藤倉電線に勤める父・山口三郎は大阪に転勤することになり、昭和12年夏まで一家は阪神間の住吉に仮寓していた。昭和7年から昭和12年までの5年間、戸板康二の「実家」は関西となり、年に三度の長期休暇の際には阪神間に「帰省」することになった……というふうな、1930年代の「阪神間の戸板康二」にまつわるあれこれについて、極私的に長年にわたって執着している。安田晃の堺の実家を訪れたのも「帰省」のついでに足をのばしたというわけで、安田晃の実家で鯉の洗いを初めて食べたくだりは、「阪神間の戸板康二」におけるを語る上ではずせない挿話のひとつなのだった。

 


川西英《堺水族館》昭和7年4月17日、図録『特別展 川西英と神戸の版画』(神戸市立小磯良平美術館、1999年10月)より。短絡的ではあるけれども、「阪神間の戸板康二」を思うとき、いつも川西英の戦前の版画が頭のなかに思い浮かんできて、いつもうっとりだ。安田晃の実家のまん前の「堺の天神様」の位置を取り急ぎ確認してみると、菅原神社は阪堺電車の「花田口」と「大小路」の中間あたり。戸板さんは阪堺電車に乗って「堺の天神様」に行ったのかしら! それとも、難波から南海電車にのって堺駅で下車してテクテク歩いたのかしら! と、1930年代の関西私鉄へも思いが及んでゆくのがたのしい。堺水族館のあった大浜公園にも歩いていける場所。いつかこのあたりを歩いてみたいなと明日の関西遊覧の夢が広がるばかり。



戸板康二の予科時代の友人で実家が堺の大阪っ子、朝日新聞入社後に若くしてビルマで殉職、戸板さんが鯉の洗いを初めて食べた記憶とともに回想される人物……というふうに、安田晃の名前はわたしのなかでは長年おなじみだったので、3年ほど前、数冊にわたる『高見順日記』(勁草書房刊)を精読していた際に、思いもかけないタイミングで安田晃に遭遇したときの歓喜といったらなかった。「渡南遊記」と「徴用生活」を含む、昭和16年1月から昭和17年9月までの日記を収める『高見順日記 第一巻』(勁草書房、昭和40年9月刊)所収の昭和17年8月22日付けの日記に、以下のくだりがある。

 芹沢氏の「春の記録」(文芸)を読む。ビルマで死んだ、私も知っている朝日特派員の安田君のことを書いたものだ。安田君が日記だか自作の詩集原稿だかを芹沢氏に遺して行ったという話は、かねて聞いていた。

と、ただこれだけの記述なのだけれど、昭和17年にビルマで死んだ朝日特派員の安田君といえば、戸板康二の友人・安田晃とみて間違いないのだった。今まで戸板さんの文章を通してのみ知っていた人物に、思いもしてしなかったタイミングで遭遇した次第。うーむ、これはちょっと軽視できない存在かもと思った。戸板康二の単行本において、慶応予科時代の独文科の友人・安田晃についてのもっとも詳しいのは、

 安田君は堺の出身で、ドイツ文学の茅野蕭々さんの教えを受け、大戦勃発後、特派員として派遣されたラングーンで、病を得て殉職した。
 芝居好きで、ジョークも巧みだった。「ブルンネン」という同人誌を出したり、詩を書いたりもした。好男子で、慶応の正門の右側にそのころあった丸善の女店員に恋されたという噂を、何となく羨ましいような気持で聞いたものだ。

と、この『思い出す顔』の「同学の先人今人」のくだりかと思う。

  


『ブルンネン』第5号(慶應義塾独逸文学会編集・昭和12年6月30日発行)。表紙題字:茅野蕭々。表紙絵:高岡徳太郎。『ブルンネン』は独逸文学研究雑誌として「慈愛深き茅野先生」指導のもと、この号で3年目を迎えたとのこと。この号では、巻頭に茅野蕭々の論考(「労働者文学の前奏曲」)のあとに学部生の論文や翻訳が続く。安田晃はリカルダ・フウフの訳詩を寄せている。茅野蕭々というと、富士川英郎が茅野蕭々訳『リルケ詩抄』(第一書房、昭和2年3月刊)を機にリルケに魅せられて、独逸文学を志望したことを思い出さずにはいられなくて、安田晃ももしかしたら第一書房の『リルケ詩抄』を愛読していたのかもと想像している。

 

そんなこんなで、『高見順日記』の記述を受けて、こうしてはいられないと図書館に走って、『文藝』を閲覧、芹沢光治良の『春の記録』は昭和17年7月号(第10巻第7号)に掲載されていた。

 


芹沢光治良『春の記録』(全国書房、昭和17年8月1日)。装幀:國枝金三。「高原」「冬のはじめ」「春の記録」「旅のあと」「夕顔」「鈴の音」「写真」「野菊」の8篇を収録した短篇集。『文藝』7月号に掲載されたあとに、『春の記録』は早々に単行本化している。

 春の記録の船山君は仮名であるが実在の人物である。その生前にはお互に魂の触れあふことを感じて生きたし、その戦死には、私は自分の幾分が戦士したやうな感慨をおぼえた。何れこの若い友の記念として長く書きたいと考へてゐるが、この短篇集も、この友の霊に献じたいささやかな意図から、春の記録といふ題名を冠することにした。

と、著者は、あとがきで『春の記録』で「船山君」の名で登場する安田晃のことを書いている。この一冊は國枝金三による装幀もゆかしく、安田晃へのこの上ない餞となっている。芹澤光治良によって回想される「船山君」は文学への思いを胸のなかでたぎらせながらも、《一流の新聞社で一流の記者として、社会も識り、自己の錬成をして人間もつくり、識見をたかめなければと》して、新聞記者となった青年として登場する。安田晃の社会人として誠実に職務を果たしながらの「詩」や「文学」への探究は、明治製菓の宣伝部の職務に従事しながらつねに「歌舞伎」の探究をしていた戸板康二の姿にも重なる。その点において、この作品は同時代の戸板康二の姿をも描いているといえそう。



安田晃は昭和17年4月8日にビルマで朝日新聞社の「報道戦士」として戦死し、遺体は4月21日に内地に帰還、4月24日午後1時より朝日新聞社による社葬が築地本願寺にてとりおこなわれた。慶應義塾の機関誌『三田評論』昭和17年6月号に、戸板康二の「報道戦士安田晃氏の死」が掲載されている。本当の友人にしか書き得ない文章に胸が詰まるものがある。

 ひる過ぎから吹き初めてゐた風が、硝子戸をしきりに揺ぶつた。私は羽田飛行場の、朝日新聞格納庫事務所の二階で、変り果てた安田君の遺骨の前に立ち、何も言葉が出なかつた。四月廿一日の夕刻である。

という書き出しにはじまり、

 羽田から朝日の本社へ帰る途中、安田君の英霊をのせた車は、思ひ多い三田の通りを走つた。やがてその車は、芝公園を通りぬけた。燃えるやうな公園の若葉に目を遣りながら、芹澤光治良さんが沁々いはれた。
「美しいですねえ」
 私は、安田君の死を伝へた、四月十二日の新聞記事を思ひ出してゐた。
「みんなあまりに美しすぎる事ばかりだ」とそれにはあつたが、安田君の一生はこの山内を埋めて光り輝く若葉の、美しさでつひに終始したのである。

という一節で締めくくられている。この日、戸板康二は芹沢光治良と行動をともにしていたのだった。また、中ほどには、

三田在学中、安田君はむきになつて勉強した。その一方では、本を驚くほど読み、旅行をし、芝居を見、人の世話を焼いた。人の世話とは、例へば文学部会の名簿を作るなどといふ誰もが面倒臭がつて手をつけないでゐたいはば大事業を一人で完成したりしたものだ。同時に、かういふ事務の一つ一つを、安田君は克明に、まごころを尽して、片づけて行つたものだ。

と、故人の往時の姿が回想されているのであるが、その「文学部会の名簿」というのが、昭和11年11月に第1号が出た『文林』、慶應義塾大学文学部会発行の会報の巻末に付されている名簿のこと。『文林』は昭和11年より毎年1冊のペースで刊行されており、戦後には誌面に山川方夫が登場したりしている。安田晃はその初代編集長だった。名簿は昭和12年7月発行の第2号より掲載されていて、後世の者にとっても大助かりの極上の資料。

 


『文林』第1号(慶應義塾大学文学部会、昭和11年11月26日発行)。安田晃の編集後記によると、この年、「文学部会」が組織を強固にしたことによる新しい仕事のひとつがこの雑誌の発行だったとのこと。題字は会長の川合貞一によるもので、巻頭に「会報の発刊に際して」を寄稿、その次に茅野蕭々の随筆「座談」が掲載され、学生の寄稿が続く。そのなかに、戸板康二の「尾上菊五郎」の文字が目次に並んでいる。

 


さらに、その戸板康二の「尾上菊五郎」には「劇友A・Y氏へ」という献辞が付されているのだった。おそらく安田晃の懇請により寄稿されたと思われる「尾上菊五郎」は、戸板康二が菊五郎のことを書いた文章で公になっているものでは、昭和9年に『演藝画報』に懸賞論文に当選した「歌舞伎を滅す勿れ」(昭和9年8月号掲載)に次いで、二番目に古いものである。次いで、昭和12年3月の『三田文学』に「菊五郎論」が掲載され(『俳優論』に「尾上菊五郎論」として収録)、そして、明治製菓入社後の昭和16年8月の『冬夏』に「菊五郎に関する私見」を寄稿し、これも『俳優論』に収録された。



戸板康二が「菊五郎歌舞伎」と呼んで、六代目菊五郎について、絶えず思考していたその軌跡のひとつに、「劇友」の安田晃が編集を担当した『文林』があった。今まで、安田晃の印象というと、「鯉の洗い」と「ドイツ文学」ばかりで、芝居好きという点を見逃していたのだったけど、関西への「帰省」の際に、もしかしたら一緒に道頓堀に行ったこともあったかもしれない。大学入学後に、戸板さんの知らない大阪の芝居、安田青年の知らない東京の芝居のことを、お互いに彼らの見た芝居のことで話がはずんだこともあったかもしれない。……などと、いろいろと妄想は広がるのだけれど、歌舞伎研究会の友人とはまた別の意味で、独逸文学を学ぶ安田晃との芝居談は戸板青年にとって、さぞ楽しかったことだろうと思う。


戸板康二を歌舞伎探究の源泉にいたのは間違いなく六代目菊五郎で、菊五郎は戸板康二を「劇評家」にした人物といってもいいような気がする。来月に講談社文芸文庫になる『丸本歌舞伎』も「六代目菊五郎論」を多分に含んでいる。と、ここで、突発的に福原麟太郎の「春の夜ばなし」(初出:「学生」昭和24年4月→『猫』宝文館・昭和26年6月)というエッセイを思い出す。

 何にでも感心して傾倒すると、心がすくすく伸びてゆくものだ、という話になつて来た。或る夜二人の若い友人と、火鉢を囲んでの雑談のうちの一つの話題であつた。恋愛というものも、そういうものであるか知れないと、私はこころに思つたが、口には出さなかつた。話は勉強に関してであつた。
 私は、尾上菊五郎、すなわち今の六代目菊五郎に熱中していたころの話をした。それは今から三十年くらい前だから、六代目が三十ちよつと出たほどの齢であつたろう。
 (中略)
「いや、むしろ、ぽかんと口を開けて見ていたという方が本当なんだよ。」
と、私は二人の友人に語つた。ああ、何という巧みさであろうと、幕がしまつても動けないような気持になるほど感動したものだ。
 それが私の勉強に、よい薬であつた。あゝいう風に、ああいう風に、と私は自分の勉強を六代目の「素襖落」や「文屋」や「保名」になぞられて、心を整備し、形をつけてみようとした。身体全体にこころを満して、指一本のあつかいにも美の法則から外れる事なく、細かにして且つおおらかな技術、いのちの活躍、そんなことをしよつちゆう考えていた。
 それで心が、すくすく伸びていつたかどうか、私の場合、保証のかぎりでないが、始終快い刺激をうけて、何だか、光があるという気持ちになつていられるのは、うれしいものだ。ぞくぞくする心地のものだ。……

とまあ、思わず長々と抜き書きしてしまったけれども、「菊五郎歌舞伎」という言葉を使って六代目菊五郎に対する数々の論考をものしていた戸板康二にとって菊五郎は、「心がすくすく伸びて行く」ような、「光があるという気持ち」にさせてくれるような存在であり、「始終快い刺激」を受けながら、歌舞伎探究を続けていたのが戸板康二の青春であった、その当時の友人のひとりが安田晃だったと、ただそれだけのことが、わたしの胸を熱くさせるのだった。昭和17年の12月に刊行された、戸板さんの初めての本『俳優論』を安田晃は見ることなく同年4月に戦死してしまっている。

 


《避暑地の尾上菊五郎さんと丑之助君》、『芝居』創刊号《菊五郎礼讃号》(日本演劇社、昭和2年7月1日発行)口絵より。菊五郎は立派な太ももだなあといつも感心する。