いろいろな中村雅楽:『車引殺人事件』の尾上鯉三郎の場合(前篇)


老優・中村雅楽を探偵役にすえた戸板康二の推理小説の第一作『車引殺人事件』が江戸川乱歩の推挙で、雑誌『宝石』昭和33年7月号に掲載され、好評をもって迎えられ、乱歩の絶妙な後押しもあって、以降とんとん拍子に新作が『宝石』に掲載されてゆき、34年5月号に掲載の『松王丸変死事件』までの5篇を収めた『車引殺人事件』が翌34年6月にが河出書房より刊行された。雲の会編「演劇講座」全五巻刊行時より旧知の編集者だった坂本一亀のすすめにより刊行された本書には、「推理作家・戸板康二」の生みの親である江戸川乱歩の懇切な序文が付されていて、戸板さん本人でなくても感動してしまうような文章。戸板さんは、坂本一亀に頼んで、乱歩の生原稿を記念に譲ってもらったという。


おりしもこの時期は、テレビ放送がますます本格化していた時期であり、戸板康二の推理短篇もドラマの恰好の素材だったのかもしれない。『車引殺人事件』が刊行された2ヶ月後の昭和34年8月にいち早く、同書所収の『尊像紛失事件』が NTV 系列でテレビドラマ化されている。新派の英太郎が中村雅楽に扮したこのテレビドラマは、のちのちまで放送史で語り継がれる生放送ならではのハプニングがあった。そして、翌35年1月21日、戸板康二は『團十郎切腹事件』により第42回直木賞を受賞することになり、さっそく3月に放送のフジテレビの「直木賞シリーズ」として『團十郎切腹事件』がドラマ化された。中村芝鶴が雅楽に扮した。そして、4月には新宿第一劇場にて『車引殺人事件』が菊五郎一座によって上演されたのだから、まあ大変。当時は直木賞受賞の報道が現在ほどは過熱していなかったというけれど、1月に受賞が決まってからしばらくは、戸板さんはソワソワしっぱなしだったことだろうと思う。


さて、ウェブサイト「配役宝典」(http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Cinema/5784/)内の「配役宝典 第六版 な その2」(http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Cinema/5784/honbun/na3.html)のデータをもとに、現時点において判明している中村雅楽に扮した役者をまとめてみると、以下のようになる。

  1.  英太郎『夜のプリズム 尊像紛失事件』NTV 系列・昭和34年8月26日午後10時00分から30分まで
  2. 中村芝鶴『直木賞シリーズ 團十郎切腹事件 前後編』フジテレビ系列・前編:昭和35年3月21日・後編:3月28日、いずれも午後8時30分から9時00分まで
  3. 尾上鯉三郎『車引殺人事件』新宿第一劇場4月興行・夜の部・昭和35年4月2日~26日
  4. 尾上鯉三郎『車引殺人事件』NHK・昭和35年7月15日・午後8時45分から10時00分まで
  5. 大矢市次郎『車引殺人事件』ラジオドラマ・昭和35年(放送日時は追って確認)
  6. 中村芝鶴『名子役失踪事件』ラジオドラマ・昭和36年(放送日時は追って確認)
  7. 中村勘三郎『土曜ワイド劇場・名探偵雅楽登場 車引殺人事件つづいて鷺娘殺人事件』テレビ朝日系列・昭和54年5月4日
  8. 中村勘三郎『土曜ワイド劇場・名探偵雅楽登場 お染宙づり殺人事件ひきつづいて奈落殺人事件』テレビ朝日系列・昭和55年1月5日
  9. 中村勘三郎『土曜ワイド劇場・名探偵雅楽三度登場 幽霊劇場殺人事件』テレビ朝日系列・昭和55年5月5日

戸板康二自身がもっとも網羅的に、中村雅楽のドラマ化について言及している文章といえば、なんといっても「いろんな中村雅楽」(初出:「ルパン」昭和56年7月、『目の前の彼女』所収)であるが、ここでは残念ながらラジオドラマには言及されていない。それから、たいへん気になるのが、この文章には市川中車のことが以下のように回想されていること。

 最も神経を使ってぼくの雅楽の絵に近づこうとしてくれたのは、八代目市川中車である。昭和三十年に中国に同行してから親しくしてもらったこの老優は、実兄の市川猿翁以上に新人で、理屈っぽいインテリだったから、雅楽がもっともらしい絵ときをする云いまわしも、格別上手であったが、すこしりきみすぎ、目が鋭く光って、犯罪者に見える点が惜しまれた。
「見てくれましたか」と電話がかかって来たが、「こんなくたびれた役はありませんよ」と、息をはずませていた。

中車の気性を髣髴とさせて、思わずクスクス笑ってしまうのであるが、手軽に参照できるデータベースの類では、中車の中村雅楽が抽出できなくて、ハテ、いつの放送で、雅楽ものの何のドラマ化なのだろう……と、長年気になっているのだった。まさか戸板さんの勘違いとも思えないので、この件については、追って追究したい。それから、『雅楽探偵譚 團十郎切腹事件1』(立風書房、昭和52年9月)の巻末の戸板さん自身による「作品ノート」によると、『立女形失踪事件』が市川門之助によりテレビドラマ化されたとあり、『宝石』昭和37年11月号で門之助自身もフジテレビでドラマ化されたと回想している。中車の雅楽はこのドラマのことなのか? 門之助は戸板さんのひそかな贔屓役者だったので、門之助が自作の「立女形」に扮したことは戸板さんにとってさぞ嬉しかったことだろう。門之助の『立女形失踪事件』についても、追って追究したい。

 


『わが人物手帖』(白鳳社、昭和37年2月25日発行)の口絵の市川中車の写真。中車は本当に中村雅楽を演じているのか、演じているとすれば、いつどのように演じているのかをなるべく早くに解明したい! という願いをこめて、中車の鋭気に満ちた顔面をしばし見つめる。



……などと、このたび突然、中村雅楽のドラマ化について追究していこうと思い立ったのはのは、『車引殺人事件』が上演された際の新宿第一劇場・昭和35年4月興行のプログラムを入手したからなのだった。長年の念願だった。長年過ぎて、最近は探していたことすら忘れていたくらい。

 


筋書《新宿第一劇場四月興行 尾上菊五郎劇団 中村扇雀参加》(松竹株式会社演劇部発行、新宿第一劇場編集、昭和35年4月2日発行)。昭和35年4月2日初日、26日千秋楽。昼の部:谷崎潤一郎作・観世栄夫演出『恐怖時代』、『黒髪』、木村錦花脚色・荒川清演出『梅ごよみ』。夜の部:戸板康二作・加賀山直三脚色演出『車引殺人事件』、『相生獅子』、岡鬼太郎作・巖谷慎一演出『旗本五人男』。菊五郎劇団に扇雀が加わった新作中心の興行で、扇雀と鶴之助の共演は「武智歌舞伎」を思い出させる。『車引殺人事件』は鶴之助のみの出演。ちなみに、『梅ごよみ』の演出は三代目左團次! 戸板康二の文章を通して、往年の菊五郎劇団に思いを馳せるのはいつもとても楽しいことである。


劇評家として歌舞伎界ではおなじみだった戸板康二が『團十郎切腹事件』で直木賞を受賞し、推理作家としても一家をなしつつあった矢先、そのデビュウ作であった『車引殺人事件』が劇化されることとなった次第で、「推理作家・戸板康二」の生みの親である江戸川乱歩が「「車引殺人事件」について」という文章を筋書に寄せ、

私は今から観劇の日を楽しみにしている。劇中劇の配役は別として、推理劇としての主な役割は、老優雅楽と、演劇記者竹野と、たくみに人目をくらましている真犯人などであるが、雅楽のあの味のある風格をうまく出してもらいたいし、また、作者戸板さんの分身である竹野が、どんな人物となって舞台に現れるかも楽しみだ。この珍しい推理劇の初演が、大いに成功するのを期待したい。

というふうに、結びの一節でエールを送っている。また、『車引殺人事件』全三幕(中嶋八郎装置)の詳細なあらすじのあと、戸板康二自身による「「車引殺人事件」原作者の私感」が掲載されている。単行本未収の文章で貴重なのであるが、

 ぼくの書いた小説が、脚色されて劇場で上演されるなどということを、少なくとも二年前の今ごろ、ぼくは、ゆめにも考えていなかった。
 ぼくは劇評が本業だから、今月も、新宿第一劇場を見て、東京新聞に何か書かなければならない。方法論的に、これだけが、目下、頭痛のたねである。
 しかし、加賀山直三氏の脚色により、久しい知友の多くが、ぼくの設定した人物に扮してくれるというのは、正直にいって、ぼくには、大へん楽しみである。原作者としては、低姿勢たらざるを得ないが、それは別に、吹聴する必要のない私感であろう。

というふうに、ちょいと居心地が悪そうな感じではある。

 

 「狂言案内」というページには、『車引殺人事件』は、

 演劇評論の戸板康二氏の原作を同じく演劇評論家の加賀山直三氏が脚色、演出される芝居です。こういう例は近頃では珍しいのではないでしょうか。原作を初めとする一連の、雅楽という老名優と竹野という新聞記者の活躍で話のすゝめられて行く推理小説によつて、戸板氏が今年度の栄えある直木賞を受賞されたことは今更書くまでもありますまい。
 新聞記者が登場するのですから、無論純然たる現代劇です。松王・梅王・桜丸の出てくる「車引」が上演中に突如として起つた殺人事件という点で、半七の「勘平の死」が連想されますが、あれは江戸、これは現代、感触のすつかりちがつたものなのは言うまでもありません。歌舞伎の楽屋が世界になつているとはいえ、現代生活とつながつた小道具が鍵になつたりしています。もつとも近代感覚をもつているとされている菊五郎劇団の若い人たちがどのようにそれを表現するか、期待される一篇です。

というふうに案内されている。最後のページには、「十二人と人々」と題して、この興行に関わる人物の紹介記事があり、『車引殺人事件』に関わる人物として、原作者の戸板康二、脚色・演出者の加賀山直三、装置家の中嶋八郎が紹介されている。

 

配役は、劇中劇の『車引殺人事件』の松王丸が九朗右衛門、梅王丸が八十助(のちの九代目三津五郎)、桜丸が由次郎(現・田之助)。時平の升蔵が芝居上演中に殺されて事件発生、老優中村雅楽が鯉三郎、友人の東都新聞文化部の竹野記者が九朗右衛門の二役、おなじみの江川刑事はこれまた二役で八十助。いきなりネタばらしをしてしまうと、犯人である男衆勝造が鶴之助(のちの富十郎)……と、主要な配役はこんな感じで、『「ちょっといい話」で綴る戸板康二伝』で、九朗右衛門は《松竹に無理に頼んで私は探偵の役をやらしてもらった。》なんて書いていて、微笑ましい。

 


プログラムに《稽古場風景》と題して掲載されている写真。前列右から二人目が鯉三郎、その右斜め後ろに立っている男は手荷物から判断するとマッサージ師だな、梅十郎という人らしい、鯉三郎の向かって左に座ってこちらを向いているのは九朗右衛門、この場面は竹野記者なのかな、左端に苦渋の表情っぽい仕草なのは犯人の鶴之助? 右端は八十助? とかなんとか、顔の判別が苦手なわたしにはそれぞれの俳優名がようわからぬのが残念なのであった。

 


こちらは、みんなでお茶を飲みながらお煎餅を食べている和やかな稽古場風景。扇雀だけ明るい色の着物を着ている。



さて、実際の上演はどんな感じだったのか。以下次号。