いろいろな中村雅楽:『車引殺人事件』の尾上鯉三郎の場合(後篇)


昭和35年4月の新宿第一劇場の『車引殺人事件』上演に際して、筋書には、劇評を書かなければならないのが目下の頭痛の種だ、と書いていた戸板康二であったが、結局はこの興行の劇評は辞退して、他の人に書いてもらったという。と、東京新聞は現時点では未確認なので、追って確認することにして、今日のところは読売新聞の劇評をみてみよう。昭和35年4月11日付夕刊に安藤鶴夫による劇評が掲載されている。「魅力ある狂言立て」「「車引殺人事件」がいい」というのがその見出し。《菊五郎劇団の若手、中堅に扇雀を加えた座組みも面白いし、狂言立ても魅力がある。》という書き出しではじまり、『車引殺人事件』については、

戸板康二の小説「車引殺人事件」を加賀山直三が三幕に脚色・演出した新作が手ぎわよくまとまっていい。序幕の「車引」は八十助の梅王、由次郎の桜丸が共にひきしまってよく、九朗右衛門の松王は生硬だが大きいのがとりえ、升蔵の時平が御所車に立とうというところから事件が起きるが、場内アナウンスを使ったり、かげの舞台でやっている「矢口渡」の鳴り物などの使い方もまことに心得たものである。鯉三郎の雅楽も広告放送のきらいな頑固な風格がよく出ているが、九朗右衛門のもう一役竹野と共にちょっとせりふの聞こえないところがあるのは困る。この種の作品はまずなによりもせりふがはっきり通ることである。ずばぬけて鶴之助の男衆が巧い。カブキを知り抜いた原作者と脚色・演出者のコンビによるこのシリーズはこれからもたのしい名物になりそうだ。

というふうに評している。残念ながら名物にはならなかったようだが、鯉三郎のセリフが聞こえにくいとか具体的なことが書いてあるのは、後世の者にとってはたいへんありがたく、鶴之助がほめられていて嬉しい。

 


『演劇界』昭和35年5月号(第18巻第5号)に掲載のグラビアより、『車引殺人事件』の劇中劇の場面。升蔵の時平公、八十助の梅王、由次郎の桜丸。『思い出の劇場』所収「新歌舞伎座」によると、劇中の『車引』は《三人とも赤の襦袢にしてもらった》とのこと。松王丸が写っていないのが残念! 


『車引殺人事件』の原作では、《松王がいつもの白のじばんでなく、昔の型の赤じばんで出て、三つ子が揃いの赤になる》というのは雅楽の案で、竹野記者は《こういう「車引」こそ、いかにも歌舞伎の稚拙なたのしさだ》とご満悦だった。しかし、『歌舞伎ダイジェスト』所収「手習鑑」では、戸板さんは《十数年前に、歌舞伎座で菊五郎が松王で「車引」が出たとき、赤じゅばんを試みに復活してみたが、予期に反して、あまりよくなかった。》と書いている。『車引』の三人の襦袢については、昭和47年から51年にかけて執筆された『小説・江戸歌舞伎秘話』の一篇「座頭の襦袢」の素材となっており、末尾に添えられた「歌舞伎百科」で詳細な解説がある。

  「車引」の場は、三つ子の兄弟だから、三人とも揃いの衣裳で出ることになっていた。紫の童子格子の厚綿の下に、梅王丸、松王丸、桜丸が、それぞれ、梅、松、桜の縫いとりをした赤地のじゅばんというのが、昔からこの場の扮装ときまっていたのだ。
 しかし、五代目団十郎がある時、白地の衣裳を来て出た。杉王丸を自分の分身として予め登場させておくこととともに、座がしらの演じる役を、ほかの二人よりも、際立って見せようとする思いつきである。
 昭和十二年の歌舞伎座で、先代幸四郎の梅王丸、十五代目歌右衛門の桜丸に、六代目菊五郎が松王丸をした時と、昭和三十五年の新宿第一劇場で「車引殺人事件」の劇中劇に一幕挿入した時と、この二回に限って、古風な赤揃いで演じたが、他の場合、つねに松王丸は白である。
 団十郎がなぜ、白のじゅばんを思いついたのかはあきらかではない。

とある。『車引』の三つ子の襦袢には、戸板さんは格別の思い入れがあった。ずっと前からわたしは『車引』を見るたびに、今回の松王丸は赤の襦袢だったりしないかしらといつもそこはかとなく期待してしまうのだけれど、つねに松王丸は白である。

 


と思っていたら、『カラー歌舞伎の魅力』(淡交社、昭和48年12月)に掲載の吉田千秋撮影の写真の『車引』はなぜか赤揃いの車引だ! 松王丸(幸四郎)・時平(鴈治郎)・梅王丸(三津五郎)・桜丸(梅幸)。

 


鯉三郎の中村雅楽、梅十郎のマッサージ師、男衆勝奴の鶴之助。『車引』の舞台で時平が急死し、松王丸に扮していた九朗右衛門が「幕だ! 幕だ!」と叫んだそのとき、雅楽の芸談を聴きに劇場を訪れていた竹野記者はたまたま客席にいて、珍事を目撃。筋書にある《老優雅楽の部屋はさすがにしぶい趣味があふれています。雅楽はマッサージをしておりましたが、竹野がくると愛想よく迎え入れます。》の直前のシーンがこの写真。いつも雅楽の部屋には、勝さんという男衆がいて、雅楽のハンカチにアイロンをかけたりとまめまめしく雅楽につかえているのだった。

 


鯉三郎の中村雅楽と、犯人の男衆の勝さんの妹の三重(中村弥生)。善良な男・勝さんが時平を演じる平八を劇中に殺めたそもそもの動機は、かわいい妹が高利貸しの平八に手籠にされたことによるのだった。そんないきさつに苦渋の表情で思いを馳せる中村雅楽……のシーン(たぶん)。

 


九朗右衛門の竹野記者、鯉三郎の中村雅楽、八十助の江川刑事。ラスト、千駄ヶ谷の雅楽邸で、二人に事件の絵解きをするシーン(たぶん)。殺人を犯した罪は重いが勝さんの善良さをよく知っている三人は苦渋の表情である(たぶん)。この写真だけ見ると、三人ともなかなか風格があってよいけれども、地味な服装の現代劇、大いに華やかさに欠ける舞台面ではある。



『演劇界』昭和35年5月号(第18巻第5号)に掲載の、榎本滋民による劇評は「“やる気”のある企画」という見出しで、サブタイトルが「新作を観る」、新宿第一劇場の『恐怖時代』と『旗本五人男』とともに、『車引殺人事件』の劇評のようなものが掲載されている。以下、『車引殺人事件』のところのみ抜き書き。

 直木賞受賞作の劇化で脚色・演出は原作者と同じ演劇評論家。経歴から見れば当然だが、三幕十場の構成ぶりは立派なくろうと仕事だ。単行本の一三ページ目にあたる場面の処理に第一の興味がかかっていたが、大半の客はまんまと引っかかった。隣席のおばさんのごときは第二場があいてからやっと気がつき、「あ、劇中劇なんだ。だまされた。やだよ。」とクツクツ笑っている。不安のざわめきが弛緩のざわめきに移行するのをこいつはイタダキだとぼくはたのしんだのだが、同時にふとこわくなったのである。
 ぼくの坐っているのは新宿第一劇場だが、都座でもあるのだ。さらに、『車引』が演じられたその空間に車引殺人事件を追及する場面が展開される。その上、松王を演じた直後のからだ(九朗右衛門)が竹野記者として生活しているし、梅王引き抜きの江川刑事(八十助)だ。事件はフィクションだから、その時間・空間に生身の人間が実在したはずはない。にもかかわらず。生きているぼくはその事件の時間・空間に存在した「不慮の事故のため狂言なかばにて閉場」うんぬんのおわびアナウンスを聞いている。アナウンスの主は本職の幕間アナだから、同じ時間にぼくと共在するわけだ。
 内のりをひとまわり小さく作ったいくつものマスを順々にはめこんでいくように、劇場の中に劇場が、舞台の中に舞台が、人物の中に人物が、すっぽりはめこまれている感じ――。あるいは手鏡の中にまた手鏡をもっている自分が映っているそれが……という合せ鏡の映像――。「きりがない」という無限感はまことに無気味なものだ。現実の時空と架空の時空とが共存するこの交錯感は、劇場という立体を使ってはじめて可能な、ちょっとした第四次元感覚の、贅沢な遊戯であろう。
 楽屋落ちというものはえてして不愉快なものが多いのだが、すべてこれを楽屋落ちというふうに(列挙する紙幅がないのが残念)手のこんだ楽屋落ちはエスプリにあふれていて、愉快である。原作者の得意や思うべきしだなと廊下へ出ると、原作の「私」であるところの竹野記者をいま目にしていたばかりの戸板康二氏が立っている。「どうも、これの批評ばかりはできなくってねえ。ほかの人にかわってもらいました。」――、二重三重どころか、五重六重にもおかしかった。一時間三十四分。
 小説では行間にボカされている犯人(再演の機会もあろうからエチケットとして名は書かない)が、舞台ではどうしてもシャープに存在せずを得ない。表情の起伏を殺して巧演しているのだが長時間連続して客の目にさらされているから、第一あのクラスの役者が事件に核心にかゝわらない役を演じるはずはないというふうな意識が、客の内部に呼びさまされてしまう。これはむろん役者や脚色・演出者の罪ではなく、推理小説劇化の限界であり、さらにいえば文字形象と舞台形象の本質の相違でもあるわけだが原作の鍵である「黒衣は無」の美学の無気味さは、だから不十分に終っていた。
 こんなに地頭が舞台に出たのは歌舞伎でははじめてではなかろうか。背広になった方が水を得た魚のように役を生活できる役者、その逆の役者、中間で動揺を見せている役者、――歌舞伎の現状の断面をおのずから示していて興深い。紅一点の弥生はまずまずだが、あゝ終始ベッド・ルーム・ライク(!)なムードを漂わせているのはコマる。(六日所見)

『車引』の劇中劇のたのしい雰囲気と、4月6日が招待日で戸板さんは《どうも、これの批評ばかりはできなくってねえ。ほかの人にかわってもらいました》と語っていたらしいということがわかっただけでも、ありがたいと思わねばならぬだが、どうも劇評になっていない劇評である。後半で語られている「推理劇の限界」云々のくだりについては、戸板康二自身ものちに回想しているとおり。劇評家泣かせの舞台だったのかもしれない。榎本滋民は、他の2演目、『恐怖時代』と『旗本五人男』ではもっと具体的な劇評を書いていて、特に『旗本五人男』の《ここの鶴之助、溜飲の下がる爽快さ》のくだりが嬉しかった。『旗本五人男』では八十助が中村仲蔵を演じている。歌舞伎役者が歌舞伎役者(一つは架空の役者だけど)を二度も演じる興行は珍しいかも。



最後に、戸板康二自身の鯉三郎の雅楽にまつわる回想を、日下三蔵編『中村雅楽探偵全集5 松前の記憶』(創元推理文庫、2007年11月)所収の「中村雅楽エッセイ」の諸篇を活用して、抽出。

「三人の雅楽と竹野」(初出:「日本探偵作家クラブ会報)152号・昭和35年5月)には、

 四月の新宿第一劇場で、新作「車引殺人事件」が上演された。脚色もしてほしいという話だったが、辞退した。自分の作を自分で批評するわけにはゆかないからで、原作者であることさえおもはゆい。二足のわらじは履かないつもりですなんていっていたが、やはりこういう一人二役のシチュエーションに置かれる結果があらわれた。

 ぼくの書いたものは、竹野記者の一人称で叙述する立て前なので、劇化はむずかしいらしい。謎をとく老優中村雅楽の場合も、口調は、舞台では、思うように活きにくいようだ。
 菊五郎劇団の出演で、「車引」の雅楽は、鯉三郎氏だったが、なかなかいい味を出していた。加賀山直三氏が作ったセリフで、同じ年配の者が順々に減ってゆくのを嘆く述懐など、世話もののうまいこの人の特色が出ていて感心した。もっとも、こんな感想も、新聞劇評に書けば、何だか気障なので、四月の評は、他の人にたのんで、結局は、おりてしまった。

とあり、これが、新宿第一劇場に執筆の文章の次に書かれた文章と思われる。それから、約十年後、「乱歩さんの速達」(初出:「別冊文藝春秋」昭和46年2月→『五月のリサイタル』所収)には、

憎まれていた俳優が毒殺される時、敵役の扮装をしているのがいちばんふさわしいと思ったので、時平の青隈を思いつき、「車引」をえらんだ。のちに脚色されて菊五郎劇団が上演した時も、テレビの時も、時平があの凄い隈で死ぬ設定に、ぼくが考えていた以上の効果があったのを知った。

 『雅楽探偵譚1 車引殺人事件』(立風書房、昭和52年9月)の「作品ノート」では、

 NHKのテレビドラマにもしてもらったが、加賀山直三さんの脚色で、菊五郎劇団によって新宿第一劇場で上演もされた。
 筋書にストーリーをのせずに、劇中劇の「車引」が開幕、牛車から立ち上るはずの時平があらわれず、梅王役(竹野と二役だった)の尾上九朗右衛門が、「幕だ、幕だ」と叫ぶと、客席が騒然となった。ちょっといい気持だった。
 雅楽には尾上鯉三郎が扮したが、「こんな大きな楽屋にはいったことはありませんよ」と苦笑していた。

とあり、このあとたびたび語られる鯉三郎の「こんな大きな楽屋にはいったことはありませんよ」発言が初めて登場。この十年後、「いろんな中村雅楽」(初出:「ルパン」昭和56年7月→『目の前の彼女』所収)では、

 二十年以上前だが、新宿第一劇場で「車引殺人事件」を上演してもらっている。「車引」を本格的に見せ、藤原時平が牛車から姿を現わすところで、事件に入るという段どりであった。
 尾上九朗右衛門が、梅王丸と竹野記者の二役に出てくれたが、雅楽は菊五郎劇団の古い門弟の尾上鯉三郎だった。俳優協会の常任理事をしていた。これも新人で、よく老優の聡明さを示してくれたが、ひと言だけ印象に残っている。鯉三郎はこういった。「私はこんな立派な楽屋にはいったことはありませんよ」

と、やはり結びの一文は鯉三郎の楽屋ネタである。江戸川乱歩推理文庫16『黒蜥蜴』(講談社、昭和62年9月)に収録の「乱歩さんと私」は、

三十五年に新宿第一劇場で、菊五郎劇団が「車引殺人事件」を上演した時は、乱歩さんも見て下さった。この時の雅楽は、尾上鯉三郎さんであった。

という一節で結ばれている。『車引殺人事件』の生みの親ともいうべき乱歩がその劇化をきちんと見届けいるのは、戸板さんでなくても嬉しくなってしまうエピソード。そして、『あの人この人』の「江戸川乱歩の好奇心」(初出:「オール讀物」平成3年8月)では、

 「車引殺人事件」が新宿の第一劇場で劇化上演された時は、プログラムにも乱歩さんは文章を寄せて、見にも来られた。その時の雅楽は尾上鯉三郎であった。間口の広い舞台だから、老優の部屋も当然大きい。鯉三郎が舞台稽古の日に「こんな立派な楽屋にはいったことはありません」といって、みんなを笑わしていた。
 この時気づいたのが、スリラー映画は犯人の顔を見せずに撮すこともできるが、舞台劇ではそれができず、殺人を犯した男衆を中村富十郎が演じているわけだから、観客にはわかってしまう弱点であった。
 「半七捕物帳」の『勘平の死』を六代目菊五郎が演じた時、ブログラムにあらすじをのせなかったのを知っていたから、この私の時も、そうしてもらったのだが、これでは何にもならない。

と、昭和35年4月の『車引殺人事件』のおける「推理劇の限界」について、はっきりと語られている。



尾上鯉三郎が中村雅楽に扮する『車引殺人事件』は、昭和35年4月に新宿第一劇場で上演された三ヶ月後の7月15日、NHK でテレビドラマとしても放映されている。午後8時45分から10時00まで。戸板康二原作、梅本重信演出。出演者:尾上鯉三郎、園井啓介、仲谷昇、江川宇礼雄、ウィリアム・エイ・ヒューズ、佐伯宰、坂東八十助、矢野宣、市川升蔵、横森久、市川滝之丞、山本清。


竹野刑事が仲谷昇で、戸板康二が命名の由来とした『私だけが知っている』で共演した江川宇礼雄が実際に江川刑事を演じているというのが嬉しいではありませんか。「テレビドラマデータベース(http://www.tvdrama-db.com/)」によると、《劇中の歌舞伎作品は菊五郎劇団による公演フィルムを使用している。》とのこと。朝日新聞のテレビ欄では、

演劇評論家戸板康二の原作を下飯坂菊馬が脚色したもの。舞台をうつしたビデオテープをところどころにさしはさみ、ふんいきを盛りあげながら舞台上の殺人事件を展開。「無」である黒衣の存在を巧みに利用した殺人事件という芝居の裏によく通じた原作であるが、黒衣の人たちをヒューマンな立場からとらえようとしている。

というふうに紹介されていた。


尾上鯉三郎についての戸板さんによる詳しい文章は、『芸能めがめふき』(三月書房・昭和55年8月)所収の「現代俳優考」にある(p.124)。戸板さんの文章を読んだだけで、もうすっかり往年の菊五郎劇団のファンになってしまうのだった。昭和44年から3年間、都民劇場が月刊として出していた「歌舞伎通信」の連載。昭和49年の他界後の文章では、『演劇走馬燈』(三月書房・昭和59年3月)と『名優のごちそう』(皆美社、2009年9月)に収録されている、名編「脇役の名舞台」(初出:「演劇界」昭和58年1月~12月)の一篇「尾上鯉三郎 松川源六郎」がすばらしい。


『車引殺人事件』が上演された新宿第一劇場は、昭和7年7月にはじまった「青年歌舞伎」との関連で戸板康二を語る上でたいへん重要であるので、いずれ詳述したい。昭和4年9月に新歌舞伎座として開場し、昭和9年9月に新宿第一劇場と改称した、昭和35年7月の興行が最後だったというから、『車引殺人事件』の上演はその末期のことだったのだなあと感慨深い。

 


《新宿第一劇場(僊石政太郎・大林組・昭4)》、都市美協会編『建築の東京 大東京建築祭記念出版』(都市美協会、昭和10年8月20日発行)より。「新劇座第十二回公演」上演中の新宿第一劇場。