戸板康二の『丸本歌舞伎』にまつわるメモ:講談社文芸文庫になった『丸本歌舞伎』


先月講談社文芸文庫の新刊として、戸板康二の『丸本歌舞伎』が刊行された。2008年5月に犬丸治さんの編集で『思い出す顔 戸板康二メモワール選』が出て3年過ぎたところで、まさかの2冊目の戸板康二! と歓喜。水上瀧太郎、久保田万太郎、奥野信太郎、池田弥三郎……といった並びとおなじように、戸板康二の講談社文芸文庫も1冊だけの刊行だろうと勝手に思っていたので、嬉しい誤算。『丸本歌舞伎』というのは意外なような、そうでもないような。去年秋に慶應義塾で開催された《三田文学 創刊一〇〇年》展で戸板康二の著作として紹介されたのが『丸本歌舞伎』だったので、今回晴れて講談社文芸文庫になったのはその流れかな……と勝手に想像しているけれども、わたしは詳らかではない。と、それはさておき、『丸本歌舞伎』は、戸板康二の全著書のうち、私見ではもっとも重要な著書のひとつである。

 


戸板康二『丸本歌舞伎』(講談社文芸文庫、2011年10月7日)。解説:渡辺保、年譜・著書目録:犬丸治。昭和24年の初刊時の口絵の舞台写真もしっかり収録されている。初刊では舞台写真は巻頭にまとめて掲載されているが、講談社文芸文庫ではその事項ないし演目が登場するページに分けて掲載するという配慮がなされてある。舞台写真の添えられたコメントが、本文と同じくらい重要。ちなみに、245ページの梅幸とのツーショットの写真(昭和43年)がとっても嬉しかった(一方、235ページの老人感全開の写真はあんまり嬉しくない……)。



わたしが戸板康二に夢中になったきっかけは、1999年の夏に今はなき奥村書店で買った『歌舞伎への招待』だった。戸板康二の名前を初めて知ったのはちょうどその1年ほど前に、「暮しの手帖」の創刊号の「歌舞伎ダイジェスト」を見たときのこと。その頃はちょうど、わたしが歌舞伎座に通い始めた時期にあたっていた。昭和20年代に歌舞伎のとびきり素敵な文章を書いている人、というのが、わたしの戸板康二の最初の認識だった。当初は、戸板康二が「ちょっといい話」の人であることも直木賞作家であることも知らなかったのだから、自分でもびっくりだ。戸板康二の名を知って1年後の1999年夏に『歌舞伎への招待』を機に加速度的に戸板康二に夢中になり、矢野誠一著『戸板康二の歳月』を読んで戸板康二の全貌をようやく知り、まずは昭和20年代の歌舞伎本を次々に買っては読んでいった。『丸本歌舞伎』を買ったのもこの頃で、荻窪の竹中書店で買ったということを今もはっきり覚えている。懐かしいなあ!


1998年から数年間は毎月歌舞伎を見ていて、『丸本歌舞伎』に載っている演目の上演があるたびにホクホクと『丸本歌舞伎』を読み返しては、夢中になって読みふけっていたものだった。講談社文芸文庫の渡辺保さんの解説に、

 私の「初代」本がボロボロになったのは、劇場で芝居を見たあと、あるいはその作品について書く時、あそこはどうなっていたか、ここはどうやるのが普通だったかと思った時、辞書のように便利だったからである。
 その目当てのところを探しているうちに、その部分だけではなく、つい全体を読む。全体を読むと気持ちがホーッとなる。そうなるといっぺんに霧が晴れるように全体の視野が開けてくる。本を閉じた時にはもう本を開ける前とは違う、作品の全体像がうかび上がる。視界が一篇しているからである。
 そういう思いを何十回しただろうか。ボロボロになるはずである。

とあるけれども、わたしもまさしくこんな感じに折に触れて『丸本歌舞伎』を繰っていたものだった。


もちろん渡辺保さんの密度の一万分の一くらいではあるけれども、わたしなりの熱意をもって、芝居見物の折に触れて、戸板さんの『丸本歌舞伎』を読み続けた日々がかつてあった。『丸本歌舞伎』とともに見た芝居、猿之助の四の切とか富十郎の吃又とか吉右衛門の五斗兵衛(富十郎のを見逃しているのが残念)とか雀右衛門のお三輪とか八重垣姫(魁春の八重垣姫も好きだった)とか濡衣とか富十郎と雀右衛門の毛谷村とか何度か見た忠臣蔵の通しとか2002年の菅原の通しとか新薄雪……とかなんとか、わたしにとって戸板康二の『丸本歌舞伎』を思うということは、もう二度と戻ってこないであろう歌舞伎に熱中していた日々を思うことでもあり、戸板康二に夢中になりはじめた当時の世界がパーっと眼前に開けた(ような気になった)頃を思い出すことでもあるのだった。そんなこんなで、『丸本歌舞伎』は戸板康二の全著書のうちでもっとも思い入れの深い書物。



と、追憶にひたって一人で熱くなったところで、このたびの講談社文芸文庫化を記念して、以下、『丸本歌舞伎』にまつわるメモ。

 


戸板康二『丸本歌舞伎』(和敬書店、昭和24年3月5日)。装幀:高木四郎。外装はいままで見たことがなく、初刊は画像のように、本体にパラフィン紙をかけたかたちだったと思われるけれども、まだ確定はできない。画像の本は串田孫一旧蔵の署名本。わたしは献呈本とか署名本の類にはまったく関心はなくてそれを目当てに買うことはほとんどないけれども、献呈を受けた人物はえてして中身を読まずにそのまま死蔵しがちなので、刊行当時の本の姿(カヴァー、帯、中に挟まっている広告等)をそのまま残していることが多いのがありがたいのだった。


昭和17年12月に刊行の『俳優論』が戸板康二の初の著書であるが、これは串田孫一主宰の同人誌『冬夏』の印刷会社・博英社の若旦那が道楽半分で始めた出版社である冬至書林を版元にしている(その社主・塚田仁は戦死)。敗戦後の昭和23年1月に、2冊目の著書『わが歌舞伎』が和敬書店から出る。和敬書店は昭和21年5月に『幕間』を創刊した京都の出版社。同年11月に『歌舞伎の周囲』が角川書店から出る。創業者の角川源義は國學院で折口信夫門下だったので、三田の折口信夫門下の戸板康二とは戦前から旧知だった(角川書店の創業は昭和20年11月)。翌昭和24年3月、和敬書店から『丸本歌舞伎』が出て、同年12月に同じく和敬書店から『続わが歌舞伎』が出て、翌昭和25年1月に暮しの手帖社の前身の衣裳研究所から、戸板康二の記念碑的な著書である『歌舞伎への招待』が出る。


つまり、敗戦後に次々と刊行された戸板康二の著書は、和敬書店、角川書店、暮しの手帖社……というふうに、いずれも敗戦後の新時代に彼らなりの抱負と計画でもって創業された出版社を版元に刊行されたということになる。敗戦後の最初の著書『わが歌舞伎』から昭和25年の『歌舞伎への招待』を刊行順に箇条書きすると、

  1. 『わが歌舞伎』和敬書店・昭和23年1月10日
  2. 『歌舞伎の周囲』角川書店・昭和23年11月30日
  3.  『丸本歌舞伎』和敬書店・昭和24年3月5日
  4. 『続わが歌舞伎』和敬書店・昭和24年12月1日
  5.  『歌舞伎への招待』暮しの手帖社・昭和25年1月10日

現在岩波現代文庫になっている、暮しの手帖社を版元とする『歌舞伎への招待』のみ書き下ろしで、それ以前に出た4冊はすべて、過去に発表した文章を編んだもので、『歌舞伎の周囲』は一部戦前の文章を含み、和敬書店から出た『わが歌舞伎』正続と『丸本歌舞伎』は、戦前に発表済みの文章が柱になっている。こうして見てみると、あらためて暮しの手帖社の『歌舞伎への招待』の清新さがきわだつ感じがする。とにかくも、戸板康二の生涯のなかで『歌舞伎への招待』は記念碑的な本なのだ、ということをあらためて体感するのだった。



『丸本歌舞伎』は「丸本歌舞伎研究」と「丸本歌舞伎鑑賞」の二部構成となっている。昭和23年初夏に書かれたあとがきに、

 はじめの小論「丸本歌舞伎」は、演劇批評の角度を、こういう風にしてみたらどうかという考えを書いただけのことである。他日、もっと材料をあつめて深く掘り下げて見たい問題がいろいろある。問題はすべて、書いているうちに出て来たのだ。丸本歌舞伎は、無尽蔵に、僕等を刺戟してくれるのである。
 鑑賞記録として、丸本歌舞伎の演目の中から、十種えらんで、のせた。前に発表したものと今度書き直したものとがあるが、いずれも、「丸本歌舞伎」総論に対する各論のつもりである。

と、戸板さんが端的に書いているとおりに、「総論」と「各論」の二部構成。そして、「総論」は書き下ろしで、「各論」となる《鑑賞記録として、丸本歌舞伎の演目の中から、十種えらんで、のせた》とあるラインナップは以下の通り。

  • 義経千本桜
  • 傾城反魂香
  • 平家女護島
  • 義経腰越状
  • 妹背山婦女庭訓
  • 本朝廿四孝
  • 彦山権現誓助剣
  • 新薄雪物語
  • 仮名手本忠臣蔵
  • 菅原伝授手習鑑

《前に発表したものと今度書き直したものとがある》とあるように、「各論」はすでに発表した文章が柱になっている。具体的には、昭和17年4月から昭和18年8月にかけて、「丸本物巡礼」というタイトルで、『舞踊藝術』とその後身の『藝能』に連載した原稿をもとにしている。「巡礼」というタイトルは、もしかしたら三宅周太郎の『演劇巡礼』を意識していたのかな、と思うと微笑ましい。初出タイトルとそこで扱われている舞台を列挙すると、

  1. 「盛綱陣屋のこと」(『舞踊藝術』昭和17年4月号):昭和17年3月歌舞伎座・羽左衛門の盛綱
  2. 「勘助住家のこと」(『舞踊藝術』昭和17年5月号):昭和17年4月明治座・蓑助、我当、翫雀
  3. 「義経越越状のこと」(『舞踊藝術』昭和17年6月号):昭和17年5月歌舞伎座・菊五郎の五斗兵衛と吉右衛門の泉三郎
  4. 「十種香のこと」(『舞踊藝術』昭和17年8月号):昭和17年7月帝劇・羽左衛門、梅玉、仁左衛門
  5. 「毛谷村のこと」(『舞踊藝術』昭和17年10月号):昭和17年9月歌舞伎座・吉右衛門、梅玉、三津五郎の斧右衛門
  6. 「俊寛のこと」(『舞踊藝術』昭和17年11月号):昭和17年10月東京劇場・猿之助、仁左衛門(丹左衛門)、時蔵(千鳥)、勘弥(成経)、段四郎(瀬尾)
  7. 「忠臣蔵六段目のこと」(『舞踊藝術』昭和17年12月号):昭和17年10・11月歌舞伎座・羽左衛門、仁左衛門
  8. 「伝授場・寺子屋のこと」(『舞踊藝術』昭和18年2月号):昭和18年1・2月歌舞伎座・吉右衛門の源蔵、菊五郎の菅丞相と松王丸
  9. 「渡海屋・大物浦のこと」(『舞踊藝術』昭和18年3月号):昭和18年1・2月歌舞伎座・幸四郎
  10. 「木の実・すし屋のこと」(『舞踊藝術』最終号・昭和18年4月号):昭和18年3月歌舞伎座・菊五郎
  11. 「傾城反魂香のこと」(『藝能』第2号・昭和18年6月号):昭和18年5月歌舞伎座・菊五郎
  12. 「忠臣蔵のこと」(『藝能』昭和18年7月号):昭和18年6月明治座・吉右衛門の師直と由良之助
  13. 「忠臣蔵のこと(二)」(『藝能』昭和18年8月号):昭和18年6月新橋演舞場・前進座の七段目・長十郎の由良之助、翫右衛門の平右衛門&昭和18年歌舞伎座・九段目、菊五郎の戸無瀬、友右衛門の本蔵

……というふうに、13回にわたる戸板康二の「丸本物巡礼物」は昭和18年8月号をもって、ひとまず終了し、『藝能』昭和18年10月号掲載の「藝能日記」に「八月×日」の日付のもと、《戸板康二氏は明治製菓川崎工場を円満退社、山水高等女学校国語科教諭となった》の一文を見ることができる。その後、翌昭和19年1月号より「戸板香實」名義で「歌舞伎語彙」の連載が始まるも、同年5月号をもって、『藝能』の雑誌そのものが休刊(それから15年の歳月を経て、昭和34年2月に復刊し、平成5年11月まで刊行が続いていた)。


すなわち、『丸本歌舞伎』の「丸本歌舞伎鑑賞」の柱となっている、昭和17年4月から翌年8月に渡って発表された「丸本物巡礼」全13回は、戸板康二の5年に渡る明治製菓宣伝部員生活の末期の時期に書かれたものであった。この「丸本物巡礼」に、戦後の観劇記録、昭和22年5月の手習鑑通し、昭和23年2月の千本桜通し、同年5月の新薄雪といった、日本演劇社の編集者時代のプロの演劇人としての観劇とを組み合わせた「丸本歌舞伎鑑賞」と、書き下ろしの「丸本歌舞伎研究」とを合わせて『丸本歌舞伎』という一冊の本が出来上がった。あとがきが昭和23年初夏に書かれたあと、翌24年3月に世に出た。『丸本歌舞伎』という本はこのようにして誕生したのだった。この本の根底にあるのは、戸板康二の「戦中戦後」である。この本が出た翌月を最後に菊五郎は舞台を去り、同年7月に他界するというタイミングもなんとなく象徴的だ。

 


『藝能』紙上の明治製菓の広告。昭和18年の間は毎号明治製菓の広告が掲載されている。第1号の5月号のみ「明治の茶」の広告で、以降は一貫してこの「明治紅茶」。職場も戦場!



伊原青々園の著書に『桟敷から書斎へ』というのがあるけれども、『丸本歌舞伎』における文章は「劇場の椅子」での鑑賞と「書斎」での論考とを織り交ぜた独特の文章で、若き日の戸板康二の真摯な観劇と学究的姿勢と昭和10年に『三田文学』で世に出た劇評家としての数年のキャリアに裏打ちされた才筆がほとばしっている。講談社文芸文庫の渡辺保さんの解説には、「芝居見たまま」と「型の記録」と「劇評」の《この三つのいいところを実にうまくミックスして、なおかつその上に文学としての読み物の面白さを持っている。そこが散々演劇雑誌を読んだ上に、さらにのちには編集者でもあった戸板康二の体験が生きているところである。読者のニーズがよくわかっている。すなわち万人向き。これならば素人も玄人も学者も批評家も満足する。》とあり、以下、

したがって読み始めた読者はまるで芝居を見ているような気になる。これは「芝居見たまま」のよさである。しかし「芝居見たまま」ではその時一回限りの舞台しか知ることができない。ところがここでは一人の俳優の演技だけでなく、明治の名優九代目市川団十郎や五代目尾上菊五郎が登場する。たとえば「千本桜」の知盛の九代目団十郎、いがみの権太や忠信では五代目菊五郎。むろん大正四年生まれの戸板康二が明治三十六年に死んだ九代目や五代目を知るよしもない。そこで生きるのが「型の記録」であり、写真であり、古老の見聞談である。そういうものを十二分に駆使して、たとえば五代目菊五郎と六代目菊五郎と二代目尾上松緑の忠信を比較する。紙上で松緑の忠信を見ながら読者は三代三人の名優を見ることになる。これは劇場では味わうことが出来ない楽しみであり、同時に紙上の舞台に奥行きを与えている。

というふうに、この本の魅力が十二分に解説されている。


前述のとおり、『丸本歌舞伎』の第二部にあたる「丸本歌舞伎鑑賞」は、戦後の観劇記録を含みつつも、昭和17年から昭和18年にかけての観劇が大部分である。昭和15年の左團次没後の歌舞伎、羽左衛門、菊五郎、吉右衛門が君臨している時期にあたる。戸板康二の筆の力で、彼らの姿がイキイキと彷彿とされているところが、読み返すたびに心地よくて、おのずとその演目への愛着が湧いてくるのが嬉しい。とりわけ、のちに『六代目菊五郎』という書物を著わした人の筆による「菊五郎歌舞伎」論がとっても刺激的。『丸本歌舞伎』とは「菊五郎歌舞伎」論である、と極論してしまってもいいかもというくらいに、菊五郎という存在は「歌舞伎」を考える上での重要問題を含んでいるのだなあということを、『丸本歌舞伎』という本は提示している。


『丸本歌舞伎』に登場する菊五郎は、千本桜の権太(椎の木の場での歩いてゆく所のイキの素晴らしさ。一方、すし屋では「底を割る」菊五郎。羽左衛門との比較)と四の切(菊五郎の最良のもののひとつ)、吃又(「菊五郎歌舞伎」の典型)、五斗兵衛(三段目の主人公は花道から出るべきであるのに上手から出る。でも「面白さに溢れている」)、お三輪と入鹿(「兼ねる」癖への批判。しかし後半が「非常にうまい」お三輪)、九段目の戸無瀬(つまらない「菊五郎歌舞伎」)、佐太村(「近代劇」)、そして菊吉の寺子屋。それぞれの論考がたいへん面白いのであるが、たとえば、寺子屋の首実検のくだりでは、戸板さんは以下のように書いている。

  首実検の所が「寺子屋」の眼目の一つである事は言う迄もないが、「盛綱陣屋」の首実検とは違って、そこが全段の重心になっている訳ではない。「寺子屋」の後段の、松王が戻り(本心を打ち明ける)になってからが、何といっても首実検に対峙する山といえるのである。――幸四郎は団十郎系の刀を抜く型を首実検の所で見せる。しかし、この型は、変っているだけで、渾然とした味のないつまらぬ型だ。中車の松王の、頬杖をついた形に様式美を精神としている歌舞伎の味のみなぎりわたるいいものだったのを思い出す。菊五郎の今度の首実検は、非常に簡単で、蓋をとる前に、いろいろ思い入れを見せる事なぞなくて、それがいかにもこの人らしい演り方だと思われた。
 その代り「奥にばっさり首うつ音」の所の、戸浪とぶつかって大音声で「無礼者め」の叱りつける大見得は、文字通りの大見得にして居り、それは、菊五郎だけに、吾々心から喝采したかった。菊五郎が、歌舞伎の約束にある通りの事を、誠意をこめて実践した場合、その柄の不満な点は別として、確かに、そこには「よき役」が出来上るので、そのいい例が「四の切の忠信」なぞではないかと思う。

菊五郎は宿命的に「柄の不満な点」を持つ役者であった。伝授場の吉右衛門の箇所には、《吉右衛門が源蔵を勤めたために、非常に立派な芝居になっていると先刻書いたのは、技芸とは別に、役が柄にあっているという、歌舞伎に於ては絶対的な強みが、ものを言って居るからだ。》という一節がある。このとき、菅丞相を勤めた菊五郎は《どう考えても、よくない。何しろあの歌舞伎味のない顔が、こうした役では、まず以て致命傷となっている。歌舞伎には、技巧だけではどうしても完璧を期し得ないむずかしい役柄があり、菅丞相の如きはその一つだ》。これらの劇評は昭和18年の1月と2月の歌舞伎座の菊吉の所演に対するもの。

 

一方、口絵にある寺子屋の松王丸の舞台写真は、吉右衛門と十五代目羽左衛門。
「寺子屋」の松王が、源蔵が奥で小太郎の首を打つ音をきいてよろめき「ふんごむ足もとけしとむうち」という床の文句で、戸浪とぶつかり、「無礼者め」と刀をトンとついてきまった所である。

  • (上)吉右衛門のは、刀をトンとついてすぐ額へ手をあてて、病人としての松王を強調している。戸浪は多賀之丞。昭和七年四月東京劇場初演。
  • (下)先代羽左衛門のは、あくまで景容を主とした大見得で、右手を開いて、派手にきまる。戸浪は男女蔵。

二人の芸風のちがいばかりでなく、丸本歌舞伎の演出の二つの流れである。
口絵写真と本文の劇評的くだりの時期は一致しないので、別個の独立した「丸本歌舞伎鑑賞」として楽しめる。



若き日の戸板康二が再三にわたって論じていた「菊五郎歌舞伎」とはいったい何か。たとえば、「傾城反魂香」の以下のくだりで明確に示されている。

 菊五郎が演出した「傾城反魂香」は、丸本物の表そうとする内容を、従来の方に拘泥せず、一度咀嚼してのち、別の、自分が思う通りの形に直して展開したところの、かれ一流の演り方の見本のようなものだ。僕は之を「菊五郎歌舞伎」と称しているのであるが、勿論「菊五郎歌舞伎」は、「歌舞伎」の正統ではない。菊五郎が歌舞伎の堡塁を死守するつもりなら、この行き方は、忠実な態度とは決して思われぬ。が「吃又」と俗に呼ばれるこの下の巻は、永い年月の間に、いろいろな役者の手にかかって、近松門左衛門が書こうとしたものとは、大分違った形のものになっている事は確かだ。又平というこの主人公も丁度「近頃河原達引」の猿廻し与次郎が、痴呆的な感じの男にされて了ったのと同様な意味で、ぼうっとした世事にうとい芸術家という以上に、血のめぐりの悪い、田舎絵師のおどけた描写が主となって来ている。それを菊五郎が厭がって、又平を、あくまで一心に芸にうち込んだ気持を表そうとしている狙いは、一応わかる。
 が、その舞台に於ける描写のし方は、床の義太夫に即いて芝居をするのでなく、昔からある義太夫だから邪魔にも出来ない、使って置こう、といった程度の冷淡さで、石を抜けた絵を見て驚く所の早間のメリヤスなど実は、余計なもののやうにさえ感じられる。
 要するに歌舞伎は、形式がちゃんと出来上って了っていて、その筋道を辿ってゆけばどのような役者でも、一通り「芝居」が出来るという風なものなのである。新劇と違い、旧劇に素人芝居の紋切型が出来ている所以だ。菊五郎はそうしてその形式を履もうとしない、というより履むのがもどかしいという程、伎倆に自信のある人なのだ。
 けれどやはり僕は菊五郎に、彼の「四の切」の忠信、五・六段目の勘平、「寺子屋」の松王丸に於けると同様の、正しい伝統墨守の演出による又平が見せて貰いたいのだ。
 ずい分くさい型があっても、菊五郎なら毒は消され、逆に面白いのである。今迄にそういう例はいくらもあった。菊五郎は歌舞伎臭の稀薄な柄を欠点とせずに、利用して以て長所とするのがよいのだ。

 と、こんなくだりを目にすると、「菊五郎歌舞伎」とは昭和24年に死んだ六代目菊五郎という役者ひとりにとどまらない問題だということが、骨身にしみてよくわかってくる。戸板康二いうところの「菊五郎歌舞伎」は、歌舞伎の現代においてもきわめて根源的な問題を提示している。『丸本歌舞伎』は「今日の歌舞伎」に対しての多くの示唆をはらんでもいる、きわめて現代的な本でもあるのだった。

 


昭和17年3月歌舞伎座、十四世市村羽左衛門五十回忌追善興行の羽左衛門の盛綱。『演芸画報』昭和17年4月号より。『丸本歌舞伎』の「丸本歌舞伎鑑賞」のもととなった、『舞踊藝術』での連載「丸本物巡礼」の記念すべき第1回目は羽左衛門の盛綱だった。盛綱は残念ながら『丸本歌舞伎』には収録されていないけれども、回を重ねるごとに「丸本物巡礼」の筆致が円熟を増しているのが、初出誌にあたるとたいへん心地よいのだった。その勤勉さに気持ちが引き締まる。

 


その羽左衛門の盛綱では、宗十郎が微妙で小四郎は錦之助! 「丸本物巡礼」第1回で《子役としては大役の小四郎は、錦之助で、之も子役らしく、自発的な表情など見せず、教えられた通りに忠実にして居るのが、好感がもてる。子役が勝手な事をするほど、いやなものはない。》というふうに、錦ちゃんは褒めれているのであった。錦ちゃん!