『四季の味』昭和58年春号の戸板康二の巻頭随筆。杉浦幸雄の『おいしいネ』と戸板康二の歳月。


お正月の記憶が薄れかけてくるころになると、毎年ふいに、野菜売場で菜の花を見かけるようになる。野菜売場で菜の花が初めて視界に入ったときの毎年の歓喜! 毎年2月は毎日のように菜の花を食べている。まだまだ寒いのに春が近づいてきて、強風吹き荒れたり雨が多くなったりと天候は不安定、花粉症の季節が近づいてきたりと、体調は乱れがち、これといってたのしいことがないこの季節だけれど、野菜売場に菜の花が売っているのは大きな歓びであるなア……云々と、菜の花へのわが愛についてぼんやり思っているうちに、ふと、『四季の味』のことを思い出した。季刊雑誌の『四季の味』の春号(3月発売)の表紙は菜の花が登場することが多いような気がする(きちんと確認したわけではないけど)。



季刊『四季の味』第41号・春(昭和58年4月7日発行・第11巻第1号、鎌倉書房)。エルキュイの銀製ボウルに盛られた春の宵の一品。「表紙のモチーフ」には、《酒は冷たい吟醸酒。つまみは、もう名残りに近い赤貝。それに湯がいた菜の花と、生のまま拍子木に切った独活。これだけで事足りる。》とある。


2011年8月25日付けの「戸板康二ノート」に、「昭和54年夏の季刊『四季の味』を入手して、戸板康二の食味エッセイに思いを馳せる。」と題して、戸板康二が寄稿している『四季の味』のバックナンバーを入手した喜びについて書きとめたのだったけれども、後日、もう1冊、戸板康二が文章が載っている『四季の味』を入手して、大喜びしていたのだった。と、それがこの昭和58年の春号。「牡丹に唐獅子」と題して、見開き1ページの巻頭随筆を書いている。単行本未収録。

 

季刊雑誌『四季の味』は鎌倉書房を版元に、昭和48年の春号を第1号として創刊。平成6年秋の秋号(87号)でいったん休刊となり、翌年、ニューサイエンス社が版元となり、平成7年夏号を第1号として再スタートして、現在に至っている(来月の3月に出る平成24年春号が第68号となる。表紙はどんなかな?)。『四季の味』は古本として入手しても、現在発刊中の『四季の味』とまったく同じムードをかもしだしているのがいつもながらに嬉しくて、戸板康二のエッセイが掲載されている昭和58年の春号も、今読んでも、お料理ページは実用的にも結構重宝。おなじみの「随筆集 四季の味」コーナーでは、長新太、尾崎秀樹、竹西寛子、金子至、色川武大に、ホリプロ社長の堀威夫、劇作家の田井洋子……というふうに、さすがの顔ぶれ。文壇人がもちろん、演劇人へも目配りがきいているのが魅惑的。このスタンスは、現在の『四季の味』の誌面にも脈々と引き継がれている。

 

そして、昭和58年の春号を入手して嬉しかったことが、神吉拓郎の連作短篇が連載中(第5回、タイトルは「アルミの箸」)だったことと杉浦幸雄の「おいしいネ」の記念すべき第1回の掲載号だったこと! 『四季の味』掲載の神吉拓郎の連作短篇は、『洋食セーヌ軒』(新潮社、昭和62年5月)として単行本化されていて、食を題材にした絶品の掌編集で、かねてよりの愛読書。神吉拓郎は間違いなく、『四季の味』の誌面にいかにも似つかわしい文人の筆頭だと思う。そして、杉浦幸雄の「おいしいネ」は、没後1年を記念するかたちで、『漫画エッセイ おいしいネ』(駒書林、平成17年6月18日発行)として刊行されていて、こちらもかねてよりの愛読書。神吉拓郎『洋食セーヌ軒』、杉浦幸雄『漫画エッセイ おいしいネ』、青山光二『食べない人』(筑摩書房、2006年5月)の3冊が、わたしのなかの、『四季の味』が初出の愛読書の御三家!

 


杉浦幸雄『おいしいネ』(駒書林、平成17年6月18日発行)。杉浦幸雄の漫画エッセイ「おいしいネ」の連載が、『四季の味』ではじまったのは、昭和58年夏号。休刊号の平成6年秋号(87号)まで続いて、再スタートした平成7年夏号(第1号)に連載は引き継がれて、平成16年夏号(37号)に筆者の逝去(平成16年6月18日)をもって、終了。没後1年を記念するかたちで本書が刊行された。巻末に年譜を付し、附録として「杉浦幸雄追悼文集」が挟み込まれている(加藤芳郎、小島功、富永一朗、夏目房之助、すずき大和、みつはしちかこ、やなせたかし)。そのみつはしちかこの追悼文(初出:『四季の味』平成16年秋号)に、

 私の新刊本をお送りすると、次のパーティでお会いした時、ニコニコとお礼を言われ、「ぼくもお返しに自分の本をお送りしたいのですよ、でもぼくの本はなかなか本にならなくてねぇ」と、大先輩がいとも素直に、残念そうに仰言るのにはたまげてしまった。

というくだりがある。この駒書林による『漫画エッセイ おいしいネ』を杉浦幸雄が見たとしたら、どんなによろこんだことだろうと思うと、ジーン。

 

見開き1ページの掲載だった初出時の感覚で繰ることのできるB5の判型が嬉しくて、杉浦幸雄によるイラストの細部観察にホクホク、やなせたかしの追悼文(初出:「中日新聞」平成16年8月13日夕刊)にある、杉浦幸雄の《ペンの線のデリケートな美しさ》、《一見して無造作に描かれているようで、実は細部までおろそかにしない作家としての良心》という言葉にうなずくことしきりなのだった。神保町の今はなき書肆アクセスで、初めてこの本を見つけたとき、表紙に描かれている麺麭屋、「横丁の木村屋のパンの匂い」にうっとりだった。

 

と、一目ぼれだった表紙を拡大して、《パン屋のおかみさんが和紙の木版刷りの袋にパンを入れるとくるりとまわして口を追ってくれた》の部分にズームイン。このおかみさんのちょいと得意げな表情が大好き。戸板康二の「日々の動作」(初出『のれん』昭和34年7月→『ハンカチの鼠』所収)のなかの、

 一般の商店でも、包装のうまい店、いいかえれば包装に神経を使っている店はすべてにわたって、行き届いている。玉になって天井に吊ってある紐を、小気味よくしごきながら、あざやかに包みを十文字にかけてゆく手際は、主人のサービス精神を表徴しているようで、ぼくはどうせ買い物するならば、そういう挙措のすぐれた店を、えらぶことにしている。
 包装という言葉にはふさわしくないかも知れないが、あんパンを買って、それを袋に詰め、そのあとで、袋の口をつまんで、クルッとまわしてくれる店員が、今でも時々いる。キッチンの調理場の前で皿を持っていると、フライパンを巧みにあやつって、片面焼けたハンバーグ・ステーキをポンと空中に抛って受け止めたりして見せるコックさんがいるものだが、パンの袋も、同じ感じのポーズであろう。
 職業として、毎日くり返している単調な動作に、おのずから息ぬきの方法を思いついているのかもしれない。

というくだりを思い出してしまうではありませんか! 戸板さんのなんでもないようなこのエッセイが昔から大好き。

 
戸板さんが巻頭随筆を書いている昭和58年春号の『四季の味』を入手して初めて、『おいしいネ』の表紙(「横丁の木村屋のパンの匂い」)と裏表紙(「大正時代の朝の音」のイラストと、カバーの見返し部分に印刷されている表題の文章が、「おいしいネ」の記念すべき第1回であることを知った。すなわち、わたしの杉浦幸雄の『おいしいネ』の第一印象だったパン屋のおかみさんに、戸板康二が巻頭随筆を書いている『四季の味』を入手して、ひさびさに再会した次第。戸板さんも、さぞかしこの杉浦幸雄の「おいしいネ」を共感をもって眺めたことだろうと思う。杉浦幸雄は明治44年生まれで野口冨士男と同い年、大正4年生まれの戸板康二ともども、東京山の手の大正っ子であった。



という次第で、ひさびさに、杉浦幸雄『漫画エッセイ おいしいネ』を繰りだしたら、前回以上にあちらこちらで胸が躍って、時をおいて繰ると熟成する本の典型だなあと思った。まずびっくりだったのが、「秋風と酒」(p24)にて、戦前の銀座2丁目の飲み屋の「岡崎」のイラストが描かれていたこと! 岡崎えん女こと岡崎栄が経営していた飲み屋で、彼女の人生は吉屋信子の『底の抜けた柄杓』所収「岡崎えん女の一生」で愛惜あふれる筆致で語られている。岡崎えん女は、久保田万太郎宗匠を中心に内田誠の尽力で刊行されていた「俳諧的な随筆雑誌」の『春泥』(昭和5年3月創刊、昭和12年12月終刊、全89冊)の常連投句者で、その随筆欄でも「岡崎」の名を何度か目にしていたものだった。


さらに、その「岡崎」の隣りには、「バー小唄」のイラストが! 「バー小唄」といえば、戸板康二の「ちょっといい話」でおなじみの酒場。『新ちょっといい話』(文藝春秋・昭和55年7月→文春文庫・昭和59年3月)に、「バー小唄」が2か所登場している。

 久保田万太郎さんが、山田抄太郎さんをさそって、銀座のバー小唄に行った。
 戸をあけると、いく人かの客が小唄を歌っていて、三味線を女の人たちが弾いて、いつものように賑やかである。
「おや先生、お連れがいらっしゃるんですか」
「山田抄太郎さんだ」
 その瞬間、店の三味線が、バッタリ火に水を注いだように、とまった。

 「バー小唄」は久保田万太郎のなじみの酒場で、戸板さんも万太郎に連れられてこのお店に来たに違いない。戸板さんは戦前は下戸で、飲酒は「戦後派」なので、岡崎には縁がなかったかな。ちなみに、杉浦幸雄と同い年の野口冨士男は昭和15年の秋に倉橋弥一に連れられて岡崎を訪れている(『覚え書』(初出:「荷風研究」昭和46年12月)→『文学とその周辺』)。

 銀座に「小唄」という酒場がある。そこに行っている友人に、急な用事ができたので、電話番号簿でさがしたが、出ていない。
 あとで聞いたら、「バー小唄」で出ていたのだが、ぼくは「小唄バー」を引いていたのだ。
 どうちがうのかと尋ねたら、「小唄バーさんですかといわれたら、いやじゃありませんか」

 『おいしいネ』には「バー小唄」が一度ならず登場しているなあと思っていたら、巻末の年譜によると、昭和63年のところに、《喜寿を祝う会を帝国ホテルにて開催。その席上で「ばあ小うた」のマダム、柴小百合(小唄柴流二代目家元)との再婚を発表し、話題となる。》とあって、びっくり。まあ、そういうことだったのネ! 一方、喜寿を祝う会(東京會舘)の翌日に他界してしまった戸板さん……。バー小唄のマダムは平成9年に他界し、杉浦幸雄は二人の妻に先立たれてしまったあとで、平成16年6月18日、93歳の誕生日の2日前に急逝。連載を抱えたままの、《文字通り生涯現役を貫いた》というところは、戸板さんとまったくおなじ。見ごとな幕切れ。



戸板康二が巻頭随筆を寄せている『四季の味』昭和58年春号が記念すべき連載第1回だった杉浦幸雄の『漫画エッセイ おいしいネ』に漂うムードは、まさしく戸板康二の「ちょっといい話」シリーズのムードとまったくおんなじなのだなあと思う。「父のこと」(p84)には、十五代目羽左衛門と六代目梅幸と四代目松助の「玄冶店」が描かれている。《後年、座談会で劇評家の三宅周太郎氏から「きみは『国宝』を見ているよ」と誉められましたが、私がエライわけではありません。父のお陰です。》とある。「玄冶店」の隣りには、「父はいろんないい店につれてってくれた」のイラスト。大正の東京の町並みが描かれている。道路には市電とオールドカー、糞をしながら歩く馬が引く荷台で遊ぶ少年、人力車で移動する粋筋の女性、道具を持って歩く大工に自転車でどこかへ向かう店員、女学生二人。そして、ソフト帽をかぶって三つ揃いのスーツにステッキ片手のお父さんと帽子をかぶって目を丸くしてあとについてゆく幸雄少年……。まさしく、戸板少年がお父さんと歩いていた東京の町が彷彿としてきて、涙が出てきそう。


それから、『漫画エッセイ おいしいネ』(駒書林、平成17年6月)を初めて繰った日から、まさしく涙が出るほど大好きだったのが、「恩師チャップリン」(p73)のページに描かれている《戦前の神田淡路町の映画館シネマパレスにて「巴里の女性」のレストランの場面上映中の図》。弁士徳川夢声氏の横顔! 神田シネマパレスは、植草甚一が夢声の思い出を綴っていることでも有名。ちなみに、神田昌平橋近くに「シネマ・パレス」が開館したのは大正13年12月。大正14年9月に新宿武蔵野館へ移るまで、弁士をつとめた(三國一朗『徳川夢聲の世界』)。

 


我が家の壁面に飾ってある、自慢の杉浦幸雄描く徳川夢声も横顔。夢声像は横顔がとてもよく似合う。活動弁士はスクリーンと手元の本を交互に見ながら説明する。客席にいると、その横顔がもっとも印象に残るのかも。