戸板康二と新劇史の人びと:戸板康二と滝沢修の歳月に思いを馳せる・その2

 

子どもの頃からの芝居好きだった戸板青年が新劇に出会うのは、昭和7年、慶應義塾予科に入学以降のこと。戸板青年の心をまっさきに揺さぶったのは飛行館の築地座の田村秋子だったようであるが、昭和9年に新協劇団が旗揚げされると滝沢の演技に心酔するようになる。昭和30年の『演劇人の横顔』ではそういった「自分語り」的なことをしていないのだけれど、昭和43年の『ヴェニスの商人』のプログラムでは、

大学時代に、新協劇団の『夜明け前』を見て、その青山半蔵の演技に心酔させられた。日本の新劇史の上で、昭和九年あたりから臨戦体制にはいってあの不幸な昭和十五年が来るまでの数年間は、いく人かの俳優の中に、「芸」と呼んでいいものが定着しはじめた時期である。そういう中で、滝沢の存在は、ことに目立った。

というふうに、新劇に出会った当時のことを語っているのだけれど、昭和45年の田村秋子を交えた座談会では、もっと生々しく回想されていて、

ぼくが初めて滝沢修さんの舞台を観たのは、やっぱり新協が一九三四年にできて、その旗上げ公演の「夜明け前」からなんですけど。昭和九年というと、ぼくが慶応の予科の三年で、友田(恭助)さん、田村さんの方の築地座もありましたしね。それから、新協では滝沢さん、新築地の丸山(定夫)さん、山本(安英)さんというような今から思うと一種の新劇の黄金時代みたいな気がするんですよ。それに特にやっぱりぼく自身の歴史からいうと、子供の時分から親に連れられて観た歌舞伎や新派以外の芝居を、今度は自分で、自分の小遣いで観に行く、そして、そういう全く違った芝居に眼が開くという時期にあったわけですからね。だから観る芝居、観る芝居、よく憶え観る吸収の仕方でしたね。あの頃になると歌舞伎や何かの批評家がやっぱり新劇の批評を書くようになって来てましてね。そして、本当に新劇の中に、芸というものが確立しつつあるというんで、まあ田村さんの前でおかしいけれど、田村さんの演技も、そういう意味で評価された、それから、滝沢さんの芝居もそういう意味でみられた、ですから、ぼくは新協の「夜明け前」の時から問題にするってことが、滝沢さんばかりでなく、ぼくの新劇の観劇歴です。

読む側にとっても実感的で、座談記事ならではの貴重な証言。戸板康二が新時代の歌舞伎評論の書き手、劇評家として戦後に世に出る技法を獲得したのは、慶應義塾に入学後に新劇を見る習慣がついたことが決定的な影響を及ぼしたことは間違いあるまい。その象徴が「滝沢修」という存在だったといえるかも。

 


『民藝の仲間』127号、田村秋子・戸板康二・小田嶋雄志「座談会・俳優滝沢修の魅力」のページに掲載の写真。昭和7年に17歳の戸板青年を魅了した田村秋子を交えて語られる、滝沢修とその新劇史。田村秋子の同時代の証言もたいへんおもしろい。

 

滝沢修が《本当の大きな俳優、グラン・ダクトゥール》として世に広く認められたるようになった時期について、戸板康二はこの座談会で、

ぼくはまあ、新協の「夜明け前」の再演あたりじゃないかと思いますね。「夜明け前」の再演から間もなく、「北東の風」「火山灰地」の初演、ということになりますね。あの頃他の理由もあったんでしょうけども、滝沢修という俳優を主人公にして、こういう芝居を書こうという作家が意欲を燃やす時が来てたわけですね。「北東の風」なら「北東の風」で、久板さんが書く時に、滝沢修の演技ってこと考えて書いている。「火山灰地」を久保さんが書くときもやっぱり滝沢修にこういったせりふを言わせ、言って貰おうと思って書いているんですよ、そう思うな、ぼくは。やっぱりそういう書き方っていうことは、ぼくは、いい脚本が出て来る理由だと思うんですよ。しかし逆に言うと、そういう意欲を燃やすという対象にもすでになっていたということは、たいへんなことです。

と1930年代後半の新劇の充実を語っている。戸板康二が滝沢を語る際に必ず言及するのが、ついそのセリフを真似したくなるということで、『火山灰地』の雨宮博士の場合は、「ノイパウアーを知ってるかね」「地球が廻るとね」のセリフを口ずさんだという。そして、このことを語る際にいつも「ぼくは歌舞伎の声色は使わないけれども……」というふうに、わざわざ断りを入れるのがいかにも戸板康二なのだ。

 


『火山灰地』の三つ折両面印刷のプログラム。久保栄作・演出『火山灰地』は前篇が昭和13年6月8日から26日まで、後篇が6月27日から7月8日まで、築地小劇場で初演された。裏面は東和映画配給の『第九交響楽』の広告。この映画を戸板康二も見ていた。当時の紙もの資料で体感する「戸板康二の1930年代」がいつもたまらない。

 


『火山灰地』プログラムのもうひとつの広告は「森永ミルクチヨコレート」。この時期の戸板康二は大学院に進学し、久保田万太郎と初対面した頃。戸板康二の人生が大きく変わろうとしていた時期だった(わたしは久保田万太郎の出会いが大学院中退→明治製菓入社の進路を決意させたとみている。)。

 

先のハヤカワ演劇文庫の『炎の人』と『セールスマンの死』を読んだあと、滝沢のことで頭がいっぱいになり、あらためてじっくり『火山灰地』を読んで、またもや大きく揺さぶられてしまい、いきなり久保栄のことで頭がいっぱいになって現在に至っている。『火山灰地』はさいわい映像が手元にあって、その昭和36年の第一部の舞台中継をじっくり見て、その新劇の黄金期のありように圧倒されてしまった。滝沢修だけでなく、清水将夫と芦田伸介、信欣三といった顔ぶれもすばらしく(ただし大滝秀治には妙な違和感が…)、俳優の層の厚さというかなんというか、新劇が輝いていた時代に圧倒された。そして、久保田万太郎と出会った時期に初演を見た『火山灰地』の、昭和36年8月9日初日の東横ホールにおける22年ぶりの再演を演劇評論家の確固たる地位を築いた身として観劇している戸板康二の歳月にしみじみであった。そんな戸板康二とその背後の演劇史にしみじみであった。

 

戸板康二が、滝沢修について語るときかならず言及することが、昭和18年10月帝劇の芸文座旗揚げ公演の武者小路実篤『三笑』のこと。「戦争中の「三笑」」(『悲劇喜劇』昭和55年11月→『見た芝居・読んだ本』)という文章がある。《戦争中という表現を昭和十八・十九・二十年として見ると、ぼくがこのあいだに、新劇でいくつかのいい芝居を見ている。》という書き出しで、「ことに、忘れられない舞台」として、昭和18年10月30日から9日間に帝劇で上演された『三笑』について綴っている。

 芸文座という劇団の初公演だが、ぼくにとっては、あの滝沢修が見られる喜びが、ことに大きかったのだ。
 新協の「夜明け前」や「火山灰地」で何ともみごとな芸を見せた俳優が、昭和十五年夏の劇団に対する弾圧で姿を消してしまったあと、新演技座での演出部にいたという話は、まだ演劇ジャーナリズムにはいっていないぼくの耳にも伝わって来ていた。
 長谷川一夫の「姿三四郎」の時、主人公が池につかっている場面で聞こえる和尚の声が、滝沢だといううわさも聞いて、見に行って、耳を澄ませた。活動を封じられていたその滝沢が久しぶりに見られるということ自体、当時のファンには大きな朗報だった。おそらくいまの若い民芸の仲間の会員には、想像もつくまいが、そんな時代があったわけだ。

ここで言及されている長谷川一夫の『姿三四郎』は、菊田一夫演出で山田五十鈴の雪野、東京宝塚劇場の新演技座公演、昭和18年5月2日初日、26日千秋楽。戸板康二の明治製菓時代の末期で、この年の7月に「円満退社」し、一年間女学校の高校教師をする。そして、『三笑』が上演された時期にちょうど日本演劇社が発足し、『演芸画報』と『東宝』を合併した歌舞伎の雑誌『演劇界』と、『国民演劇』と『演劇』を合併した新劇の雑誌『日本演劇』が創刊、翌昭和19年7月に久保田万太郎の誘いで日本演劇社に入社することになる戸板康二であったが、もちろん当時はそんなことは知る由もなく、一新劇ファンとして『日本演劇』を毎月購入していた。

 


滝沢修『俳優の創造』(青雅社、昭和23年3月)の口絵より、《「三笑」英次に扮する著者》。

 


昭和23年初版の増補版で戸板康二が序文を寄せた、『俳優の創造』(麥秋社、昭和57年5月)口絵より、《『三笑』第一幕 清子(中村美穂) 静子(轟夕起子) 野中信一(汐見洋) 野中英次(滝沢修)》。

 


同じく、麥秋社版『俳優の創造』口絵より、《第二幕 野中英次(滝沢修) 野中信一(汐見洋)》。戸板さんがさかんに口真似した「兄さんの乙姫様は誰ですか」の場面。戸板康二の《画室の場面の照明(遠山静雄氏)があかるくて、そのあかるさだけでも、楽しかった。》という回想がイキイキと実感できる美しい写真。

 

「戦争中の「三笑」」には、以下のくだりがある。

「三笑」を「久しぶりに米の飯を食べたような気がする」といって喜んだ人と、「ばかばかしい芝居だ」と黙殺した人がいた。東京新聞で安藤鶴夫は、「三笑は私を敬虔にしてくれた。静かな落着いた大人の世界にいざなわれ、よい人間になりたくて仕方がなかった」と肯定し、感動をあからさまにしている。これに対して、毎日新聞の久住良三は、「芸術至上主義的」で「作者の思想も本質的には認められない」「馬鹿笑い、馬鹿踊り」と批判した。論争には発展しなかったが、まだ劇評家になっていないぼくは、新聞というものはいま、こんな形でしか「三笑」を論じられないのかと思って、暗然としたのをおぼえている。

そして、最後にはちょうどこのときに発足した日本演劇社の発刊していた『日本演劇』への言及がある。《大江良太郎の戯曲読後感、菅原卓の劇評がのり、新聞二紙の対立した意見について大井文雄(変名である)が「劇評の混乱」というコラムを書いている。》。

 


『日本演劇』第1巻第2号(昭和18年12月1日発行)。表紙:伊藤熹朔。この号は、同年10月29日に他界した岡鬼太郎の追悼記事がある(大谷竹次郎、河竹繁俊、三宅周太郎)。岡鬼太郎は日本演劇社の初代社長であったが、発足まもなくに他界してしまった。

 

前述のとおり、この時期の戸板康二は夏に明治製菓を退社し、女学校の国語教師をしていた。翌昭和19年7月に久保田万太郎の誘いで日本演劇社に入社、『日本演劇』の編集に携わり、戦中戦後を演劇ジャーナリストとして生きることとなる。それまで、歌舞伎に関する文章は書いていたけれど、新劇は戸板康二にとってはあくまで趣味の世界であった。日本演劇社に入社することで新劇が仕事場所となったわけで、昭和18年10月の『三笑』は、戸板康二にとって、仕事と関係なくまったくの趣味として観劇した新劇という意味においても、戸板康二にとって感慨深いものがあったのだろうと思う。のちに、戸板康二は滝沢について、《新劇のどの俳優よりもファンであり、羽左衛門や菊五郎を語るように語るという点で、役者そして芸と、その舞台については表現したいのである。》というふうに書いている(滝沢修『俳優の創造』序文)。戸板康二の青春を考える上で、六代目菊五郎と同様に、滝沢修は欠かせない存在なのだった。

 


『民藝の仲間』193号(昭和53年6月15日印刷)、武者小路実篤作・滝沢修演出『その妹』上演時(昭和53年6月15日国立劇場小劇場初日)の号。戸板康二と滝沢修の『対談 舞台より愛をこめて』のページに掲載の写真。『その妹』初演のときに(昭和26年3月23日三越劇場初日)、『スクリーン・アンド・ステージ』に劇評を寄稿し、伊藤熹朔の舞台装置に苦言を呈したら、3日後に会ったときに「バカのひとつ覚えっていうのは、おマエさんの批評だよ」と怒られたというくだりがある。この対談は昭和53年5月16日に行われている。翌年大病をし、声帯を失う戸板さんは対談、座談の類からは姿を消してしまうのだったが、いつもながらに聞き役に徹しているように見えながらも、うまく発言を引き出しながら、言うことは言い、絶妙の話術を披露。滝沢とは何度くらい対談をしたのだろう。まだ調べていない……。

 


戸板康二と滝沢修の歳月を思うと、どうしても昭和39年放送の大河ドラマ『赤穂浪士』のことを思い出さずにはいられない。塩冶判官が当たり役だった梅幸が浅野内匠頭を演じ、それまで映画では2回演じたことのある滝沢修にとっても当たり役の吉良上野介! 当たり役と当たり役の共演、梅幸と滝沢修の共演は、戸板さんにとっては一種の夢の共演だったのではないかなあと思うと、にんまりしてしまう。

 


『NHK』(NHK 広報室、昭和39年6月15日発行)、「特集〈赤穂浪士〉出演者名鑑/極付名場面集」より、《勅使御接待役の大役を浅野内匠頭(尾上梅幸=左から二人目)は吉良上野介の指図を受けなければならない立場ですが、いつも底意地悪くあしらわれます》。

 


そして、いよいよ極め付け名場面! 滝沢の倒れこむ形もいい!

 


大河ドラマの『赤穂浪士』は柳沢出羽守が三津五郎というのがまたたまらない。浅野をもっといじめてやりなさいと出羽守の言葉を聞き、わが意を得たりとほくそえむ滝沢の場面。

 


大河ドラマの『赤穂浪士』は、歌舞伎役者と劇団民藝の役者が大勢出演しているというのが、とにかくたまらない! これは《事件後、吉良家とつながる米沢藩主上杉家の江戸家老千坂兵部(実川延若=右)は、赤穂の策動を全力をあげて阻止するために、小林平七(芦田伸介=中央)らと策を練ります。》のシーン。キャー、芦田伸介!

 


そう、大河ドラマ『赤穂浪士』は民藝の役者がごっそり出演しているのだった。この写真は、民藝ロビーでなごやかに座談に興じる、蜘蛛の陣十郎役の宇野重吉、滝沢修、小山田庄左衛門役の山内明。