武蔵野美術大学美術館で『編集装丁家 田村義也の仕事』を入手して、戸板康二と田村義也と久保栄をおもう。


6月最初の土曜日の夕刻、演博の廊下で入手したチラシで、武蔵野美術大学の美術館で《大辻清司フォトアーカイブ 写真家と同時代芸術の軌跡 1940-1980》(会期:5月14日~6月23日)が開催中と知ってムズムズだった……という次第で、雨降りしきる次の土曜日に中央線に揺られてトロトロと武蔵野美術大学へと出かけた。目当ての大辻清司展は大変すばらしかったし、日宣美のポスターや椅子の展示も、現代アートの展示もとてもよかった。雨のなか遠路はるばるやって来た甲斐があり過ぎるというくらいにすばらしく満喫した時間だった。さらに嬉しかったのが、大辻清司のすばらしい図録と合わせて、2008年に開催の田村義也展の図録を入手できたこと。とにかくもう、武蔵野美術大学美術館はなにもかもがすばらしかった。ぜひまた行きたい。今度は雨の降っていない日に玉川上水沿いを歩きたいなと思う。

 


岡本章・四方田犬彦編『武智鉄二 伝統と前衛』(作品社、2012年1月5日)。表紙:シェーンベルク『月に憑かれたピエロ』武智鉄二演出(出演:観世寿夫、野村万作、浜田洋子、撮影:大辻清司)。図書館で借りてフムフムとひととおり読了していたものの、大辻清司展に刺激されて、やはり手元に置いておきたくなって週明けに購入。富十郎を囲む座談会もとても面白くて、この本を読んで以来、武智歌舞伎を思うとき『熊谷陣屋』の「詮議、とは」をまっさきに思い出す。この座談会の翌年、2011年の年明け早々に富十郎は他界してしまったのだから、たいへん貴重な記録。しんみり。

 


『背文字が呼んでいる 編集装丁家田村義也の仕事』(武蔵野美術大学美術資料図書館、2008年8月4日)。本体と函は別売り(本体は2000円、函は300円)。田村義也(1923-2003)は、昭和18年の学徒出陣を経て、昭和23年3月に慶應義塾大学経済学部を卒業、岩波書店に入社する。昭和41年4月より武蔵野美術短期大学専攻科生活デザイン科非常勤講師となり、以後27年間、「編集計画研究」を講じる。昭和60年3月31日に岩波書店を正式退社(定年は昭和58年3月)。1993年3月、武蔵野美術短期大学講師を退任。2003年2月23日に他界。2004年に、田村家から1400点もの装丁作品が武蔵野美術大学に寄贈された。そして、2008年8月、田村義也の装丁の仕事の全貌を紹介する展覧会が開催され、本図録が編まれたのだった。

 


『月の輪書林 古書目録14 田村義也の本』(月の輪書林、平成17年4月5日)。[プロローグ]田村義也の父と母の本、[1]田村義也の装丁本、[2]田村義也の書き込み本、[3]田村義也の旧蔵本、[4]小椰精以知の旧蔵本、[5]長岡光郎の旧蔵本、[6]「田村義也」の本、[7]エピローグ『田村義也 編集現場115人の回想』より。

■ここに、特集「田村義也」の本をお届けいたします。
 一年ぶりの自家目録となります。
■昨年の六月十二日、田村義也旧蔵書が東京古書組合南部支部の大市会(於五反田南部古書会館)に出品されました。
 「田村義也旧蔵書は、まず美術関係書が大学へ、そして沖縄関係書が大阪人権博物館へ行き、残りの本が田村義也ゆかりの人達の手に渡り、最後の残りのそのまた残りが古本市場に出たんだよ」と出品した古本屋さんに教わりました。
■残りものには福があるといいます。何か心にとまるものがございましたら、一点でも二点でもどうぞご注文くださいませ。

というふうに、見返しに書かれている。いつものように縦横無尽の素晴らしい目録。2005年4月、この目録をきっかけに、わたしは初めて「田村義也」という存在に目を見開かされたのだった。奥付の4月5日は田村義也の誕生日である。



という次第で、武蔵野美術大学美術館で『背文字が呼んでいる 編集装丁家田村義也の仕事』を入手した記念に、以下、田村義也と戸板康二メモ。


2005年4月に月の輪書林の目録を手にするまで、特に深く考えたことはなかったのだけれど、田村義也は、『ぜいたく列伝』と『あの人この人 昭和人物誌』の単行本と文庫本、計4冊の装丁者である。

 


『ぜいたく列伝』(文藝春秋、1992年9月19月)。田村装丁の戸板本のうち、唯一、生前の戸板さんが見ていたのが、この『ぜいたく列伝』の単行本。『ちょっといい話』の初刊(昭和53年1月15日)から始まる一連の人物誌シリーズの単行本はすべてソフトカバーでスピン付きで天が不揃い、文藝春秋の刊行本のこの造本の著者や本には共通するある種のムードがあるような気がする。往年の文人の香気というような。

 

さて、戸板さんはこの装丁に対して、どんな感想を持ったのか、それはわからないけれども、この本が出た1992年9月に、戸板さんは田村義也と会食をともにしている。田村義也はこの日のことを、以下のように回想している。

 ひさしぶりに久保作品の公演を観たのが九月二十四日だったが、そのあとすぐ二十八日の夕刻、戸板康二さんに、六本木の小料理屋で御馳走になったのだが、私は久保栄のことばかりしゃべっていた。
 戸板さんとは、一九五二年(昭和二十七)暮れに、岩波文庫の岡本綺堂作『正雪の二代目』の解説をお願いするために御自宅にうかがったことがあって、それから約四十年、なつかしいひとだったから、いい気になって酒をあおってしまった。
 そのあと戸板さんを大田区洗足のお宅にお送りして帰宅したのだが、翌一九九三年一月二十三日朝急逝された。じつに驚き入った残念なことであった。
 『オール讀物』三月号[一九九三年]の「戸板康二追悼号」には、諸氏の追悼文とともに、戸板さんの御遺稿ともいうべき「久保栄の潔癖」が掲載された(これは、戸板康二『あの人この人――昭和人物誌』[一九九三年六月二十五日発行]に収められている。単行本と文庫、ともに文藝春秋から刊行されており、私が装丁させていただいた)。

この文章の初出は、北海道立文学館特別企画展図録『久保栄と北海道』(1996年9月30日発行)であり、田村の遺文集『ゆの字ものがたり』(新宿書房、2007年3月10日)には、生前の『のの字ものがたり』(朝日新聞社・1996年3月25日)にも収録されている「久保栄さんのこと」(『民藝の仲間』273号・1992年9月発行)のあとに、追記として掲載されている。

 


『民藝の仲間』第273号(1992年9月19日発行)。表紙絵:天野喜孝。久保栄作・滝沢修演出『吉野の盗賊』の上演時のプログラム(平成4年9月19日~10月3日、於:サンシャイン劇場)。初演は昭和8年12月、築地小劇場、前進座による自主制作の初の小劇場公演だったという。昭和11年12月の再演以来、本公演は56年ぶりの『吉野の盗賊』上演であった。


『あの人この人』所収の「久保栄の潔癖」で《セリフは今見ると難渋をきわめてめている。》と書いている『吉野の盗賊』の滝沢修演出による劇団民藝上演を、戸板さんも56年ぶりに観劇していることは間違いあるまい(未確認)。昭和9年9月29日創立の新協劇団の旗上げ公演、『夜明け前』を見て(昭和9年11月10日~30日、於:築地小劇場)、戸板康二は滝沢修に心酔するのだったが、その『夜明け前』は村山知義による脚色で、装置は伊藤熹朔、そして演出は久保栄であった。その久保栄作『吉野の盗賊』が滝沢による演出で56年ぶりに上演されたのだから、感慨はひとしおであったことだろう。田村義也が観劇したのは9月24日とのことだけど、同じ日に戸板さんも同じ日に見ていて、劇場のロビーで今度ぜひ一席と9月28日に六本木の小料理屋での酒宴の運びとなったのか、それとも、文藝春秋から『ぜいたく列伝』が刊行された直後ということで、装丁者と著者のひさしぶりの顔合わせが実現したのがたまたま久保栄の『吉野の盗賊』の上演月だったということなのか、正確な経緯は不明だけれども、『ぜいたく列伝』の刊行と『吉野の盗賊』の上演がたまたま同じ1992年9月だった。そして、昭和27年11月から旧知だった二人のひさびさの一席が実現したのも1992年9月だった。



田村義也は昭和23年3月に岩波書店に入社し、出版部に配属された。昭和26年6月に、桑原武夫編『ルソー研究』の製作・装丁を担当したことが、のちに京都学派の人びとと深く交わるきっかけとなり、上掲の月の輪書林の目録でもそのあたり、たいへんエキサイティング。そして、翌27年11月に、岩波文庫編集部に異動する。「久保栄さんのこと」によると、田村義也と久保栄の交流が始まったのも、文庫係になった昭和27年だったというから、戸板康二と知り合ったのと時を同じくしている。戸板康二が解説を寄せた、岡本綺堂の『正雪の二代目 他五篇』の発売は昭和27年11月25日、田村が文庫編集部に異動した直後のことだった。久保栄の岩波文庫とのかかわりは、ゲオルク・カイザア/久保栄訳『平行』(昭和9年5月25日刊行)が最初であり、ちょうど20年後、田村義也が文庫編集部にいた時期に、ハウプトマン/久保栄訳『織工』に刊行された(昭和29年5月5日刊行)。

「1840年の戯曲」と副題された社会劇。労働争議を扱った最初の文芸作品で、シュエジア地方における機械の発達にともなう手工業の衰退、一除隊兵の指揮によっておこされた織工たちの一揆、鎮圧のための軍隊出勤。工場主の邸宅の襲撃等をすぐれた手法で表現した。日本では1933年11月、築地小劇場で初演の幕をあげた。

という紹介文は田村によるものかな。その後、田村は昭和31年春に新書編集部に異動し、久保栄の「劇とは何か」という表題の演劇論を企画し、快諾を得たものの、久保の他界で刊行に至らなかった。

 一九五八年(昭和33)三月十五日、その久保さんが自殺されたという突然の知らせは、大ショックであった。何が何だかわからず、すっかり動顛してしまった私は、久保さんのお宅にうかがった。そして、柩の置いてある座敷に、もう誰もいなくなった夜半過ぎまでも茫然と座っていた。
 久保さんお宅の外の暗がりで、村上一郎氏にはじめて紹介されて挨拶をした。「この人がエッカーマンなのだな」と思った。
 一年くらい前だったろうか、玄関での帰り際に、久保さんが、「私の話をまとめているエッカーマンみたいな人がいるんですよ」と機嫌よく言われたことがあったのを思い出したからだ。(村上一郎『久保栄論』一九五九年十二月弘文堂刊がそれである。)

文庫編集部時代に田村が企画した、シラー/久保栄訳『群盗』は久保栄の没後の刊行となってしまったのだった(昭和33年5月5日刊行)。紹介文は以下のとおり。

ドイツの政治経済がひどい停滞に陥り、文学のみが異常な活況を呈したいわゆるシュトルム・ウント・ドラング時代の、これは記念碑的な作品である。失われた自由を求めるあまり盗賊隊長となって社会に抵抗する青年カアルの心情は現代人の強い共感を呼ぶであろう。原作の精神を深く理解しもっとも適切な日本語に移した名訳を贈る。

ちなみに、戸板康二の初の岩波文庫とのかかわりは、昭和27年9月5日発売の真山青果『玄朴と長英 他三篇』に解説を寄せたのが最初。「私見・真山青果」(「歌舞伎」昭和46年7月→『歌舞伎 この百年』)にたいへん興味深い回想がチラリと書かれていて、このくだり、昔から大好き。このときの担当者は田村義也ではなかったのがちょっと残念。

 


『オール讀物』1993年3月号・第48巻3号(平成5年3月1日発行)。表紙:永田力。出久根達郎の第108回直木賞受賞の号であるこの号に、戸板康二の追悼特集が掲載。矢野誠一、三田純市、金子信雄、江國滋、小沢昭一、山川静夫、小田島雄志、吉行和子、冨士真奈美が寄稿。編集長は中井勝。編集後記に、

「昭和人物誌」を連載中の戸板康二氏が亡くなられました。その前夜、戸板氏の招きで金子信雄、矢野誠一両氏、小社編集者四名が銀座「はち巻岡田」でご馳走になりました。ここは特に戸板氏が愛した店。年末に喜寿を迎えた祝いの会の世話役たちに一席を、という配慮からでした。末席にいた小生にも、いかにも元気で楽しそうに見えました。帰宅してから大相撲ダイジェストを観て、翌朝は「よく眠れた」と起き上がり、玄関を出て新聞を取りに郵便箱へ。この日はとりわけ寒気が厳しい朝でした。戻ってきて玄関に入り、そのまま……。当世子夫人の悲哀は察するに余りあります。

とある。『小説現代』でも同月、追悼特集が組まれている(執筆者:佐野洋、江國滋、栗本薫、小沢昭一、波乃久里子、渡辺保)。ちなみに、この号の「酒中日記」の執筆者は出久根達郎である。

 


1992年9月28日、劇団民藝による『吉野の盗賊』を観劇したあとで、戸板康二と田村義也は六本木の小料理屋で会食をし、田村曰く、《私は久保栄のことばかりしゃべっていた。》。その記憶が鮮明なときに、田村義也は戸板さんの訃報に接したのだった。1993年1月23日に戸板康二が急逝し、上掲の『オール読物』が発売は翌月22日だった。上掲の「久保栄さんのこと」で言及されているとおり、各氏の追悼文とともに、遺稿として掲載された連載の「昭和人物誌」、この号は「久保栄の潔癖」だった。その文中には、

 先日、岩波書店で文庫を長年担当していた田村義也さんに会い、たまたま久保さんの話が出た。
 田村さんは時々久保家を訪ねたが、そういう時、「当面する諸問題を論ず」とでもいった姿勢で、古今東西の演劇はもとより、世相一般次から次へと止めどなく、しかし話し方は精密な分析にもとづき、慎重に選んだ言葉を展開して行ったと話している。

という一節がある。田村義也とのひさしぶりの対面に刺激されて、戸板さんは、『オール讀物』で連載中だった「昭和人物誌」に、久保栄のことを書いたのはもう間違いはないと思う(「当面する諸問題を論ず」以下のところは、『吉野の盗賊』上演時の田村義也の「久保栄のこと」が踏襲されている。)。戸板さんと田村義也が会ったのは9月28日だから、戸板さんがこの稿を脱稿したのは翌月くらいか。田村義也は、戸板さんの訃報の1ヵ月後、『オール讀物』誌上で「久保栄の潔癖」を目にしたときは、万感胸に迫るものがあったことであろう。

 


昭和25年に日本演劇社を退社してから、組織に身を置くことなく、書いて書いて書きまくったのが戸板康二の生涯だった。締切を守るのはもちろん、2か月先の原稿まで用意していた戸板さんの優雅な仕事ぶりはまばゆいばかり。追悼号に掲載された「久保栄の潔癖」が遺稿かと思いきや、『オール讀物』の「昭和人物誌」は、「東山千栄子の挨拶」「渥美清太郎の歌舞伎」と2回連載が続いて、1993年6月25日、『あの人この人 昭和人物誌』として文藝春秋より1冊の本として刊行された。『ぜいたく列伝』に引き続いて装丁は田村義也だけれど、本書はハードカバーで、『ちょっといい話』から『ぜいたく列伝』までの装本とは趣きを異にしている。



昭和27年11月、田村義也と戸板康二は、文庫解説の寄稿者と岩波文庫の編集者として対面した。初対面の折から、久保栄の話で盛り上がったのは確実だと思う。戸板さんの最晩年の1992年の秋に、久保栄の『吉野の盗賊』が56年ぶりに滝沢修の演出で上演されたときに二人はひさしぶりに再会して、田村は久保栄のことばかりしゃべり、『オール讀物』の戸板康二追悼号に掲載された「久保栄の潔癖」の文中に、田村義也は自分の名を見た。最後の最後まで、二人の交わりの間には久保栄がいた。


……と、ただそれだけのことだけれども、戸板康二と田村義也の淡い交わりの象徴のような存在が久保栄であったということに前々からとっても愛着があったので、ここにちょっと書きとめた次第。わたしが初めて「田村義也」という存在を心に刻んだのは、先に記したとおり、2005年4月、『月の輪書林 古書目録14 田村義也の本』がきっかけだった。目録の「田村義也の旧蔵本」のセクションには、戸板康二の著書が1冊だけ掲載されている。

七九一 田村義也宛署名本★万太郎俳句評釈  初カ帯  戸板 康二  平4  二,〇〇〇

当時所蔵していた『万太郎俳句評釈』は帯がなかったので、これを機に帯付きを入手しておくかなと、当時は署名というよりは帯を目当てに注文したのだったけれども、今となっては、わたしの本棚に田村義也献呈署名入りの『万太郎俳句評釈』が並んでいるということがなにか特別の縁のような気になっている。

 


『万太郎俳句評釈』(富士見書房・1992年10月10日発行)の田村義也宛て献呈署名。本書は、1992年9月28日に六本木でひさしぶりに酒席をともにしてから間もなくに発行されている。

 


※追記(2012年7月18日)


 『月の輪書林 古書目録14 田村義也の本』(月の輪書林、平成17年4月5日)が発行されたあと、『彷書月刊』2005年6月号の巻末の91ページに、月の輪書林店主・高橋徹氏の名前で、『月の輪書林古書目録14号「特集・田村義也の本」についての訂正とお詫びと報告』が掲載されています。

 

「巻頭の「前口上」の訂正とお詫び」として、

 ご遺族の代理人の方より、蔵書の行方の事実関係に誤りがあるとのご指摘があり、左記のように訂正いたします。
 前口上の「田村義也旧蔵書は、まず美術関係書が大学へ、そして沖縄関係書が大阪人権博物館へ行き」の箇所を、
 「まず装丁本と美術関係書が武蔵野美術大学図書館へ」と訂正します。
 続く「そして沖縄関係書が大阪人権博物館へ」の箇所は、削除します。寄贈の事実がないことが判明したからです。
 関係者の方々にご迷惑をおかけしました。ここに深くお詫びいたします。

「42頁の田村義也宛献呈署名本(目録番号782番~807番)についての報告」として、

 この古書目録がお客様のお手元に届いて一週間後の四月十八日、ご遺族の代理人の方より田村義也宛献呈署名本は誤って古本市場に出品されたものであると知らされました。
 ご遺族の方が困惑されている旨を受けて、すでに売れてしまった本を除き、残りの14冊の販売を停止し、ご遺族宛に送付いたしました。
 目録番号782番~807番は、欠番となります。

 というふうに訂正がなされています。