戸板康二と歩く東京:千駄ヶ谷、代々木山谷から明治神宮へ(後篇)

 

代々木駅東口、小田急の旧本社ビル、五代目歌右衛門の邸宅の跡地を経て、藤倉電線の千駄ヶ谷工場の碑の前に立ち、戸板康二の父・山口三郎が入社した大正初年代の藤倉電線とその同時代の五代目歌右衛門に思いを馳せて胸を熱くしたところで「千駄ヶ谷」をあとにし、次は「代々木山谷」へ。

 


甲州街道沿いにそびえたつ「文化クイントビル」の正面左脇に「株式会社フジクラ千駄ヶ谷工場発祥の地」の碑がひっそりと建っている。このビルは渋谷区代々木の2丁目と3丁目の境界線に接する代々木3丁目のはじっこに位置している。藤倉電線の工場の碑のある左脇の道が2丁目と3丁目の境界となっている。


渋谷区代々木の2丁目と3丁目の境界の道を、甲州街道を背に小田急線の方向へと直進してゆく。この道の途中で、旧町名の「千駄ヶ谷」と「代々木山谷」の境界線をなす箇所が交差する。現在の代々木3丁目から神宮前にかけて、かつて渋谷川の支流が流れていて、昭和7年10月に渋谷区が成立する以前は、その渋谷川の支流のひとつが豊多摩郡時代、千駄ヶ谷と代々幡町代々木山谷のおおよその境界をなしており、現在の南新宿駅の下にもかつての水路の跡が見出されるという(白根記念渋谷区郷土博物館・文学館特別展図録《「春の小川」の流れた町・渋谷―川が映し出す地域史―》2008年9月29日発行)。


と、そんなかつての水路のあった時代は想像するよりほかないのだけれども、その起伏に富んだ路地は「山谷」という地名を今も鮮やかに実感させて、歩いているだけで胸が躍る。明治・大正初期の原っぱの時代を経て、どんどん宅地化が進んで山の手の古い住宅地の形成されていった地域。そんな古くからの住宅地ならではの町並みがとても心地よく、ミッドセンチュリーの昭和期の建築があちらこちらで目にたのしく、歩いているだけで上機嫌になっているうちに、小田急線の線路にゆきあたるのだった。

 


『復刻 大東京三十五区分詳細図(昭和十六年)22 渋谷区』(人文社)=『大東京区分図 三十五区之内 渋谷区詳細図』(日本統制地図株式会社、昭和16年1月15日初版、昭和17年11月5日再版)より。

 

大正8年に戸板康二の住んでいた代々木山谷の家は、『回想の戦中戦後』では《代々木にいる時、近くで明治神宮が造営されていたらしい。その家も小さかったが、門とめぐらした垣根があり、似たような家の並ぶ横町に面していた。家を出て左折してしばらくゆくと、川べりに父のつとめていた会社の電線工場があった。》というふうに語られていて、林えり子「追悼に代えて――小評伝(生いたちから昭和十二年前)」(『「ちょっといい話」で綴る戸板康二伝』(私家版、1995年1月23日発行)所収)で紹介されている戸板口述の年譜によると、《この家は、現在明治神宮の裏側にあたり、神宮御造営工事の最中であった。》とのことなので、当時はまだ開通していなかった小田急線の線路の向こう側にあったのかもしれない。ところで、『藤倉電線社史 八十八年のあゆみ』(藤倉電線社史編纂委員会、昭和48年2月25日)に、「大正十年」の事項として以下のような記述がある。

 二月十三日深川の溶銅工場が作業を開始している。この時は、深川工場は建設中であったが、出来あがったところから稼働させる方針で、まず溶銅工場が最初に建てられたのである。
 これには次のような理由もあった。
 大正四年秋から造営を開始した明治神宮は九年の秋に落成したが、その神苑には、全国から寄進された多数の樹木が植えられていた。ところが、風向きによっては、当社の千駄ヶ谷工場の煙が、神宮の森に吹きつけるので、留吉社長は、一日も早く溶銅工場を移転すべきであると指示した。……

 という次第で、大正9年に竣工し、同年11月1日に鎮座祭が挙行された明治神宮が、結果的には藤倉電線を千駄ヶ谷の地から去らせるということになったということになるのだった。その後、この界隈は閑静な山の手の住宅街としての町並み形成されてゆくこととなった。

 

上掲の地図より、代々木山谷を拡大。左に京王線、右に小田急線。文化クイントビルの左脇の道路を小田急線の方向へ直進すると、戦前に「山谷駅」のあった場所にゆきあたる。現在はここに「千代通り」という名の自動車道が通っていて、交通量は結構多い。代々木駅西口から小田急線の高架下を通り、西参道から甲州街道へ伸びる広い道路に突き当たる大きめの車道。この地図の当時は建設前だったようで、現在の「千代通り」自動車道は点線で図示されている。その千代通りを右折し西参道と甲州街道をつなぐ広い道路を横断し、さらに直進すると、右手に広大な「山内邸」、そして、その向かいには小さく「第二早蕨幼稚園」の文字を見ることができる。

 【追記(2018年11月25日)】代々木駅西口から小田急の高架下を通る広い自動車道は一部役所の内部文書では「山谷通り」と表記されてはいるものの表に出ることはなく、「都道補助59号線」という名があるものの表向き名を呼ばれない道路になっている旨、さる方よりお教えいただきました。その道路沿いの「レストラン・ケン」の裏手の細い通りが本来の「千代通り」であるとのことです。


大正8年の束の間の代々木山谷居住時代に、戸板康二は「早蕨幼稚園の分園」に通っていた。『回想の戦中戦後』の「うまれた町」に、《ぼくは、久留島武彦という童話家を園長とする早蕨幼稚園の分園に通っていたそうだ。犬張子のついたエプロンをつけていたそうだ。》とおぼろげに回想されている「早蕨幼稚園の分園」の場所は、昭和16年時点の上掲の地図では、山内邸の向かいに位置している。現在の地図で確認すると、山内邸と第二早蕨幼稚園の間の道は「切通しの坂」という表記になっていて、これぞまさしく美術館で目にするたびに陶然となる、岸田劉生の《道路と土手と塀(切通之写生》の場所にほかならない。上掲の地図は昭和16年時点のものであり、劉生の切通しの坂と戸板康二が代々木山谷に住んでいた震災前とは、早蕨幼稚園の分園は違う場所に移転している可能性もある。しかし、大正8年に戸板康二の一家が代々木山谷に移住する少し前、大正2年から大正5年にかけて岸田劉生がおなじく代々木山谷に住んでおり、日本近代美術史に燦然と輝く傑作を残しているという事実にこのたび初めて気づいた次第で、代々木山谷での劉生と戸板一家との交錯(のようなもの)にはどうしても魅了されずにはいられないのだった。

 



図録『開館30周年記念特別展 渋谷ユートピア 1900-1945』(渋谷区立松濤美術館、2011年発行)に掲載の、岸田劉生の代々木山谷の風景画より、上は《代々木附近の赤土風景》で大正4年10月15日に完成し、第1回草土社展にあたる現代の美術社主催第1回美術展(大正4年10月17日から31日まで読売新聞社で開催)に出品された作品。下がおなじみの《道路と土手と塀(切通之写生)》、こちらは上の《代々木附近の赤土風景》の直後、大正4年10月末から十日間費やして11月5日に完成され、第2回草土社展(大正5年4月1日から10日まで銀座・玉木商会で開催)に出品された。いずれもほぼ同じ地点を描いていて、左の白塀は旧土佐藩山内公爵家の敷地で、画面の右に段々になった造成中の宅地が広がっている。

 


村山槐多《某公爵家遠望》大正8年、同じく図録『渋谷ユートピア 1900-1945』より。本展覧会の企画と監修を担当された松濤美術館の瀬尾典昭氏による解説によると、この作品は、上の劉生の《道路と土手と塀(切通之写生)》をもう少し後ろから引いた視覚で同じ構図で描いたものである。右側の新しい造成地に劉生の時にはなかった住宅が建っているのが見てとれる。大正8年といえば、まさしく戸板康二が代々木山谷に住み、早蕨幼稚園に通っていた時期。大正4年の劉生の画では第二早蕨幼稚園の存在は実感できないけれども、大正8年の槐多の作品だと、なんとなく坂道の右側に幼稚園がありそうな雰囲気がただよっている、ような気がする。

 

 

2011年6月26日付けの『戸板康二ノート』で「戸板康二が幼年時代を過ごした渋谷メモ。代々木山谷と渋谷永住町。」と題して、戸板康二の渋谷時代に思いを馳せたとき、宮脇俊三著『昭和八年 澁谷驛』(PHP研究所、1995年12月)にある自伝的文章の以下のくだりに、「おっ」となったことを書いた。

 昭和七年の四月から幼稚園に行くことになった。
 その幼稚園は、私の家から五分ほど歩いた坂の上にあり、「さわらび幼稚園」と言った。「早蕨」と書いたかもしれない。園長は児童文学者であり、「口演童話」の開拓者として知られた久留島武彦であった。そういえば、チョビ鬚を生やした面長のおじさんが、壇上で話をしていたような気がする。
 しかし、私は幼稚園に行くのがいやでたまらなかった。当時、幼稚園に通う子は少なく、東京の山手でも五人に一人あるかなしかであった。私の家の近所には同い歳の遊び友だちが三人いたが、誰も幼稚園には行かなかった。私は人見知りの強い子だったので、それを矯正しようという母の配慮であったらしい……

宮脇俊三が嫌々通わされた幼稚園は、戸板康二がお父さんが上海に転勤になる前のほんの一時期に通っていたのと同じ、久留島武彦経営の早蕨幼稚園だ! と、当時大いに感興がわいたのだったけど、きちんと確認してみると、戸板康二が通っていた早蕨幼稚園は「分園」である代々木山谷の早蕨幼稚園であり、宮脇俊三が通っていたのは青山隠田の「本家」の早蕨幼稚園であった。久留島武彦は明治43年5月に青山隠田に早蕨幼稚園を開園したあと、すぐに評判が広がり、大正4年10月に代々木山谷に第二早蕨幼稚園を創設したのだった。その開園は奇しくも、上掲の劉生の油彩作品とほとんど同時期のことであった。

 


《早蕨幼稚園園児の犬張子バッジ》、上笙一郎・山崎朋子『日本の幼稚園 幼児教育の歴史』(理論社、1981年5月新装版第3刷発行)に掲載の図版。『回想の戦中戦後』にある《犬張子のついたエプロンをつけていたそうだ。》の「犬張子」が早蕨幼稚園のトレードマークだった。

 

童話家の久留島武彦が明治末期から戦前昭和にかけて経営していた早蕨幼稚園については、上笙一郎・山崎朋子『日本の幼稚園 幼児教育の歴史』(理論社、1981年5月新装版第3刷発行→ちくま学芸文庫・1994年1月)の明治時代の「児童文学と幼な子たち」の章に、岸辺福雄のつくった東洋幼稚園とともに「口演童話家のつくった幼稚園」というくくりできわめて懇切に論じられている。

 ひとくちに〈児童文学者〉とよばれるなかには、児童文学の創作をおこなう作家のほかに、子どもたちをあつめて童話を語って聞かせることを仕事とする、口演童話家という人たちがいます。児童文学に関係する人のつくった幼稚園のほとんどすべてが、口演童話家のつくったものであり、作家の手に成ったものは皆無であるということは、いったい、どのようなことを意味しているのでしょうか。
 その意味を究めるために、わたしたちは、口演童話家の建てた幼稚園のうちで、もっとも早い時期につくられ、かつもっとも世間に知られているふたつの幼稚園を、ここに取りあげてみたいと思います。そのふたつの幼稚園とは――岸辺福雄のつくった東洋幼稚園と、久留島武彦の建てた早蕨幼稚園。
 巌谷小波に出発して、小川未明・浜田広介・坪田譲治・酒井朝彦とすすんできた日本の創作児童文学には、芸術の名のもとに〈子ども忘れ〉を許容してきたという一面があるのですが、この、口演童話家のつくった幼稚園を語ることは、あるいは、その問題に、解答のきっかけをもたらすことになるかもしれません。

明治28年の二十歳のとき、近衛師団第一連隊の一兵卒として劉永福将軍を攻める台湾征討軍に加わっていた久留島武彦は、戦争ルポルタージュを博文館に送り、『少年世界』に毎号のように掲載され、子どもたちからたいへんな人気を得る。そこで童話家を志した久留島は近衛師団の同年兵の木下忠太郎(木下孝允の長男)の紹介で尾崎紅葉を訪れて、『少年世界』の主筆であった巌谷小波に引き合わされその門下生となり、口演童話の世界に進んだ。博文館の講話部主任として愛読者会を中心とする口演童話の会で全国をまわっているうちに、郷土玩具の収集とその研究にのめりこみ、やがて、児童と直接接触して自ら実地に研究できる機関として幼稚園の設置を志すようになる。


……とかなんとか、久留島武彦が幼稚園をつくるまでの過程には、博文館と巌谷小波、おもちゃ研究の集まりである「小児会」といった固有名詞が登場し、山口昌男の『「敗者」の精神史』的なたのしみがあり、早蕨幼稚園誕生までの流れを追うだけでたいへん胸躍るものがある。明治36年7月に横浜蓬莱町のメソジスト教会でお伽噺の会を開いたのを皮切りに、同年10月には川上音二郎と貞奴の賛助出演を得てお伽芝居を上演していたり、明治39年3月にはお伽倶楽部という月例会を組織、そして明治41年5月には天野雉彦、石川木舟らと「お伽芝居」という児童劇団を組織していたりと、演劇史との関わりという点においても興味津々なのだった。ちなみに、天野雉彦は徳川夢声の母方の叔父にあたる人物で(夢声の実母・天野ナミの弟)、久留島とおなじく小波の門下生で「趣味講演」という独自の話芸の創始者であり、夢声の話芸を考察する上でも興趣が尽きない人物として三國一朗が注目していた人物でもある(『徳川夢聲の世界』、『徳川夢声とその時代』)。それから、久留島武彦が幼稚園の創設を志したときに、手をさしのべたのは大阪の富豪で野村証券初代社長の野村徳七だったという。ふたりは明治41年に朝日新聞社の主催で世界一周欧米視察団に加わったときに知り合ったのだった。と、大正4年に岸田劉生の最初のパトロンとなった芝川照吉の場合とおなじく、東京郊外の早蕨幼稚園の誕生には、関西のパトロン文化が絡んでくるのも嬉しいのだった。


と、野村徳七の協力を得て、久留島武彦は明治43年5月5日に「お伽倶楽部附属私立早蕨幼稚園」の開園にこぎつけた。トレードマークの犬張子は、久留島が戌年であることとと自身の玩具蒐集(コレクションのなかに犬張子がたくさんあった)とその保育方針であった「桃太郎主義」にちなんでいて、早蕨幼稚園という名称は、ミネ夫人がかつて明治天皇の女官〈さわらみの局〉の側女をしていたことから夫人の恩人の名にちなんで命名したもので、最初は「さわらみ」と呼んでいたものの、いつのまにか「さわらび」と呼び慣らされていったという。久留島が主幹をしていた『お伽倶楽部』に幼稚園の募集広告が出ていたものの、多くは口コミで評判が広がっていて、大正4年10月には代々木山谷に第二早蕨幼稚園が開園した次第(倉澤栄吉監修・後藤惣一著『大分県先哲叢書 久留島武彦』大分県教育委員会・2004年3月31日)。

 


石井鶴三《東京近郊の部 代々幡 日本風景版画第九集》大正8年、図録『開館30周年記念特別展 渋谷ユートピア 1900-1945』(渋谷区立松濤美術館、2011年発行)より。瀬尾典昭氏による解説によると、劉生の切通し風景の左側の白塀の旧土佐藩山内邸の広大な敷地から河骨川が流れていたという。その河骨川を描いた石井鶴三の版画は、戸板康二の代々木山谷在住と同時期の風景である。大正元年に『尋常小学唱歌(四)』に発表された文部省唱歌、高野辰之作曲・岡野貞一作詞「春の小川」で歌われた河骨川。大正8年、3歳児の戸板康二は、こんな感じに郊外の道をお父さんやお母さんと一緒にちょこまかと歩いていたのかもしれない。

 

上笙一郎・山崎朋子『日本の幼稚園 幼児教育の歴史』によると、東洋幼稚園とともに早蕨幼稚園も空襲で焼けてしまい、資料は皆無に近かったという。そんななか同書では、生田葵著『お話の久留島先生』(相模書房、昭和14年12月)からの引用を補完するかたちで、明治45年に青山隠田の早蕨幼稚園を卒園した細川ちか子の談話が紹介されていて、たいへん興味深い。同書には代々木山谷の分園については特に言及はないのだけれど、青山隠田と同じように、犬張子のワッペンがトレードマークの「桃太郎主義」の教育方針だったのは確実だから、おおよその雰囲気は想像できる。と、明治43年に青山隠田、大正4年に代々木山谷で順調に運営し、明治から戦前昭和にかけての幼児教育を担ってきた早蕨幼稚園であったけれども、昭和19年4月30に、園児疎開令により閉鎖され、その歴史の幕を閉じることとなった。それから十数年後、昭和37年3月3日付けの「朝日新聞」に「さわらび幼稚園同窓会」の記事が出ている。有志の呼びかけで、戦後初めて早蕨幼稚園の同窓会が開かれて、細川ちか子をはじめ、五島昇(東急社長)、黒川光朝(虎屋社長)、津村重舎(津村順天堂社長)、岡本太郎といった錚々たる顔ぶれが集まった。大正8年のほんの一時期通って翌年上海に渡った戸板康二は残念ながら卒業はしていないのだけれども、戸板さんもこの記事を興味深く見たのではないかなと思う。

 


桑原住雄『東京美術散歩』角川新書184(角川書店、昭和39年4月30日)に掲載の、かつて右脇に第二早蕨幼稚園があった切通しの坂の昭和38年頃の写真。当時の著者は東京新聞文化部の記者。「東京新聞」昭和37年9月から12日まで「東京美術散歩」を計39回連載。本書は10篇増補した上に、新聞には掲載されていない現場写真が付されて、戸板康二の『芝居名所一幕見 舞台の上の東京』の近代絵画版の趣きの本となり、本書は、東京オリンピックを間近に控えて変貌のまっただなかにある東京を記録している点でも好著である。この時期の切通しの坂は、左側の石垣の塀に劉生当時の雰囲気が残っている。絵の右側の小さな椎の木が写真の頃は大木になっている。しかし、その大木は現在は存在しない。

 

 

大正8年の束の間の代々木山谷居住時に、3歳児の戸板康二が通っていた早蕨幼稚園の分園は、上掲の昭和16年時の地図にあるように、大正4年の開園時から切通しの坂に面していたのか、途中からこの地に移転したのか、今のところは詳らかではない。しかし、代々木山谷の地に早蕨幼稚園の分園が開園したのは、劉生の切通し風景とおなじ大正4年のことであることは確かであり、さらに、大正3年4月に麗子が生まれてお父さんになった明治24年生まれの岸田劉生は当時24歳で、戸板康二のお父さん・山口三郎の正確な生年月日を把握していないのだけれど、所帯をもった大正3年のときは23歳だったとのことだから、岸田劉生とはたぶん同年齢なのだった。劉生と山口三郎は「たぶん」だけれど、岸田麗子と戸板康二が1歳違いなのは明らかな事実であるわけで、ともかくも親子ともども同世代、芸術家と俸給生活者というふうに職業は異なれど、東京下町育ちの若いお父さんが、大正初期の震災前の郊外の代々木山谷の地で一家の家長として家庭生活を営んでいたという点ではまったく同じなのだった。さらに、岸田劉生は芝居見物者(大正9年以降に熱中)としても没後に刊行された『演劇美論』(刀江書院・昭和5年4月)という面白い仕事があり、戸板康二の物心つくころの歌舞伎を思ううえでも欠かせない人物でもある。……という次第で、わたしのなかの勝手な思い込みの数々の「魅惑」の象徴ともいえる、劉生の切通しの坂に行ってみたい! と、千代通りを西参道に向かって大急ぎで直進し、高速道路の高架の下の横断歩道を渡った先が「切通しの坂」の坂上。その坂上に立った瞬間は、万感胸に迫るものがあった。

 


そして、ゆっくりと、その急な坂道をくだって、今度は坂下から坂上をのぞむ、すなわち、劉生と同じ構図で坂道をのぞんだ瞬間は、さらに万感胸に迫るものがあった。

 


岸田劉生《門と草と道》大正5年6月7日、図録《生誕110年 岸田劉生展》(2001年発行)より。岸田劉生は大正2年10月に代々木山谷117に移住し、大正4年4月に代々木山谷129に移る。その後、大正5年7月に荏原郡駒沢村新町に転地し、大正6年2月から鵠沼時代が始まる。劉生の代々木山谷時代は大正2年10月から大正5年7月までであり、決して長いとはいえないけれども、麗子が生まれ、「草土社風」と呼ばれる劉生独自の風景画の世界を展開し、家庭的にも芸術的にも充実していた時期だった。この《門と草と道》も昔から大好き。

 


劉生の描いた切通しの坂に面して、戦前昭和に第二早蕨幼稚園があった。

 


その場所は現在は特に絵にはならないような風景ではあるけれども、大地の起伏に往時がしのばれる感じもする。次は明治神宮をめざして、この道を歩いてゆく。

 


やがて、参宮橋駅にほど近い小田急線の線路にゆきあたる。線路沿いの素敵な路地によろこぶ。線路を越えて、明治神宮の「山谷口」を目指してゆくと、その手前には、昭和16年の地図とおなじように「東京乗馬倶楽部」があって嬉しかった。馬がポカポカ走っているのを遠くから眺めて、しばし和む。一方、昭和16年の地図に同じく表示されている「軍用動物慰霊碑」と「旅順白襷隊忠魂塔」の方はあいにく見当たらないようであった。

 


と、「山谷口」から明治神宮の境内に入り、大江新太郎設計の大正10年竣工の宝物殿を柵越しに眺める。建物の背後には、本日の散歩のスタート地点である代々木駅前で見た NTTドコモビルの塔が小さく見える。

 


浅野竹二《ピクニック》昭和4年頃、図録『イメージの叫び パワー・オブ・創作木版画』(府中市美術館、2012年)より。宝物殿の手前に広がる芝生に閉園の6時半まで思う存分くつろいで、ピクニック気分満喫。たいへん静かな日常と隔絶した時間が至福だった。というわけで、代々木とは特に関係がないのだけれども、ここでは「イメージ画像」として浅野竹二の《ピクニック》。浅野竹二は過日の府中市美術館での展覧会で好きだった版画家の一人。

 

 

閉園の6時半に明治神宮を出て、今度は小田急線の線路に沿って新宿方向へ、「代々木山谷」を歩いてゆく。偶然、「菱田春草終焉の地」の碑の前を通りかかって、嬉しかった。去年年末に松濤美術館で見た《渋谷ユートピア 1900-1945》展のはじまりは、明治44年9月にこの地に没した菱田春草だったなあと、大地の起伏をたのしみながら、代々木山谷の芸術家の交錯と大正8年の束の間の戸板康二一家の代々木山谷時代に思いを馳せたところで、日没。6月末日の夕方は穏やかなよいお天気の絶好の散歩日和だった。よい1日だった。

 


図録『開館30周年記念特別展 渋谷ユートピア 1900-1945』(渋谷区立松濤美術館、2011年発行)に、《明治末の代々木初台風景》として掲載されている写真(白根記念渋谷区郷土博物館・文学館写真提供)。