戸板康二が露伴全集の月報に寄せた内田誠の回想のこと。


古書展で数百円で見かけるとなんとなく買ってしまうもののひとつに、岩波の『露伴全集』の端本がある。ちっとも読みこなせていないのに、たまに買うたびにいつも拾い読みをそこそこたのしんでいるのだったが、さて先日、ずいぶんひさびさにふらっと露伴全集の端本を買った。

 


『露伴全集 附録』(岩波書店、1980年2月19日)。「昭和二十四年版露伴全集月報抄」「同時代の批評・紹介」「参考文献」の三部構成。谷澤永一、肥田皓三、浦西和彦による共編で、第一部の「月報抄」は肥田皓三の原案に基づき、《その後に著作として纏められ別のかたちで閲読可能となっている文章を省き、現在では一般の目に触れにくくなっていて、且つ露伴の各側面を出来るだけ多様に照らしだす諸文》を選び出したとのこと。


と、その「著作として纏められ別のかたちで閲読可能」となっていない戸板康二の文章をこの『露伴全集 附録』で発見したときの歓喜といったら! と、もう何年も前に戸板さんのページだけコピーしていたのだけれども、いざ入手してみると、本全体がすこぶるおもしろくて、露伴全集をあまり読みこんでいなくても持っていたくなるような書誌的に惚れ惚れするような出来映え。露伴を語る人びとからつながる本読みの魅惑のようなものが通底していて、こんな感じに本を読んでいきたいなとウキウキしてくる感じ。


内田誠の亡くなった翌年の昭和31年に、戸板康二は『露伴全集』の月報に「名刺の裏の文字」というタイトルの文章を寄稿している(どの巻の第何号の月報かはいまだ未確認… ※2017年7月追記:戸板康二「名刺の裏の文字」は『露伴全集』第2期第14回配本附録「露伴全集月報 第37号」昭和31年8月)に寄稿された。内田誠の一周忌というタイミングで書かれた文章ということになる。)。明治製菓宣伝部に勤務時の昭和17年5月に直属の上司の内田誠からもらった幸田露伴の筆跡が書かれた名刺を大切に架蔵しているということを綴っていて、明治製菓宣伝部時代および内田誠のことを語っている文章としてとても貴重。そして、まさしく「露伴の各側面を出来るだけ多様に照らしだす」文章でもある。


戸板康二の「名刺の裏の文字」は、

 幸田露伴先生が鉛筆で名刺の裏に書かれた名刺の覚え書を、大切にしまつてゐる。
 それは去年の夏亡くなられた内田誠さんからいただいたものである。内田さんが昭和十七年の五月二十七日に、小石川の蝸牛庵に上つたとき、斑鳩寺の話から、鳥の名前について、先生が話されたとき、文字にして示されたものらしい。

 

 「左傳」の昭公十六か十七の[エン]子来朝のくだりに、孔子が五鳥、五雉、九扈を問うたとあつて、それはみな鳥の種類である。五鳥は伯趙氏、玄鳥氏、青鳥氏、丹鳥氏、鳳凰氏である。先生はそう説かれながら、今ここにあげた文字を、内田さんがさし出した名刺の裏に書きとめて渡されたのだつた。
 私はその頃、内田さんの部屋に勤め先をもつてゐたので、幸田先生の所から帰つて来た内田さんから、いつも話のお裾分けにあづかつてゐたものだが、この日は、その名刺を、「決つてなくしてはいけないよ」といふ、念の入つたことわりを添へて、贈られたわけであつた。

 というふうにしてはじまり、

 さういふ内田さんは、小石川を訪れた翌日は、仕事あとまはしで、先生の話にほぼ半日を費したものだが、なぜか、一度もつれて行つてあげようとはいはなかつた。もちろん、幸田先生のやうな方についてゆくといふやうなことが許されるとも思つてゐなかつた。
 幸田先生には、だからつひに、その謦咳に接せずじまひで、名刺の裏の文字だけを、私蔵してゐるに過ぎない。

というふうに締めくくられている。戸板康二は露伴に会ったことはなかった。「見た顔」(三田文学・昭和40年1月→『午後六時十五分』)のなかでも、「直接見なかった」人の一人として、木下杢太郎、斎藤茂吉、高浜虚子、菊池寛とともに、露伴の名前が挙がっている。


明治製菓宣伝部における戸板康二の上司であった内田誠宣伝部長は、昭和15年に『日本評論』の編集長をしていた下村亮一の紹介で露伴を訪れるようになり、のちに露伴の片言隻句を書きとめた『落穂抄 露伴先生に聞い話』という露伴文献を残した。と、その内田誠著『落穂抄』のことを知ったのは、『思い出す顔』の「『スヰート』と『三田文学』」の章の内田誠を語った文章のなかにまぎれこんでいる《内田さんものちに幸田露伴の家にかよって、むさぼるように話を聞き、「落穂抄」といういまは珍本になった本をこしらえたような人だから、桂舟翁にも会いたがった。》という何気ない一節がきっかけだったかとおもう。一度図書館で閲覧したあとで、やっと入手できたときはとても嬉しかった。戸板康二の「名刺の裏の文字」には、

率直にいつて、内田さんが幸田先生に対して示した質疑は、断片的偶発的であり、先生にとつてはかなり煩わしくもあつたのではないかと思ふ。しかしそれはそれとして、「落穂抄」の一冊も、先生を知るために、あつてもいいと思ふのだ。私の記憶では、内田さんが食物誌を計画し、砂糖の本朝渡来について調べてゐる時に、教へを乞うたのが、先生との結びつきだつたのではないかといふ気がする。それについては「沙糖」という大文章を贈られ、内田さんは狂喜したのだつた。

という一節があるのだけれども、「断片的偶発的」だからこその親しみやすさが『落穂抄』の魅力でもある。製菓会社に勤める実業家でありながら文人に憧れ常に深い敬意を払ってい内田水中亭であったけれども、自身は実業家という立ち位置に終世愛着を失わなかった。そんな内田誠が露伴から引き出した話には、お菓子にまつわる話題が多いのも楽しいところ。たとえば、露伴が鬼貫の「忘れては精進落るカステイラ」という句を示すところなんて大好き。

 


内田誠著『落穂抄 露伴先生に聞いた話』(青山書院・昭和23年11月25日)。内田誠による「序」は、

小石川の蝸牛庵の門に出入しだしたのは昭和十五年頃のことと思ふ。今から八年前のことである。最初のうちこそ固くなつてゐたが、先生の暑い慈愛に狎れるに従つて、平気な顔をして先生の前に座り、いつまでも動かないやうになつた。事実、先生のお話は世上の總ゆる物語を絶して面白かつた。

というふうにはじまり、《昭和十六年の二月から、お話を聞いただけで、忘れてしまうのもあまり勿体なき次第ゆえ、主として学問的ならざる平易な俗談を書きとめて置くことにした。》というノートを整理して、本書が編まれた。ノートのメモを公開した「落穂抄」、露伴の印象をメモ風に記した「落穂抄 補遺」、内田誠による露伴にまつわる短文集「露伴先生」の3本立ての最後に、露伴が内田誠のために書き下ろした考証随筆「沙糖」を巻末に収める。ちなみに、先の戸板康二の「名刺の裏の文字」にある挿話は、「落穂抄」全120項目のうちの61番目(p54-55)で伺うこととができる。


露伴の座談というと、いつも根岸派派の文人たちの回想がたのしいのだったが、内田誠の『落穂抄』では、たとえば幸堂得知が登場する以下のくだりがある。

 当時恐れたのは大槻如電の降達節と、幸堂得知の初代團十郎の声色といふものだつた。降達の方はそれでも歌を種彦あたりのものかなにかでおぼえ、聞きかじりの一寸した、何かの中に残つてゐる、それらしい節かなんかをもじつたのだらうからまだよいが、初代團十郎ときては大変だつた。どこかの席上で、幸堂先生は芝居がお好きなのだから、声色の一つ位はおやりでせう、とすゝめられたので腹を立て、何がなんだか訳の分からぬことを大声で言ひ出し、どうだ初代團十郎の声色はと威張つたのであつた。もつとも幸堂は美声であつた。幸堂は三井にゐて、北海道それがしの土地で支店長をしてゐたのであつたが俳諧ばかり店員の間にはやらし、免職をされてしまつた。彼は坐つてさへゐれば、髭が長く、眼が大きくて、立派な顔であつたが、立つと貧弱であつたから、これがほんとうの龍頭蛇尾といふであらうと、悪る口をきく人がゐた。(p26-27)

そして、『演芸画報・人物誌』の「幸堂得知」の項には、

 得知は劇評家の桟敷の一角にすわると、観客はいっせいに注目した。『助六』の意休のやうなひげが、その特色だったからである。このひげは、剃りたくても血が走るので剃れないと、鈴木春浦に語ったという。
 もっとも、立ち上ると身長が低いので、ひげと体格が甚しくアンバランスだったともいう。人評して、立ち上っ得知翁を「竜頭蛇尾」と称した。
 客席で興至ると、声色を使った。初代團十郎のだという。「似ていなくても、誰にもわかりっこない」と笑っていた。

と、こんなくだりがあるのだった。『落穂抄』を参照して盛り込んだエピソードなのかも。


『日本近代文学大事典』(講談社、昭和52年11月)の「内田誠」の項は、高橋新太郎の執筆で、ここに《師の俗語平談をたんねんに書きとめた『落穂抄 露伴先生に聞いた話』があり、最晩年の謦咳を伝えている。》という一節がある。明治製菓や戸板康二といった関係は知られていなくても、内田誠は、露伴文献を残した人物として後世に名を残しているという面があるのかもしれない。

 

 

戸板康二が『露伴全集』の月報に寄せた「名刺の裏の文字」でもっとも興味深いのは、蝸牛庵の露伴を訪れるようになって以降の内田誠について、それまで《書いた文章から見ても典型的なディレッタントであり、享楽主義者だつた》のがガラリと変わって、

 あの二三年といふもの、内田さんはたしかにものに憑かれでもしたやうで、今までの自分の生活態度がまちがつてゐた、書いたものなど恥しくて読み返す気がしない、趣味人などといはれたつて木の端ほどの値もないではないか、といふやうなことを始終いつてられた。もつとも、それが周囲にも及び、君たちはどうして学問がないのだなどといひ出すので、仕事の面だけで接してゐる一般の人たちは、辟易してゐたほどだが、とにかく内田誠といふ人格に対して、幸田先生があれほど大きな影響を与え、齢五十を過ぎた人の人生観をさへ変更させて行つた経過を、そばで見てゐたことだけで、私には少からぬ感慨があるわけだ。

というくだり。昭和15年に蝸牛庵に行くようになった翌年には、佐々木茂索、宮田重雄、益田義信と、奈良京洛を古美術行脚したのを機に、古美術に夢中になり、関西を頻繁に訪問するようになっていた(宮田重雄「水中亭菩薩」、『春蘭』昭和30年10月《水中亭追悼》所収)。

 


内田誠『遊魚集』(小山書店、昭和16年3月20日)。食べ物に関する短文を集めた「食物誌」とそれまで雑誌に寄稿した随筆をまとめた「遊魚集」の二部構成。全456ページのうち、155ページまでが「食物誌」となっている。函の意匠は木村荘八、本体の画は梅原龍三郎、「食物誌」には宮田重雄による挿絵がふんだんにほどこされている。


戸板康二の明治製菓勤めが満2年を迎えようとするころに刊行された本書は、直属の部下の戸板康二が編集の実務を担った。『思い出す顔』の「『スヰート』と『三田文学』」では《内田さんの「遊魚集」という本を編集したときに……》と、さらっと回想されているにとどまっているのだけれども、大場白水郎の俳句雑誌『春蘭』第1巻第3号(昭和30年10月1日発行)の《水中亭追悼号》に寄稿の「内田さんのこと」では、

 僕が明菓に入つて間もなく、白水社版で、ルナールの「博物誌」が出たが、それをもぢつて「食物誌」を書かうといふことになつた。凝りに凝つて、食物文献を渉猟、倦む所がない。その所産は、やがて「遊魚集」に宮田重雄さんの画を添へて、入つたのである。

というふうにより詳しい回想がある。岸田國士の訳でルナアルの『博物誌』が刊行されたのは、昭和15年3月であった。ちょうど1年後に、内田誠の『遊魚集』が戸板康二の下働きにより、久保田万太郎の紹介によることは確実の小山書店を版元に刊行された次第であった。

 

 

『遊魚集』所収の「食物誌」にほどこされた宮田重雄の挿絵はとってもチャーミングで、まさしくルナールの『博物誌』のボナールの向こうを張っているかのよう。昭和15年3月刊の白水社の『博物誌』の初版本(特装版もある)を手にとると、いかに内田誠がこの本の真似をしたかがよくわかる。そして、暁星出身のフランス好きの戸板青年にとっても、ルナールの『博物誌』の向こうを張って、内田水中亭の「食物誌」を編纂するということはさぞかしワクワクするような体験であったことだろうと思う。内田誠が昭和15年に露伴を訪れるようになったのは、そんな「食物誌」探索の一環でもあったのだった。

 


内田誠『いかるがの巣』(石原求龍堂、昭和18年6月20日)。表紙・扉題字:幸田露伴。エッセイ集としては、『遊魚集』についで5冊目となる本書で、内田誠は自身の著書で露伴の題字をもらうまでになっていた。そして、『遊魚集』とはがらっと趣きが異なる簡素な装釘。戦時下ということもあったが、内田誠の心境の変化を体現している感じ。戸板康二は前掲の「内田さんのこと」で、

……日本評論の下村氏につれられて、幸田露伴先生の書斎を訪れるやうになつた。今まで知らなかつた世界に内田さんは入つて、それにすつかりとり憑かれてしまつたのだ。書くものも、変つたのである。僕は、ちよつと淋しい気がした。内田さんのユニークな特色は、もう以後の随筆からは、見ることが出来なかつた。内田さんに、率直に僕はさういつたが、憐むやうに僕を見て、苦笑してゐた。

と、当時のとまどいについて、率直に語っている。

 


昭和15年という年は、内田誠の「食物誌」を収録する『遊魚集』の編纂作業にいそしみ、いとう句会の機関誌『春泥』が復活し、その編集作業にもいそしみ、自身がのちに回想するように、宣伝部の勤務のみならず、内田誠の私設秘書的な仕事に没頭した一年であった。明治製菓入社2年目のこの頃が、戸板康二が内田誠に心酔していたピークであった。昭和10年に弱冠二十歳で『三田文学』誌上に登場以降、劇評と俳優論を寄稿していた戸板康二は、『三田文学』誌上で「三田劇談会」が始まった翌年の昭和14年、すなわち明治製菓に入社した昭和14年から、「演劇雑記帳」というエッセイによる歌舞伎評論のシリーズを試みるようになった(昭和14年8月号の「歌舞伎雑記帳 素描/時間/人柄」がその最初で、「演劇雑記帳」シリーズは断続的に昭和17年まで続く。)。この「演劇雑記帳」については、のちに《内田氏のまねをした随筆を近年スクラップブックで読んで、「やれやれ」と思ったが、さすがに今は、あんな文章は書かずにいる。》というふうに回想していたりもする(「若き日の私」産経新聞・昭和61年2月→『女形余情』)。戦後に暮しの手帖社から書き下ろされた『歌舞伎への招待』正続へと開花してゆく、エッセイで歌舞伎を書くというスタイルは、内田誠の真似をして『三田文学』で試みた「演劇雑記帳」がその手習いとなっているのだった。その『歌舞伎への招待』ですら「若書きだから」という理由で、生前の戸板さんは再刊を拒んでいたのであったけれども。

 

 

昭和15年に内田誠が念願の蝸牛庵に出入りできるようになったのは、昭和10年から『日本評論』の編集長をしていて、昭和13年6月に雑誌の仕事のため初めて露伴を訪れた下村亮一(明治43年生まれ)に紹介を頼んだことによる(下村は昭和26年以降は経済往来社の社長)。昭和15年当時、内田誠は47歳、下村亮一は30歳。その当時のことが、下村亮一著『晩年の露伴』(経済往来社、昭和54年5月1日)所収「露伴と『甘味』」に詳細に回想されている。

 そのころ、私の会社は、京橋の大根河岸にあったが、直ぐ近くの京橋交叉点際に、明治製菓の本社があった。そこの宣伝部長だか、課長に内田誠がいた。この人の親父は、たしか台湾総督府にいた人で、砂糖の栽培には関係があったように記憶しているが、そんな縁故から、息子が製菓会社にはいったのではないかと聞いている。親父は希覯本の蒐集家としては有名で、内田文庫というのが、そのころあったと記憶している。
 内田誠はそれほどうまい随筆家ではなかったが、本人はいたって生真面目で、会社員というよりも文士を気取る人であった。この内田誠から突然に、芝山内の日本料亭に招待を受けた。たしか二度ほどつづけざまであったと思う。ていのよい買収のようなものだが、私は彼の申出でを承知してしまった。内田の用件というのは、露伴先生に会わせて欲しいということである。
 どうひいき目に考えてみても、一人前の文人とはいい難い。いわば一介の会社員であるに過ぎない。だがとりえをさぐれば、実に律儀である。育ちもよいから人を騙すようなところは微塵もない。その点は安心できる人である。いわば私と同様の八公だと思えばよいではないか、というのが、私の結論だった。(中略)
 最初は、ずいぶんぎこちない会見であった。人のいい露伴は、同道した内田誠を、こころよく引見してくれた。内田は大きなからだを石のように堅くし、こちこちになって、碌に口もきけないようであったが、それは、彼にとっては最大の感激で、きわめて当然のことであったと思う。
 それでも用件をいわずに辞去するわけにもいかぬがと思っていると、さすがに巧い口実をつくっていた。
「先生、砂糖についての語源を、お教え願えればありがたいと思うのです。これを私共の会社の発行物にのせさえて頂きたいと存じまして」
 と、なかなか心得ていた。
 露伴も、
「そのうちに」
と、軽く答え、やわらかく彼を遇した。
 それから後の内田誠の自信が大変である。今まで彼の知った文人といえば、久保田万太郎が最高の師匠であった。当時、文士といえば、今とちがって、それほど楽な暮しではなく、いい酒も、いい料理も、そう誰もがやれるというものではない。そこへいくと、内田誠は小財閥だったから、文士に御馳走するぐらいは屁でもない。彼自身はいける口ではなかったが、それでも御相手は出来た。いわば、いい御道楽の、文士付き合いと思えば間違いない。
 それが、大露伴にお目通り出来たのだから、会う奴をつかまえては吹聴に及ぶ。きかされる方の文士はたまったものではない。久保田万太郎など、下村の奴、とんでもない奴を、露伴先生のところに案内したもんだ、と嘆く声が伝わって来た。しかし、誰も怒っているのではない。大先生のところに、八公がまた一匹の同僚を同道したぐらいの、御愛嬌のたねをふりまいたぐらいのことであった。
 その後、また彼を伴って、露伴をたずねた際、露伴は、「沙糖」と題した、毛筆の書き物を彼に渡した。それほど長いものではなかったと記憶している。その後は、私も戦地に出ることが多くなり、自然に、内田もひとりで露伴家を訪れるようなったと思う。……

 というふうに、下村亮一は内田誠と露伴について、揶揄気味に証言している。『句会で会った人』の「いとう句会」で、戸板康二は《作家やエッセイストたちとつきあっている時、内田さんが、わざと自分を三枚目にしていた傾向は、たしかにある。》というふうに書いていたことを鮮やかに思い出させるのであった。


下村亮一は、《大森に住んでいた内田は大磯に疎開し、国民服姿で東京に出てくるところを、よく東京駅で会った。しかし、戦争でうちひしがれ、かつての優雅な彼の面影はもう去っていた。その後は露伴について語ることもなく別れてしまった。》という一節で、内田誠の回想を打ち切っている。しかし、内田誠は戦争でうちひしがれてそのまま終わってしまったというわけではなく、敗戦後の昭和21年に『雑談』の同人になり、その創刊号の同人雑記に、

大磯から東京へ通ふ汽車の中の往復三時間といふものを、毎日もて余して、岩波文庫のヘンリイライクロフトの私記といふものを愛読し、美しいイギリスの田園やなつかしい煤煙のロンドンを思ひだしたりしながら、これが本格の随筆といふものであらうと思つた。あの本のなかに「――この地上を暗くする罪悪悪行の大部分は心を平静に保つことの出来ない人達から生れるものである。そして人類を破滅から救ふ福祉の大部分は思慮深い静穏な生活から来るものである。日を追うて世界は騒がしくなつて行くが、人は知らず自分はこの高まり行く喧噪の中に身を投じまい。――」といふ一節があるが、随筆はさういふ心境から生れたものであらねばならない。そこにはゆたかな空想や思想があり、美しい詩も存在してゐた。比類のない卓越した感覚や見解が示され、深い含蓄のある知識が語られているのであつた。

と綴っていたりもする。戦前の優雅な生活はのぞめなくなったにしても、昭和26年5月に発病して病床の人となるまでは、それなりに趣味人生活をたのしんでいた内田水中亭であったのだと思う。明治製菓宣伝部に図案家として勤めていた牛島肇の昭和25年の日記を見ると、入院中の牛島肇にユトリロやボナールの画集を貸すといった気配りをみせている内田誠の姿が、また、探偵小説に夢中になっている内田誠の姿がある。

 


『雑談』創刊号(昭和21年5月1日発行)。題簽:安田靱彦。この表紙については、編集兼発行人の高田保の同人雑記に《ある立派なお寺のありがたいお誕生仏の拓本で、この拓をしたのがある有名な日本画の大家で、それがめぐりめぐつてある人の手に落ちて、ゆくりなくもこゝに……》とある。この『雑談』創刊号の巻頭に、内田誠の附記とともに、蝸牛庵に通っているうちに内田誠が露伴より得た「沙糖」が掲載されている。

 


露伴は昭和22年7月30日没。その1年後に刊行された、内田誠著『落穂抄 露伴先生に聞いた話』(青山書院・昭和23年11月25日)の巻末に「沙糖」が収録されるとともに、その口絵には露伴の生原稿の写真が掲載されている。この生原稿は今どこにあるのだろうか。