戸板康二と宝塚歌劇:『ベルサイユのばら』とステファン人形(前篇)

 

初めて宝塚を見たのは2006年3月、東京宝塚劇場における星組公演『ベルサイユのばら フェルゼンとマリー・アントワネット編』だった。戸板康二ファンであるからには一度は宝塚を見ておかなくてはと数年来ぼんやり思っていたのと、2005年夏に初めてじっくりと京阪神を遊覧したことで阪急電車およびいわゆる阪神間モダニズムに興味津々になっていたのと、庄野潤三の随筆における宝塚観劇のいかにも楽しげな筆致に「いいなあ」といつもほんわかとした気分になっていたのと……といった要因が漠然と合わさって、いよいよ宝塚を見たい! と立ち上がったところで遭遇したのが、「マリー・アントワネット生誕250年」と銘打った『ベルばら』公演だった。短絡的で申し訳ないけれども、それまで宝塚に縁のない人生を送ってきた身にとっては、宝塚といえば「ベルばら」、宝塚といえば「愛、それは~♪」であったので、初宝塚の絶好の機会だ! と俄然張り切ったのであったが、案の定チケットは入手困難、「ベルばら」おそるべし……と早々に諦めたところで、さる方がチケットをお譲りくださり、晴れて東京宝塚劇場に足を踏み入れることができて、こんなに嬉しいことはなかった。そして、ひとたび劇場に足を踏み入れてしまえば、それまで宝塚に縁のない人生を送っていたのが嘘みたい。以来、東京宝塚劇場で観劇を時折楽しむという歳月が続いて、今日にいたっている。宝塚を見るのは年に何度かだけれども、それでも、宝塚のない人生なんて! と心から思う。


と、2006年3月某日の初宝塚見物のとき、『ベルサイユのばら フェルゼンとマリー・アントワネット編』が「愛、それは~♪」の旋律とともにその幕があき、序奏のあとで本編に入り、14歳のアントワネットが「ステファン」という名の人形を携えて舞台に登場したとたん、「キャー!」と心のなかで大絶叫だった。実際に『ベルばら』の舞台を見るまですっかり忘れていたのだったけれども、戸板さんがなにかのエッセイで、『ベルばら』に登場する人形の名前が「ステファン」なのは、自作の戯曲『マリー・アントワネット』のなかに登場するエピソードを植田紳爾が『ベルばら』の脚色に取り入れたから……ということを嬉々と書いていたことが、いざ舞台を目の当たりにしたらまざまざと記憶によみがえってきて、いつまでもジーン、21世紀の現在も『ベルばら』の舞台には戸板康二ゆかりの「ステファン人形」が登場しているのだなあといつまでもジーンだった。戸板康二ファンにとって、初めて見る宝塚が「ステファン人形」の登場する『ベルばら』であったことは、つくづく幸福なことであった。

 

 


戸板康二『五月のリサイタル』(三月書房、昭和52年4月25日)。扉・カバー銅版画:東逸子。人後に落ちない宝塚ファンの戸板康二であるが、折々のエッセイで何度も宝塚にちなむ思い出や交友は書いているものの、自身の演劇評論で直接宝塚を論じたことは皆無。そんななかめずらしく宝塚についてまとめて筆を執っているのが、『歌劇』に昭和51年1月から12月までの1年間連載した「宝塚雑記」で、本書にその12篇が収録されている(書名の「五月のリサイタル」は昭和51年7月号の「宝塚雑記」のタイトルで、同年5月25日に東京宝塚劇場で「宝塚を歌う」と題した葦原邦子のリサイタルについて綴っている文章)。


と、その「宝塚雑記」のなかに「ステファンの人形」という文章があり、ここに宝塚版『ベルサイユのばら』における「ステファン」という名の人形について、詳しく綴られている。

 「ベルサイユのばら」が大当りに当って、ことしは、第三部が引き続き企画されている。宝塚が「忠臣蔵」ともいうべき財産を持ったわけである、
 この演目がまだプランの段階だったころ、東京宝塚劇場の大河内支配人から話を聞き、はじめて、その材料になった池田理代子さんの劇画が、大変な人気を持っているのを知った。

という書き出しで始まるこの文章は、『歌劇』昭和51年2月号に掲載されている。宝塚歌劇における『ベルサイユのばら』上演は、一大ブームを巻き起こした昭和49年から昭和51年にかけての「昭和ベルばら」、1989年から1991年にかけての「平成ベルばら」、「2001年版ベルばら」、「2006年版ベルばら」、そして現在上演中の2013年版……というふうに、大きく5つのブロックに分けられる。渡辺保・高泉淳子著『昭和演劇大全集』(平凡社、2012年11月22日)にある、当時東宝に在籍中だった渡辺保氏の談話によると「関係者はみんな、この劇化には手探りだった」とのことで、そんな「手探り」の『ベルサイユのばら』は昭和49年に初演されてみたら、あれよあれよの大ヒットとなり、引き続き、昭和50年、昭和51年……と上演されていった、その「昭和ベルばら」のまっただなかの文章である。


戸板康二は昭和49年、『ベルばら』が初演されたとき、《第一部を宝塚でまず見て、やがて東京でも見た。》という。その9月某日の宝塚大劇場で戸板さんはさっそく、5年前に書いた自身の戯曲『マリー・アントワネット』に登場させたステファンという名の人形が、実際に宝塚の舞台に登場しているのを目の当たりにしたのであった。



『ベルばら』初演に先立つこと5年前、「ステファンの人形」が登場する戸板康二による戯曲『マリー・アントワネット』は、「新演劇人クラブ・マールイ」の第5回公演として昭和44年1月29日から2月7日まで新宿西口の朝日生命ホールで上演された。昭和41年9月27日に結成された「新演劇人クラブ・マールイ」の当初から同人だった戸板康二の原作による松井須磨子の評伝劇『女優の愛と死』が、霜川遠志の脚色によりマールイ第2回公演として昭和42年11月に紀伊國屋ホールで上演、芸術祭受賞を受けて翌年43年6月に国立小劇場で再演されたのが端緒となり、ヒロインを演じた丹阿弥谷津子の依頼により執筆・上演されたのが『マリー・アントワネット』であり、これが劇作家および演出家として、戸板康二が舞台制作に携わった最初であった。矢野誠一著『戸板康二の歳月』(文藝春秋・1996年6月25日→ちくま文庫・2008年9月10日)に、《実現したのはプロデューサー役を買って出た金子信雄の尽力によるものだった》とある(ちくま文庫、p129)。

 

 


『マールイ No.5 戸板康二作・演出 マリー・アントワネット』(昭和44年1月29日発行)の表紙、写真撮影:後藤勝一。作・演出:戸板康二、演出補:天野二郎、美術:山本忠敬、照明:穴沢喜美男、音楽:矢代秋雄、効果:中村準一、振付:遠藤善久、舞台監督:酒井洋子、衣裳:青木英夫、出演:丹阿弥谷津子、南悠子、池田一臣、佐々木功、西田昭市、加代キミ子、七尾伶子、臼井正明、金子信雄。プログラムには、岩田豊雄「戸板君登場」、戸板康二「体験」、尾崎宏次「戸板康二のこと」、野口久光「ユーコさんのデュバリー」、伊馬春部「臼井正明・七尾伶子夫妻のこと」等の寄稿があり、充実の誌面。

 

 


《南悠子・丹阿彌谷津子の呼吸はぴったり……マールイ稽古場》、上掲のマールイプログラム、「マリー・アントワネット 舞台稽古スナップ」より。《宝塚歌劇団の女性たちは、大先輩の天津乙女さんから、現役のスターまで、数えきれないほど知っているが、いちばん長く深いつきあいは、南悠子さんであろう》と、『わが交遊記』(三月書房、昭和55年8月25日)に書く戸板さんにとって、初の自作戯曲上演に南悠子が客演したということはさぞかし嬉しかったことだろう。南悠子はかねてより金子信雄とも親しく、《悠子さんに演じてもらうという機縁は、金子君がよく知っていたおかげで生まれた。》という。マールイの稽古場は、久保田万太郎の家の代々の墓のある本郷赤門前の喜福寺の《……先生が亡くなられたあと、江戸時代からの本堂がこわされ、そのあとに、赤門アビタシオンという十階建の大建築が建ち、本堂も洋風形式に改まって、西側に竣工した。》、その「赤門アビタシオン」の2階にあった(「久保田万太郎遺跡」(『三田評論』昭和44年7月→『五月のリサイタル』))。

 


その自作の戯曲『マリー・アントワネット』について、戸板康二は「ステファンの人形」(『歌劇』昭和51年2月号→『五月のリサイタル』)に以下のように書いている。

 ぼくが「マリー・アントワネット」を書いた時、序幕のBの王妃の部屋の場面で、王妃にこんなセリフをいわせた。
「お母様から、ウィーンを立つ前にいわれましたの。ラインを渡ったら、お前はもうオーストリアの人間ではないのだって」「ラインの中洲で、私は、ウィーンから身につけて来たものは残らずぬぎすてて、新しい下着、新しい肌着を着せられました」「フランス絹のシュミーズを、パリ仕立てのペティコートを、リヨンで編んだストッキングを、着せられたんです。私、あの島で、ウィーンの思い出を全部、すてて来ました」「でも、猫のルネと、サン・マリーのお守りと、ステファンと呼んでいる男の子の人形と、この三つだけは、持ってきたのだわ」
 マリー・アントワネットが、ウィーンからパリまでたった三つのものだけ、大切に持って行ったという史実はない。
 ただ、ここでは、その連れて来た猫が病気で食欲がないのを案じている女官との会話の中で、猫のほかに、マリア様のお守りと、何か人形を持って行ったことにしたいと思って、書いたわけである。そして、「ステファンと呼んでいる男の子」というのは、この劇を書くのにいろいろ役に立った本の著者、ステファン・ツワイク氏のステファンなのである。これはぼくの故人に対する挨拶のつもりだった。

 戸板康二が戯曲『マリー・アントワネット』を書く際に典拠したのは、ツワイクの『マリー・アントワネット』であり、《ほかにも「バルザック」「フーシェ」「歴史の決定的瞬間」などの名著があるが、特に「マリー・アントワネット」は、飛びぬけておもしろい。》とのことで、かねてよりの戸板さんの愛読書だった。



昭和44年に上演された自作の戯曲の『マリー・アントワネット』ではセリフにのみ登場するお人形が、昭和49年初演の『ベルばら』ではなんと実際に小道具として登場していて、戸板康二はびっくりだった。しかも名前は、戸板さんが勝手に名付けたステファン! 前述の「ステファンの人形」に、

 さて、第一部を宝塚で見ると、少女時代のマリー・アントワネットが、ステファンの人形を抱いて、お嫁に行くことになっている。作者の植田さんは、ぼくの脚本を多少参考にしたらしく、ちょうどいい小道具なので、この男の子の人形を使うことにしたのだろう。
 見ていて、ぼくは、何だか嬉しくなって、ニコニコした。或る役者あるいは或るスターの楽しい噂話を聞いた時、ぼくらの仲間のあいだで、その話にすこしずつ潤色が加わり、三、四人の口を経てゆくあいだに、たいへんおもしろい伝説に仕あがっていることが、よくある。
 その潤色の一部に、ぼくが付け加えたデータが、いつの間にか、演劇史的な事実になっていることがあったりすると、申しわけないと思う前に、何となく悪戯っ子の昔に帰ったような胸のときめきがあるものだ。
 ステファンの人形が、宝塚大劇場の舞台に出て来た時、ぼくが感じたのは、まさにそれと同じ嬉しさで、さっそくそれを、歌劇団のいく人かに、しゃべった。たまたま考えて劇に書き入れた人形を、美しい少女が抱いてあらわれたのだから、喜ぶのが当然であろう。

と、戸板さんは書いている。昭和44年に戸板康二自作の『マリー・アントワネット』のセリフに登場させたステファンという名のお人形は、宝塚歌劇の『ベルサイユのばら』には、昭和49年の初演時から今日までいかにして登場しているか、ざっと概観してみると……

 


マリア・テレジア(瑠璃豊美)と幼きアントワネット(北原千琴)、『歌劇』昭和49年11月号(第590号)所載、《ベルサイユのばら 11月の東京・芸術祭参加作品・月組公演》より。舞台は1770年4月21日シェーンブルン宮、ルイ十六世に嫁ぐべく、14歳のマリー・アントワネットがウィーンを出発する日。このあと、母マリア・テレジアの心配をよそに、お気に入りのステファンというお人形とともに白馬の馬車に乗って、アントワネットは「シャンシャン鈴の音軽やかに ガラスの馬車は雲を行く 私は夢の花嫁人形 行くはフランス憧れの国♪」という歌とともにフランスへ旅立ってゆく。


このあと舞台は18年後の春へと転換し、アントワネットは32歳になっている。ウィーン時代からからずっと付き添ってきたメルシー伯爵に王妃はこう語りかける。

「私は花咲き開く四月、オーストリアのシェーンブルンを後にして、ライン河の中州にある小さな離宮で、レースもリボンも十字架も、指輪も…下着も…ウィーンから身につけたものは全てフランスのものと取り替えられたのです。そう、私のたった一人の良き友達だったお人形さえ、今日からあなたはフランス王太子のお妃なのだからと、あなたに取り上げられてしまいましたね…」

メルシー伯爵は、「ああ。あのお人形…確かステファンとか申しましたな。私がお預かり致しております…」と言い、王妃は「まあッ。まだお持ちになの? 意地悪ね。返してくださいね」と応酬する。

 


王妃に脱獄をすすめるフェルゼン(大滝子)と「私はフランスの王妃です」と毅然と断頭台へ向かう決意を示すアントワネット(初風諄)、「宝塚グラフ」臨時増刊号『ベルサイユのばら特別号』(宝塚歌劇団出版部、昭和50年11月1日)より。


物語の幕開けに登場したステファン人形は、1793年、コンシェルジュリーの牢獄でふたたび登場する。近くにあるノートルダム寺院の鐘の音が淋しく響くなか、一人で髪をとかすアントワネット。ここに、最後の面会人として登場するのがかのメルシー伯爵。「これをお返しに参りました」とメルシー伯爵からステファン人形を受け取ったアントワネットは遠き昔の少女時代を回想し、メルシー伯爵の去ったあと、「私に残された仕事は、ただ立派に死ぬことだけね…」とつぶやく。そのあと、フェルゼンが登場し、上掲の場面となり、最後にステファン人形はフェルゼンに託されて、「愛それは~♪」のおなじみの歌をフェルゼンが歌い、最後に「愛 愛 愛~」と二重唱になり、アントワネットは断頭台の階段をのぼってゆく。フェルゼンはステファン人形片手に「王妃様ー!!」と絶叫し、セリとともに舞台の下へ。と、無人の舞台となったところで音楽は最高潮に盛り上がり、「愛それは~♪」の影コーラスがいつまでもいつまでも続く……と思いきや、それは一瞬にして終わり、先ほどの断頭台はあっという間に大階段となり、華やかなフィナーレの幕が開く。おお宝塚!

 


……と、以上は、「2001年ベルばら」の宙組公演『ベルサイユのばら2001ーフェルゼンとマリー・アントワネット編ー』の脚本を参照したのだけれども(『宝塚大劇場公演脚本集』阪急電鉄株式会社コミュニケーション事業部・2002年6月29日発行)、昭和49年初演時からステファン人形はおおむねこんな感じに、いわばアントワネットの激動の人生の一挿話として、冒頭と幕切れに印象的に登場する小道具である。昭和49年の初演の映像を見ると、人形が舞台に登場するのは少女時代のアントワネットが抱えてくるのが最初だけれど、2001年の宙組公演では、オープニングの主題歌のところで、和央ようかのフェルゼンがすでに人形を手にしていた。わたしが初めて宝塚を見た2006年の星組公演でも、湖月わたるのフェルゼンはオープニングですでに人形を手にしていたのかもしれぬ。また、1990年の花組公演の大浦みずき主演のフェルゼン編でも大浦みずきはオープニングの段階ですでに人形を手にしている。しかし、1990年版は少女時代のアントワネットが登場しない脚本なので、次にステファンが登場するのはコンシェルジュリーとなる。そして、現在上演中の雪組公演の壮一帆のフェルゼン編は、1990年版とおなじく、少女時代のアントワネットが登場しない脚本で上演されているようだ(『ル・サンク』第147号・2013年5月13日発行)。壮さんのフェルゼンもオープニングで人形を手にしているのかな?


このステファン人形は池田理代子の原作にはなく、植田紳爾の脚本による宝塚のオリジナルであり、植田自身は戸板康二の死後に、

これは初めて打ち明けることだが、あの人形の件はフランスのジャンヌ・ダブレ公妃のエピソードなのだ。いかにも宝塚的なので、これを使用したいと考えているときに、先生の『マリー・アントワネット』を読ませていただき、そのセリフのなかにステファンという人形が出ているのに遭遇し、これだと思って、その名前とジャンヌ・ダブレ公妃のエピソードを重ねて使ったのである。その人形の名前が先生の創作とも知らずに、まったくお恥ずかしい限りである。しかし、そんな無断使用を怒られもせず、『愛する宝塚の役に立ったのなら嬉しいし、ぼくもベルばらのスタッフになったような気がしますよ』といって戴けたのが忘れられない想い出として残っている。

というふうに書いている(『「ちょっといい話」で綴る戸板康二伝』非売品・1995年1月23日)。先に記したとおり、「関係者はみんな、この劇化には手探りだった」という『ベルサイユのばら』の宝塚化、脚本をこしらえるにあたって、植田紳爾は戸板康二作『マリー・アントワネット』の脚本まで読んでいたのであった。その『マリー・アントワネット』が収録されている『マリリン・モンロー 戸板康二戯曲集』が三一書房から刊行されたのは、2年前の昭和47年5月であった。


(以下、次号)