大正12年5月、戸板康二の震災前の遠い記憶の新富座。戸板康二と六代目菊五郎の歳月。

大正12年5月に上海から帰国した戸板康二がのちに、記憶に残っているもっとも古い芝居見物して回想しているのが、同年同月の新富座興行。「演劇界」昭和54年1月号(第37巻第1号)に掲載の芝木好子との「春宵歌舞伎対談」では、以下のように語っている。

ぼくは芝木さんと大体同じ世代で、だから大体同じものを見ていると思うんです。関東大震災前の記憶っていうのがまるでないんですよ。どういうわけだか、震災以前は神話時代で、それ以後に見たもの、読んだ本、行ったところっていうのは、ほとんど覚えているんです。だから、ぼくらの世代では、関東大震災っていうのは、防火壁がはさまったみたいで、向こう側が見えないような感じがあるんですね。ただ、震災前に見た芝居で覚えているのは、新富座で『大森彦七』を見たときに、「大森彦七モリナガなるぞ」って言ったのを、森永ってキャラメルの会社と同じだ(笑)と思ったのと、御国座で、猿翁の猿之助の『縮屋新助』を見ているんです。見ているって、それはあとで年表で調べたんですが、つまり、首がとんで、行灯の上かなんかに女の首が乗るっていう仕掛けがあったので、びっくりしたってことを覚えている。ちょっと手品みたいな記憶ですね。その二つきりですね、震災前は……。

小宮麒一編『上演年表 第6版』(私家版、2007年2月21日)を参照すると、ここで言及されている御国座の猿之助は、大正12年5月の帰国直後の新富座見物の翌月、6月の興行であることがすぐにわかるのであった。十二階崩壊前の浅草。



池波正太郎との対談「心のふるさと、ここにあり」(「小説推理」昭和50年3月号→『完本 池波正太郎大成 別巻』講談社・2001年3月6日)では、子供の頃に見た芝居の記憶について、大正12年生まれの池波正太郎は「法界坊」、明治座で見た当時の文士劇「番町皿屋敷」、澤田正二郎の「キリスト」を挙げて、「記憶に残っているのは十歳ぐらいからのものですね」と発言、これを受けて、戸板康二は大正12年5月の新富座見物について、

 そうですね、子供のころに観た芝居というのは、何か非常に印象の濃いものと濃くないものとがあるんですよね。
 ぼくのはちょっとおかしな話ですが、法事の帰りに芝居に行くんですよ。大正十一年ですから、七歳ぐらいのときですが、当時は新富座ですから桟敷ですよね。その桟敷に母親なんかが喪服姿で坐っていたわけだから、それを周囲のお客たちがじろじろ見ていたという印象が強く残っていますね。そのとき観た芝居は全部憶えているんです。二番目が「一心太助」で、先代の幸四郎が大久保彦左衛門を、先代の左団次が一心太助を演りました。中幕は「大森彦七」でだったんですが、そのとき先代の幸四郎が名乗りをするときに "大森彦七盛長なるぞ" と言ったんですよ。それを聞いて "森永って、キャラメルみたいだな" と思ったんですね。(笑)それはいかにも子供らしい連想なんですけど、それから何回か観ているうちに、その連想をもういっぺん甦らせたことがあるんですよ。

というふうに語っている。大正12年5月の新富座見物は、大正11年5月26日に亡くなった祖父・武田芳三郎(戸板関子の夫)の一周忌の法要の流れだったようだ。

 



大正11年5月29日の各紙朝刊に掲載された武田芳三郎の死亡広告。山口三郎とひさの長男として大正4年12月に「山口康夫」として生まれた戸板康二は、大正6年2月15日、戸籍だけ祖母の戸板関子の養子となり戸板姓に、さらに、帰国直後の大正12年7月9日に「康二」と改名している(犬丸治編「年譜」、『「ちょっといい話」で綴る戸板康二伝』1995年1月23日)。その戸籍の手続きが完了する前、同年5月20日付けの「讀賣新聞」の記事ではすでに「戸板康二」となっていたから、上海帰国後の愛宕小学校の入学時を機に改名したものと思われる。という次第で、祖父の死亡当時は「戸板康夫」だった。この母方の祖父については、

 戸板関子の夫は武田芳三郎という沼津の人だったが、ユニテリアン教会の牧師をやめて、妻の女学校の後見人みたいな立場になった時、戸板芳三郎となる。いわゆる入夫をしたわけだ。この母方の祖父の記憶は、ごくわずかである。「河内山」の芝居で、宗俊が上州屋に十徳を来て来る。それを祖父の死んだ直後に見た時、その祖父を思い出したところを見ると、日常そんな格好をいていたらしい。
 ぼくの小学一年の時までしかいなかった祖父は、食卓で白湯に塩を入れて、いつも飲んでいた。それだけしか覚えていない。

 というふうに、『回想の戦中戦後』(青蛙房、昭和54年6月25日)に綴られている(p7)。初めての芝居見物よりもさらに遠い祖父の記憶。


その祖父の一周忌の法要の流れで、戸板少年が見物した大正12年5月の新富座興行は1日初日25日千秋楽。同月21日付け「都新聞」の広告に《年に一度の幸四郎[かうらいや]と左團次[たかしまや]の顔合せ大芝居連日の盛況に付/来る廿五日まで日延べ仕り候》とあるとおり、七代目幸四郎と二代目左團次が同座しているという、なかなか男っぽい顔合わせ。午後4時開演、一番目は岡本綺堂の新作『熊谷出陣』3幕、中幕は福地桜痴『大森彦七』1幕、二番目は黙阿弥作『一心太助』3幕という狂言立てであった。



《「熊谷出陣」馬市に近き川端…新富座五月狂言 馬飼権太…市川左團次 狐塚村の源兵衛…松本幸四郎》「新演藝」第8巻6号(大正12年6月1日)口絵より。岡本綺堂作『熊谷出陣』は上演の前月の「演藝画報」所載の新作脚本。熊谷次郎直実(幸四郎)が熊に馬を傷つけらた。馬飼の権太(左團次)は責任を感じて、代わりの馬を探しにゆく。名馬を見つけたものの高価で買えず、奪おうとして、持ち主の源兵衛(幸四郎・二役)に取り押さえられる。同号の「新演藝」所載、黒顔子「役者は語る 新富座の楽屋から」に、《二幕目三春の馬市で相変らず見物はゲラゲラ笑ひ出す。高島屋の権太の高麗屋の源兵衛とが取組合ひを始めるので、今度は本当に又た皆が笑ふ。》とある、その取っ組み合いの場面。そして、このあと馬を譲ってもらえることになったときの悦びにあふれた左團次の笑顔がとてもよいとのこと。



同じく「新演藝」より、《「熊谷出陣」熊谷門前の場 熊谷次郎直実…松本幸四郎 臣河原佐太夫…市川左升 馬飼権太…市川左團次 おすぎの弟猿松…中村又五郎 熊谷小次郎直家…市川寿美蔵》。源兵衛(幸四郎)に馬を譲ってもらえることになった権太(左團次)は瀕死の身体で馳せ参じ、熊谷(幸四郎・二役)の出陣に無事に間に合った。権太は死んでしまった。その馬に「権太栗毛」と命名する熊谷であった、という幕切れの場面。同月6日付け「都新聞」の演芸欄に《新富の熊谷出陣で幸四郎の直実、いつもの赤面でなく純写実の頬髭といひ豪傑風の口のきゝ方、そつくり其儘だとて見立が在郷軍人》と書かれている幸四郎。



「演藝画報」第10年第6号(大正12年6月1日)口絵より、新富座五月狂言 中幕 福地桜痴作『大森彦七』、伊豫松山街道の場、松本幸四郎の大森彦七盛長、市川松蔦の楠の息女千早姫。『熊谷出陣』に続いて、『大森彦七』。大正12年5月の幸四郎は馬に乗ってばかりいたのだった。戸板少年に強く印象を残した「大森彦七モリナガなるぞ」。



同じく、「演藝画報」より、新富座五月狂言 二番目 一心太助 二番目返し―駿河台大久保邸の場 市川左團次の魚屋一心太助。同月5日付け「都新聞」所載、「吉例訪問 新富座の楽屋」には、《今度は私の役が、一番目で熊谷の家来馬飼の権太、二番目で彦左衛門の子分一心太助、どちらも藤間君の家来筋ばかり演つってをります》という左團次の談話がある一方で、7日付け同紙では《偶然とはいふものゝ、一番目が熊谷でしよ、中幕が大森でしよ、二番目が大久保と来てゐますから、まるで省線のステーシヨンを並べたやうな役名ですね》という幸四郎の談話があって、和む。



ついでに、「新演藝」口絵より、同年同月の市村座興行、《「四谷怪談」…四谷町民谷浪宅の場 民谷伊右衛門…市村羽左衛門 秋山長兵衛…市川新十郎 小仏小平…尾上梅幸》。5月31日付け「都新聞」所載の伊原青々園の劇評の冒頭に、《見物の来た頭数からいふと、五月芝居は市村座が第一の成績であつたといふ、それは出し物が「四谷怪談」であつたといふ事よりも梅幸、羽左衛門が菊五郎と一座したので、むしろ役者の顔ぶれが人気を呼んだのであらう。》とある。わたしも当時の観客だったら一番楽しみなのは市村座だったと思う!



さらについでに、「演藝画報」口絵より、《市村座五月狂言 二番目 御所五郎蔵 大詰……仲の町逢州殺の場 市村羽左衛門の御所の五郎蔵 尾上菊五郎の星影土右衛門》。とってもいい写真! 大正12年5月の市村座は、『形見草四谷怪談』、『汐くみ』、『鳥羽絵』、『御所五郎蔵』だった。



戸板康二が上海から帰国した大正12年5月の東京の大劇場を見通してみると、新富座、明治座、市村座、帝国劇場で歌舞伎が、本郷座で新派が上演されている。戸板少年が帰国したのは、明治44年11月に開場した第2期歌舞伎座が大正10年10月30日の朝に火事で全焼し、関東大震災を挟んで、大正14年1月に第3期歌舞伎座が華々しく開場する狭間の時期なのであった。第3期歌舞伎座の再建工事の着工は大正11年6月10日であり、その後工事は順調に進み、戸板康二帰国の同月、大正12年5月23日に鉄筋コンクリートの3階で上棟式が挙行されている。そして、その後の大震災での被災を経て、大正13年12月15日に竣工した第3期歌舞伎座の開場式は翌14年1月4日、新春落成初春興行の初日は1月6日だった(金森和子編『歌舞伎座百年史』松竹株式会社・1993年7月1日)。


その大正14年1月、木挽町の向こうを張って、二長町では大正10年3月に吉右衛門が市村座に辞表を提出し松竹入りして以来袂を分かっていた菊五郎と吉右衛門の合同公演が実現(病床にいた岡村柿紅の案だったと渥美清太郎『六代目菊五郎評伝』(冨山房・昭和25年12月15日)にある)、その熱狂ぶりについて、戸板康二は『思い出の劇場』(青蛙房、昭和56年11月20日)の「市村座」(初出:「演劇界」昭和55年2月号)に、

 大正十四年一月、市村座で、四年前に袂を分かった菊五郎と吉右衛門が、顔合せの興行をした。歌舞伎座の初開場の月にぶつけて、この芝居を企画したのは、思えば見事だと、いわなければならない。
 一番目が『一谷』の陣門から陣屋、中幕が『三社祭』、二番目が『四千両』、いい出し物である。春なので筋書の表紙が双六になっていて、『三社』の絵のわきに「上るり」とあり、るの字が小さいから。それが「上り」を利かしている。後年、古本屋でこの絵本を改めて買ったのは、ぼくが見たこの月の舞台の記憶を、記念したかったのである。
 もう暁星に転校していたぼくが、愛宕小学校以来の級友の寺島(丑之助・いまの梅幸)の扮する遠見の敦盛を見て、一種の感銘があったのを、おぼえてもいる。幼稚だが、「あいつ、えらいんだ」といった気持があったようだ。(p9)

というふうに回想していて、このくだり、何度読んでもワクワクする(その筋書きがとっても欲しい! と思い続けて、幾年月……)。大正14年1月の興行は大正12年に上海から帰国後、愛宕小学校で同級生となり、震災を経て、翌大正13年に再度、暁星で同級生となった丑之助の舞台姿を見たという点でも戸板少年に深い印象を残した興行であったのだと思う。戸板康二が初めて丑之助の舞台を見たのはいつだったかははっきりとはわからないけれども、震災後のバラックでの興行、震災直後の東京とは別世界の大正13年1月の道頓堀の中座見物などを経て、どんどん芝居に夢中になってゆく少年が、当初は丑之助のお父さんとして知っていた六代目菊五郎の役者そのものに決定的に魅了されたのも、大正14年であったのではないか。歌舞伎座が新開場して、市村座では菊吉合同が実現して幕が明けた大正14年、戸板康二は十歳だった。



先に挙げた、芝木好子との対談「春宵歌舞伎対談」(「演劇界」昭和54年1月号)で、大正14年に見た菊五郎について、戸板康二は以下のように語っている。

「ぼくの家では、そういう特定の後援会に入っていたとか、いわゆる連中で行くということはなかったように思うんですけども、ただぼくの祖母が戸板裁縫女学校の校長をしていて、学校の募金をするために、時々、演舞場なら演舞場の一階を買い切って売るってなことがあってね。大正十四年五月の『天下茶屋』の通しの時は、それがあったもんだから、ぼくは、三度ぐらい見ているんですよ、そういうのを三日間もやったから。六代目の元右衛門で、彦三郎の東間、勘弥が伊織をやった『天下茶屋』です。」

また、大正14年の菊五郎の記憶について、戸板康二は後年、『六代目菊五郎』(演劇出版社・昭和31年4月10日→講談社文庫・昭和54年6月15日)に、

 大正十四年の夏、弟が疑似赤痢で、四谷の慶応病院に入院した。隔離室へはゆかずにすんだのだが、しばらく、と号病棟に入っていた。すると、弟の病室の隣に、弟と同じ年頃の女の子が入って来たのだ。
 ばあやがついていて、もう大分よくなっているその女の子を抱いては、廊下で遊んでいる。ある時、長椅子に、演芸画報を持ち出して、その口絵の所を繰りながら「ホラ、お父さんがいる」といって、指さして教えていた。菊五郎の写真なのだった。
 今から考えると、その女の子こそ、勘三郎夫人になった久枝さんだったのである。小学生だったが、家でも演芸画報という雑誌はとっていたので、菊五郎ということがすぐわかった。
 いく日か経って、母が弟を抱いて病室の前に出ていると、菊五郎が隣の病室から出て来て、何と思ったのか、急に母の方に近寄ると、弟をあやしはじめた。その前に、大分前から病室同士の交際はあったのだろうが、母も菊五郎が来てくれるとは思わなかったらしかったと見え、どぎまぎしながら、挨拶した。
 その時、菊五郎が「ねえ、奥さん、胃の薬はホシ(星製薬)のが、よござんすよ」といったのを母がいつまでもおぼえていた。僕も、その附近にいて、これが菊五郎だなと思って見ていた。(講談社文庫版、p12-13)

というふうに、きわめて印象的に綴っている。戸板康二の弟の健夫は大正10年1月生まれであり、のちに十七代目勘三郎夫人となる久枝さん(大正13年8月6日生まれ)は《弟と同じ年頃の女の子》とは言えないのがやや気になり、《大正14年の夏》というのも戸板康二の記憶違いかもしれないけれども、大正14年夏というのが正しかったとしたら、戸板少年が慶應病院で菊五郎を間近で見たのは新開場の演舞場で『天下茶屋』を3回も見た印象が強烈なころだったということになる。《「精悍」という以外にはなかった》その素顔を。




《新橋演舞場 敵討天下茶屋聚 安達元右衛門 菊五郎》、『芝居とキネマ』第2巻第6号(大正14年6月1日発行)より。《新橋に演舞場が出来て、木挽町を脅します。ここの開場第一興行が東踊で第二回目が市村座の出張開演。菊五郎の元右衛門が売り物の「天下茶屋聚」が出て人気を蒐めてゐます》。菊五郎の元右衛門というと、昭和8年10月の歌舞伎座興行の劇評で岡鬼太郎が、

次ぎの「敵討天下茶屋聚」では、羽左衛門の伊織初役の由なれど、仁なればいざこざなし。延若の弥助と東間二役では、東間の方が柄に適つてゐてよし。菊五郎の元右衛門は、東寺裏貸座敷と天神の森だけの二幕にて前がなきゆゑ物足りねど、安手の憎ツ振りと愛嬌兼ね備はつて相変らず面白きが中にも、取分けて天神の森の引ツ込みの手先の扱ひ、体の極り、此の優独特の長所にて、面の憎いほどの出来。外々の役の中では、伊三郎の腕助が確りしてゐる。

というふうに書いていて(『歌舞伎眼鏡』新大衆社・昭和18年3月25日、p102-103)、想像しただけで陶然(伊三郎も褒められていて嬉し)。慶應義塾予科2年の戸板青年が、所属していた歌舞伎研究会の催しで三宅周太郎に初対面したのがまさにこの月だった。昭和8年10月歌舞伎座の菊五郎の元右衛門に大いに魅了されつつ、戸板青年は、大正14年の演舞場のこともヴィヴィッドに思い出したことであろうと思う。



岡村柿紅が死んだ大正14年5月は演舞場の落成興行の月でもあった。演舞場というと、「演劇新潮」第2巻第3号(昭和2年3月1日発行)所載、金子洋文の「五郎劇見物」にある、

新橋演舞場は西洋菓子を思はせる劇場である。飾りを見たつてわかる、パイや、カステラやシユウクリームが方々にくつついてゐる。下戸ならきつと喜ぶにちがひない。上戸は一寸微笑する、幾度も見ると胸一ぱいになつてくる。

というくだりが、前々から妙に印象に残っている。五郎劇に似つかわしい「西洋菓子を思はせる」劇場で当時歌舞伎を見るのはどんな気分なのだったのだろう。大正14年1月に開場した第3期歌舞伎座について、三宅周太郎は『新版 演劇五十年史』(鱒書房、昭和22年7月20日)に《松竹がその功を誇る迄のなく、震災後の大東京の美観を増し、演劇のためにどの位安定感を一般に与えたか知れない》と書いている(p200)。第3期歌舞伎座は震災復興のシンボルのひとつだった。そして、震災後の東京の復興がどんどん本格化してゆくのと並行するように、昭和3年1月に松竹入りした菊五郎は、ますますその芸を開花してゆくことになる。帝都復興と連動するようにして、菊五郎はその最盛期を迎え、戸板康二が『六代目菊五郎』において、

 僕の記憶で、彼の多方面にわたる才能の千変万化を特に感じたのは、昭和五年という年だ。数え年で四十六である。この年、一月の明治座では「裏表千代萩」の小助と政岡と仁木、「二人猩猩」から「三社祭」に引きぬき、「源氏店」の安を演じている。二月の歌舞伎座では「車引」の梅王、「船弁慶」の静と知盛、「野崎村」に初役のお光、「ととやの茶碗」のうわばみ久太。次の月演舞場で「夜討曾我」の五郎、「身替座禅」「天保水滸伝」の奇妙院、他に「火災報知機」という新作にも出ている。四月の東京劇場の初開場には「式三番」をおどり、「四の切」の忠信、「道成寺」「お祭佐七」に巴の三吉をつきあう他に、「かさね」の捕手まで買って出ているのだ。
 五月は前月の羽左・梅幸の代りに、今度は(先代)中車、(先代)勘弥と組み、「盲目の弟」の角蔵、「合邦」の玉手御前、「助六」という三役を演じた。
 とにかく、菊五郎のほんとうの全盛期だった。……(講談社文庫版、p146)

と記す昭和5年にいたる。新橋演舞場が開場した大正14年から、東京劇場が開場した昭和5年までの歳月は、戸板康二にとっては、観客としての成長の歳月であった。戸板康二は、《芝居を見はじめた頃は見るたびにいろいろなものが一時に殺到する感じで、それが多感な時代だけに、印象もつよく、記憶はいつまでも新鮮なものだ。》と『六代目菊五郎』に書いた(講談社文庫版、p14))。『六代目菊五郎』を書き下ろした直後の昭和31年5月から、「暮しの手帖」で連載を開始した「名優登場」(→『芝居国・風土記』青蛙房・昭和38年3月20日)の「尾上菊五郎」の項は、

 今まで僕の見た俳優の中で、最も多くの感銘を与えられたのは、昭和二十四年に死んだ六代目菊五郎であった。その舞台の回想は、ゆたかである。
 歌舞伎という、複雑で多分にとりつきにくい所のある芸を理解するために、最もよき手がかりを与えてくれたのは菊五郎だ。むろん同じ時代に、二代目左団次という、より新しい知性をもった俳優が、一方にはいるにはいた。しかし左団次の演目は、八割ぐらいまでが、古典ではなかった。それに対して、菊五郎は、徳川時代からの歌舞伎の伝統的なレパートリーを演じ、それを大正・昭和の知識人にも、納得のゆくような芝居にして見せたのである。

という書き出しなのだった。戸板康二の「多感な時代」は六代目菊五郎の全盛期とともにあり、モダン都市時代の東京で菊五郎とともに、むくむくと歌舞伎全般について思考していたのが戸板康二の青年期だった。



昭和5年4月に開場した東京劇場について、『六代目菊五郎評伝』に渥美清太郎は《私はまだ大谷氏にきいたことはない。が、おそらく「東劇」こと東京劇場は、音羽屋一門、というよりもむしろ、菊五郎を守り立て、名優の冠賞を授けるために建てたのではないかとおもつている。》と書いている(p239)。その東劇について、利倉幸一は、《開場式に、あの洋菓子を想わせる天井を見上げて、伊原青々園先生が「資生堂みたいですね」と言われた。》と回想している(「演劇界」昭和53年9月号)。「西洋菓子のような」というのは新橋演舞場と共通する形容詞であり、モダン都市東京の諸相に共通するイメージだったと言ってもいいかもしれない。六代目菊五郎の全盛期は、震災前の明治大正の歌舞伎の味わいのようなものが薄れていった時期でもあった。



岸田劉生《芝居絵(新富座五月狂言 源平布引滝)》、羽左衛門の実盛、吉右衛門の妹尾。前回載せた丑之助の写真、菊五郎の自動車の前で写した写真が掲載されているのと同じ号の「新演藝」第8巻1号(大正12年1月1日)に掲載の図版。劉生日記を確認すると、「新演藝」の小林徳二郎が劉生に次月の新富座の劇評を依頼したのは大正11年4月30日、そして、翌月7日、玄文社もちで新富座で芝居見物をした劉生はホクホクであった。『孤城落月』、『布引滝』、菊池寛作『裏切』、『籠釣瓶』という狂言立て。そして、同年7月18日の日記に《かねてからかきたく思つてゐた、例の新富座の源平布引滝の妹尾と、実盛とが花道にならんだスケツチを油畫の八号にのばしてみる、面白く行きさうだ。》とある。劉生の姿も客席に描き込まれているこの《芝居絵(新富座五月狂言 源平布引滝)》は、劉生没後に刊行の『演劇美論』(刀江書院、昭和5年4月)にカラー口絵として、《寺子屋舞台図》、《寺子屋観覧席》、《芝居絵(新富座 見物席)》、《芝居絵 山門》とともに掲載されている。


岸田劉生著『演劇美論』は奇しくも、東京劇場の新開場の同月に刊行されていて、戸板康二に強い感銘を与えた書物となった(『夜ふけのカルタ』所収「五つの演劇論」によると、慶應の予科のときに初めて読んだという)。震災前の新富座がおぼろげな記憶としてかすかに残っている戸板康二は、劉生のように震災前の東京の古色蒼然とした芝居小屋の桟敷席で無邪気に義太夫狂言をこってりと楽しむということが不可能な世代であった。モダン都市のきらびやかな劇場の椅子で、新劇や音楽や映画、少女歌劇など他の娯楽ととともに歌舞伎を見た世代だった。



せっかくなので、ついでに、上掲の劉生と同じ号の「新演藝」大正12年1月号に掲載されている、羽左衛門の実盛。《名古屋末廣座横浜座十二月狂言「源平布引滝」市村羽左衛門の斎藤別当実盛》、《九郎助住居での物語りする中の型で/実盛 たすけ乗せたぢやて、こりや女、其方は何処の者にて、名は何と申す、ナニ、小まん……と云ふ処です。》。戸板康二が最後に見た羽左衛門は、昭和19年10月明治座の実盛だった。