岩佐東一郎主宰の「交書会」と戸板康二にまつわるあれこれ

 

戸板康二生誕百年の2015年は、十代目坂東三津五郎(2月21日)、加藤武(7月31日)、原節子(9月5日)、熊倉一雄(10月12日)らが亡くなった年となった。阪神大震災から二十年。2015年が二十三回忌の戸板康二は神戸の震災を知らずに他界したのだなあと思いつつ、震災二十年の日はお江戸日本橋亭で開催の加藤武の語りの会で小山内薫作『息子』を聴いて、六代目菊五郎をはじめとする加藤武さんの身体にしみこんでいる昭和の役者たちに思いが及んで格別の時間だった(当日配布の紙片では、主催者とおぼしき方による、昭和63年9月歌舞伎座の『息子』の火の番の二代目松録のことを綴った文章に感激した。)。2015年は日清戦争終結百二十年、第二次世界大戦敗戦七十年。3月には三越劇場で文学座公演『女の一生』を観たのだった。

 

森本薫作『女の一生』が文学座により初演されたのは昭和20年4月11日、その直前に戸板康二のもとに召集令状が届いていた。翌日の横須賀海兵団入団を控えた戸板康二は、渋谷東横劇場の『女の一生』初演の舞台をそれこそ万感の思いで観劇したことであろう。前日4月10日には、山形県新庄に疎開中の串田孫一に以下の文面の葉書を投函している(串田孫一『日記』実業之日本社・昭和57年7月30日)。

とうとう小生も『勇躍』する日が来ました。近日参ります。芥川が教鞭をとつてゐた町です。目下身体の具合はまことによく、多分、若干お役に立てませう。東京は花は八分咲き、但し連日寒くてまだ火燵をしまはずに居ます……

横須賀の海軍と聞いてすぐさま芥川龍之介を連想するところがいかにも戸板さんらしいのであったが、入隊後の身体検査で肺浸潤の診断が下り、結局「お役には立て」ず、十日足らずで家に帰されて、戸板康二はふたたび串田孫一に葉書を書く。

海の見える町に八日ゐて不思議に帰つて来ました。貴重にして且終生忘れがたい〈旅〉です。大和村の御宅の事が案じられますが、如何。ぼうつとしてゐますのでとりあへずおしらせと御見舞をかねて一筆します。……短くて長い邯鄲の夢の意味が何かわかったやうな気がします。庭の桜はそれでもすっかり葉になりきつてます。では叉。

花冷えの4月に咲いていた昭和20年の桜は、戸板康二が「出征」している間に散っていったのであった。

 

昭和20年の桜は、信州湯田中において5月6日、十五代目羽左衛門を死に顔の傍らに散っていた。後年、戸板康二は『役者の伝説』(駸々堂出版、昭和49年12月25日)に羽左衛門逝去の情景をこう綴っている。

 羽左衛門は昭和二十年五月六日に、湯田中の万屋という旅館で死んだ。
 その旅館に泊り合わせた人の話で、帳場に遊びに行ったりしている時に、羽左衛門はたのまれると、切られ与三のセリフをいって聞かせたりしたという。これも、羽左衛門らしい。
 死ぬ日、昼前に松竹から来た社員と話していて、昼寝をした。ふと目をさまして、時計を見て「三時かい」といったあと、眠るように息が絶えたという。腕時計の針の見まちがいで、午後零時十五分だった。
 信州の遅い桜の花が戸外から舞いこんで、遺体の胸の上に、点々と散っていたという。死に方まで美しく、いさぎよかった。

羽左衛門は昭和20年3月、信州へ向かう電車のなかでたまたま同乗していた花柳章太郎に南京豆をプレゼント、その際の「市村羽左衛門が花柳章太郎に贈る、へッ、そいつが南京豆、これも戦争のたまものかい、有難くできてらぁ。」という羽左衛門のセリフが涙が出るほどいい。この『役者の伝説』、山田風太郎が『人間臨終図巻』の十五代目市村羽左衛門の項で参照しているのだったが、羽左衛門も花柳も奇しくも同書にて「七十一歳で死んだ人々」に並んでいる。2015年が没後七十年の羽左衛門、没後五十年の花柳、二人の年齢はちょうど二十違いなのであった。

 

昭和20年春から昭和23年春までの日々が記録されている『折口信夫坐談』(中央公論社、昭和47年8月25日)には、戸板康二の束の間の「出征」の次の項に、

○五月六日、十五代目市村羽左衛門が信州湯田中の「万屋」で死んだ。何かあると、それを理由に、先生のところへ行った。この日、先生の前で、羽左衛門の話が、無性にしたかった。

*羽左衛門も、やはり栄養不足で死んだのかしら。
○先生は、「栄養失調」とはいわなかった。「あんたが書いた羽左衛門のことを、あんたの嘆きを考えながら、読み返したよ」私の『俳優論』が、先生のそばにあった。

というふうに、羽左衛門の訃報に接したときのことが記録されている。訃報に接して、《先生の前で、羽左衛門の話が、無性にしたかった》と出石町にかけつける戸板康二に、「あんたの嘆きを考えながら、読み返したよ」と、「恩師 折口信夫先生に たてまつる」と献辞の入った『俳優論』を傍らに置いている折口信夫。この師弟のありように深く感動する。『俳優論』の冒頭を飾る「市村羽左衛門論」の初出は『三田文學』昭和12年1月号。昭和10年5月号から同誌に劇評を寄稿していた戸板康二は、昭和12年から俳優論に着手し、そのスタートを飾ったのが羽左衛門論だった。

 

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『役者の伝説』(駸々堂出版、昭和49年12月25日)口絵写真より、十五代目市村羽左衛門の実盛。

 

加藤武が急死した折の『演劇界』の最新号、2015年8月号(第73巻第8号)では、《歌舞伎の戦後七十年》特集にて、加藤武のインタヴュウ記事として「加藤武が語る、戦下の歌舞伎(聞き手=児玉竜一)」が掲載されていて、当時しみじみと読み返していたものであったが、羽左衛門を最後に見たときのことが語られていて、何度聞いても胸が熱くなる。

……そんな切羽詰まった生活でも、みんな見たいんだよ、歌舞伎がね。産業戦士慰問という名目で羽左衛門を見に明治座へ、音羽屋を見に新橋演舞場へ行きましたよ。
 明治座は十九年十月。十二代目仁左衛門の当り芸『義賢館』の後が羽左衛門の『実盛物語』で、これもよかったねぇ。そして大詰めが、『権上』(『其小唄夢廓』)ですよ。羽左衛門の権八が処刑されそうになったところへ、仁左衛門の小紫が助けに来て権八の縄を切る、鈴ヶ森の場が暗くなる。チョンと析がひとつ入って、パッと明るくなると吉原仲之町の場。羽左衛門の権八が駕籠の中でふっと目覚める。たまんないね。鉄兜抱えて見てても戦争やっていることなんて忘れちゃった。いつまでもこの夢が醒めないでほしいと願った。これが私の羽左衛門の見納めだった。

翌年5月25日夜には、空襲で焼失してゆく歌舞伎座の姿を見届けた加藤武青年であった。戸板康二の羽左衛門の見納めも昭和19年10月明治座だったのだが、山田風太郎著『新装版 戦中派不戦日記』(講談社文庫、2002年12月15日)には、これより少しあとの羽左衛門の舞台が記録されている。昭和20年1月11日、「沖電気がその発注する小工場群、いわゆる協力工場の従業員及びその家族慰安として、歌舞伎座に招待する券」を持って、風太郎青年は歌舞伎座へゆく。

……歌舞伎座の前には「海軍海桜会主催」「沖電気協力工場慰安会」との二つの大看板立つ。
 芝居は羽左衛門の「高田の馬場」と「源平布引滝」なりき。安兵衛この寒きに着流しの赤鞘、御老体の奮闘、真に同情す。大いなる観客席に、見物半ばにも満たず。空襲のおそれあれば招待券ありきとも来らざる者多くあるべし。ゲートル戦闘帽の行員、或いはモンペの女工達が、モソモソと玄米の握飯を口に入れつつ寒そうに見る。熱気はらむ雰囲気もなければ、たちばなやの掛声も稀なり。ただし羽左は熱演、ことに実盛のごときは一分のゆるみもなき至芸なり。

そして、同年5月7日の日記に、《羽左衛門死す。余は菊よりもこの人好きなりき。》と記した風太郎青年だった。



さてさて、以下に書き連ねるところの、大井出石町の岩佐東一郎邸で「交書会」が始まったのは、羽左衛門が死んで歌舞伎座が焼けた同月、昭和20年5月のこと。敗戦直前直後の懐かしい思い出として、たとえば、『書痴半代記』(ウェッジ文庫、2009年4月22日)所収「書痴交遊録 東秀二」で、岩佐東一郎はこんなふうに回想している。

 戦時中、われわれ書痴の面々は敗戦色の濃くなる日々の味気なさを、せめて一刻でも忘れようと、月一回、会場持ち廻りで始めたのが「交書会」なのであった。

 昭和廿年になると、春から初夏にかけて、連日連夜の空襲で、東京の至るところで、東京の至るところが焦土と化した。会員の中にも罹災したり、強制疎開で追われたり(私もその一人だが)して、大切な書物を焼亡したり散逸したりする者も出たが、それでも交書会は続けられていった。
 会員は、それぞれ防空服装で身を固めて、弁当水筒鉄かぶとを背負って、交換用の書物を包んだ風呂敷を下げて会場へ集まるのだったが、途中で空襲警報が二度三度と発令された日などは、防空壕にとびこんだり、焼けあとの凹地に伏せたりして来るので、会場に辿りつくと、みんな汗と泥で、さんざん汚れていた。そのくせ、誰ひとり、書物だけは少しも汚さないのだから、えらいものであった。
 「交書会」は、戦後も続いて、月一回の例会を励行している。別に規制らしい規則はないのだが、顧問に斎藤少雨荘老、そして会長に東秀二(老と書くと叱られそうだから止めて)氏。会員はいずれも書痴中の書痴の十数名である。

東秀二は大森の開業医で大変な蔵書家であったという。同じく『書痴半代記』所収「書痴六十年」では、交書会をこんなふうに回想している。

 戦時中、方々の古本屋は休業したり、意地の悪い交換制度をとつたりしたので、私たちは本好き仲間の家を回り持ち会場にして「交書会」というのをやつて慰めた。各自、手持ちの本を出品して入札し、最高価を入れた者がその本を得るという方法だった。これが案外の好評で、戦後もしばらくつづけた。この「交書会」には斎藤昌三、春山行夫、戸板康二、十和田操、相磯凌霜、東秀二などの諸氏が集まつたから書談がはずんで楽しかつたのである。その代り、交書会の日の往復途上で空襲にあい、本もろとも草むらにとびこんで生命びろいをした経験もあった。

と、ここで戸板康二も「交書会」のメンバーであったことが判明するわけだが、岩佐東一郎はこの文章を以下の文章で締めくくっている。

 相磯凌霜氏は永井荷風氏と親交があつたので、戦時中、荷風氏の「為永春水」の原稿をタイプで三部作り、二冊は荷風氏、一冊は相磯氏が保持して万一に供えた。その一冊を相磯氏から恩借して、はげしい空襲下に写し取つたのだ。それは昭和二十年五月四月から六日にかけての筆写だつた。いまは荷風全集に収めてあるから、私の筆者本は無駄みたいなものだが、大切な思い出の一つとして保存してある。

羽左衛門が他界した日に、岩佐東一郎は荷風の「為永春水」の筆写を終えたのであった。

 

交書会を回想している『書痴半代記』所収の文章はいずれも初出誌は『日本古書通信』、「書痴交遊録 東秀二」は第14巻第9号(昭和24年9月15日発行)、「書痴六十年」は「本と共に六十年」というタイトルで第32巻第5号(昭和42年5月15日)に寄稿した文章。昭和24年9月時点の「書痴交遊録 東秀二」では「月一回の例会も励行している」とある交書会がはじまったのは昭和20年の5月のことであったことが、岩佐東一郎の第4随筆集『風船蟲』(青潮社、昭和25年1月10日)に収録されている「交書会」という文章で判明する。

 その空襲激化の味気ない日常を送りつゝ、ふと、思い付いたのは、同好の士を以てする書物交換会である。果してみんなが集まつてくれるかどうかは甚だ不安であつたが、月一回催すことにして、同好の士数名へハガキを出して案内したのだつた。

 規則は至つて簡単で「書物五冊以上とハガキ二枚持参のこと」それだけだつた。ハガキは、次回通信用のためである。書物五冊以上と云ふものの、出品すべき書物が足りなければ古雑誌でも何でもいゝのだつた。もつとも、いくら印刷したものならばいゝと云つても、株主名簿や、電話帳では困るけれど。
 うれしいもので、五月に第一回開催以来、唯の一回も休まず、この十二月で第八回を行ひ、メムバアも、始めは五六人だつたのが、今では毎回二十名平均と云ふ盛況である。
 今だから、笑ひ話となるのだが、当時会員諸君は「交書会」(これがわれらの会名で、書物交換の意もあり、書痴交友の意もある)へ出席する時は、心で家族のものと別れの水盃をして、命がけで家を出たのだと云ふ。好きなればこそであらう。途中で、空襲に逢つて、見知らぬ家の防空壕で待避したこともあり、機銃掃射のために本包みをかかへたまゝ電車から飛び下りて、線路わきの叢へ身を横たへたこともあつたと云ふ。
 会員には詩人あり作家あり劇作家あり俳人あり新聞記者あり巡査あり画家あり教師あり医者あり会社員あり学生あり老いたるあり、若きもあり、実に唯「書籍」を血縁として集る人々なかりなのだ。
 さて、参考までに、交書方法を詳記すると、会場たる私のところへ集ると、各自持参の書籍を、みんな入れ交ぜにして幾つかの書籍の山を作る。そして、人山づゝ、席上へ提供すると、各自がめいめいその書籍を手にとつて眺める。ほしい本があれば、会場に用意してある小紙片に、その書名と入札値段と入札者の名前とを記入して、その本の頁に二つ折りにして挿む。人気のある本や、珍本には沢山入札されることになる。
 やがて、程を見てそれら書籍は司会者のもとへ集め、入札のない本は別に退けて、入札された本を一冊ずつ開票する。何枚かあれば、その最高値を披露して出品者の意向を聞く。よければ、その本は入札者の手にゆき、入札紙は伝票代りに出品者のもとへ渡す。入札価が出品者にとって不満の時は、その由を出品者は告げて本を引き取る。反対に方外に高すぎる最高値にびつくりして出品者から値下げを云ひ出す微笑ましい場面もある。最高値が同じで何人も出た場合は面倒臭いからジヤンケン勝ちで裁く。入札本をかくの如く全部すませて、残つたアブレ本は、持ちかへるのも嫌だと云ふので、出品者に最低価を云つて貰つて、セリにして処置し、そこでも希望のない本だけは持ち帰つて貰ふ。全部すむと、各自の手にある入札伝票により、各自相殺勘定して清算する。

と、以上のような仕組みの「交書会」について、岩佐は《交書会のおかげで空襲下も終戦後の今日も、月一回の愉しみが得られ、乏しい私の書棚も当に内容は充実してゐるのである。》という結んでいる。終戦直後の昭和20年12月のこの文章によると、新年の交書会の催しとして、普通出品に加えて《各自愛蔵本一冊を持参して、特別入札に依つて、交換》というのを計画中で、合わせて、冬の間はハガキ二枚のほかに各自炭を一片持ち寄ることに決まったという。交書会始まって初めての冬を迎えたのであった。

 

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『岩佐東一郎随筆集 風船蟲』(青潮社、昭和25年1月10日)。『茶煙閑語』(文藝汎論社、昭和12年4月22日)、『茶烟亭燈逸傳』(書物展望社、昭和14年2月18日)、『くりくり坊主』(書物展望社、昭和16年8月6日)に次ぐ、岩佐東一郎の第4随筆集。限定五百部、内藤政勝の装幀、川上澄生のカット。岩根冬青の営んでいた小出版社、和歌山市和歌浦の青潮社発行の瀟洒な造本。

 


戸板康二がどういうきっかけで、岩佐東一郎邸の交書会に参加するようになったのか、正確な経緯は詳らかではないけれども、とにもかくにも、折口信夫と岩佐東一郎の家は同じ大井の住人であるばかりでなく非常に至近距離であったので、『折口信夫坐談』で記録されている大井出石町の折口信夫のもとへ通う戦中戦後の日々と同時期の出来事として注目したいのであった。

 

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芸能学会編『折口信夫の世界 ―回想と写真紀行―』(岩崎美術社、1992年7月30日)所収、岡野弘彦「大井出石町の家」に掲載の《品川区の旧大井出石町の折口の借宅の門家の玄関》、同書口絵「折口信夫アルバム」より、濱谷浩撮影《大井出石町の家の居間で 昭和26年春》。折口が大井出石町5052番地の借家に転居したのは昭和3年10月のこと、この年の1月に慶應義塾大学教授に就任し「芸能史」の講義を始めている。昭和28年9月になくなるまで終の住処となった。

 

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『地形社編 大東京区分図 三十五区之内 品川区詳細図』(昭和16年1月20日)=人文社『復刻 大東京三十五区分詳細図(昭和十六年)16.品川区』より、大井出石町と大井庚塚町を拡大。現在の住居表示では、出石町は「品川区西大井三丁目」、庚塚町は「品川区大井七丁目」となる。

 

一方、岩佐東一郎は大正期からの大井の住人。『文藝汎論』(昭和6年9月~昭和19年2月・全150号)刊行時、岩佐の自宅住所は「東京市外大井町庚塚4928」、昭和7年10月の市区改正以後は「東京市品川区大井庚塚町4928」であった。この時期すでに、折口と岩佐は隣町のご近所であったが、昭和20年、岩佐は庚塚町の自宅を強制疎開により立ち退くことになり、出石町の住人となる。しかも、その住所は「大井出石町5050番地」。同じ出石町の住人というだけでなく、折口と岩佐は番地が2番違いの至近距離の住人となったのだった。先に抜き書きした文章にあるように、岩佐東一郎が交書会を始めたのは、強制疎開で長年住み慣れた家を立ち退くことになったという「空襲激化の味気ない日々」のせめてもの気晴らしというのがきっかけとなっていた。交書会がはじまったのは大井出石町、戦中戦後に戸板康二がさかんに折口信夫を訪れていた町ではじまったのが交書会だった。

 

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昭和15年9月1日付け、岩佐東一郎の大野良子宛て葉書。詩集『馬頭琴』受贈の御礼と『文藝汎論』に紹介したい旨の事務連絡。岩佐の自宅・文藝汎論社の「大井庚塚町四九二八番地」の住所印が押されている。「胸に愛国 手に国債」の標語入り消印。

 

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昭和32年の岩佐東一郎の年賀状。「鶏鳴賀春」に「とりなくさとのはる」とルビが振ってある。昭和20年に強制疎開で隣町の大井出石町に移ってから、岩佐は終生出石町の住人であった。



戸板康二が「交書会」に参加している当時の日々のことは、串田孫一著『日記』(実業之日本社、1982年7月30日)でも少し垣間見ることができる。串田孫一著『日記』は、敗戦前後の串田孫一の「日記」と知友の書簡を交えて編んだ一冊で、敗戦前後の戸板康二の動向を探る上で欠かせない。 

 

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 昭和20年3月28日付けの串田孫一への葉書によると、家族の疎開により一人暮らしとなった父山口三郎宅に戸板夫妻が同居することになり、5月25日の空襲の父の家が焼けたことで、その隣りの伯父の家に移ったあとで敗戦を迎える。が、人に貸していたので荏原七丁目の自宅に戻るのは翌昭和21年4月8日となる。丸一年、戸板康二もそれなりに流浪の生活を強いられていた。その間、蔵書の一部やそれまで書いていた日記や水中亭内田誠から貰った岡鹿之助のカトレアの油彩(『スヰート』の表紙原画)やを焼いてしまったものの、さいわい自宅家屋は無事だった。

 

空襲に遭った父の家からあたふたと隣りの伯父の家に移り、でも一家はなんとか全員無事、とりあえず人心地ついたであろう直後の5月26日午後に、串田孫一へのハガキに「もうこれからは海水浴をしてゐる間に夕立が降つてもあはてないでいいといふのと同じ心境です。」と記したあと、

きのふ安否をたづねかたがた折口さんの所へ行き、無事だつたので又「話」をきいて來ました。洋々としてゆるがざるものに触れたこゝろ切です。

と書いている。そして次月、6月16日付けの串田孫一宛ての書簡では、芝明舟町のアパートへ川尻清潭を訪ねたことなどを報告している。

このところ二度ほど川尻氏をたづねいはゆる全盛期のカブキの裏の秘話を無数にききノートを肥やしました。焼野原の真中にふしぎに一軒だけポツンとのこつたアパートに唐棧のモンペを着て平然と團十郎の声色をつかつてきかせてくれる江戸つ子がゐる事はなかなか愉快です。

落ち着かない生活を強いられつつ日本演劇社の雑誌記者として過ごしていた敗戦直前の日々は、戸板康二にとっては「洋々としてゆるがざるものに触れ」る日々でもあったのだった。

 

そして、雑誌刊行もままならなかった敗戦直前とは打って変わって、にわかに演劇ジャーナリズムが活況を呈し身辺が騒がしくなった戸板康二の敗戦直後の日々が串田孫一の『日記』からも伝わってくるようになるのだったが、昭和20年5月に岩佐東一郎邸ではじまった「交書会」についての記録が最初にみえるのは、昭和21年3月6日付け串田孫一書簡。

……神田に三月二日行つてみると、大道の素人本や岩波文庫星一つ十五円見当でうつてゐる始末でおどろきました。かうしてみると、例の岩佐家の交書会なぞうそのやうな廉さです。その後あの会では谷崎の「初昔きのふけふ」、ジイドの「女の学校」など手に入れました。

というふうに報告している。これより以前に二人の間で「交書会」の話題が出ていることが伺え、戸板康二の「交書会」への参加はこれより少し前と思われる。2か月前の1月14日付串田宛書簡に《島木健作の「再建」、広津の「芸術の味」「北京襍記」などいずれも暮の古書会で入手》とあり、もしかしたら、この「古書会」というのは「交書会」のことを言っているのかもしれない。とすると、昭和20年暮れの会には参加していたということになり、先に引用した『風船蟲』に収録されている、昭和20年12月当時の文章「交書会」が書かれたのと同じころ、すでに戸板康二がメンバーに加わっていたということになる。

 以下、串田孫一『日記』で、以降の戸板康二の「交書会」報告を拾ってゆくと、

・昭和21年4月11日付け書簡に、《……「コンゴ紀行」(但し文庫)交書会で入手、それをもつて一度伺ひたいと思つています。》。

・昭和21年6月3日付け書簡に、《……きのふ岩佐家交書会あり、堀口大學の「三人女」や何や相当贅沢な本が出ました。小生思ふに、昭和七八年頃の堀口、鈴木といつた書物クラフトの作つた工芸品のやうな本を見ると、この一たちの精神は、傲慢といふかともかく奢りを極めたものだといひたくなります。(中略)交書会の値段が安くなつたのは結構です。岩波文庫が★一ケ三円位、きのふはベルンハイムの「歴史」など三円で手に入れました。》。

・昭和21年9月8日串田日記に、《午後、戸板康二君を訪ねる。岩佐東一郎氏の家へ、本の交換会があつて出掛けた後で不在。》。

……というふうになり、昭和21年9月までの様子を確認できる。


串田孫一著『日記』は、昭和18年10月23日から昭和21年9月25日までの日々、巣鴨に住み上智大学で哲学を講じ、昭和19年11月以降東京の空襲が頻繁になり、翌20年3月10日の大空襲を経て、一家で東京を去り山形県新庄に移住し、4月の空襲で巣鴨の家と書物を失い、敗戦を迎え、財産を整理して新出発、昭和21年9日に三鷹牟礼に居を構えるまでの日々が記録されている。本書には昭和18年10月25日にさっそく、戸板康二の葉書が紹介されていたりと、山水女学校の教師を経て、昭和19年7月に日本演劇社に入社、すなわち敗戦のほぼ1年前から演劇記者となった戸板康二の戦中戦後もときどき垣間見える書物であり、淡いような深いような、深いような淡いような、でもやっぱり深く濃密な、小学校以来の旧友だからこその、二人の知的で誠実な交友ぶりに胸打たれる。

 

戸板康二の方では、敗戦三十年を経たあと、書き下ろしとして刊行した『回想の戦中戦後』(青蛙房・昭和54年6月25日)を、昭和21年5月13日に山形県新庄に串田孫一を訪ねた戦後初めての旅行のときのことを綴った「新庄に友を訪う」で締めくくっているのであった。

 この地方の一番いい季節だったらしい。木も草もすべてみずみずしく、東京では吸ったことのない空気のおいしい味がした。(中略)
 かえる時に、袋に入れた米をもらった。そのころは、量の多い米を持ち歩くと、途中の検問でとりあげられるおそれがあったので、雑貨屋で見つけて買った火消し壺にはいる程度の米にしてもらった。
 今でもおぼえているが、火消し壺の中の米の上に、串田君が小川で摘んだセリを、そっとのせてくれた。それが白米を運ぶという無風流を、ひと味ちがうものにした。筋骨たくましくなっていたが、串田君は、やはり詩人であった。
 しばらく経って、火消し壺が割れた。
 ぼくの戦後の回想も、この火消し壺と同じく過去のものになったが、手にかかえた重さの実感は、いまだに、ぼくの中に残っている。考えれば、あのころ、何もかも重かった。

というふうに、戸板康二の「回想の戦中戦後」全体は山形から持ち帰った火消し壺とともに締めくくられている。「新庄に友を訪」なったのは、羽左衛門の死から1年たった昭和21年5月のことだった。1年前の5月は、『日本演劇』昭和20年6・7月合併号に掲載の「橘屋羽左衛門」の原稿依頼のため、久留米村の楠山正雄を訪れ、その車窓をのちに《麦生の青い色が、混雑を極めた電車の窓から目にしみて見えたのを、おぼえている。僕は羽左衛門の気風を思わせる新緑だなと思いながらそれを見た》と回想していた戸板康二だった(『劇場の椅子』所収「名優」)。敗戦直前の5月の東京郊外の車窓の麦の青とその一年後の山形県新庄の木々の緑、昭和20年と翌21年の5月の戸板康二の目に映ったそれぞれの新緑を思う。

 

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串田孫一の水彩画、串田孫一『日記』(実業之日本社、昭和57年7月30日)口絵より。山形県新庄にて、昭和21年4月27日に串田孫一が描いた森の絵。後記によると、串田が当時毎日近くの森に絵を描きに行っていたうちの1枚で、唯一串田の手元に残っている絵という。この絵が、2015年11月3日から2016年1月17日まで小金井市立はけの森美術館で開催の《生誕100周年 串田孫一展》にて展示されているのを目の当たりにした瞬間の感激といったらなかった。戸板康二が新庄の串田孫一を訪れる前月に描かれた山の緑と空の青。

  

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明治製菓の宣伝小冊子『スヰート』第16巻第1号(昭和16年1月25日発行)。表紙:岡鹿之助。大政翼賛会国民生活指導部長の喜多壮一郎の巻頭言「新体制下の国民の心構へ」のあとに、内田百閒「鬼苑随筆 小さな汽車」、石坂洋次郎「年頭菓子談義」、小川未明「童話・お菓子の夢」、池部鈞の漫画……等といった目次。『思い出す顔』(講談社、昭和59年11月20日)の「「スヰート」と「三田文学」」で、

「スヰート」は隔月刊だったが、その執筆者や、表紙を描いていただく画家にも、次々に紹介されて行った。
 表紙の原画は、内田さんが自分で買ってしまった。会社の予算では到底依頼できない、立派な絵が使われているのは、そのためだ。
 岡鹿之助氏の四号のカトレアの絵も、そのひとつだが、内田さんの「遊魚集」という本を編集した時に、ぼくにくれた。しかし、この絵、父の客間で、空襲で焼けてしまったのが残念でならない。……

と回想されているのがこの表紙絵のことだと思う。明治製菓宣伝部にて、水中亭内田誠のもとで、社の業務だけでなく水中亭の私設秘書的な仕事もこなしていた戸板康二の二十代。内田誠の随筆集『遊魚集』(小山書店、昭和16年3月20日)の編集がそのハイライトだったのだと思う。そのよき記念であった岡鹿之助の絵は昭和20年5月25日の空襲で、歌舞伎座と新橋演舞場を焼いた大空襲で焼けてしまったのだった。

 

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と、残っている絵と消えてしまった絵に思いを馳せつつ、羽左衛門が死んで歌舞伎座が焼けた昭和20年5月にはじまった岩佐東一郎の交書会についての覚え書きの続きは次回にて。

 岩佐曰く《会員には詩人あり作家あり劇作家あり俳人あり新聞記者あり巡査あり画家あり教師あり医者あり会社員あり学生あり老いたるあり、若きもあり、実に唯「書籍」を血縁として集る人々》が集った場であった交書会が敗戦を迎えると、にわかに盛り上がった出版ブームに乗ってゆく場となったのは必然だった。そこに戸板康二もほんの少し関わることとなる。以下、次号。