『春泥』の創刊号(昭和5年3月)から第83号(昭和12年6号)までの83冊が書斎に搬入。


つい一週間前に、昭和15年に復刊の『春泥』第4号(おそらく最終号)の「小村雪岱号」を神保町のとある古書肆で購って、入手する日が来るなんて夢にも思っていなかったから、嬉しいを通り越して、この感謝の気持ちの持って行き場をどうすればよいのだろうと、ジーンジーンと立ちすくむしかない感じだった。しかし、この一週間でさらなる大事件に遭遇、「小村雪岱号」1冊で喜んでいたあの頃は平和だったなアと、たった一週間前のことなのに、ずいぶん昔のことのように感じる。

……などと、遠い目になっているわたしの前にデーン! と積んであるのは、昭和5年3月の創刊号から83号までの『春泥』揃い。昭和12年12月をもって一度終刊する『春泥』は全部で89冊あるから、6冊だけ欠けているけれども、83冊の『春泥』がわが書斎に搬入されるという事態に直面しているのであった。

戸板康二についての直接の資料という点においては、昭和15年に復刊の『春泥』4冊の方ということになるけれども、戸板康二が直属の部下となる昭和14年より以前の内田誠を考える上でも、昭和9年に発足する「いとう句会」を追う上でも、その他諸々の前々からの関心事を追究する上でも必須の文献が書斎に鎮座することになって、「嬉しい」とか「ジーンジーン」とかなんとか呑気なことを言っている場合ではなく、入手してしまった以上、わたしはこの文献を最大限に活用する義務があるのだ、というような心境。ブルブルッと武者奮いなのだった。

 

 

とりいそぎ、とりあえずの記録として、創刊号から83号までの表紙の変遷を外観したい。

 


創刊号は昭和5年3月1日発行。編集兼発行者、阪倉金一。発行所は春泥社(住所は阪倉金一の住所と同じ。第1号は東京麻布区網代町五番地、第2号以降は東京府荏原郡東調布町下沼部六二六)。発売所は籾山書店(東京麹町区丸ノ内三菱二十一号館)。創刊号から第10号(昭和5年12月1日発行)まで、小村雪岱による鳥の絵柄。

 


第11号(昭和6年1月1日発行)から第19号(昭和6年9月10日発行)までの表紙(小村雪岱)。第13号より発行者は山田安猷となり、春泥社の住所も山田の住所、すなわち東京府荏原郡六郷町八幡塚二七八に移転している。

 


第20号(昭和6年10月10日発行)と第21号(昭和6年11月20日発行)の2冊だけ判型が文庫サイズ(この2号以外はすべて菊判)。表紙は雪岱による落葉。第21号に、坂倉金一(「阪倉」表記ではなくなっている)が東京市外渋谷町大和田九十三に移転した旨告知がある。「いとう旅館」の住所である。

 


第22号(昭和7年1月1日発行)から第33号(昭和8年4月1日発行)までの表紙(小村雪岱)。裏表紙には別の鳥が飛んでいる。下部の黒っぽくなっているのは地面。実際に手に取ると繊細な筆づかいや色合いが実にみごとに印刷されている。第32号(昭和8年3月1日発行)より、発行者は坂倉金一に戻る。春泥社の住所が「いとう旅館」の住所と同じになる。

 


第34号(昭和8年5月10日発行)から第41号(昭和8月12月5日発行)までの表紙(小村雪岱)。この表紙が一番好きかも。とにかくも実際に手に取ると実に美しい。裏にも図版が続いている。

 


第42号(昭和9年1月5日発行)で表紙が雪岱から鴨下晁湖に交代したことで、印象がガラッと変わる。第46号(昭和9年5月1日発行)に、同年4月2日に催された第1回「いとう句会」の記事が掲載。この年から『春泥』は「いとう句会の機関誌」的な側面を帯びることとなる。第49号(昭和9年8月5日発行)までこの表紙。

 


第50号(昭和9年9月5日発行)から第53号(昭和9年12月5日発行)までの表紙(鴨下晁湖)。銀箔をあしらった贅をこらした表紙。

 


第54号(昭和10年1月5日発行)と第55号(昭和10年2月5日発行)の表紙(梅花亭)。第54号に《表紙は小村雪岱氏の予定のところ水中亭新築の襖にかかって忙しいというので二ヶ月丈臨時の画で間に合わせることにしました。臨時ではあるが、秋陽会の大家エッチ、ケエ、スイロウ氏である(編集部)》と記載がある。

 


そして、雪岱が『春泥』に復帰した第56号(昭和10年3月5日発行)は増田龍雨追悼号、127ページで他の号よりも格段に分厚い。この表紙は第65号(昭和10年12月5日発行)まで続いている。

 


第66号(昭和11年1月5日発行)から第77号(昭和11年12月5日発行)まで、すなわち昭和11年一年分の表紙は鴨下晁湖。

 


第78号(昭和12年1月5日発行)から第80号(昭和12年3月5日発行)の表紙の小村雪岱は究極の美しさ。印刷が実に美しく、帯には銀箔があしらってある。

 


第81号(昭和12年4月5日発行)から、現時点で書斎にある第83号(昭和12年6月5日発行)までの表紙。前回の雪岱と同じ図版だけれど、タイトルの「春泥」の「泥」の字の上に飛んでいた鳥が消えている。

 


鳥は裏表紙へと飛んでいったのだった(前回は裏表紙は空白)。

 

戸板康二『句会で会った人』(富士見書房、昭和62年7月20日)の「いとう句会」の章より、『春泥』に関するくだりを抜き書き。

 「春泥」は昭和五年三月に創刊された。二年前の久保田先生の新聞小説「春泥」にちなんだのか。俳句はむろん重点的にのせているが、随筆や座談会もあり、じつにたのしい内容のものである。そのころは麻布の網代町にあった坂倉家が発行所として奥付に記され、春泥社と称している。
 創刊号から、表紙の絵を小村雪岱独特の絵でかざったが、本文はラシャ紙で毎号八十頁、それが二十五銭というのだから、これはもう破格の安さである。
 創刊号の口絵として、和紙を三つ折にし、芥川龍之介が傘の絵に自賛した。

 し ぐ る る や 堀 江 の 茶 屋 に 客 ひ と り

の凸版がはさみこまれている。
 これは死ぬ昭和二年の四月五日の夜、久保田家を訪ねた芥川がざれ書きのようにして置いて行ったものだという解説を、久保田先生が「かたみ」という文章にして巻頭に書いている。
 以下、丸木砂土(秦豊吉)、増田龍雨、上川井梨葉、伊藤鴎二、小泉迂外の随筆、大場白水郎の縷紅亭句抄、そして高浜虚子、鈴木三重吉、吉井勇、久保田万太郎の座談会で、この席に幹事として槇金一、内田誠の二人が出席している。会場は日本橋のふく家である。
 「春泥」は廃刊された「俳諧雑誌」の後身といえなくもないが、何から何まで、ぜいたくな料理を味わうような記事が毎号出ていて、何とも、わくわくする贅沢な思いがする。 二号に「墨田川」の座談会があり、小村雪岱、小泉迂外、悟道軒円玉がいろいろ語り、記事の上に、川の両岸の風景を舟の上から雪岱が精密に写生した展望図が、刷られている。この時は、山谷のうなぎや重箱が会場だった。主人は久保田先生と小学校の級友で、小説「火事息子」のモデルだ。
 「春泥」は採算を全く考えず、好きなだけの金をつかって、中身を充実させた雑誌で、これはやはり、内田さんが私財を投じた出版であったと思われる。
 私はたまたま最初の十二号までの一年分を合本し、革の背に雪岱が文字を書いたボリュームの厚い二冊本を、内田さんから貰って珍重している。
 第二巻以降のバックナンバーは、その後、古書展でも見たことがない。
 休刊のままでいた「春泥」を最後に一冊出したのは、昭和十五年十月に急逝した小村さんの追悼号として作ったもので、すでに用紙事情の悪い時に厚手のアートに原色版で故人の絵を刷ったもので、これは当時明治製菓にいた私が編集した。
 戦後何かの時に、久保田先生に、創刊当時の合本を持って行って見せたら、「死んだ子にめぐり会ったようだ」と、珍しく目を細めて喜ばれた。……