「戸板康二ダイジェスト」更新メモ。戸板康二の明治製菓資料2題。


戸板康二ダイジェスト(http://www.ne.jp/asahi/toita/yasuji/)をほんのわずかに改装しました。新たに増えた記事はありません。全5ページだった年譜を全6ページに、大正4年の出生から明治製菓を退社する昭和18年までを、出生から三田時代(http://www.ne.jp/asahi/toita/yasuji/chronology/01a.html)と明治製菓在籍時代(http://www.ne.jp/asahi/toita/yasuji/chronology/01b.html)とに分割しました。明治製菓時代の追究にさらに尽力したい、という願いがこもっているので、あった。



というわけで、ついでに明治製菓時代の戸板康二資料メモ2題。

 



「日本電報」昭和15年2月号裏表紙の「明治チョコレート」。《雪山は呼ぶ/冬は若人の/鍛錬の季節[シーズン]》。戸板康二在籍時代の明治製菓の広告をみると、このコピーは戸板康二かな、どうかな、というようなことをいつも思う。ちなみに、戸板青年は明治製菓に入社した最初の冬、昭和14年12月、すなわちこの広告が登場する直前に明治製菓の同僚と日光へスキーに出かけている(一度で懲りて二度と行くことはなかった)。「日本電報」は内田誠がひんぱんに登場する極上の資料。いつか全号を通して見てみたい雑誌。

 



「日本電報」昭和15年5月号所載、「銀座と広告 今昔座談会」に掲載の、神保朋世による内田誠のスケッチ。『水中亭句集』と『銀座』の刊行にちなんで、「明治製菓株式会社宣伝部長」の肩書きの内田誠を囲んだ座談会で、「明治製菓株式会社宣伝部員」という肩書きで戸板康二もメンバーに加わっているものの、ひとつも発言がないのが残念なり。他のメンバーは、内藤豊次(田辺商店広告部長)、波多海蔵(丸見屋商店相談役)、邦枝完二(小説家)、神保朋世(挿画家)、酒井謙吉(神戸新聞社東京支社長)、木下源一郎(日本電報通信社取締役営業局次長)、関口卓三(日本電報通信社参事)。この重厚な顔ぶれのなかで、明治製菓入社二年目の戸板康二がメンバーに加わっているというのがすごい(発言を誌面で見ることはできないけれど)。とにかく内田誠のお気に入りだったのだなアということが如実にうかがえる。

 


大橋正《支那の母と子》絵はがき(1943年)、図録『暮らしを彩ったグラフィックデザイナーの60年 大橋正展』(松戸市教育委員会、2002年8月31日発行)より。この絵はがきは、明治製菓の商品「メイホルモン」(新化学合成卵砲ホルモン)の宣伝用の絵はがきで、企画は戸板康二によるもの。内田誠のお気に入りだったのみならず、会社の仕事もきちんとこなしている。


明治製菓の宣伝部が廃止され、戸板康二が明治製菓を退社する直前に発売の、「印刷報道研究(「プレスアルト」を昭和18年5月発行号より改題)」第65号(昭和18年6月発行号)に、戸板康二が登場している。肩書は「明治製菓会社宣伝部員にして報道技術研究会々員」で、「企画と編集者の頁」に明治薬品会社の「開業医家向宣伝絵葉書」についての解説を寄せている。

このゑはがきは、明治薬品株式会社が、製品合成ホルモン「メイホルモン」の存在を、全国産婦人科及内科の開業医各位に認識していただくために、昭和十八年四月作成したものです。企画をたてたのが二月で、品物の性質上、余り宣伝の色彩が露骨になってはと考え、むしろ何気なく「メイホルモン」の文字を一部に入れた、薬と関係のない画若しくは写真で行く事とし、結局世界の「母と子」集にしようと思いついたのでした。しかし之は「大東亜共栄圏の母と子」と改める事になり、画にする事と決定、画の制作を報道技術研究会に委託、同会に於て六人の違った方の手によって六枚の「母と子」が出来上がりました。

「報道技術研究会」については戸板康二は特に発言を残していないようで、戸板康二と報道技術研究会との関わりについてはかねてより調査中(内田誠と同時に入会したようだ)。山名文夫・今泉武治・新井静一郎編『戦争と宣伝技術者 報道技術研究会の記録』(ダヴィッド社、1978年2月)のあとがきには、《特に前川国男、花森安治、林謙一、戸板康二、小野田政、江間章子などのみなさんには書いてもらいたかったのだが、果せなかった。》という一節がある。とりあえず判明していることは、日本演劇社入社後の昭和19年11月、報道技術研究会の活動にもたずさわっていて、「マレー戦記」のグラフ誌をつくる仕事に従事していたこと。