東京宝塚劇場で花組公演『虞美人』を見る。


NHK ラジオ「音楽の泉」を流しながら、朝食を食べる。本日は、バッハのチェンバロ協奏曲、演奏はカール・リヒターなり。古楽器の演奏がおなじみなので、かえって新鮮で、あらためてなんてすばらしい音楽なのだろう! と聴き惚れる。続いて流れた、3台のチェンバロのための協奏曲もすばらしかった。……などと、「音楽の泉」に感激しているうちに、1週間前は建て替え前の歌舞伎座に最後に足を踏み入れた日だったのだなアと思う。1週間前なのにはるか遠い昔の日のことのように感じる。

 

正午前、銀座で母と待ち合わせて、食事と買い物と喫茶を経て、午後4時前、東京宝塚劇場に到着。本日は花組公演、木村信司脚本・演出『虞美人』なり。


『虞美人』といえば、宝塚の歴史を語る上で欠かせない春日野八千代と南悠子のポスターでわたしのなかでは長らくおなじみであった。初演は昭和26年、白井鐡造の作・演出による。戸板康二言うところの「ベルばら以前」の宝塚に思いを馳せる貴重な機会だーとたのしみにしていたのだったが、よくよく確認すると、脚本と演出は木村信司によってあらたに書き替えられたものが上演されるのだそうで、そうとなったら、白井鐡造の脚本を事前に読んで鋭意比較対照したいところなのだったが、まあ、それほどの意欲はわかず、ほんの物見遊山気分で見物にやってきた。あまり中国ものには親しみがわかず、ショーはなく一本立ての上演。ポスターを見た時点では、特にこれといって楽しみな要素が皆無の公演であった。しかーし、これまでも、なにひとつ楽しみな要素がない、まあ、だまされたと思って見に行くとするかなと思って見に行ってみたら、宝塚の場合はいつも決まって、「なかなかよかったではないか!」とハイになって劇場をあとにしている。わたしにとっては、変に期待しないで、楽にチケットをとれるような公演の方がかえって好みなのかも。


そんなこんなで、だまされたと思って見物にやってきた、今回の花組公演、ミュージカル『虞美人 新たなる伝説』。フタを開けてみたら、宝塚観劇におけるわが法則どおりに、今回も大いにたのしんだ公演だった。先月の雪組の『ソルフェリーノの夜明け』の立体感のなさを目の当たりにした記憶が鮮明ななかで見物したので、まずは劇作品としての立体感がとてもよかった。きちんと「戯曲」になっているということがなによりも嬉しかった。項羽と劉邦という対称的な武人がいて、彼らをとりまく愛妾、参謀、部下といった配置もそれぞれに対称的。項羽と劉邦がさながらふたつの衛星のようで、広大な中国領土が宇宙空間といった感じ。さながら近松半二の浄瑠璃のように、これでもかと張りめぐらせた対称性によって、舞台空間がひとつの小宇宙となって、観客の前に現出している。勝者もなければ敗者もない、といった感じのラストの無常感も、ちょっと浄瑠璃的。項羽と劉邦というような誰でも知っているようなライバルをトップと二番手が演じることによって、宝塚の特性がうまく活用されていて、「演劇」を見ているなアという確かな手ごたえを感じる。と同時に、アホくさい台詞や歌詞、龍宮城そのもののキッチュな舞台装置などなど、宝塚ならではの突っ込みどころも満載で、あちらこちらでニヤニヤだった。


花組は、現在の男役トップ、真飛聖の就任公演の『愛と死のアラビア』以来。あのときは、二番手の大空祐飛さんがすばらしかった。いい仕事をしているなあと感心していたら、のちにめでたく宙組トップに就任なさり、ご同慶の至りだった。ひさしぶりに花組公演を見るにあたって、ウェブサイトの人物関係図を印刷して持参し、今回は準備もバッチリ。トップや二番手よりも、愛音羽麗と未涼亜希に目が行った。すばらしかった! ほかにも、それぞれの役どころがうまく引き出されているような、役者配置がよかった。項羽と劉邦は千恵蔵と右太衛門で、月形龍之介は参謀かな、錦之助の役は愛音羽麗の役で決まりだ……以下略、というふうに、宝塚を見ると、いつも頭のなかで東映時代劇に置き換えて悦に入っている。わたしになかでは、いつも「宝塚は東映時代劇である」なのだった。

 


「寶塚グラフ」昭和13年8月15日発行号(通巻28号)より、「海のたより 春日野八千代」。《一年中病気勝ちだつた去年の憂鬱をけとばす積りで、わづかな休暇を利用して、こゝ鎌倉に参りました》。

 


「寶塚グラフ」の同号の見返しは、「森永ミルクチヨコレート」。