四谷界隈を散歩する昼下がり。文学座アトリエのあと、新宿歴史博物館へ。昭和28年の四谷見附をおもう。


正午前、外出。日傘をさして徒歩30分、四谷三丁目にたどりつく。ドトールで休憩後、まずは先月の「久保田万太郎の世界」公演のよき想い出を胸に、文学座アトリエの前へゆく。先日はゆっくり見物できなくてちょっと悔いが残っていたので、あらためてじっくりアトリエの建物を見物しようという魂胆だった。


『文学座五十年史』(文学座発行、1987年4月29日)によると、文学座は他の劇団にさきがけて小舞台つきの自前の稽古場をもった。「アトリエ」という名称は岩田豊雄の考案で、落成は昭和25年7月、昭和28年に増築されて、現在の姿になった。取り壊しの決まった昭和26年開場の歌舞伎座とまさに同時代の建物なのだった。戸板康二『あの人この人 昭和人物誌』所収「岩田豊雄の食味」には、

昭和二十五年、信濃町の文学座は、事務所の隣に稽古場を新設し、本公演とは別に、このささやかな舞台で、いろいろ実験的な試みをしようと思い立った
 岩田さんは、「そうだ、この稽古場をアトリエ、そういう小公演は、アトリエの会としたらいいだろう」といった。

という一節があり、岩田豊雄『新劇と私』(新潮社、昭和31年12月)には、

次第に、文学座の中に、若い連中ともいうべきものが、できあがりつゝあった。それは、結構なことなので、私は従来の勉強会の目的や方法を、も少しハッキリさせる意味で、文学座アトリエというものをつくった。

というふうに回想されている。

  

四谷三丁目から信濃町の方角へと歩いて、東京電力病院の手前で右折。

 


先日、「久保田万太郎の世界」第8回公演を観劇した新モリヤビル。

 


まあたらしい事務所の隣には、アトリエが昭和25年竣工、昭和28年改築当時の姿をとどめている。小津安二郎の『東京物語』のスクリーン当時の東京と同時代の建物がそのまんま残っている。『文学座五十年史』に掲載の《アトリエ落成式 昭和25年7月》の集合写真の背後にあるアトリエの建物から判断すると、落成時は左手前の低い方の三角屋根の下が玄関だったのが、右側に90度の角度に増築されて入口がそちらに移って現在の姿になったようだ。

 


その昭和28年増築部分の三角屋根の下の壁面に、岩田豊雄デザインの文学座のマーク。

 

アトリエの建物をぐるっと一周すると、裏手の三津田健邸の表札に「三津田健」の文字があって、ジーンと感激だった。あんまり居座っていると完全に不審者なので、足早に立ち去ることにして、外苑東通りをわたって左門町の裏道を歩いて、靖国通りに出る。お岩稲荷のある辺りを初めて歩いたのは、戸板康二の『芝居名所一幕見 舞台の上の東京』の真似っこをした数年前のこと。以来、四谷の裏道を歩くのが好きでちょくちょく散歩している。このあたり、野口冨士男の戦前の文学仲間、井上立士が住んでいたところでもある。

 

靖国通りを横断して、新宿歴史博物館へ向かう。荒木町の裏道を適当に歩いてから三栄町に入る。新宿歴史博物館周辺のこのあたりの路地もいつも大好き。目当ての佐伯祐三展、なかなか満喫。博物館の入り口には、四谷見附橋の高欄の一部が展示されている。



添えられた解説によると、四谷見附橋は明治44年3月着工、大正2年10月に開通。近くの赤坂離宮と調和させるべくネオバロック様式が採用されたとのこと。平成3年に道路拡張により橋は架け替えられ、架け替え前の四谷見附橋は八王子市南大沢の長池公園に復元されているとのこと。復元に際して使われなかった部分が新宿歴史博物館に寄贈された。



戸板康二『芝居名所一幕見 舞台の上の東京』(白水社、昭和28年12月25日発行)所収「四谷見附」より、《現在の四谷見附》。

見附の橋をはさんで、向ふに立つのが、聖イグナチオ教会。同系の文化放送NCBは、附近の若葉町にある。
 手前の塔は、消防署の望楼で、その隣に双葉女子高校の建物が見えてゐる。以上三つが、それぞれ近代的な、明るい色彩を見せ、近代都市としての東京の、山の手調を代表してゐる。
 それにしても「四千両」では、探り合ひのだんまりがあつたり、闇の中に、おでんと書いた行燈がボーッと浮んでゐるという「四谷見附」とは、余りにもちがふ景色である。
 四谷駅を出外れた国電が、新宿の方へ向つて走ると、トンネルに入るが、その上は、ヴェルサイユ宮殿に象つて作られた赤坂離宮、今の国会図書館がある。

現在の文学座アトリエの姿となった昭和28年の四谷見附。