戦前の歌舞伎座の残骸を見て、モダン都市東京の「第三期歌舞伎座」をおもう。


先月国立劇場で初めて前進座の公演を見たことで、前進座の歴史を強化したいなとぼんやりと思っていたら、さる方が絶好のタイミングで NHK の放送を録画したヴィデオを貸してくださった。なんという親切であることだろう! 放送年月日は詳らかでないけれども、『山川静夫の華麗なる招待席』の「前進座の名舞台」と題したプログラム等々が録画されていて、司会は山川静夫、ゲストが梅之助と加藤武というメンバーでトークもたっぷり聞かせます、先代國太郎主演の『切られお富』、長十郎と翫右衛門の『勧進帳』と『新門辰五郎』をノーカットでお見せします、といった内容で、これはすばらしい! そして実際にヴィデオをみて、往年の前進座の舞台にシビれるシビれる、この独特の結集力がたまらぬ、先月の国立劇場の梅之助のよかったけれども、ヴィデオで見る翫右衛門の赤間源左衛門がたまらないなア! 等々、随所でテーブルをドンドン叩きたくなってくる感じだった。もうすっかり前進座にメロメロだ、こうしてはいられないとお借りしたヴィデオを DVD に焼いて永久保存版にした次第であったが、さてさて、その『山川静夫の華麗なる招待席』の「前進座の名舞台」で、前進座の歴史を紙芝居的に紹介するコーナーで目にした戦前の歌舞伎座の写真で、ふと思い出したことがあった。



『山川静夫の華麗なる招待席』に登場した戦前の歌舞伎座の写真。まずは、左隣りに見える「上方屋」の文字に目が釘付け。これはいつ頃の写真なのだろう。戸板康二の「上方屋の絵葉書」(『ロビーの対話』所収)を読んで以来、「上方屋」について追究したいと思いつつもそれっきりになっている。



そして、上掲よりもおそらくあとの時代の写真と思われる写真として、以前もここに載せた写真、明治製菓株式会社・株式会社明治商店発行《昭和八年五月 新館落成記念》の絵葉書のうち、「東京観劇特売招待会記念」と題した絵葉書。左端に見えるのが、戸板康二は『思い出の劇場』所収の「歌舞伎座」の、

 今と同じように、別館があって、売店で絵はがきを売っていたが、店によって、そこにしかない特撰写真というのがあったような気がする。五代目延寿太夫のような顔をした老人がいる店で、父親がよく買っていた。
 おなじ一階に弁松があって、親がかりの日の食事はここの弁当ときまっていたが、今思うのに、どうしてあんなにおいしかったのだろう。玉子焼、照り焼、煮物、みんな乙に気取ってなくて、しかも丹念にこしらえられていた。今あのような弁当がなぜないのだろうと思う。「むかしの光いまいずこ」である。

のくだりにある「別館」(たぶん)。

 


そして、つい先日の土曜日、築地から日比谷へ歩く途中に解体工事中の歌舞伎座の前を初めて通りかかり、「おっ」と、なるべく早くに記録しておかねばと、週明けにわざわざ再訪して、撮影したのがこの写真。上掲の昭和8年の明治製菓発行の歌舞伎座を写した絵葉書の左端に見える「別館」らしき建物が、今もそのままの形で残っているのであった。

 


その「別館」らしき部分を拡大。十年以上にわたって「第四期歌舞伎座」に一応は通っていたというのに、戦災ですべて焼失したというわけではなくて、「第三期歌舞伎座」の一部がそのままの姿で残っていたということを解体工事に入って、やっと知った次第だった。もう廃墟と化しているけれども、このいかにもモダン建築な外観がとにかく嬉しい。



取り急ぎ参照した『歌舞伎座百年史』(1993年7月刊)によると、別館の落成は昭和4年9月3日。九月興行の初日の落成で、前月に引き続いて『唐人お吉』が上演された月。松蔦の『唐人お吉』については、戸板康二がたびたび愛着たっぷりに回想しているので、わたしのなかですっかりおなじみだった。その松蔦のお吉の頃からあった建物が、ちょっと前まで残っていたのだなということをたいへん遅ればせながら知って、ジーンと胸がいっぱい。


『歌舞伎座百年史』によると、昭和4年9月に落成の別館は、本体と同じく岡田信一郎の設計。この建物の2階と3階にそれまでの座付食堂を移転させて、4階には300名収容の洋式の広間があったという。同時期に歌舞伎座より発行の雑誌「歌舞伎」には毎号、別館4階の「歌舞伎座写真部」の広告が出ていて、《別館四階の光と影のパラダイス》、《御観劇の御工夫なされた瀟洒な御姿を感じのよいスタジオで!!》、《気分と自然のポーズを白と黒、光と影の行進曲の表現!!!》というようなコピーが添えられてある。また、地下に「弁松大食堂」、1階は「竹葉亭」、2階は中華料理の「翠香亭」、京橋の「幸鮨」、「三芳食堂」、3階に「精養軒」といった食堂が入っていたことがわかった。


「演劇界」昭和26年1月号の《歌舞伎座》特集の、編集部編「歌舞伎座問答」に、

完全に社交場でした。一等席はキラを飾つた男女で一杯でした。食堂や売店も華やかなものでした。劇場のサービスも行き届いてもいました。たしか別館の三階か四階にはお子様お預かり所があつて、保姆みたいな女の人が小さな子供の面倒を見ていたりしたものです。別館の三階か四階にあつた特別室はお見合など特にお役に立つたようでした。お見合はよくあつたもので、まア一日に一組もないということはなかつたでしよう。そのお見合の末が、めでたく話がまとまつて結婚、その披露をかねた観劇会が又歌舞伎座、という具合に、社交場としては第一の場所だつたようです。今度の歌舞伎座もそういうようにしたいのでしようが、昔のようにするのは、容易なことではないでしよう。

というくだりがある。戦前の都市小説では、ちょくちょく歌舞伎座でお見合いする場面が登場しているけれども、そういったモダン都市東京の社交場が、戦後もずっと残っていた「第三期歌舞伎座別館」、そして、この建物も「第四期歌舞伎座」とともに消滅する。その別館の建物をギリギリ見逃さないで済んで、本当によかった。モダン都市東京の「第三期歌舞伎座」、若き日の戸板康二が通いつめていた歌舞伎座に思いを馳せるのは、いつもたのしい。


この別館は戦後はどのように使われていたのかについては追々調査したいのだけれども、「演劇界」昭和26年2月号の《歌舞伎座開場》なる特集の「歌舞伎座あれこれ全書」によると、

今までは別館にだけあつた売店を今度は別館がまだ使えないところから、一切合切ギュウギュウ詰めこんだので、「商店街に附属して劇場があるみたいだ」なんて言つた人がありましたが、その詰めこみかたはオソルベキです。

とのことで、戦後の歌舞伎座開業当初はこんな感じだったらしい。



藤森静雄《夜の歌舞伎座》昭和5年、『新東京百景』より。先日、数年来の懸案、昭和53年4月に平凡社にて刊行の『新東京百景 木版画集』をやっと入手してホクホクしていた。巻末に戸板康二が解説を寄稿、《歌舞伎座の前を、市電が走っているというだけでも、楽しい版画だが、このころ出演していた大幹部俳優は、ことごとく世を去った。》という一節を交えている。