富士見町を靖国に向かって歩いて、戸板康二の「九段の季節」をおもう。


正午過ぎ、神楽坂で昼食のあと、牛込橋を渡って、早稲田通りを靖国神社に向かって直進。早稲田通りの飯田橋と靖国の間の道を歩くのがいつもなんだか好きだ。戸板康二の出身校の暁星のほぼ向かいに池田弥三郎の出身校の市立一中、現九段高校。



東京日日新聞発行《復興完成記念東京市街地図》(昭和5年3月)より、九段界隈。戸板康二は昭和2年、暁星小学校6年生のときに、広尾からおそらく父の再婚を機に麹町区富士見町に引っ越して、昭和7年、慶應義塾の予科に進学した年の夏に父の転勤により一家が阪神間の住吉に仮寓するまでの約6年間、この界隈に住んでいた。

学校が暁星で、うちも富士見町にあったので、大祭の時はジンタが風に送られて、朝から夕方まで聞えていた。花火が揚って、中から角力取りの人形が、ふうわりふうわりと飛んで、神田の方へ流れて爼橋の辺りに落ちた。どうも、そういう印象が、しかし、僕には、春の大祭りのこととしてのみ残っている。葉桜の頃である。からっと晴れずに、そのくせ花火が揚った時だけ、空が青く見えるというような幻覚があったりするのだ。九段に住んでいた何年かのあいだに、この祭の時にかかるものの中には変転があった。のちにそれがすっかり取り払われて殺風景なパノラマがとって代るまで、小屋掛けの長い歴史の総じまいを、ここでしてみせたかのように、あらゆる種類の見世物が、その五・六年の短期間に、姿を見せ、あわただしく消えて行った。僕はそれを殆ど全部見て歩いたのである。
 ……大正に生れた僕が、子供心にも忘れぬ、震災前の風月のアイスクリームの味が、もう二度とかえって来ないように、この九段の葉桜のかげの掛け小屋のイメージもなつかしいものの一つである。九段の季節。ニコライ堂がいつも遠く見えていた九段には、「煤煙」の主人公でなくても、生涯深い記憶がある。

この界隈を歩くとき、いつもなんとはなしに、戸板康二の「九段の季節」という文章を思い出して、いい気分になっている。昭和2年から7年までのもっとも多感な暁星時代の往時を回想した文章は実にうつくしい。初出は『春燈』昭和24年8月号(『劇場の椅子』(創元社・昭和27年9月)初収)。戸板康二は多分に『春燈』という舞台を意識していたに違いない。『劇場の椅子』に収録の随筆で、初出誌が『春燈』の文章をピックアップしてみると、

  • 「サーカス」昭和24年11月号
  • 「アマノヤ・リヘヱ」昭和25年3月号
  • 「二等車のボツクス」昭和25年9月号
  • 「候文の芝居」昭和27年4月号

の以上5つ。どの文章もいかにも『春燈』を意識している感じで、「随筆家」としての戸板康二の円熟の過程を見る思いがする。明治製菓宣伝部での戸板康二のかつての同僚で親しい友人だった牛島肇は当時療養中で毎月届く『春燈』をたのしみにしていた。その遺された日記には、「アマノヤ・リヘヱ」というカタカナ表記を《一寸ハイカラだ。》と記していたり、山城少掾と田村秋子が「二等車のボックス」で同席したことを綴った文章に際しては、《戸板さんは昔から大へんな田村党であるからさういふ意味でこのはなしは戸板さんにとつて興深いものがあつたらう》という一節を残している。「大へんな田村党」という言葉がとっても実感的で、わたしにとっても別の意味で興深いものがある。



川上澄生《新装の九段坂》(昭和4年)、版画「新東京百景」より。



暁星を通り過ごして、右手に靖国の巨大な鳥居を見上げたところで、靖国通りの歩道橋を渡って、田安門から北の丸公園に入る。風見鶏を見ていつも思い出すのが、川上澄生の上掲の版画。戸板康二の「九段の季節」と同時代の川上澄生の版画。



東京国立近代美術館の工芸館へ向かいがてら、北の丸公園を散歩。旧近衛師団司令部庁舎の建物の前に建つと、いつも佐分利信の『叛乱』を思い出すのだった。本日の工芸館では、《所蔵作品展 アール・デコ時代の工芸とデザイン》を見物。中盤の杉浦非水コーナーで、去年秋の宇都宮美術館を思い出して、嬉しかった。工芸館のあとは神保町へ。本屋をまわってコーヒーを飲んで、あっという間に夕刻になった。九段界隈から神保町にゆく日曜日の午後は前々からお気に入りの休日の過ごし方だった。ひさびさにそんな休日を満喫だった。