鍛冶橋通りを歩いて、戦前の明治製菓をおもう。『狂った一頁』の井上正夫に見とれる。


午後6時過ぎ、丸の内仲通りを右折して、鍛冶橋通りを直進して、フィルムセンターに向かって早歩き。「ぴあフィルムフェスティバル」でしばらく中断していたフィルムセンター通いが再開して嬉しい。来週は一週間夏休みで嬉しさも倍増だ。わーいわーいと鍛冶橋通りをズンズンと直進し、明治製菓本社ビルの前を通りかかるときは、いつものとおり、左方を見上げて、戦前の明治製菓、宣伝誌「スヰート」が刊行されていたころの明治製菓に思いを馳せて、悦に入る。1933年5月、明治製菓は丸の内から京橋へ本社を移し、その渡辺仁設計の近代建築が長らく鍛冶橋通り沿いに建っていた。2002年に取り壊されて、2004年に現在の新しい建物が完成した。特にありがたがったりもせずに、昭和8年竣工の建物の前を通ってフィルムセンターに通っていた頃が懐かしい。片倉ビルと第一相互館の敷地が更地になっていて、「普請中」という様相を呈す京橋交差点。明治製菓ビルの並びの建物の2階にあった喫茶店が好きでちょくちょく行っていたけれども、このお店がなくなったのはいつのことだったのだろう?

 


東京日日新聞発行《復興完成記念東京市街地図》(昭和5年3月)より、京橋界隈。明治製菓が本社を丸ノ内から京橋に移すのは昭和8年なので、それ以前の京橋界隈の地図。鍛冶橋通りを直進した先にある桜橋は、野口冨士男の戦前の小説『黄昏運河』に登場している。鍛冶橋通りを歩くと、戦前の明治製菓に思いを馳せると同時に、野口冨士男の『黄昏運河』のこともいつもなんとはなしに思い出す。「水の都」だった頃の東京を想像しながら歩くのはいつもたのしい。

 


絵葉書《昭和八年五月 新館落成記念》明治製菓株式会社・株式会社明治商店。昭和8年5月に、京橋の新社屋完成を記念して催された、「東京観劇特売招待会」に際してのお土産として印行されたもの。「東京観劇特売招待会」の開催された歌舞伎座をはじめとする計7枚の絵葉書が収められている。

 


《明治製菓ビルディング》。だいぶ補修をほどこされていたけれども、2002年まで残っていた建物。もっとマニアックに観察をしておきたかったけれども、明治製菓の本社が現在も京橋の地にあるというだけでも十分に嬉しい。

 


《明治製菓ビルディング 事務室 講堂》。戸板康二は昭和14年4月、明治製菓の販売営業部門を担当する株式会社明治商店に入社し、菓子部宣伝係に配属される(『「ちょっといい話」で綴る戸板康二伝』所収、犬丸治編「年譜」より)。この写真を見ると、戸板康二の執務室もこんな感じだったのかしらッと、胸躍る。この講堂では、内田百間が昭和14年9月、「目と耳の境界」という演題で講演している(速記は『百間座談』(三省堂、昭和16年)に収録)。

 


《明治製菓ビル売店 喫茶室 菓子売店》。明治製菓ビル1階にあった売店。ここの喫茶室で、戸板康二もちょくちょく来客と歓談していた。計7枚の絵葉書のうち、京橋の本社を写したのは計3枚。残りの絵葉書は、歌舞伎座、明治製菓銀座売店2枚と川崎工場の写真。



本日のフィルムセンターは、斎藤寅次郎『石川五右ヱ門の法事』(松竹蒲田・昭和5年)と衣笠貞之助『狂った一頁』(新感覚派映画聯盟・大正15年)なり。ことのほか『狂った一頁』を満喫してしまい、表現主義とか映画史の資料という点で興味深いのみならず、井上正夫をしみじみと堪能。「キャー、かっこいい!」と、すっかりミーハーに徹して『狂った一頁』見ることになるとは思わなんだ。明日からの夏休みを迎えるにあたって、帰りはどこぞのお店で祝杯をあげるとするかなとぼんやりと思っていたのだけれど、頭のなかが井上正夫のことでいっぱいになり、こうしてはいられないと一目散に帰宅。本棚からひさびさに『井上正夫追憶集』(井上正夫生誕百年祭実行委員会・昭和55年6月15日)を取り出し、あちらこちらを拾い読みするのだった。

 


《御園座七月狂言「大尉の娘」森田慎蔵・井上正夫、娘お露・水谷八重子》、『新演芸』大正12年8月1日発行(第8巻第8号)より。

 

戸板康二『見ごとな幕切れ』所収、「回想・新派十二人 12 井上正夫」(初出:『演劇界』1989年12月)より。

《井上の芸は、渋くて、深味のある独特の演技術を持っていた。私は大正十五年に浅草松竹座で栗島すみ子と一座している井上の『磔茂左衛門』を見て、子供ごころに強い印象を受けた。藤森成吉の書いた反体制劇が小学生の胸を打ったのだ。
 もうひとつ忘れがたいのは、昭和十二年の十二月興行の新宿第一劇場で見た、『彦六』の再演で、この時共演した岡田嘉子のピチピチした魅力には、茫然とするほどだった。思えば、演出していた杉本良吉との恋が熟し切っていたからであろう。翌年一月、二人はカラフトを越境するのだ。》

《私は井上の芝居では、昭和六年と二十三年に見た『大尉の娘』が、飛びぬけて目に焼きついている。翻案といわれるが、中内蝶二のこの台本は、新派の代表的古典の一つであり、井上の森田慎蔵、水谷八重子の露子というコンビは、じつにいい親子であった。
 八重子は活動写真でも、井上と露子を演じている。私は国立劇場でこれを見た時、思わぬ落涙を自覚した。いわゆる新派大悲劇とはちがうものであった。(中略)
 河合と井上は、歌舞伎の声色つかいでも、比較的うまくできるということであったが、『大尉の娘』を白鸚が演じた時、娘に呼びかける「露子!」という短いせりふが、どうしても井上調になってしまうんですと、苦笑していたのを思い出す。》

 フィルムセンターで、井上と水谷八重子の『大尉の娘』を見たのはいつだったっけかな。もう一度見たい。井上を。