吉右衛門の『沼津』のあとの幕間、新橋演舞場でコーヒーを飲む。プラトン社の『女性』の「劇場スケッチ」。


今日は待ちに待った、吉右衛門の『沼津』と仁左衛門の『荒川の佐吉』だ、わーいわーいと日傘片手に意気揚々と外出し、いつものとおりに有楽町線で新富町下車。京橋図書館に本を返してまた借りて、タリーズで休憩。今日は母と待ち合わせての芝居見物で、今回はわたしが食事当番、木挽町弁松で弁当を調達しなければならぬので、いつもとは違う道筋で新橋演舞場へと向かう。戸板康二が「銀座の書割」(初出:『銀座百点』昭和30年7月号)の

戦争後、ぼくが銀座へ出る用事の中には、たとえば、難波橋の近くの暮しの手帖へ行くとか、文芸春秋社の地下室へゆくとか、そういうたぐいの用事もあるわけで、劇場への往き帰りの数からは、築地小劇場の分が減ったままなのが、さびしい気がする。何といっても、築地のあの小屋の前から一度屈折して、祝橋と朝日橋を通って松屋の横へ出る新劇がえりのコースは、格別な味があったのだ。

という、かねてから愛着たっぷりのこの一節を思い浮かべながら、築地小劇場の跡地に程近いタリーズを出て、右折して祝橋を渡って、次は左折。歌舞伎座の裏手の道をひさびざに歩いた。歌舞伎座の建物の取り壊しが途中まで進行していて、三階席のあったあたりがハッキリと見通せて、おおっとしばし立ち止って、虚空を見つめた。


そんなこんなで、無事に弁当を調達して、無事に新橋演舞場に到着。梅玉と魁春の『月宴紅葉繍』、吉右衛門と歌六と芝雀の『沼津』、昼食を挟んで、仁左衛門の『荒川の佐吉』、最後は藤十郎の『寿梅鉢萬歳』で幕。11時に開幕して、閉幕は4時半を過ぎる、長丁場の芝居見物。


7月からの新橋演舞場では、あらためて歌舞伎を見直す、という感じの芝居見物がとっても新鮮で、いつもそれだけでなんだか無性にたのしい。『沼津』を見るのは何年ぶりだろう。幕が開いて、浄瑠璃が始まっただけでも無性に感激だった。『沼津』冒頭の「東路にここも名高きー」の産字のこと、すっかり忘れていたなア……と、浄瑠璃の空間にひたっているだけで無性に感激だった。吉右衛門の十兵衛は、口跡が愛嬌たっぷりで、セリフ劇としての『沼津』がとてもおもしろく、そして全体ではあらためて『沼津』の名作ぶりに唸ったひとときで、なかなか格別であった。播磨屋の劇中の口上も嬉しく、歌六の平作がよかった。また何年かしたあと見るのが今からとてもたのしみ。


『荒川の佐吉』は、歌舞伎座で仁左衛門の所演を見て以来だから、十年ぶりくらい。ここ5年間ほど、真山青果の戯曲に夢中になっているので、以前に『荒川の佐吉』を見たときは真山青果ということをまったく意識していなかったので、十年ぶりに『荒川の佐吉』を見て、これまたとっても新鮮。成川郷右衛門との問答など、以前は特に注視していなかった気がする。このたび『沼津』と『荒川の佐吉』を続けて見て、吉右衛門の主演で、真山青果の『国定忠治』が見たい! と思った。



『沼津』のあとの幕間、何年ぶりかで弁松の弁当をしみじみ味わったあと、劇場の売店で栄太楼の黒飴の小さい袋200円を買って、口のなかに一粒放ったあと、コーヒー350円を飲んで、ベンチで休憩する。演舞場でコーヒーというと、三宅周太郎の「帝都八大劇場案内」という文章の新橋演舞場を語った以下のくだりを思い出して、にんまりなのだった。

 海外文人逸話とも云ふべく、文豪バルザックはコーヒー小説コーヒーコーヒー小説コーヒーがその一生であつたとか。つまり、コーヒーばかりのんで、小説ばかり書いてゐたのがバルザックの一生のわけである。と、聞くにつけても、もし新橋演舞場へバルザックをつれて来たら、多分、バルザックは喜ぶだらうと思ふ。その理由は、ここのコーヒーが実に美味だからである。
 先づ二階片隅の菊屋のコーヒーである。いつでも舌をやくやうにあつい。そしていつでも決して濃淡に変りがなくて同一の密度でどろつとしてゐる。一体、劇場のコーヒー位浮気なものはないと云へる位、うまかつたりまづかつたりする。それは幕間にどつと喫茶店へ客が押しかけて、一度にコーヒーを平らげてしまつて、後は勝手休止の状態に返へるからだ。段々それは改良せられて来たが、大体に喫茶店がこみ合ふ幕間のコーヒーはまづく、すいてゐる幕間のコーヒーはうまいのが原則である。が、菊屋は一切そんな難がない。いつでも同じくあつくてうまい。しかも値段も十五銭程度だが、市中へ持ち出しても負けまい。不二家の二十銭のコーヒーに匹敵し得る内容を持つてゐると思ふ。
 下の精養軒のバーのコーヒーも菊屋に劣らぬ位もうまい。この二ヶ所の喫茶店のコーヒーの如き、実に帝都の各劇場を通じて、どこにも見当らぬ美味贅沢低廉の傑作である。仮りにもバルザックが喜ぶだらうなどの無礼な空想を走らせ得る位、演舞場のコーヒーは劇場国の佳品である。それに菊屋でも精養軒でも一切がハイカラなのは一層あの美味を文学的にする。新橋演舞場の偉大な個性として世に紹介する所以である。

というふうに、当時の演舞場のコーヒーがイキイキと語られて、三宅周太郎の珈琲党ぶりがうかがえて微笑ましいのだったが、「昭和2年3月」と末尾に記された「帝都八大劇場案内」は、『演劇評話』(新潮社、昭和3年3月)に収録されている。


同じく『演劇評話』に収録されている文章に、当時の歌舞伎座の光景を綴った「初日の人々」という文章がある。末尾に「大正14年11月」と記されたこの文章の初出は、プラトン社の雑誌『女性』大正15年1月号(第9巻第1号)。《劇場スケッチ》のうちの1篇で、歌舞伎座を「初日の人々」というタイトルで三宅周太郎(挿絵:清水三重三)、帝劇を「緩速度劇」というタイトルで北尾亀男(挿絵:竹久夢二)、新橋演舞場を「新東京の象徴」というタイトルで上司小剣(挿絵:竹久夢二)、築地小劇場を「築地のお客」というタイトルで金子洋文(挿絵:岡本帰一)、最後は市村座を「春の芝居の初日」というタイトルで長田秀雄(挿絵:水谷仲吉)が執筆している。挿絵ともども、かねてより大のお気に入りの「モダン東京」文献。



竹久夢二による帝劇の挿絵。北尾亀男は、芝居そっちのけで「社交」にいそしむ劇場の人びとを活写していて、ちょっとした寸劇がうまい!

 


同じく竹久夢二による演舞場の挿絵。帝劇との違いがおもしろい。姐さんとお酌と旦那。

 


ついでに、わたしの一番のお気に入りは、築地小劇場の岡本帰一の挿絵。岡本帰一にはかねてから興味津々。いずれどこかで詳述したい。


 

昨年四月新橋演舞場の開場式に、社長から礼をそなえての招待には、差し支へがあつて行けなかつたが、二三日して、其のあづま踊りなるものを見に行つた時の感じは、遺憾ながら少し固すぎて、京都の都踊りのやうにふツくりとは行かぬらしく思はれ、観客の多数も西洋音楽の聴衆のやうで、都踊り見物のお上りさんの如き色合ひを見ることは出来なかつた。しかしこれは都踊りといふ一つの古くさい型を前において、それに引きくらべようとするからで、若し新東京の新演舞といふものをこゝから育てゝ行くとするならば、これでいゝのであらう、かうあるのが当然であらう、これがだんだん熟して行けばいゝのであらうと思つた。特に其の建築なり、装飾なり、設備なりの、完全に近く美麗に輝いてゐるに到つては、正しく新東京、未来の東京の華麗優雅を、こゝに象徴したやうなもので、天平式にもあらず、桃山式にもあらず、純西洋式にもあらず、純日本式にもあらず、即ち一種の新東京式だと、ぼくはひとりで思つて、ひとりで関心したのであつた。(上司小剣「新東京の象徴 新橋演舞場」より)



菅原定三『美術建築士・菅原栄蔵』住まい学大系063(住まいの図書館出版局、1994年12月)より。



新橋演舞場・東南側外観

 

新橋演舞場・西側非常口部分

 


新橋演舞場・2階西側休憩室