早稲田大学演劇博物館で《二世市川左團次展》を見る。


ここ数カ月というもの、開催を心待ちにしていた演博の左團次展。先月末にイソイソと見物に出かけて以来、今日まで3回見物している。今年生誕130年の左團次、初日の10月19日は左團次の誕生日。最終日の12月5日まで、あと1回か2回は見に行けたらいいなと思っている。

 

明治13(1880)年生まれで、荷風や正宗白鳥より1つ下、小山内薫より1つ年上。その小山内とは明治29年、鶯亭金升の門で雑俳仲間として知り合ったのが初対面だった。10年後の明治39年の2月27日、紅葉館における文藝協会の発会式で二人は再会。その間の明治30年代、小山内は鴎外の観潮楼に迎えられて、三木竹二や伊原青々園と知り合い、中洲の真砂座の伊井蓉峰に引き合わされたりしていた。三木竹二の『歌舞伎』の創刊は明治33年1月。小山内と左團次が十年ぶりに再会した明治39年の9月に二代目を襲名した左團次は同年12月に洋行に出発し、翌明治40年8月に帰国。その後、二人は急速に親交を深め、明治42年11月末の有楽座における自由劇場の第1回のことは多くの文士が記録を残している。大正元年に松竹に入り、その厚遇を受けて安定した俳優生活を得た左團次は、人気の絶頂期を迎える。戸板康二の『演劇五十年』には、《大正期の左團次は、興行界の大谷竹次郎とよく似ていた。即ち彼等は共にこの時代に入って、初めてほっと一息つくことが出来たのである。そして第一次大戦による景気が、彼等の仕事を上昇させた。》とある。多くの文士との交流(荷風の『断腸亭日乗』での「松莚」の文字の登場頻度の多さといったら!)。昭和の真山青果の数々の上演。その舞台としての東京劇場と築地川をはさんで歌舞伎座。菊五郎と左團次の両極、それから羽左衛門に魅了されっぱなしだった1930年代東京の戸板康二青年。

 

……とかなんとか、かねてより、なにがしかの演劇書等を繰って、むやみに心惹かれていたのが、左團次とその周囲、左團次とその時代にまつわる芋づるだった。たとえば、平山蘆江が『東京おぼえ帳』所収の左團次を語った文章のタイトルを「東京人高橋」としていることが示すような、1930年代の終焉とともに世を去った左團次とその時代、左團次とその東京、というような。

 

このたびの演博の左團次展は、そんなこれまでの浅薄な借りものの知識(のようなもの)だけでいい気分になっていたわたしにとっては、学究に裏打ちされた豊富かつコクのある資料に彩られた「二世市川左團次」はまさしく目が覚めるくらいにエキサイティングで、きちんと資料に裏づけされているということのすばらしさに心が洗われる思いだった。「生きている左團次」を初めて感じた(ような気になった)展覧会だった。



図録『二世 市川左團次展 ―生誕一三〇年・没後七〇年によせて―』(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、2010年10月19日)。800円で頒布。表紙は昭和8年1月の歌舞伎座の『鳴神』。裏表紙は昭和15年2月の新橋演舞場の『修禅寺物語』の夜叉王、同月23日に左團次は他界、最後の舞台だった。当然、図録に収録されていない資料も多数あるので、図録だけではなく展覧会にも足を運ぶ必要がある。



あっと感嘆の生資料とまさに「舞台のおもかげ」といった感じにたくさん見ることができる舞台写真の数々がすばらしいこと。いちいち例を挙げていると収拾がつかなくなってしまうのであるが、展覧会の導入部でさっそく、千歳座焼失のあと、明治26年11月に開場した明治座の八十分の一の模型にワオッと興奮だった。模型の隣に明治42年2月の明治座を写した写真(図録には未掲載だけれど、チラシの裏面に印刷されている)が展示してある。外遊帰りの左團次がその前年1月に明治座の革新を企てて失敗するくだりが、順路のもう少し先に用意されている。何度か行きつ戻りつして、うーむと眺めるのだった。

 


《明治年代の明治座》、木村錦花著『明治座物語』(歌舞伎出版部、昭和3年3月1日)口絵写真より。木村錦花は、鶯亭金升の門で小山内や左團次と同座していたらしい。

 


この『明治座物語』は震災で焼失した明治座の新装開業を記念して刊行された、というわけで、同書口絵のメインはこの《新装落成の明治座》。市川左團次名義の「序に返へて」が巻頭にある。


それから、左團次愛用の大島紬の着物と縞の袴がたいへん眼福だった。いい趣味をしているなアとうっとりしながら思い出すのは、松坂屋の宣伝誌『新装』に掲載の左團次のきもの談義のこと。

 


『新装』昭和12年5月1日発行(第3巻第5号)。表紙:三輪孝。没後1年にその遺著、『家 久保田万太郎先生と私』(青蛙房、昭和50年11月)が刊行されている大江良太郎が編集に携わっていた、戦前のハウスオーガンの逸品(昭和10年6月創刊)。大江良太郎は昭和元年に三田を卒業し銀座松坂屋の宣伝部に入社、昭和16年まで勤務していた。昭和15年5月に、大江の勤めていた銀座松坂屋にて左團次の追悼展が催されているという紹介が、今回の左團次展の最後にあった。大江良太郎の『家』には「左団次の夢とその死」と題された章があり、晩年の左團次について興味深い証言を見ることができる。



市川左團次の談話筆記のエッセイ『すゞろごと ―男の着物について―』のページを開くと、隣りに岡田八千代の随筆『大根がし』を見ることができるのも嬉しい。

……昔は上州あたりで織り出した糸織を江戸ッ子の品の良い人、又縞柄によつては親分畑の人々が着てゐて、そのにやけない渋さが、関西の人の好みと対照して面白かつたものだが、今ではこの糸織はなくなつてしまつた。自然、東京人の和服には上方趣味が流れ込んで来てゐるのである。
 然し、最近は糸織こそ影を絶つてゐるが、結城などの渋さを愛する気風が復活して来て、女のきものが年々華美に、派手になつて行くに対して、男の着物は、渋く質素になつて来たやうにも感じられる。
 だが若し真に和服に趣味を持ち、和服の持味を生かして着ようと考へるならば、近頃の如く、無暗に袴をはくことは賛成出来ない。勿論儀式の時に着用するのは当然だが、最近は、さしたる必要もないのに、袴をはくのが流行のやうになつてゐる。
 男の和服の美は、その帯にあると思ふ。帯の選択一つで美の中心が定まるものである。茲に私の云ふ帯とは、云ふまでもなく角帯のことである。兵児帯は元来略式であり、問題にならない。女の着物は、着物自体に、帯に、半襟に到る処に凝ることも出来、非常に複雑な調和を必要としてゐるが、男の凝るのは帯一つにあると思ふ。帯の調和一つで、和服が生きるか死ぬかゞ極まるのである。
 袴は、この男の和服に最も大切な帯を隠してしまふから私は賛成しない。……

 左團次のエッセイの挿絵が東京劇場というのがまた嬉しいではありませんか。隣の岡田八千代のと合わせて、戦前東京のデパートの宣伝誌を眺めることで感じる「東京」にうっとり。

 

 


楽屋の左團次を写した写真の下には、その写真に写っている鏡台がデーン! と鎮座している。俳句や狂歌を愛好していた左團次は大田南畝が贔屓で、「杏花園」にちなんで自らの俳号を「杏花」としていた……というあたりの展示を目の当たりにすると、展覧会の最初の方で展示してあった、左團次の書抜入れの扉に大田南畝の詩と歌が彫ってあったことをイキイキと思いだして、またもや順路を逆走してもう一度書抜入れを見に行かずにはいられない。こういった役者ならではの日用品がなにかと味わい深かった。大江良太郎が初めて左團次に対面したのは昭和11年の春、愛宕山の放送局で、そのあと駿河台の左團次の邸宅にて偕楽園の料理でもてなされたという。部屋の額がすべて蜀山人だったことを大江良太郎は書き添えている。と、そんな本で読んでいたことが、実際の展示を見ることでイキイキで記憶に蘇ってくる。また、『中央公論』昭和11年2月号に掲載の『新春懇談会』と題された、永井荷風・市川左團次・谷崎潤一郎に嶋中雄作を交えた座談会が紹介されていたりもした。座談会は昭和11年1月5日、会場はやはり日本橋偕楽園なのだった。



二代目左團次の音声は名セリフ集のディスクに収録の『慶安太平記』のセリフで長らくおなじみだった。その丸橋忠弥の、初代と二代目とが同じ見得をしている写真が大きなパネルになって、並んで掲げられている。初代と比べると、二代目の「クッ」とした堂々たる押し出しが圧倒的。これは大正9年の左團次、まさに人気絶頂の頃の脂ののった左團次なのだなアと、三宅周太郎の文章を思い起しつつ見とれて、いい気分。


そして、歌舞伎十八番復活のくだりがとても面白かった。明治42年9月、七代目團十郎以来60年ぶりの『毛抜』と明治43年5月、八代目團十郎以来60年ぶりの『鳴神』。「推理劇としての謎解きがユーモラス」という説明書きがいい感じの『毛抜』。岡鬼太郎が番附を参考に脚本を準備、鳥居清忠が衣裳考証、新橋濱の家に劇評家を招いて意見を聞いた……といった一連の「歌舞伎をつくる」という過程がしみじみ興味深かった。参考資料として、『毛抜』と『鳴神』の実際の衣裳が展示してあるという配慮が嬉しい。その衣裳をじっくり眺めたり、『演藝画報』明治42年10月号に掲載されているという、いくつかの見得をしている左團次を写したグラビアが面白いなあと、ここに展示の数々の資料とその説明書きとが複合されることで、ますますモクモクと興味深いのだった。

『演藝画報』本誌をすぐに参照できるのが、演劇博物館のありがたいところで、展覧会のあとはもちろん1階の図書室に直行。開架ですぐにその復刻版を参照できる『演藝画報』明治42年10月号(第3年第11号)。展覧会場で紹介の見得のグラビアと合わせて、「一役一言」なるページに、左團次の粂寺弾正(明治座9月狂言中幕「毛抜」)の談話があって、フムフムだった。

……私の初念に、十八番物の事ですから幾分が荒事を加味して居る物だらうと思つて居ましたが、親しく台本を読むと曹うでもなく、殆んど今の世話物同様に書かれて居て、暫くや助六のやうに不自然な筋ではないのに迷ふて、独断でするも不気味で堪りませんから、斯道に精通して居られる諸君を招待して、一夕皆さんの御意見を伺つて参考としました。越えて二三日すると伊原さんから、粂寺弾正の性根は重忠や盛綱と同じ穴をゆけば間違がなからうとの御指図の上、黒表紙の類を参考に貸して下さいましたから、夫れも読んで見ましたが只だ当時の評判計りで、型らしい事の些とも書いてないのに失望しました。夫れからは自分で工風するが専一と思ひ定めまして、未熟ながら彼な風な事を御覧に入れて居りますが、前にも申す通り咄嗟の間の工風なのですから。云はゞ未成品で角々で極る見得なぞは、日毎に研究して改めると云ふやうに勤めて居ります。

この談話には、《御存の通り仁左衛門さんの上京が、急に見合[みあはせ]になりましたので、座方も狂言の並べ方を変更する都合になり……》というくだりがある。木村錦花『明治座物語』の明治42年は「仁左衛門出勤」のくだりがおもしろい。これに限らず、かねてから、十一代目仁左衛門がなんだかおもしろく、注目している。


『鳴神』の初演時の明治43年5月の銀座上方屋製の絵葉書が巨大なパネルになって掲げられている。30歳の左團次はとっても精悍。これから約十年を経て、先ほど見とれた丸橋忠弥の左團次になったのだ。……などと、面白かったところを書きとめようとすると収拾がつかないのだけれど、大正末期から昭和初期の鶴屋南北上演のくだりも、その時代相に思いを馳せながら眺めているとしみじみ興味深く、ここでは、正宗白鳥が昭和2年の『中央公論』に連載していた『演藝時評』の「南北と春木と」(昭和2年8月号所載)の、

……しかし、左團次は、そんなことは夢にも思つてゐないで、たゞ、一種の豪快味あふれる形の上の美を南北物によつて現はすことを好んでゐるのであらうか。五世幸四郎などの旧時代の傑れた敵役の舞台絵を見て、そこに感興を覚えて、その再現を企てたのであらうか。歌舞伎ばやりの今日、江戸藝術江戸情調と一般的に云はれるものは、梅幸羽左衛門などの畑の物で、左團次には繊細優美な情趣は、あの先代左團次の後継者として、先天的にも後天的にも、身に備へてゐないのである。ところで、江戸の舞台藝術には、所謂江戸情調以外の敵役の江戸藝術があるので、左團次はそこに自分の柄に嵌つたものとして、新たに目をつけたのであらうか。さうすれば、今生きてゐる帝劇の幸四郎などよりも、藝道の向上心がある訳である。敵役と云つても、黙阿弥のよく書いた五代目菊五郎型の、イナセな悪漢、愛嬌のある色気のある悪漢は、左團次には相応しくない。それで、南北の悪漢、幸四郎の悪漢に、自己を見出だしたのであるまいか。……

といった箇所に思いを馳せたりするのだった。



展覧会場を順路に沿って進行しつつも、つい何度もあっちをうろうろこっちをうろうろ、気がはやって仕方のなかった二代目左團次展。この展覧会では、いったい何種類あるのだろうというくらいに、とてもたくさんの舞台写真を次々に目にすることになる。左團次の演じた役、左團次がとりあげた戯曲。黙阿弥、歌舞伎十八番、多くの古典に翻訳ものに数々の新作、顔面模写の域に達している伝記劇などなど。二代目左團次展を通観してもっとも心に深く心に残ったことは、一人の役者の身体を彩った古今東西の「演劇」の系譜だった。二代目左團次の役者としての一生を通して概観する、左團次前史の演劇と左團次と同時代史の演劇と、それらにまつわる諸々の演劇史、それらをとりまく書物や雑誌を、わたしなりに追究していきたいなとモクモクと思った。


おりしも現在、正宗白鳥を熱心に読んでいて、たまたま読んだ戯曲『安土の春』(『中央公論』大正15年2月号)が、一見たいして面白くもなさそうなのに、妙に余韻が深くて、忘れられないものがあった。気になって追跡してみると、雑誌の奥付の翌日に早くも左團次一座によって、新橋演舞場で上演されていて、びっくりだった(初日:大正15年3月1日。織田信長:左團次、村瀬新八・柴田勝家:猿之助、四郎兵衛:寿美蔵、遊女おその:松蔦。舞台監督:小山内薫。舞台装置:小村雪岱)。

 

『演劇新潮』大正15年4月号所載の正宗白鳥『「安土の春」の上演について』にて、白鳥は

信長は、現今の俳優のうちでは、左團次が最も適してゐる。猿之助の勝家も嵌り役である。私のこの座組については、不満をもつてゐない。あの演出について、私に何の考へもないので、俳優に対して苦情の持出しやうはないのだが、信長については、もっと台詞がブツキラ棒であつたらと思つた。寿美蔵は新八をやるべきであつた。四郎兵衛はもつと一くせありげな面魂をしてゐる方がいゝ。

と、書いている。ちなみに、この『演劇新潮』は文藝春秋社で発刊の、三宅周太郎編集の第二次の最初の一冊。そんな同時代のことが本当に面白くて、尽きないものがある。

 

上演が決まる前に発売の『新潮』大正15年3月号(第23巻第3号)所載の『新潮合評会』で、徳田秋声が「僕は驚いたのは何時の間に正宗が歴史脚本の準備をしたかといふことだね。どうも徳富蘇峰氏の「織田氏時代」のでなくして大分事実を調べてゐるらしいですね。専門家的に……。」と言っていて、いかにも古き友人の仲のよさが伺えて、にんまり(秋声は明らかに『安土の春』を読んではいなさそうだけど)。この座談会での久米正雄の以下の発言、

僕は最初から此作では正宗氏は勿論信長の癇癪や其他の性質をも書かうとしてゐるには違ひないが、それよりも目的は寧ろ或る気持を書いてゐるのぢやないかと思つた。それは春の変な紫ぽい静かな光なんかの中に感ぜられる、人殺しでもどつかに起つては来はしないか、起りさうだといふ感じ、非常に変な春風駘蕩裡の不安――不安といふよりか戦慄すべき空気、さういふものを書かうとしたものだと思ふ。それは非常にはつきり出て居る。

が、正宗白鳥の『安土の春』の妙に余韻が深い理由を適格に説明してくれている。

 


《新橋演舞場三月狂言 一番目《安土の春》序幕 湖水に近き街道の場 市川左團次の織田信長 中村芝鶴の侍女若菜 市川猿之助の村瀬新八》、『演藝画報』大正15年4月号より。左團次はこんな衣裳を着ていたのだった。

 


同じく、《二幕目 安土城内信長居室の場》。雪岱による舞台装置に目をこらす。