早稲田大学演劇博物館の《初代中村吉右衛門展》の開催を記念して、戸板康二と小宮豊隆の交流メモ。


いよいよ、来る7月2日(土曜日)から早稲田大学演劇博物館で《初代中村吉右衛門展》が開催される(http://www.waseda.jp/enpaku/special/2011kichiemon01.html)。会期は8月7日(日曜日)まで。約1カ月間、何度も見物に足を運ぶのは必至だーと、まだ始まっていないのに、もうすでに大ハリキリ。展覧会場にはいつものようにコクのある資料群がみっちりと展示されているのだろう、その資料群にハイになりながら、特に市村座時代におおっと感激して、大正10年の脱退来たー、大正14年の四千両来たーとかなんとか興奮している、その展覧会場にはいつものようにエンドレスで吉右衛門の生音声が再生されていることであろう、籠釣瓶や播随院長兵衛あたりのくっさいセリフを BGM に展覧会場を練り歩くひとときを想像しただけで、もういてもたってもいられない。とにかくもう、開催前からすでに大興奮の《初代中村吉右衛門》展なのだった。


戸板康二は、「二人のスター」(初出:『オール読物』昭和45年4月/『夜ふけのカルタ』所収)という文章で、《ぼくは、六代目尾上菊五郎、初代中村吉右衛門、二代目市川左団次の舞台を、それぞれなつかしく思うが、ほんとうの意味で、歌舞伎の陶酔境に誘われたのは、この羽左衛門である。》というふうに書いている。羽左衛門は理屈抜きに陶酔する人として別格の位置に置いておいて、六代目菊五郎と二代目左團次と初代吉右衛門の三人の名前が並列してここにあがっているわけだが、六代目菊五郎展はその没後50年の1999年に開催されていて(このとき初めて演博に行った)、二代目左團次は没後70年の去年秋に開催されたばかり、そして今回の吉右衛門! 「戸板康二とその時代」を考察するうえで、これほどありがたい開催はない。それにしても、こんなふうに戸板さんがさらっと書いているけれども、こんなちょっとしたくだりが含蓄たっぷり。羽左衛門の展覧会が開催されるとしても、わたしにとってはこの三人ほどは興味がわかないというか、その美貌に見とれるだけで終わるのだろうなあ(まあ、それだけでも大興奮ではあるものの)ということが容易に想像できる。


今年2011年のちょうど百年前の明治44年は、徳田秋声が漱石の推挙で東京朝日新聞に『黴』を連載した年であり、その漱石門下の小宮豊隆が「新小説」誌上に『中村吉右衛門論』を発表した年である。このたびの吉右衛門展の開催が、小宮豊隆の『中村吉右衛門論』のちょうど百年後である、ということが極私的に嬉しい。

 私が『中村吉右衛門論』を書いたのは、明治四十四年(一九一一)の七月、私が二十七、吉右衛門が二十五の年のことだった。当時私は本郷森川町宮裏の小吉館といううちに下宿していたが、なんでもひどく暑かったので、女中に氷のかたまりを買って来させ、それを金盥のまん中に立てて背中の方に置き、机に向かって汗を拭き拭き、幾日か書き続けたことを覚えている。それを私が漱石先生のところへ吹聴してやったものかどうかは忘れたが、七月十四日の先生の手紙の束に「吉エモンとか申すもの暑さのみぎり故成るべく中らぬようあっさり願い候」という一句が書き添えてある。

と、これは小宮豊隆の「私の『中村吉右衛門論』のこと」と題した一文の書き出し(『中村吉右衛門』岩波現代文庫・2000年1月)。まさに、小宮豊隆が「汗を拭き拭き」書いていたちょうど100年後の7月に《初代中村吉右衛門展》が開催される次第である。



小宮豊隆の『中村吉右衛門論』のちょうど百年後に演博で《初代中村吉衛門展》が開催されるということに、一人で胸を熱くしたことを記念して、戸板康二と小宮豊隆の交流について、以下メモ。『あの人この人』所収の「小宮豊隆の吉右衛門」に、

 漱石文中の登場人物というのは、ついひと時代前と思ってしまい、私には遠い存在だった小宮さんと思いがけなく、大変親しく話し、一緒に仕事をすることになったのは奇縁であった。
 それは三宅周太郎さんの時にも書いたが「明治文化史」という本の出版が開国百年記念に計画され、その音楽・演芸編を小宮さんが監修するに当って、歌舞伎について私に書くように指名されたからである。
 毎月クラブ関東で、会議を開き、すこしずつ出来てゆく原稿の内容を報告したりするわけだが、もう古稀に近い年だったとはいえ、つやつやとした顔色で、温容そのものであった。

というふうに書いてある。同書の「三宅周太郎の宗教」の『明治文化史』についてのくだりは以下のとおり。

 戦後、その三宅さんと毎月一回食事をすることになった。開国百年記念文化事業会という団体が「明治文化史」十巻を洋々社から刊行することになり、その一冊の音楽・演芸編を、小宮豊隆さんが編纂、私が歌舞伎と新派と新劇を、三宅さんが文楽を担当した。
 編集会議という名目で、昭和二十九年春に出版されるまでに、十数回、麹町のクラブ関東に集まり、晩餐を会食したわけだ。
 じつにぜいたくなフランス料理だったが、三宅さんは、ほかにいた古川久、野村光一、町田嘉章の三氏をふくめた誰もが喜んで食べている中で、口数もすくなく、あまりおいしそうにも見えなかった。街に当時はタクシーも走ってなかったので、築地行の都電で日比谷まで出ていたが、三宅さんはいつも一緒だった。……

麹町の「クラブ関東」といえば、昭和30年8月に他界した内田誠を送る会が同年10月30日に開催されている会場がまさに「クラブ関東」だったことを思い出して、「おっ」だった。同年同月の昭和30年10月に刊行の『春蘭』第1巻第3号は《水中亭追悼号》となっていて、戸板さんが追悼号の編集の相談にのり、執筆者の人選などをうけおっている。送る会の会場の斡旋も戸板さんの紹介なのかなと推測したくなるけれども、単に偶然かもしれない。戸板さんはまさにその10月30日に、猿之助一行の中国公演に出発しているので、日程の変更がなかった限り、残念ながら水中亭の追悼会には出席していない。ちなみに、その前月の9月1日に帝国ホテルで吉右衛門の一周忌の集いが催されている。



財団法人開国百年文化事業会編纂『明治文化史 9 音楽演藝編』(洋々社、昭和29年6月5日)。ずいぶん前に古書展でとりあえず買っておいた元パラ付きの本体。函と月報付きの完本を買うのを先延ばしにしている。「編纂委員」として小宮豊隆の名前がクレジットされているが、それぞれの執筆者は小宮による後記にしか書かれておらず目次に明記されていない。この巻は、第1章「明治の音楽・演芸」(小宮豊隆))、第2章「雅楽」(古川久)、第3章「能楽」(古川久)、第4章「人形浄瑠璃」(三宅周太郎)、第5章「演劇」(戸板康二)、第6章「邦楽と邦舞」(町田葦章)、第7章「洋楽」(野村光一)という構成になっている(カッコ内は担当執筆者)。同シリーズは、昭和55年10月に原書房より復刻版が刊行されている。また、昭和31年にサイデンステッカーとドナルド・キーンにより英訳が旺文社より刊行されている("Japanese music and drama in the Meiji era ")。

 


小宮豊隆・戸板康二監修『岩波写真文庫 59 歌舞伎』(岩波書店、昭和27年3月25日)。小宮豊隆と戸板康二の共同仕事はこの本の方が先に出ている。真ん中のページの「歌舞伎」と題する小文に小宮豊隆の名前がクレジットされている以外は、役割分担がいまいちよくわからず、戸板康二の仕事はどのあたりに発揮されているのかはっきりしない。と、それはさておき、どうってことないように見えて、昔から好きな本。この本を買ったときのことは今でも鮮明に記憶に残っている。2000年12月末に人生初の大阪見物に出かけたときに杉本梁江堂で200円で買ったのだった。懐かしいなア! いかにも状態の悪いボロボロの無料だったとしても引き取り手が現れそうにない本だけど、杉本梁江堂で200円で買ったわたしにとっては愛着たっぷりの本。

 


岩波写真文庫の『歌舞伎』のハイライトは、吉右衛門が盛綱の扮装をしているところから、本番になって、芝居が進行していくところ。『盛綱陣屋』が好きで好きでたまらないので、心に屈託のあるときに、クーっと気晴らしするときにちょくちょく眺めている。吉右衛門の『盛綱陣屋』といえば、昭和28年11月14日撮影の記録映画がある。『あの人この人』所収「小宮豊隆の吉右衛門」には以下のように回想されている。

 この吉右衛門が昭和二十八年十一月の歌舞伎座で演じた「盛綱陣屋」が、文化財保護委員会で、記録映画にしようということになった時、私は小宮さんに今度も指名されて、この仕事に協力した。
 松竹大船のスタッフが十一月十四日に劇場、客席の数カ所にカメラを置いて撮影したのだが、その台本(コンテ)の製作から、最後の仕あげまで、私はずっとついていた。
 この月、十日には天皇皇后が、歌舞伎座でこの「盛綱」一幕を見物されていたので、吉右衛門にとっては二重三重に緊張の続く月であったと思われる。
 十四日に幕がおりると、小宮さんが私に「楽屋へゆこう」と昂奮した声をかけた。奈落を通って部屋にゆくと、役を終えて帰ったばかりの吉右衛門は、赤ん坊があお向けになっているような格好で、寝ていた。
 そして「御苦労さん」という小宮さんの両手につかまって、べそをかいたような表情で、だまって、「うん、うん」とうなずいている。めったに見られない情景だと思いながら、私はその脇に立っていたのだった。

吉右衛門の記録映画は数年前にフィルムセンターで、『熊谷陣屋』と『寺子屋』の2本を見たことがあったが、この『盛綱陣屋』は長らく気になりつつもずっと未見だった。戸板さんも深く関わっている『盛綱陣屋』が、今回の《初代中村吉右衛門展》に際しての「関連演劇講座2」(8月2日火曜日)にて上映されるというから、さあ大変! とは言うものの、平日の午後の開催ゆえ、わたしは行かれるかどうかはなはだ微妙なところ。うーむ。



東京新聞文化部『藝談』(東和社、昭和26年7月1日)。装幀:岡村夫二。戸板康二は『盛綱陣屋』の記録映画以前に、東京新聞の探訪記事の担当者として、吉右衛門の自宅を訪問したことがある。この本は東京新聞に掲載された、さまざまな執筆者が担当したとなってさまざまな分野の人物の「芸談」を1冊にまとめたもの。戸板康二は吉右衛門、三津五郎、猿之助の三人を担当している。ほかの目次も語り手・聞き手ともになかなか見もの。
■目次(カッコ内は聞き手):中村吉右衛門(戸板康二)、実川延若(長谷川幸延)、喜多村緑郎(柳永二郎)、富崎春昇(北条秀司)、坂東三津五郎(戸板康二)、古今亭志ん生(須田栄)、山田耕筰(牛山充)、稀音家浄観(南部圭之助)、溝口健二(筈見恒夫)、藤蔭静枝(光吉夏弥)、市川猿之助(戸板康二)、野口兼資(高橋義孝)、原信子(山根銀二)、桂文楽(須田栄)、田村秋子(内村直也)、清元梅吉(江口博)、中村吉之丞(須田栄)、秋月正夫(伊藤寿二)、信欣三(尾崎宏次)、瀬戸英一(伊藤寿一)、市川照蔵(須田栄)、徳川夢声(早田秀敏)、三宅藤九郎(江口博)、長谷川一夫(八住利雄)。



ついでに、『藝談』掲載の《語る吉右衛門》の写真。

 吉右衛門の芸談をとりに、東京新聞の仕事で行ったことがある。
 番町の家の茶の間で、小ぶりの徳利で晩酌をしながら、老優はこころよく話してくれた。
「小宮豊隆先生のおかげです」という言葉も出て、若いころの市村座の話がはずんだ。
 大酒家ではないが、飲むのは好きらしく、いかにも楽しそうに、すこしずつ杯を口にふくむうち、トロンとした目になって来る。
 名優のそういう姿を目のあたりに見たのははじめてで、えがたい経験だったが、たまらなく、おかしなことになった。
 当り役の加藤清正の話のころ、かなり酔っていた初代吉右衛門がこういったのだ。
「戸板さん、いくらえらくても、大学の先生に、清正はできませんよ」

と、これは『泣きどころ人物誌』所収「小宮豊隆のひいき役者」の結びの一節(麹町が番町になっている)。このエピソードは、『あの人この人』所収「小宮豊隆の吉右衛門」にももちろん紹介されている。



昭和9年の春休みに父の友人の藤木秀吉の書斎に親しむようになったときに、青山にいた頃に小宮豊隆と隣人だった藤木さんから「会うと、いつでも、吉右衛門のノロケを聞かされた」と小宮豊隆のことを戸板さんに話していたというエピソードが『わが交遊記』にある(p18)。戸板康二と小宮豊隆の交流のなかで、わたしはこのエピソードが一番好きだ。

 

それから、昭和41年5月2日、小宮豊隆が他界し、5月4日、杉並へその弔問に出かけて、密葬の棺を小泉信三、円地文子とともに見送った。その帰りに、三人で車に同乗して新宿に出て、その帰りに戸板さんは円地文子と新宿で下車して、新宿文化劇場で三島由紀夫の『憂国』を見たという(『あの人この人』所収「三島由紀夫の哄笑」)。このとき、車のなかで、小宮豊隆と吉右衛門のことを次々と機嫌よく話していた小泉信三はちょうど一週間後の5月11日に急死する……と、このあたりのエピソードもしみじみ味わい深いのだった。

 

小宮豊隆の『中村吉右衛門論』は、『夜ふけのカルタ』所収「五つの演劇論」(初出:「東宝」昭和43年5月から9月)の第1回目に取り上げれらている。明治44年夏に『中村吉右衛門論』を書いて、その年の12月5日、小宮豊隆は初めて吉右衛門に対面する。市村座の楽屋を、阿部次郎、伊藤吉之助(独文学者)、柏木純一(銀行家)の4人で訪問したのだった。戸板さんは、この文章の末尾にこう書き添えている。

なお私事だが、吉右衛門と豊隆が初めて会った日に同席していた柏木純一の名を、ぼくは偶然記憶する理由を持っている。古本を買ったら、柏木が豊隆にあてた絵はがきが、パラリと頁の間から落ちたのである。それは吉右衛門の南郷力丸のブロマイドであった。

このくだりが昔から大好きで、以来、吉右衛門の南郷力丸の絵はがきが欲しい! と思い続けて、現在に至っている。