『新派名優 喜多村緑郎日記』全3巻(八木書店刊)を読んで、老優中村雅楽をおもう。


昭和5年から昭和12年にかけての全日記を収録している『新派名優 喜多村緑郎日記』全3巻が、去年から今年にかけて八木書店より刊行された。これはなにがなんでも書架に収めねばならぬとすぐさま思ったものの、高価な定価ゆえ買うタイミングを逸してしまっていた。ちょくちょく図書館で拾い読みをたのしんでいた。そして、先日、行きつけの京橋図書館に全3冊が晴れて架蔵されて、初めて館外に持ち出せる運びとなり大喜び、3冊まとめて借り出して、全編通読してみたら、これはもう、演劇史の資料としてはもちろん、1930年代モダン都市文献としてたいへん秀逸で、あちらこちらで大興奮だった。


たとえば、京都公演中でも、新京阪で京都と天六を頻繁に移動しては、大阪のアラスカ(北浜と朝日ビルディングの2店舗)で食事をとっていたり、昭和7年に村野藤吾設計の「大阪パンション」が玉出に開業すれば、大阪での公演時の定宿となる……などなど、「モダン関西」のトピックを挙げると枚挙にいとまがなく、もちろん喜多村の居住地である東京での日常生活もあちらこちらで心ときめくくだりが目白押し。犬の散歩が日課の喜多村の歩く1930年代東京、晴れて東京にアラスカが味の素ビルに開店すれば毎日のように出かける、「おっ」という喫茶店の名前がちょくちょく遭遇したり、映画館に日参していたり、浅草を歩いていたり……と、「モダン都市東京」のトピックもとにかく枚挙にいとまがない。大正12年から昭和4年を収録している『喜多村緑郎日記』(演劇出版社、昭和37年5月)に引き続き、あちらこちらで、久保田万太郎とのなかよしぶりは特筆に値し(戸板さんも『久保田万太郎』の「その交友」でまさに特筆している)、とりわけ万太郎からつながる人脈が嬉しかった。たまに「おっ」という人物が登場するのも嬉しいところで、今回の通読時では、たまに登場する映画人のサマがとてもおもしろかった(及川道子を度々見舞うくだりには涙、涙…)。


などと、『喜多村緑郎日記』で嬉しかったことを書こうとすると、本当に枚挙にいとまがないのだけれど、そんな「資料」としてはもちろん、一人の役者の日常生活を見るという点でもたいへん興味深くて、そのあまりのハイカラぶりは見事としか言いようがない感じ。犬と映画と探偵小説が大好きな老優は、文房具やパイプや本など、ちょっとしたもの買い物を楽しんでいるサマが微笑ましかったりもした。そんな日常生活の舞台としての1930年代モダン都市。喜多村は明治4年生まれで、徳田秋声と同い年。同時代の秋声に思いを馳せるという点でも嬉しい書物。ああ、一刻も早く書架に収めないと!

 


喜多村緑郎の肖像写真は前々からこの写真が一番好きだ。三宅周太郎『俳優対談記』(東宝書店、昭和17年5月10日)の口絵より。『新派名優 喜多村緑郎日記』では、喜多村が三宅周太郎の劇評を読んでの所感をチラリと記しているところが何箇所かあって、とても興味深かった。喜多村の日記からも如実に伺える三宅周太郎の喜多村への真摯な観劇態度にたいへん胸打たれた。昭和12年2月の新派五十年記念興行時の三宅の文章を読んだときの喜多村の感激といったら! 二人は昭和10年5月に飛行館でチラリと会っているが、じっくりと言葉を交わしたのは、この本に収録されている『中央公論』の連載の対談のときが初めてだった(昭和16年3月)。



と、そんなわけで、『新派名優 喜多村緑郎日記』全3巻(八木書店)をなるべく早く入手したいなあと願いをこめつつ、以下、戸板康二と喜多村緑郎メモ。

 

戸板康二と喜多村緑郎といえば、まっさきに思い出すが、戸板さんが終生書き続けた「中村雅楽探偵」シリーズの、老優中村雅楽のイメージになっているということ。取り急ぎ、日下三蔵編『中村雅楽探偵全集5 松前の記憶』(創元推理文庫、2007年11月)所収の「中村雅楽エッセイ」を参照してみると、昭和35年1月21日に『團十郎切腹事件』で直木賞を受賞した直後の文章、「ワラジ一足の弁」(日本経済新聞・昭和35年1月27日→『ハンカチの鼠』収録時に「わらじ一足の心」と改題)に、

雅楽のイメージは、二十年ほど前の喜多村緑郎の生活感覚を、歌舞伎役者の中にもちこんでいるが、雅楽自身の話しっぷりには、今思うと、学問の師である折口信夫先生の口吻が、なんとなく出てしまっているように思う。

というふうに記している。「三人の雅楽と竹野」(「日本探偵作家クラブ会報」152号・昭和35年5月)では、この年の《三月の終りの週と、その前の週と、二回にわたって、フジテレビから、「團十郎切腹事件」が、西川清之氏の脚色で放送された。》という文章のあとに、

この時の雅楽は、芝鶴氏で、病院のベッドの上に起き上った楽な姿勢で、竹野と層雲堂に、解説するところを、いかにも楽しんで演じていた。ナイトガウンに、白髪という、ハイカラな感じは、ぼくのイメージにある三十年ぐらい前の喜多村緑郎らしくもあり、闊達さには、菊五郎の感じもあって、これもまた別な味があった。

というふうに書いている。前者では「二十年ほど前」、後者では「三十年ぐらい前」という違いはあるけれども、とにかく、中村雅楽のイメージには、喜多村緑郎の「ハイカラな感じ」が念頭にあった。これより20年後の、『雅楽探偵譚1 團十郎切腹事件』(昭和52年9月初版)巻末の「作品ノート」には、

雅楽の謎ときのしゃべり方には、岡本綺堂の「半七捕物帳」の三河町の半七の口ぶりも、どこか借りてはいるが、ぼくが親しく昔の芝居の話を聞かせてもらった、歌舞伎界の古老川尻清潭さんの調子も、はいっているようである。

とあり、姿についての言及はないが、「いろいろな中村雅楽」(「ルパン」昭和56年7月→『目の前の彼女』収録時に「いろんな中村雅楽」と改題)では、

漠然と考えた老優の姿は、新派の喜多村緑郎であり、話術には、六代目尾上菊五郎と、劇界古老の川尻清潭の口調をミックスした。

と帰結している。戸板さんのなかの中村雅楽のイメージは、話し方は折口信夫、半七、菊五郎、川尻清譚というふうに入り混じりつつも、漠然と考えた姿や生活感覚は一貫して、喜多村緑郎その人なのだった。



《家庭の俳優 夫人の和子さんがお茶のお給仕 喜多村緑郎丈》、『ホームライフ』第4巻第1号(昭和13年1月1日発行)より。ナイトガウンの喜多村……。戸板さんのイメージにあった中村雅楽はこんな感じだった、ということなのだろうか。



戸板さんが喜多村に初めて会ったのはいつか。『演劇人の横顔』(白水社、昭和30年2月)の「喜多村緑郎」によると、《僕は雑誌の仕事を持って自宅を訪問したことがあるだけで、個人的には知らないのであるが》とあり、そのときのことを、

 僕が喜多村を訪ねたのは、昭和二十年の春頃だつたと思ふ。「日本演劇」の原稿として「紙治の衣裳」の執筆を依頼するために、行つたのである。春雷がとどろいて、雨もよひの日だつた。
 何しろ、鏡花を「泉君」といふ人である。大先輩といふ以上の圧迫感があつた。ニコリともしないその表情に対して固くなつてゐたが、たまたま話が嵐璃【かく】のことに及ぶと、顔をほころばせて、興にのつて、あとからあとから話題が出て来た。「紙治の原稿を書き始めると、警報が出るんでね」といふ時代だつたが、正にそんな戦争を忘れ去る何時間かであつか。

と回想している(この文章の初出は『演劇界』昭和28年11月)。喜多村の日記には、この日のことはどういうふうに書いてあるのだろう!

 


『日本演劇』第3巻第4号(昭和20年5月1日発行)。喜多村の『紙治の衣裳』が掲載されている号はもっとも紙の状態が悪い時期の『日本演劇』だった。この次の号の第3巻第5号(昭和20年7月1日発行)に、楠山正雄の『橘屋羽左衛門』が掲載される。羽左衛門の死んだ5月に、新緑の車窓を眺めつつ田無に疎開していた楠山正雄を訪問して得た原稿を、のちに戸板さんは《楠山さんの論文は懇切をつくしたもので、自分としては、これを以て明治大正昭和三代に亘つて江戸歌舞伎美の典型といはれた羽左衛門の死に捧ぐるこよなきものと思つた》と書いている(『劇場の椅子』所収「名優」)。

 


『演藝画報』第36年第9号(昭和17年9月1日発行)。表紙:三宅鳳白《文楽のおその》。戸板康二が初めて『演藝画報』に寄稿したのがこの号。『演藝画報・人物誌』のまえがきによると、安部豊が広告の紙型を取りに明治製菓宣伝部を訪れた際に、戸板青年が応対し、昭和9年夏に公募論文に応募して当選した話をすると、「いやァ、そうですか」と言い、安部は戸板に劇評を依頼。以後、計3回寄稿することになった(2回目は昭和18年1月号の「家庭劇を見て」、3回目は昭和18年6月号掲載の「五月の歌舞伎座」)。

 


戸板康二が『演藝画報』に初めて寄稿した劇評「明治座見物記」は、歌舞伎ではなくて新派。明治座8月興行、『人生の手習』『母子草』『愛する権利』。この写真は戸板康二が評した明治座の舞台より、川口松太郎作『愛する権利』、喜多村緑郎の春藤六郎、花柳小菊の芸妓瀧江。喜多村はこの興行時、あいもかわらず毎日愛犬の散歩をし、アラスカで食事をしていたのかな、それとも戦時下で段々不如意になっていたのかな。いずれにしても、戸板青年の劇評をニコリともしないで読んでいたのは確実。