震災前の月刊グラフ誌『劇』と『光村利藻伝』。光村印刷と明治製菓宣伝部員・戸板康二。


演博で開催中の《初代中村吉右衛門展》で展示されているのを見て気になった、大正11年12月に創刊された東京俳優組合事務所発行の『月刊 劇』が1冊数百円で売っていたので、図録の刊行がなさそうだし、このたびの吉右衛門展のよき記念になるかもしれぬと、軽い気持ちで2冊申し込んだ。で、いざ届いてみたら、なかなかの逸品で大喜び! 『月刊 劇』は『演藝画報』のおよそ2倍サイズ、つまりおよそB4の大判のグラフ誌で、その月の各劇場で上演されている芝居の写真を彩色して、一枚一枚の丁寧に重ね合わせて紐で編綴したもの。演博の吉右衛門展では、吉右衛門の舞台の彩色写真を一枚一枚はずして、ウィンドウのなかに並べてあった次第で、こうして元の編綴された姿で『月刊 劇』を手にしてみると、そのいかにも大時代な贅沢なつくりに感嘆だった。1冊数百円だし文句なし! とホクホクだった。


このたび、わたしの手元に届いた『月刊 劇』は、大正12年6月10日発行と大正12年7月31日発行の2冊。



6月10日発行号の吉右衛門は仁木弾正。大正12年4月新富座。この号の編集後記には《一色刷写真は、本号から全廃いたしまして、其代り、光線に注意して充分面白い写真を御目にかける心組でおります。》という一節がある。奥付は、編集兼発行人:湯浅半月、印刷人:平井録太郎、印刷所:上方屋本店、発行所:東京俳優組合事務所。



7月31日発行号の吉右衛門は加藤清正。大正12年6月明治座上演『増補桃山譚』。この号の奥付では、編集兼発行人が湯浅半月から河村寅吉に変わっている。「地震加藤幕間話」と題した吉右衛門の談話記事も掲載されている。



そして、びっくりだったのが、大正12年7月31日発行の号に掲載の、「劇印刷工場に於て」と題したこの写真、左から吉右衛門、歌右衛門、福助、右にかたまっている4名のスタッフは、前列左が「劇印刷工場主」の光村利藻、右が「上方屋本店主」の平井録太郎、後列左が「営業主任」の河村寅吉、右が「編集部」の竹柴楳三。なんと、関係者の一人として光村利藻が写っている! そうだったのか、この『月刊 劇』には光村利藻が関わっていたのかと、思い出づるはもちろん戸板さんの『ぜいたく列伝』の先頭を飾る「光村利藻の愛妾」。手にした瞬間から大時代な贅沢なつくりに感嘆したものだったけど、光村利藻が絡んでいたと思うと、もういかにもだなあという気がするのだった。

 


写真頁のあとに続く白黒ページに「劇に関係する人達と、工場で働いて居る人達を皆様にお目にかけます」として、記念撮影写真が掲載されている。

 


そして、もう1冊の6月10日の号をよくよく見てみると、こちらには「劇印刷工場に於ける三優」と題した記念撮影写真が掲載されていたではないか! 左から吉右衛門、福助、歌右衛門。この写真の横に「印刷所から」と題して「梅廼舎」名義の記事がある。

 劇の印刷所へ、先達て、歌右衛門氏と吉右衛門氏と福助氏が見えました、それは、第5号に出ます、写真の印刷の光景を見に来られたのでした。
 各俳優方が、劇の写真には、非常に苦心されて居ます。
 そして、御自分の写真を印刷して居る時には、こうして見に来られるのです。
 丁度歌右衛門氏のマリヤと吉右衛門氏の仁木弾正を印刷にかゝつた時でしたので、其印刷をかなり熱心に見て居られました。
 そして、いろいろと駄目が出ました。
 それ故今月号の写真は随分よく出来ました。
 各優の写真はこうして、皆御自分達が一々監督して、こしらへるのですから、たしかに他に類の無いものであると思つて居ります。
 劇の工場は写真で有名な光村利藻氏が支配して居られます。
 そして光村氏も非常に厳しく云はれるので、製版師も、印刷師も、神経衰弱を起して仕舞ひました。
 何しろ、模範的な写真を出さなくては成らないと云ふ大責任がありますから、一同一生懸命で従事して居ます。
 悪いところはどしどし御注意を願ひます。
 写真製作の奨励法として最近に、皆様から写真の投票を頂うと思つて居ります。
 はりまやと成駒屋の御両人と今回転して居る機会の前で、熱心に職工の作業を見て居られるところを、一寸失敬して、パチリとやりました こゝにあるのが其写真です。

光村利藻の名前が「写真で有名な」という枕詞とともにしっかり登場している!



『月刊 劇』で光村利藻に遭遇した直後、こうしてはいられないと、ガバッと『ぜいたく列伝』を取り出して、「光村利藻の愛妾」を読み返した。

 昭和二十年四月ごろ、戦争の末期に、私は芝明舟町という町の芳盟荘という小さなアパートに、たびたび一人の老人を訪ねた。
 それは川尻清潭という歌舞伎界の古老で、明治のおわりに、森鴎外の弟の三木竹二が作っていた「歌舞伎」誌上に劇評を書いたり、役者の芸談の聞き書きをのせていたという、劇通である。私は、川尻翁のいろいろな昔の名優の舞台の回想や、長年耳にした逸話をせっせとノートにとっていた。空襲下の東京で、呑気な話だが、当時としては、これが私には一種の救いだった。
 或る日アパートで机を囲んで対談している時、部屋の外から声をかけて、一人の老女がはいって来た。その二階に住んでいて、配給された乾パンを届けてくれたのだ。
 私も会釈して出て行くあとを見送った川尻翁が「いまのが往年の豆千代ですよ」といった。「大阪、南の名妓でね、光村利藻の愛妾です」
 私は豆千代については初耳だったが、そのパトロンの名前は知っていた。明治製菓の宣伝部にいたころ、ポスターやPR誌のカラー写真をいつも印刷していた光村原色版の創業者で、私の職場にしじゅう来ていた営業部の鴨光三氏から、型破りの道楽をした蕩児として、聞かされていたためだ。
 この利藻の寵愛した女性といわれると、なるほどかなりの年配ではあったが、残んの色香が馥郁として、ものごりの端正なのを、会った瞬間に私は感じていた。ただ者ではないと思わせたのである。
 その後二十年近く経ち、私は光村の重役になっていた鴨氏から「光村利藻伝」という大冊を寄贈された。
 読んでおどろいたのは、この伝記の中に、豆千代こと草田正についてくわしく叙述され、口絵にも正夫人とならんで、数葉の肖像写真が載っているのである。多分利藻自身が撮影したにちがいない。同じ南地の花柳界の先輩で著名な冨田屋八千代と二人立ちのもある。……

と、戸板康二が川尻清潭の話を聞きに明舟町の挿話が昔から大好きで、『ぜいたく列伝』このくだりは、『あの人この人』所収「川尻清潭のナイトキャップ」では以下のように綴られている。

 明舟町で、もうひとつ、こんなことがあった。私が行っておしゃべりをしていると、襖がそっとあいて、老女が「先生、配給です」と上方訛りの声をかけ、一袋の軍用の乾パンを置いて行った。
 チラリと見ただけでだが、美しかった昔をしのばせる顔立ちである。襖がしまってから、川尻さんが、「今のは大阪南の芸子で、香水風呂で有名な豆千代ですよ」といった。
 私は以前に「別冊文藝春秋」の「ぜいたく列伝」の第一回として、原色版印刷の会社を創業した光村利藻を書いたが、豆千代はこの社長の寵愛した女性で、会社でこしらえた伝記の中に、写真も数葉出して堂々と書かれている存在だった。
 その日、そんなにくわしく私も知らなかったが、名前だけは耳にしていた往年の豆千代を垣間見たのは、忘れがたい思い出だ。
 川尻さんは届けられた乾パンを袋から出して炬燵の上にのせた板の上に、麻雀のパイのようにならべ、それを少しずつ口に入れて、話を続けていた。……

わたしにとっての川尻清潭との初めての出会いは、『劇場の椅子』所収の「ある感慨」に七代目宗十郎とともに登場する「K老人」の文字だった。その「Kさん」のことを、その後手にした『あの人この人』に登場する川尻清潭だと知ったときは感慨無量だった。七代目宗十郎と絡めて、敗戦前の「Kさん」のことを昭和21年当時の戸板さんは、

……警報が出ると戦闘帽をチョコンと、意気な丹前を着たまま頭の上にのつけて、部屋の真中に坐つてゐる。これがしかし、ほんたうの江戸つ子なのかも知れないのだつた。あきらめがよくて、何事にも順応出来、もう不平なんぞいつたつてはじまらないとなれば口を噤んで了ふ江戸つ子の姿を、僕はこのKさんに思いだしたが、宗十郎が、凍るやうな舞台の真中にすわつて、いつ終るとも知れない阿古屋の三曲に耳を傾けてゐる姿、――さうして、歌舞伎がやがて亡びてゆくといふ事を知るや知らずや、あるひは周囲からさういふ事を聞いても一向に実感もなく、まァどうなつたつていいやとでも考へてゐさうな、しかもたぐひ当今では稀な、この立派な顔を見ながら、やはり同じやうな「あきらめ」の姿を感じるのだつた。

というふうに回想している。川尻清潭は戸板さんの見た最後の「江戸っ子」だったのかも。「ある感慨」は昭和21年5月15日発行の『演劇人』第2号が初出の文章。戸板さん自身は当時、同年6月3日付けの串田孫一宛て書簡に《今度のは、小説になりそうな題材なのを、こんな風にしかかけなかったので、つくづく自分の筆の力を寂しく思いました》というふうに書いているけれども(串田孫一『日記』)、「ある感慨」はまさに1篇の短篇小説のよう。実は当時の戸板さんにとっても会心の掌編だったからこそ、あえて旧友に向けてそんなふうに韜晦してみたのではないかという気がする。川尻清潭は、昭和29年12月に亡くなった。吉右衛門が他界したのは、その3か月前、9月5日のことだった。このとき、戸板さんのなかのひとつの時代が終わった時期だったのかもと、図式的ではあるけれどもそう考えずにはいられない。


などと、芝明舟町のアパートの川尻清潭のことで頭がいっぱいになってしまったけれども、川尻清潭に乾パンを届けた豆千代を寵愛した光村利藻へと話を戻すことにして、『月刊 劇』で思いがけないタイミングで光村利藻の写真に遭遇した直後に『ぜいたく列伝』をひさびさに読み返すことになり、万感胸に迫ることとなった。すっかり忘れていたけれども、昭和39年6月、『光村利藻伝』刊行時に、この本を戸板さんに進呈したのは、戦前の明治製菓宣伝部在籍時に「鴨さん」という愛称でおなじみだった鴨光三だったのだ! 光村印刷の「鴨さん」といえば、『句会で会った人』の先頭をかざる「大森の良夜会」、すなわち明治製菓宣伝部長、内田誠の大森の邸宅で行われた句会のメンバーとして、わたしのなかでは長らくおなじみの人物だったので、明治製菓時代から二十年たったあとも、戸板さんと交流が続いていたと思うと、なおのこと嬉しい。そして、のちに『ぜいたく列伝』を記す契機になったと思うと、感無量。



昭和14年4月に、戸板康二は明治製菓宣伝部に入社して、宣伝部長内田誠が直属の上司となった。このとき内田誠は病気療養中で、この年の10月1日に正式復帰した(『日本電報』昭和15年5月号掲載の座談会による)。『句会で会った人』によると、「大森の良夜会」なる句会が初めて開催されたのはその年の中秋の名月とのことだから、昭和14年9月27日(水曜日)ということになる。内田水中亭の復帰をお祝いする意味もあったのかもしれない。『句会で会った人』によると、

……宣伝部と、隣の美術部の社員、印刷会社から来ている年配の人など六名をさそって、毎月一回、その自宅で、むろん水中亭が席題を出し、披講する宗匠として、はじめたのが「良夜会」というものである。

というふうにして、昭和14年の中秋の名月の日に大森の内田邸で句会が始まった。このとき、戸板さんは明治製菓にちなんで「茗化」という俳号を持つ。光村印刷の鴨さんの俳号は「甲鳥亭」。「鴨」をバラバラにして「甲鳥」とした。京都の出版社、甲鳥書林のようなネーミングだ。毎日必ず明治製菓宣伝部に顔を出していた光村印刷の鴨さんは、京橋の宣伝部の一角で内田誠から「いとう句会」のエピソードをちょくちょく聞かされていた、戸板さんと一緒に。それから二十年後、戸板さんと内田誠の思い出を共有していた鴨さんが贈った『光村利藻伝』は、戸板さんの感興を大いのそそったのだった。

 


『スヰート』第14巻第2号(昭和14年5月1日発行)。表紙:林唯一《椰子と兵隊》。戸板康二が明治製菓宣伝部に入社した次の月に発行の『スヰート』。印刷は「光村原色版印刷株式会社」と「愛宕印刷株式会社」と連名で表記されている。この時期の号はこんな感じに印刷を二社が分担している。

 


上掲の『スヰート』の裏表紙は「明治シラップ」。前年に公開の明治製菓タイアップ映画『チョコレートと兵隊』に出演していた高峰秀子が写っている。この表紙部分のみ、光村の印刷だったということなのかな。『句会で会った人』によると、「良夜会」とその後身の「踏青会」の内田誠以外のメンバーの句集をこしらえたことがあり、《民芸家山崎斌氏の草木染の上質な和紙で、活版は愛宕印刷にたのんでいた》とのことで、《愛宕の社員がだんだん俳句になじんで、何のかのと批評を加えるので閉口した》という。印刷会社と宣伝部との交流。

 


『明治製糖三十五周年記念 伸び行く明治』(明治製糖株式会社、昭和15年12月10日発行)。戸板さん在籍時の明治製菓関連の印刷物として。B5サイズのパンフレット状の印刷物で、印刷は「光村原色版印刷所」。アート紙で写真がとても美しく印刷されている。



軽い気持ちで買った『月刊 劇』の紙面で光村利藻を見たことに興奮のあまり、そして、明治製菓宣伝部時代の戸板康二に思いを馳せて胸を熱くするあまりに、勢いにのって、前々から欲しかった『光村利藻伝』(非売品、昭和39年6月20日発行、編集者:増尾信之、発行者:光村利之、印刷所:光村原色版印刷所)を購入したのは、演博の吉右衛門展の思わぬ余滴。わたしの『光村利藻伝』は231番の番号がついている。鴨さんから貰った戸板さんの本は何番かな。

 


想像どおりの充実度に息を呑んだ『光村利藻伝』にはたくさんの写真が収録されている。そのうちの1枚、《株式会社光村原色版印刷所大崎本社工場全景居木橋側より見た側面》。いかにもモダンな大崎の印刷工場! 明治製菓宣伝部時代の戸板さんが何度も足を運んだ大崎の光村印刷。

 


『明治製糖三十五周年記念 伸び行く明治』に掲載の、京橋の明治製菓本社ビルの写真。光村印刷の「鴨さん」が毎日足を運んだ明治製菓ビルディングの写真。

 

そして、『光村利藻伝』では利藻自身の文章で、「歌右衛門と写真雑誌「劇」」というタイトルの随筆として、『月刊 劇』についての詳しいことが記されていた。明治37、38年頃、芝翫時代の歌右衛門が来阪の折に、《杵屋六右衛門、芳村伊十郎らの紹介により懇意となる》。

 そののち、歌右衛門に逢う機会なく十余年の歳月を経過せしが、大正十一年天現寺工場の落成せしころ銀座上方屋平井録太郎氏を相知るにいたれり。
 あたかも、そのころ平井氏は原色版写真数葉をふくむ豪華なる写真雑誌「劇」を刊行する計画が熟して、いよいよ実行に移さんとする寸前なりき。当時五代目歌右衛門は東京歌舞伎俳優中の最高峰として、俳優協会会長なりしころにて、平井氏の「劇」も歌右衛門の後援によりて刊行の運びとなりしことなれば、平井氏はこの「劇」の印刷は光村印刷所に依頼せん心組みなれど、それでよろしきやと、歌右衛門に相談を持ち掛けたり。
 歌右衛門丈は「光村さんは往年よりのお馴染なり、その技術も定評のあることなれば、自分からもよくお願いせん」とのことにて、急速に計画は進行したり。
 写真撮影は、従来より俳優の写真専門にて経験深き上方屋が担当することとなり、製版印刷は光村印刷所が引受くることとなれり。「劇」は四ツ切大の四色、三色、二色総合の、当時としては空前の豪華版なれば、大いに芝居の愛好者に歓迎せられ「大正錦絵」という讃辞をほしいままにせり。
 歌右衛門丈は一度「劇」の製版印刷の現状を見たしとの希望にて一日、平井氏の案内にて中村吉右衛門丈、中村福助(五代)丈を従えて天現寺工場に来訪、親しく製版および印刷の状況を視察し、自分と十数年以前の話などして旧交を温めたり。
 而してのち、印刷機械を背景に記念撮影をせしが、翌十二年の関東大震災によりて歌舞伎座も炎上、上方屋も罹災する等のことあり、「劇」も廃刊のやむなきにいたしが、その後歌右衛門丈逝き、平井氏もまた逝去せられ、永久に相逢う機会を逸したり。惜しむべきかな。

演博の初代吉右衛門展を機に2冊入手した『劇』の詳しいことを『光村利藻伝』で知ることができて、いつまでも感慨無量。一目見た瞬間、そのぜいたくさにびっくりだった『月刊 劇』は、あえて月並みな言い方をしてしまうと、震災前の東京の仇花のようなものだったということができそう。

 


このたびの一連のゆくたてを振り返ったところで、ふたたび、光村原色版の天現寺工場の写真を眺めて、しみじみ。